東京でカラヴァッジョ 日記

美術館訪問や書籍など

「南薫造」展(東京ステーションギャラリー)

2021年03月06日 | 展覧会(日本美術)
没後70年   南薫造
2021年2月20日〜4月11日
東京ステーションギャラリー
 
   南薫造の名前と、英国に留学した洋画家であることは、「藝大コレクション展2019」にて記憶していた。
 
   今回、1883年広島生まれの南が、留学したのは東京美術学校卒業の4ヶ月後であったこと、英国を選んだ理由が「水彩画が見たかった」からであること、南の東京美術学校在学時である明治30年代後半は「日本における水彩画の黄金時代」であり、そそのため水彩画は将来性のある美術分野だと考えたのか、水彩画を学ぶ=留学先は英国となったらしいことを知る。
 
   南は1907年9月にロンドンに到着し、その翌月にサウス・ケンジントン博物館(現V&A博物館)が所蔵するバーン=ジョーンズの油彩画を模写している。本展にはその模写作品2点(同一絵画の模写)が出品されている。バーン=ジョーンズからスタートするというのはどんなものなのだろう。
 
   3階フロアの展示室は、南の留学時代の作品で埋められる。
   ロンドン時代(1907年9月〜09年7月)の作品では、現地の男性を描いた肖像画《赤衣の男》《英国農夫の顔》《スコットランド老人》。原田直次郎がドイツ留学時代に描いた重文《靴屋の親父》などの男性肖像画(時代は20年違うけど)を想起する。また、後ろ姿の子どもを描いた明るく淡い色彩の水彩画《うしろむき》(ひろしま美)が微笑ましい。水彩画の鍛錬にも抜かりなかったようだ。
   1909年7月にパリに移る。パリ時代の作品3点《少女》(東京国立近代美)、《二人の少女》(ウッドワン美)、《春(フランス女性)》(ひろしま美)が並んだ狭めの展示コーナーは、個人的には本展の白眉。
   その後、1909年11月からイタリアを旅行し、ドイツ・オランダ・ベルギーを経て1910年1月に一旦ロンドンに戻り、翌月英国を出発しアメリカを経由して4月に帰国する。
 
   2階フロアの展示室は、帰国して以降最晩年までの作品。
 
   帰国後しばらくの頃に描いた作品、おそらく本展で言う「まさに、ニッポンの印象派」に相当する作品だと思うが、その屈託の無さがいい。
   初夏の農作業中に喉の渇きを覚えて徳利から水を飲む青年を描いた《六月の日》(1912年、東京国立近代美)。
   葡萄棚の下で母親?に髪を解いてもらっている少女を描いた《葡萄棚》(1915年、早稲田大学會津八一記念博物館)。
   この2点を並べたら、若い2人を主人公とする青春ドラマ的な飲料CMポスター連作という雰囲気。
 
   その後の作品では、ピアノを弾く娘の足が遊んでいるのが面白い《ピアノ》(1921年、広島県立美)、戦時中にキャベツ畑を描いた《高原の村の朝》(1941年、ひろしま美)と《甘藍畑》(1940年、広島県)、戦後に孫娘2人をモデルとして虫干しの様子を描いた《曝書》(1946年、広島県立美)などが好ましい。
  
 
   微笑ましい、好ましい、心地が良い。
   こういう絵画の鑑賞も非常に楽しい。
 
 
 
   東京ステーションギャラリー、応援しています。
   日本では毎年数多くの美術展が開催され、多くの観客を集めています。大規模な西洋美術展はもとより、最近では、江戸期を中心とする日本美術や、現代アートの展覧会が大きな話題となることも少なくありません。そうした中で、めっきり数が減っているのが日本近代洋画の展覧会です。東京ステーションギャラリーでは2012年の再開館以来、一貫して近代洋画の展覧会の開催を続けてきました。それは多くの優れた洋画家たちの業績が忘れられるのを恐れるからであり、優れた美術が、たとえいま流行りではなかったとしても、人の心を揺り動かすものであることを信じるからです。
   南薫造(1883-1950)、明治末から昭和にかけて官展の中心作家として活躍した洋画家です。若き日にイギリスに留学して清新な水彩画に親しみ、帰国後は印象派の画家として評価される一方で、創作版画運動の先駆けとなるような木版画を制作するなど、油絵以外の分野でも新しい時代の美術を模索した作家ですが、これまで地元・広島以外では大規模な回顧展が開かれたことがなく、その仕事が広く知られているとは言えません。
   本展は、文展・帝展・日展の出品作など、現存する南の代表作を網羅するとともに、イギリス留学時代に描かれた水彩画や、朋友の富本憲吉と切磋琢磨した木版画など、南薫造の全貌を伝える決定版の回顧展となります。 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。