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アーティゾン美術館で関根正二と青木繁。- 開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」

2020年02月28日 | 展覧会(日本美術)
2/27発表:国立美術館6館が明日(2/29)から3/15or16までの臨時休業を決定。
ああ、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展は幻となるのか? 
三菱一号館美術館およびBunkamuraは本日(2/28)から臨時休業。
開館記念展
見えてくる光景
コレクションの現在地
2020年1月18日〜3月31日
アーティゾン美術館
 
   アーティゾン美術館所蔵作品全206点による開館記念展。
   本記事では、日本近代洋画のうち、夭折の画家2人の作品画像を掲載する。
   関根正二と青木繁である。
 
 
関根正二
《子供》
1919年、60.9×45.7cm
   神奈川県立近代美術館鎌倉分館では、生誕120年・没後100年の関根正二の回顧展が開催中であるが、本作品は、先の巡回地(福島、三重)では出品されたようであるが、鎌倉には出品されず、所蔵者アーティゾン美術館の開館記念展に展示されている。
   1923年制作の新古典主義時代のピカソ作品と1914年制作のマティスという両巨匠による大柄の西洋女性にはまさまれて、日本の子どもが、自慢の朱色(ヴァーミリオン)を輝かせている。
 
 
 
青木繁
《海の幸》
1904年、70.2×182.0cm
   左手に向かって行進する漁師たち。千葉県館山市の布良海岸滞在時に制作。
   気になる唐突な若い女性の顔。制作の数年後に、もとは少年であった顔を青木の恋人である福田たねの顔に手直ししたと言われている。
 
 
青木繁
《大穴牟知命》
1905年、75.5×127.0cm
古事記の物語
    八上比売は八十神に答えて「わたくしはあなたたちの言う事は聞きません。大穴牟知命と結婚しようと思います」。求婚を断られた八十神が怒って、大穴牟知命を殺そうと相談し、手間山の麓で言う「この山には赤い猪がいる。わたしたちが追い落とすからお前が待ちうけて捕えろ。もしそうしないと、きっとお前を殺してしまう」。そして猪に似た大きな石を真っ赤に焼いて転がり落とす。その石を捕らえた大穴牟知命は、全身火傷で死ぬ。大穴牟知命の死を嘆く母神に泣きつかれた神産巣日神は、赤貝の神である𧏛貝比売と蛤の神である蛤貝比売を差し向ける。それで𧏛貝比売が貝殻を削ってその粉を集め、蛤貝比売がこれを受けて母の乳汁として全身に塗ると、大穴牟知命は生き返る。
   左の女性が𧏛貝比売、右の女性が蛤貝比売。露わにした胸に手を添えた蛤貝比売は、何故観者へ視線を向けるのか。この女神のモデルは福田たねとされる。
 
 
青木繁
《わだつみのいろこの宮》
1907年、180.0×68.3cm
   古事記の物語。
   上方の裸の者(位置が高くで見づらい)は山幸彦、女性ではなくて男性である。左側の赤い衣の女性が豊玉姫、右側の白い衣の女性は姫の侍女。   
   兄・海幸彦から借りた釣り針を紛失して海の中に潜り、そこで遭遇した海の底の宮殿。山幸彦と豊玉姫は恋に落ちる。
 
夏目漱石『それから』
   それから十一時過まで代助は読書していた。が不図ダヌンチオと云う人が、自分の家の部屋を、青色と赤色に分って装飾していると云う話を思い出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、この二色に外ならんと云う点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云うものは、なるべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云うのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
   代助は何故ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な赤の必要があるだろうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好い心持はしない。出来得るならば、自分の頭だけでも可いから、緑のなかに漂わして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている脊の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。つまり、自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである。
 
 
他の青木繁の展示作品。
 
青木繁
《自画像》
1903年、80.5×60.5cm
 
 
青木繁
《輪転》
1903年、26.8×37.8cm
 
 
青木繁
《海景(布良の海)》
1904年、36.6×73.0cm
 
 
青木繁
《狂女》
1906年、水彩、29.1×15.5cm
 
 
石橋財団HP「石橋財団コレクションの形成」より
    石橋正二郎は1927年頃から絵画の蒐集を始めました。当初の作品蒐集は自宅などの装飾が目的でしたが、1930年に大きな転換点を迎えます。それは、正二郎の高等小学校時代の図画の先生であった久留米出身の洋画家、坂本繁二郎からの依頼でした。正二郎はこのように記しています。「坂本さんは、郷里出身の青木繁はわが国の生んだ稀れな天才画家でいくたの傑作を残しているが、散逸したままでは惜しいから、私にこれを買い集めて小さい美術館でもよいから建ててもらいたい、と、温かい友情の気持をもらされた。私は洋画が好きであり、その意をうけて四〇才頃から一〇年あまりで『海の幸』その他の代表作などを数十点買い集めた」。 


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