KAGURAファン必読の1冊!神楽童子「お神楽初恋巡演記」

かつて「デーリー東北」新聞で掲載され共感を呼んだ幻の書が待望の発刊!
若き神楽師の巡演の旅が今ここに鮮明に蘇る!

本年は大変ありがとうございました

2010年12月22日 | 日記
 
 今年も残り少なくなりました。一昨年の「お神楽初恋巡演記」発刊、ブログ発行、長男の急逝、家族躁鬱、そして転職・・・試練の歳月でした。皆様の叱咤激励で苦難を乗り切りつつあります。この度息子干城(たてき)の一周忌法要を菩提寺である実相寺で執り行いました。墓参りには粉雪が肩に降りかかり、嗚呼息子が帰ってきたなと思いました。まさに戒名雪城にある雪のような無垢な子供でした。あくまでも遠慮深く、やさしく肩にささやくように舞ってきました。カラオケでよくレミオロメンの粉雪を歌っていた事を思い出し、思わず涙を流してしまいました。皆さんも機会がありましたら一度歌ってみてください。とてもいい曲ですよ。
 さて今回は当家とゆかりのある月山神社の一條宮司の所感を紹介したいと思います。本書に登場する一条別当のご子息です。以下原文のままお届けします。
******************************************************************************** 松ノ脇神楽、沢田神楽に関する所感   月山神社一条宮司
昨年平成21年9月、軽米町小軽米に住む吉岡義三氏80歳が「お神楽初恋巡演記」という本を出版された。松ノ脇神楽の太夫神楽師であった氏が戦後昭和23年頃、軽米町は元より旧大野村、山形村、種市町、青森県名久井村など巡演した思い出を綴った冊子である。小生の父、一條福太郎(平成11年他界85歳)も月山神社宮司として一緒に巡行した関係もあり、エッセイ風に所感を記してみたい。
 ところで、岩手県内の著名な神楽には早池峰神楽、黒森神楽、鵜鳥神楽などあるが、それぞれ早池峰神社、黒森神社、鵜鳥神社に奉納する神社であり、その地域の神社の信仰に深く結びついている。しかしながら松ノ脇神楽の松ノ脇神社、沢田神楽の沢田神社は存在しない(但し松ノ脇集落約25戸には月山神社の堂宇、沢田集落約50戸には駒形神社の堂宇があり、それぞれ地域の人たちが信仰する神様が祀られている。)
 岩手県北に鎮座する神社のほとんどは権現様と呼ばれる獅子頭を奉斎し日々ご飯を、お供えし拝んでいる。小生の奉職する月山神社にも二頭の権現様があり毎朝、日供祭をし例祭の時は氏子の家々を回り門打ちしたり、お神輿渡御の、お供をする。その奉仕をする神楽が松ノ脇神楽衆や沢田神楽の神楽衆である。よって月山松ノ脇神楽、月山沢田神楽と称した方がより正確であると思われる。
 神楽の権現様は目に見える神様として深い信仰ののもと人々に崇敬されていることが他の郷土芸能と違うところだ。沢田神楽の権現さまは権現様が多数揃って舞うことから人気があり、イベントとして行政などの依頼により権現様を、お貸しすることがある。が、お返しにこられる際「無料ご奉仕いただきました」などと言われると権現様は見世物ではなく、あくまでも皆さんに拝まれる信仰の対象なのですから、お米お酒お賽銭など少しでもお供えくださるとありがたいという思いがする。
 さて前置きが長くなったが左記の吉岡義三氏の著書によって「松ノ脇神楽沢田神楽の歩み」について述べたい。以下○で要点を記す。
○軽米の松本院大澤音松は明治の初期、江刺家村の神楽太夫、道地岩松家で神楽を習い村の人たちに教え八坂神社の氏子を巡った。
○その中の車門に住む日山亀吉は小軽米沢田、山田家の婿養子に入り田中善蔵、田中又蔵に神楽を教えて沢田神楽が始まった。
○沢田神楽は蛇口、円子からも神楽師を頼んで月山神社の氏子を巡った。(当時の宮司は大澤義雄、神楽別当は林元吉)
○山田亀吉は松ノ脇の山を開拓し松田喜三郎、中野留之助に神楽を教え松ノ脇神楽が始まった。
○車門、江刺家、山内から神楽師が加わり月山神社の氏子を巡った。
ー大東亜戦争で中断ー
○昭和22年月山神社の神楽復活。宮司一條福太郎。
○昭和32年神楽師の高齢化、後継者不足から沢田神楽と松ノ脇神楽が合併して沢田神楽保存会(代表田中善蔵氏)発足
○沢田神楽は平成元年軽米町無形文化財(民族芸能)に指定された。
 次に吉岡氏の本を読んだ感想を記してみたい。この本は平成7年デーリー東北紙に「軽米ものがたり」「吉岡義三のお神楽夜話し」として26回にわたり連載された。当時軽米文化財調査委員だった土佐行作氏の編集いよるが、この度、著者の傘寿の、お祝いに、ご子息が出版された。この本を読むと私は「田舎に泊まろう」というテレビ番組を思い出す。ひとりの芸人がある田舎を訪ね、今晩一晩の宿を乞う。ところが皆に断られ宿がなかなか見つからず、ひと苦労する番組だ。昭和22年頃といえば戦後の食糧難から一番苦労の多かった時代。神楽師7、8人の大宿小宿をさがす苦労は並大抵ではなかった。と同時に戦争で日本が負けたととはいえ、まだまだその地域に神様を大事に思う素朴な信仰心が残っていた証左ともいえよう。
 神楽衆は礼儀をとても大事にした。立ち居振る舞いから食事の作法まで厳しく指導されたようだ。また当時はテレビなどの娯楽もなかったから神楽舞や狂言はとても珍しく地域の人たちの大きな楽しみでもあった。権現様の泊まる大宿を地域の名士が引き受け、そこに老若男女地域の皆が集う。地域の信仰、親睦、団結、協調、融和、教育などあらゆる価値がそこにはあった。時々年配の方々から当時の神楽の思い出をなつかしく、お話いただき、またかつてのような巡演はできないものかと聞かれるときもあるが吉岡氏のように舞や狂言の出来る人は、ほとんどいない状況で復活するのはなかなか困難である。義三氏の舞には小柄な体格による鋭い切れ味、独特のリズム感があり見るものを飽きさせない魅力があった。女形に扮するに申し分のない顔の形、声の発声は神楽の花形であり当事の若い娘たちには大人気だったろう。名誉宮司が亡くなって、押入れの片付けをしていたら角隠しのような鬘や着物が出てきた。虫がついてなんとも不気味な

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1 コメント

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門打ち復活できたらいいな? (山椒太夫)
2010-12-23 12:39:32
そうですね!神楽巡行復活を望む声が多いです。時代が変われども良き文化芸能は残して欲しいと願う一人です。