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初めて世界一周した日本人


1793年(寛政5年)11月27日、石巻港を出た若宮丸は12月2日塩屋崎の沖あたりで遭難。その後ロシアに渡りユーラシア大陸を横断、大西洋を渡り太平洋に抜け世界を一周し日本に戻る。

加藤九祚 「初めて世界一周した日本人」 新潮選書


初めて世界一周した日本人

新潮社

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1993年9月10日 発行

著者は1922年韓国慶尚北道に生まれ。満州東南部で敗戦を迎え1950年までシベリア東部で5年間の抑留生活を送った。国立民族学博物館教授、創価大学人文学部教授・特任教授等を歴任。テルメズ郊外カラテパの仏教遺跡など、ウズベキスタンで長期にわたり発掘に従事。著作に『ウズベキスタン考古学新発見』、『ユーラシア記』、『アイハヌム』、『シルクロード』、『民族の世界史』、『埋もれたシルクロード』などがある。



1793年(寛政5年)11月27日、石巻港を出た若宮丸は12月2日塩屋崎の沖あたりで遭難。1794年5月10日当時のロシア領であったアラスカ近くのアツカ島にたどりつく。乗組員はアラスカからシベリアを西に横断し首都ペテルブルクへ連れてこられる。そこで皇帝に謁見後、帰国を決めた津太夫(つだゆう)、儀兵衛(ぎへえ)、多十郎(たじゅうろう)、左平(さへい)の四人は1804年8月、ロシアの首都ペテルブルグ近くのクロンシュタット港を出発。コペンハーゲン、ファルマス(イギリス)、サンタ・カタリナ島(ブラジル沖)、ヌクヴィア島(南太平洋・マルケサス諸島)などを巡り約1年かけてカムチャツカ半島のペトロパブロフスク港に到着。1804年(文化元年)9月26日、長崎に到着した四人は若宮丸の荷物送り状を日本の役人に見せて自分たちの身分を証明し、長い旅を終える。 この体験はその後に「環海(かんかい)異聞(いぶん)」という著作として残され今に伝わる。

津太夫たちが同行したのは「遣日使節」と「世界周航」が一つになったもの。

この本は「環海異聞」を中心に、その他資料を基に書かれている。

当時船の難破は多く幸いにも生き残れたものもわずかにいる。例えば1745年(延享二年)竹内徳兵衛の船が千島のオンネコタン島で難破。竹内徳兵衛は日本に帰ることなくぺテルブルクで日本語学校の教授を務めた。津太夫たちの仲間も同様の人生を過ごすことを決めたものもいた。

以下、ちょっと気になった点について。

津太夫は世界一周航路の途中、南太平洋を通過する。「バウンティー号の反乱」の舞台だ。「バウンティー号の反乱」でも出てくることだが、このあたりは「女性」の扱われかたが現代の感覚からいうと酷い。集団の共有物に近い。過去に対して現代人がとやかく言うようなことではないのだが、そういう風習は今でもひそかに続いていたようで、つい最近も「バウンティー号の反乱」の舞台であるピトケアン島(ピトケアン島の最近の事情)で騒動があり裁判沙汰になったことは記憶に新しい。



ウィキペディア(Wikipedia)より


ピトケアン島の最近の事情

1999年この島に研修に来ていたイギリスの女性警察官が、この島の女性からある事実を告げられた。それはこの島の14歳以下の女性と大部分の成人男性が性交渉をもっている。という話であった。彼女はこの事実をニュージーランド在住のピトケアン総督に報告、捜査の結果、この告白は事実である事が判明した。これは本国のイギリスの法律に照らせば当然違法であるわけだが、島の男性はこれは島の風習であり、イギリスの法律で裁くことは適さないと主張している。

またピトケアン島には裁判所と言う物が無い、裁判に必要な判事や弁護士もいないので、実際に裁判を行うには、ニュージーランドまで行かなくてはならない。「容疑者」はこの島のほぼ全ての成人男性であるわけだから、その間島の経済は大きく停滞する事になる。ましてや実刑判決が下れば、島の存続にも関わってくる。一つの島が丸ごと消えてしまいかねない事件として、この出来事はイギリスやニュージーランドだけにとどまらず、世界中で大きく取り上げられることとなった。

結局ニュージーランドでの裁判の開催は地元の負担が大きすぎるという事で、2004年にピトケアン島で裁判を開催する事が決定された。判事や弁護士はニュージーランドからはるばるやって来るそうである。イギリスの海外領土の住民が、イギリス連邦とは言え、ニュージーランドの判事や弁護士により、英国法によって裁かれるという変わった形である。また島の男性が主張していたイギリスの法律の適用外という主張は退けられた。さらに実刑判決が出た場合に備えてイギリス本国では刑務所もピトケアン島に設ける事を決定し、この刑務所に勤務する者の募集を始めた。






津太夫たち一行は南太平洋を通過するときそこの島々で後に「売春貿易」とよばれる行為も目にする。島の女性は体と引き換えに釘一本、布切れ一枚でも手に出来れば大喜びだったそうだ。そしてその手に入れたものは男たちの手に渡る。

欧州人はこのような行為を面白がったりしかめっ面をしたりしたと記録にはあるのだが、津太夫はそれに関してはノーコメントなのだ。著者はこれは津太夫の穏やかで紳士的な性格からきたもので、あえて記録を残さなかったのだと書いている。

物を交換する手段に関してはそうかもしれない。しかしその社会での女性に関する習慣についてはどうだろうか?

南太平洋に限らず津太夫たちが遭難したアツカ島近辺でも「女性」は集団の共有物であった。そのことはこの本にも書いてある。つまり太平洋の南と北とではそういう習俗だったということだ。そして日本もその太平洋の島々の一部だということを考えれば・・・。

つまり津太夫たちにとっては、そういう習俗はたいして驚きに値することではなかったために、日本も津太夫が生きた時代はその点はあそこまでは行かないまでも、けっこう大らかな風俗だったために、あえて特別に書き残さなかったということじゃないのか、と想像してしまうのだ。



その他、メモ

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1809年 間宮林蔵 サハリンが島であることを発見

コサック シビル・ハン国 1581-1582

イワン・モスクヴィチン オホーツク 1639

フェドト・アレクセーエフ セミョン・デジニヨフ  ベーリング海をまわる 1646
  ベーリングより早い 80年早い ヤクーツクの文書館に100年以上報告書は放置された

ロシア領アメリカ会社 1799年創設

アレウト列島アレウト人 毛皮を着ているのに裸足

  小便で洗濯 顔を洗う 魏志の勿吉族と同じ

ヤクート ウイグル・トルコ系

  周辺部族を同化融合
  六世紀 中国で骨利幹(ウリカン)
  十七世紀初 35~40の部族
  松の甘皮を食べる
  ホームスという口琴

ツングース 鍋、かまど(火+土)、弓、鹿(トナカイ)

ロシア人 墓穴は夏の時期に掘ったものを買う

日本貿易 広東貿易

アラスカからオホーツク、キャフタ経由で広東に行くのに2年かかる
アラスカから直接船で広東に行けば5か月ですむ
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