1976年、オフコースは大きな転機を迎えることになる。
小田の大学院卒業、オフコースカンパニーの設立、そして新しい仲間との出会い・・・・・・・
松尾一彦、大間ジロー、清水仁・・・・・・・・
まず、プロデューサーの武藤は1976年5月5日発売のシングル『ひとりで生きてゆければ/あいつの残したものは』に、ドラマーとして大間ジローを起用する。
その次に、同年5月23日に行われた"オフコースの小さな部屋VOL.6"に、清水仁が参加する。
そして、同年10月5日発売のシングル『めぐる季節/ランナウェイ』に松尾一彦が参加する。
この3人の中で、清水仁の参加に、鈴木は「技術力がない」と反対するが、小田は「人間的に凄く魅力があり、長くやっていけそう」とゴーサイン。
しかし、鈴木の心配どおり、清水は技術的にも未熟だったゆえ、何度もつまずくことになる。
清水によると、この頃最も苦労した時期で、「泣きながら弾いたこともあった」という。
しかし、どんなにつまづいても、他の4人のメンバーは彼ができるまで、根気強く待ったという。
いつの間にか、松尾一彦、大間ジロー、清水仁はバックバンドながら、オフコースに溶け込んでいた。
もはや、5人はいつの間にか一心同体となっていた。
実際、松尾、大間、清水が加わってから、清流なコーラスにさらに音にも厚みが増した。
この3人はオフコースにとって、欠かせない存在となっていく。
こうした中で、『秋の気配』、『潮の香り』、『夏の終わり』という佳作も生まれた。
2人のフォークデュオから5人のロックバンドへ
松尾、大間、清水の3人の役割は、もはやバックバンドだけではおさまらなくなっていたのである。
その過程で、生まれた曲が1979年1月27日発売の『愛を止めないで』だった。
小田と鈴木は当時、「どういう曲がバンドとして成り立っていくかが分かってきた」と語っている。
『愛を止めないで』はオフコースで初めて売り上げ枚数10万枚に近づいた曲である。
『愛を止めないで』という曲は、まさにバンドサウンドを全面に押し出した曲といえる。
松尾、大間、清水がオフコースに加わってから3年・・・・・・・
これまでバックメンバーだった松尾、大間、清水は、1979年8月1日、正式にバンドメンバーとなる。
その事を印象付けたのが、1979年10月20日発売の「Three and Two」というアルバムだった。
このアルバムのレコードジャケットの表には、松尾、大間、清水が登場し、オリジナルメンバーである小田と鈴木は裏にまわっていた。
これは、レコード会社の反対を強く押し切ってのものであった。
よりロック色が強くなり、このアルバムに収録されている鈴木の『SAVE THE LOVE』という超ロック大作がロックバンドであることを象徴している。
オフコースは5人のバンドであることを証明してみせた。
ある日、小田が一個のデモテープを持ってきた。
「こんなに、売れ線を意識して作ったことないよ」
そのデモテープに収められていた曲が、『さよなら』である。
1979年12月1日に発売されたシングル『さよなら/汐風の中で』はオリコンチャート2位を記録する大ヒット曲となった。
オフコースは、一躍トップアーティストの座に上り詰めたのである。
続く、1980年6月21日発売の『YES-NO』のヒット・・・・・・・
同年の6月27日、28日には、オフコース初となる日本武道館での公演も見事に成功をおさめる。
オフコースはブレイクした、オフコースに風は吹いてきた。
さらに、同年11月21日発売の「We are」というアルバムは、ロスのビル・シュネーが音のミックスダウンを担当し、オフコースサウンドはさらにそのクオリティーを高めていった。
しかし、事件は起きた・・・・・・・
奇しくも、「We are」ツアーの練習中に向けての出来事であった。
続きは、気が向いたときに書きたいと思います・・・・・・・・
コメントレスしま~す
>あおぞらさん
俺個人的には、小田さんもヤスさんもすごく真面目なイメージです。
でも、最近小田さんのライブやヤスさんのライブなどを見ていると、おしゃべりで、面白い感じがしませんか
オフコース時代では考えられないことですよね
小田さんもヤスさんも、少年時代の心に戻ったのでしょうか
でわでわ
小田の大学院卒業、オフコースカンパニーの設立、そして新しい仲間との出会い・・・・・・・
松尾一彦、大間ジロー、清水仁・・・・・・・・
