goo blog サービス終了のお知らせ 

KA-O-RI.Blog

イラストレーターKAORIの、仕事&ときどき、つれづれ。

挿絵:お田戸さんの怪

2007-04-03 17:43:34 | 民話:夢見橋



お田戸さんの怪 〈渥美の昔の話〉

大正から昭和に掛けて小中山の田戸神社の傍に陸軍試砲場が在り、
神社の境内の一部も射場とする事になった。
作業小屋を建て準備を進めていると、或る真夜中、
其の作業小屋がめりめりと締め付けられる感じと共に
大地震かと思われる程酷く揺れた。
 然し、夜が明けて表へ出てみると別段変わった様子も無い。
同僚に恐ろしかった昨夜の話をしても寝惚けたか
夢に魘されたのだろうと誰も取り合わない。
次の夜も、又しても締め付けられる物音と大地震かと思われる大揺れが起こった。
此の話を聞いた地元の人達はお田戸さんの御使いの大蛇の祟りだ、
境内を荒してはならないと言い工事は中止された。

広い射場の敷地には運搬用にトロッコが設置されていた。
或る日、3人の従業員が乗ったトロッコの前方を蛇が横切ろうとしていたが、
3人はブレーキも掛けず逆にスピードを増し、其の蛇を轢き殺してしまった。
 其の後幾日も経たぬ内に3人は、次々と名も知れぬ病で亡くなった。
誰言うと無く蛇の祟りだ、お田戸さんのお怒りだと噂が流れた。
其れ以後はどんな小さな蛇でも決して殺す者はいない。

お社の後方から西の浜に掛け、巾二間程長々と続く湿地帯が在る。
丈の低い草が生い茂り、上からは緑の絨毯か帯の様に見える。
此の湿地はお田戸さんと篠島の間を大蛇が往復する「お通り道」と呼ばれており
村の人は決して此処の草を刈らない。

或る将校が誤って蛇を殺した。
暫く経った或る日、家から娘が病気に為ったと知らせがあった。
偶々休暇が取れたので家へ帰る事にした。
 娘は大声を上げて「恐い、蛇が。」と叫んでいる。
娘には父親が蛇に見えたのだ。
将校は急いで射場に帰り田戸神社にお詣りしてお詫びした。
 其の後、娘の病気が如何為ったかは誰も聞いていない。





「爺と婆の話 夢見橋」には、
この様な民話が挿絵と共に100作品程掲載されています。




↑ クリックお願いします(^^)。

挿絵:本宮山と神霊の加護

2007-04-02 19:00:25 | 民話:夢見橋



本宮山と神霊の加護 〈作手の昔の話〉


本宮山は武運長久の神社として崇拝されていた。
戦争に成ると老若男女が我も我もと押し掛けて出征兵士の武運を祈願した。
 日露戦争の頃、作手の或るの兵士の父親が提灯を灯して登山し、
本殿正面の格子戸に提灯を引っ掛けて息子の無事を祈った。
祈願が終わり気が付くと、格子戸に掛けて置いた提灯が何処かへ消えて見当たらない。
仕方なく山上で一緒になった人達の灯を頼って下山した。
 一方、満州の広野で転戦していた息子は其の夜、
斥候兵として前線偵察に出掛けたが、途中で道に迷い途方に暮れていると
前方の闇の中に提灯を一つ見付けた。彼処に誰か居ると思うと気が強くなった。
暫く立ち止っていると其の提灯は自分の方へ近付いて来る。
瞳を凝らして見ると、其の提灯には我が家の家紋が付いている。
近付くと提灯は元来た道の方へ引き返す。
其の跡を付けて暫く進むと本隊に帰還する事が出来た。





「爺と婆の話 夢見橋」には、
この様な民話が挿絵と共に100作品程掲載されています。




↑ クリックお願いします(^^)。

挿絵:浅間神社の霊験記

2007-03-30 18:50:00 | 民話:夢見橋


浅間神社の霊験記 〈稲武の昔の話〉


明治28年、悦次郎は近衛兵として日清戦争、引き続き台湾征討に従軍した。
寒い所から暑い所へ移った所為か大腸カタルになり症状は悪くなる許りだった。
 生死の間を幾日か彷徨い続けた或る夜、夢を見た。
生まれ故郷の浅間神社の森に湧き出る鉱泉を飲もうと腹這いになり、
飲んで飲んでもう此以上飲めない程飲んだ。
夢から覚め、気が付いてみると病棟脇の井戸端に倒れており、
吐くは下すは大変な事になった。
 然し、彼程重体であった体がぐんぐ快方に向かい、
数日後には、元の健康な体になった。
喜んだ悦次郎は故郷へ手紙を書き此の事を告げ、神社へのお礼を頼んだ。
 兄は早速神主にお礼のお祀りをお願いした。
母は黒髪を切り、半分を神社に供え半分を腹巻きに入れて台湾に送った。





「爺と婆の話 夢見橋」には、
この様な民話が挿絵と共に100作品程掲載されています。




↑ クリックお願いします(^^)。

挿絵:元地に還った観音様

2007-03-29 19:29:03 | 民話:夢見橋



元地に還った観音様 〈引佐の昔の話〉

明治の初め仏様や観音様を一つの場所にお祀りする事になり、
仏坂や滝清水の仏様も松山に移される事になった。
松山では明治十二年、仏坂の観音林を払い下げ立派な観音堂を建てた。
 然し、大正初め、伊平や周辺の多くの人達に次々と悪病や不吉な事が起こり、
人々が不安に思っていた在る日の事、観音様が村人の夢枕に立ち
「仏坂の元の地に還りたい。」と言う。
村人は思案したが結局、元地にお還りに為るのであれば仕方がないと、
白布に纏れた観音様は降り頻る豪雨の中を村人に背負われて仏坂に向かった。
 仏坂に差し掛かると今迄降り続いた豪雨は発止と止み、
仏坂に辿り着いた時にはすっかり陽が落ちていた。
然し、辺りは煌々と月明かりが差し込み、和やかな像を映し出していた。






「爺と婆の話 夢見橋」には、
この様な民話が挿絵と共に100作品程掲載されています。

この挿絵は、家田紙工株式会社さんより、
便せんやシール、提灯や行灯となって販売されています。





↑ クリックお願いします(^^)。

挿絵:金剛寺本堂地蔵菩薩

2007-03-28 20:36:53 | 民話:夢見橋



金剛寺本堂地蔵菩薩 〈三ヶ日の昔の話〉


或る旱の年、村人は田植えの遅れを心配していた。
漸く大雨が降り、懸命に其れ其れの家の田植えを終えた。
 今年も、例年の通り一同にて金剛寺の施餓鬼田の田植えをしようと集まった。
処が施餓鬼田の傍で、人々は唖然とした。
誰が植えたのか一夜の内にすっかり田植えは終っていた。
 和尚様かもしれないと金剛寺に赴いた。然し和尚も知らない。
 兎も角お寺に来たので、お参りしようと本堂に入ると、
御本尊の地蔵菩薩の足に泥が付いていた。





「爺と婆の話 夢見橋」には、
この様な民話が挿絵と共に100作品程掲載されています。




↑ クリックお願いします(^^)。