飯田市の果樹園援農ボランティアの時、産直市場・麻績の里で野沢菜の種子を発見し購入し、四畳半程度の自宅の菜園で栽培している。年末には収穫して漬物にすることが楽しみである。
少年時代、長野市で育った。納豆と野沢菜の漬物はしばしば食べ、記憶に残っている食品である。信州信濃の信越地方で栽培される茎と葉の丈が50~90cmの野沢菜を漬物にしたものが、野沢菜漬である。長野県下高井郡の野沢温泉にある各旅館の食事や居酒屋、ゲレンデの食堂では、必ずといっていいほど野沢菜が付いてくる。旅人の思い出話から全国に広がった。
音楽家モーツアルトが誕生した年、野沢温泉村の健命寺の住職が京都に遊学した際、難波で栽培されている天王寺蕪の種子を持ち帰った。天王寺蕪の種には野沢菜を生むDNAを保有し、長野の気候と食習慣が重なることで、突然変異の野沢菜が選択された。味が優れ、野菜丈が1mほどになるから収量が多く経済性抜群なので、現在は北海道から九州まで全国的に栽培圏が拡大している。信州のみやげ物の野沢菜は、季節によっては四国阿波の野菜を使用しているようである。
米が各地の気候風土に合わせ、交配品種改良されて、進化した様に、野沢菜も昔の野沢菜ではないのかもしれないが、懐かしく食べるのである。食物は胃袋で食べることと、脳味噌で食べる部分がある。
名古屋コーチンは中国産の「バフコーチン」という名前の鶏と、尾張名古屋で飼育されていた地鶏を交配させて作られた品種である。
愛知県特産の地鶏「名古屋コーチン」と表示された商品に偽物が含まれていた問題で、東洋のデンマークと言われる安城市の県農業総合試験場は、名古屋コーチンとして小売店などで販売されていた生肉の検査のため、DNAを抽出する作業を始め、解析機器にかける。県が交配を繰り返し改良した名古屋コーチンか、それ以外かを判別するため、DNAのうちの特徴的な5部位を比べるという。偽物を科学的に確定できると、偽物がなくなるのだろうか。
このような活動は、美談のように見えるが、視点を変えれば無駄な活動の様な気がする。そもそも人任せで販売するから、偽者が偽物を売る可能性が出来るのである。ブランドを守ることにこだわるなら、生産から販売まで一貫して責任を持たなければ成らない。対人販売の苦しみを回避する為に、人任せにすれば当然弊害が出る。大きな問題点を温存するために、膨大な経費をかけて体制を維持することは、 イデオロギーを守る大国の論理で危険である。楽はとことん苦しんだ後の、何か偉大なものの贈り物で、近代科学知識は、些細な知恵なのだから、極楽でない。
利益が無くても良い。顧客が満足して良好な評判が広がり、行列が出来ても、供給量を極端に増やすことをしないで、価格を上げる。それでも客が減らないならば、土地の名物になるだろう。夢・憧れ・希望・高嶺の花・職人技・希少性・感動感激・神話・伝説・物語など、人の心に作用するから名物は存在できる。
儲けを追いかけるから、心が留守になり「名物に美味い物無し」の格言が出来るのである。赤福・白い恋人は駄菓子に成り下がった。吉兆は総菜屋である。他人を幸せにする崇高な哲学を実践するのが宗教で、信者が増えるのであるが、心の無い我利我利亡者の集団は餓鬼の集合体で表舞台から退場する宿命である。断崖絶壁を登るのは困難を極めるが、油断をすると簡単に落下し、死が待っている。
私の作る野沢菜漬は不揃いで、醜いものであるが、私だけを満足させるマイナーな名物である。除夜の鐘を聞きながら、丹精込めた野沢菜を肴に酒を飲む夢を見て、精々世話をしようと思っている。
少年時代、長野市で育った。納豆と野沢菜の漬物はしばしば食べ、記憶に残っている食品である。信州信濃の信越地方で栽培される茎と葉の丈が50~90cmの野沢菜を漬物にしたものが、野沢菜漬である。長野県下高井郡の野沢温泉にある各旅館の食事や居酒屋、ゲレンデの食堂では、必ずといっていいほど野沢菜が付いてくる。旅人の思い出話から全国に広がった。
音楽家モーツアルトが誕生した年、野沢温泉村の健命寺の住職が京都に遊学した際、難波で栽培されている天王寺蕪の種子を持ち帰った。天王寺蕪の種には野沢菜を生むDNAを保有し、長野の気候と食習慣が重なることで、突然変異の野沢菜が選択された。味が優れ、野菜丈が1mほどになるから収量が多く経済性抜群なので、現在は北海道から九州まで全国的に栽培圏が拡大している。信州のみやげ物の野沢菜は、季節によっては四国阿波の野菜を使用しているようである。
米が各地の気候風土に合わせ、交配品種改良されて、進化した様に、野沢菜も昔の野沢菜ではないのかもしれないが、懐かしく食べるのである。食物は胃袋で食べることと、脳味噌で食べる部分がある。
名古屋コーチンは中国産の「バフコーチン」という名前の鶏と、尾張名古屋で飼育されていた地鶏を交配させて作られた品種である。
愛知県特産の地鶏「名古屋コーチン」と表示された商品に偽物が含まれていた問題で、東洋のデンマークと言われる安城市の県農業総合試験場は、名古屋コーチンとして小売店などで販売されていた生肉の検査のため、DNAを抽出する作業を始め、解析機器にかける。県が交配を繰り返し改良した名古屋コーチンか、それ以外かを判別するため、DNAのうちの特徴的な5部位を比べるという。偽物を科学的に確定できると、偽物がなくなるのだろうか。
このような活動は、美談のように見えるが、視点を変えれば無駄な活動の様な気がする。そもそも人任せで販売するから、偽者が偽物を売る可能性が出来るのである。ブランドを守ることにこだわるなら、生産から販売まで一貫して責任を持たなければ成らない。対人販売の苦しみを回避する為に、人任せにすれば当然弊害が出る。大きな問題点を温存するために、膨大な経費をかけて体制を維持することは、 イデオロギーを守る大国の論理で危険である。楽はとことん苦しんだ後の、何か偉大なものの贈り物で、近代科学知識は、些細な知恵なのだから、極楽でない。
利益が無くても良い。顧客が満足して良好な評判が広がり、行列が出来ても、供給量を極端に増やすことをしないで、価格を上げる。それでも客が減らないならば、土地の名物になるだろう。夢・憧れ・希望・高嶺の花・職人技・希少性・感動感激・神話・伝説・物語など、人の心に作用するから名物は存在できる。
儲けを追いかけるから、心が留守になり「名物に美味い物無し」の格言が出来るのである。赤福・白い恋人は駄菓子に成り下がった。吉兆は総菜屋である。他人を幸せにする崇高な哲学を実践するのが宗教で、信者が増えるのであるが、心の無い我利我利亡者の集団は餓鬼の集合体で表舞台から退場する宿命である。断崖絶壁を登るのは困難を極めるが、油断をすると簡単に落下し、死が待っている。
私の作る野沢菜漬は不揃いで、醜いものであるが、私だけを満足させるマイナーな名物である。除夜の鐘を聞きながら、丹精込めた野沢菜を肴に酒を飲む夢を見て、精々世話をしようと思っている。