まず、プロデューサーの武藤は1976年5月5日発売のシングル『ひとりで生きてゆければ/あいつの残したものは』に、ドラマーとして大間ジローを起用する。
その次に、同年5月23日に行われた"オフコースの小さな部屋VOL.6"に、清水仁が参加する。
そして、同年10月5日発売のシングル『めぐる季節/ランナウェイ』に松尾一彦が参加する。
この3人の中で、清水仁の参加に、鈴木は「技術力がない」と反対するが、小田は「人間的に凄く魅力があり、長くやっていけそう」とゴーサイン。
しかし、鈴木の心配どおり、清水は技術的にも未熟だったゆえ、何度もつまずくことになる。
清水によると、この頃最も苦労した時期で、「泣きながら弾いたこともあった」という。
しかし、どんなにつまづいても、他の4人のメンバーは彼ができるまで、根気強く待ったという。
いつの間にか、松尾一彦、大間ジロー、清水仁はバックバンドながら、オフコースに溶け込んでいた。
もはや、5人はいつの間にか一心同体となっていた。
実際、松尾、大間、清水が加わってから、清流なコーラスにさらに音にも厚みが増した。
この3人はオフコースにとって、欠かせない存在となっていく。
こうした中で、『秋の気配』、『潮の香り』、『夏の終わり』という佳作も生まれた。
2人のフォークデュオから5人のロックバンドへ
松尾、大間、清水の3人の役割は、もはやバックバンドだけではおさまらなくなっていたのである。
その過程で、生まれた曲が1979年1月27日発売の『愛を止めないで』だった。
小田と鈴木は当時、「どういう曲がバンドとして成り立っていくかが分かってきた」と語っている。
『愛を止めないで』はオフコースで初めて売り上げ枚数10万枚に近づいた曲である。
『愛を止めないで』という曲は、まさにバンドサウンドを全面に押し出した曲といえる。
松尾、大間、清水がオフコースに加わってから3年・・・・・・・
これまでバックメンバーだった松尾、大間、清水は、1979年8月1日、正式にバンドメンバーとなる。
その事を印象付けたのが、1979年10月20日発売の「Three and Two」というアルバムだった。
このアルバムのレコードジャケットの表には、松尾、大間、清水が登場し、オリジナルメンバーである小田と鈴木は裏にまわっていた。
これは、レコード会社の反対を強く押し切ってのものであった。
よりロック色が強くなり、このアルバムに収録されている鈴木の『SAVE THE LOVE』という超ロック大作がロックバンドであることを象徴している。
オフコースは5人のバンドであることを証明してみせた。
ある日、小田が一個のデモテープを持ってきた。
「こんなに、売れ線を意識して作ったことないよ」
そのデモテープに収められていた曲が、『さよなら』である。
1979年12月1日に発売されたシングル『さよなら/汐風の中で』はオリコンチャート2位を記録する大ヒット曲となった。
オフコースは、一躍トップアーティストの座に上り詰めたのである。
続く、1980年6月21日発売の『YES-NO』のヒット・・・・・・・
同年の6月27日、28日には、オフコース初となる日本武道館での公演も見事に成功をおさめる。
オフコースはブレイクした、オフコースに風は吹いてきた。
さらに、同年11月21日発売の「We are」というアルバムは、ロスのビル・シュネーが音のミックスダウンを担当し、オフコースサウンドはさらにそのクオリティーを高めていった。
しかし、事件は起きた・・・・・・・
奇しくも、「We are」ツアーの練習中に向けての出来事であった。
続きは、気が向いたときに書きたいと思います・・・・・・・・

コメントレスしま~す

>あおぞらさん
俺個人的には、小田さんもヤスさんもすごく真面目なイメージです。
でも、最近小田さんのライブやヤスさんのライブなどを見ていると、おしゃべりで、面白い感じがしませんか

オフコース時代では考えられないことですよね

小田さんもヤスさんも、少年時代の心に戻ったのでしょうか

でわでわ

メンバー紹介以外は歌イッパでした。
それがまたよかったですね~ウ~(^・ω・^).....ンニュニュ?
今の小田さんは、エキサイティングでこれまたけっこう!
鈴木さんは、アットホームでまままたけっこう!
嬉しくって、楽しくって言葉にできない~ですね。
時代を流れのままに流されてごめんね~って感じです。