昨日、ここのところずっと準備していた学内の院生発表会でのプレゼンが終わりました。これで、今期のスケジュールは終わりで夏休み!に入ります(といっても研究の日々は変わりませんが…)。
3回目ということもあり、大分慣れてきたのかちょっと今回はEUROに気を取られたり準備に集中力を欠き気味でしたが、滞りなく終わりほっとしています。今回は、できうる限り、コリングウッド専門外の人にも分かりやすくペーパーを書くことに特に気をつけて準備し、その結果一旦書き上げたものが長くなりすぎて再度要約しなおすハメになりましたが、そんな努力がある程度実ったのか、質問もいつもより多めに出たのでよかったです。(応答はまだ満足にクリアな説明が口頭でできたかはまだまだ工夫の余地がありますが)。でも、何はともあれ、3回の内部での発表をこなす中でまがりなりにも英語での発表に慣れてきたので、秋学期には何とか2回の外部での発表というノルマ達成に向けて頑張りたいです。一回は昨年も参加した12月の英国政治学会British Idealism Specialist Gruopというのは確実で、あともう一つ、機会を探しているのですがなかなか見つかりません…。
今回の発表では、前回の日記での触れたように、コリングウッドの初期草稿に焦点を絞ってその内容を分析しました。とりわけ、realismという語で彼が何を意味しているのかを分析し、3つの哲学上の立場が意味されていることが分かりました。
1)objectivism:knowing makes no difference to what is knownというCook Wilsonの命題に代表されるような、認識における主観の作用を全く認めない立場。これはこの世界が純粋に自然法則だけで成り立っているという結論も帰結することから自然主義(naturalism)とも深い関係にある。Oxford realists (Cook Wilson, Prichard)やB・ラッセル、G・E・ムーアらが含まれる。
2)subjectivism:(1)とは逆に、バークリのesse est percipiというテーゼに代表される立場。バークリ、F・H・ブラッドリーらが含まれる。これらは通常realismとは逆のidealismに分類されるのが一般的だが、コリングウッドは敢えてrealismだと主張している。
3)eclectic realism(折衷的実在論):subjectとobjectの両方を認めて、両者のバランスを取ろうとするロックらの立場。もっとも常識的だといえる。
で、これらはすべて(彼によれば)subjectとobjectの二元論を前提している点でrealismだとコリングウッドは主張するのであり、すなわち彼にとってrealismとはなによりもこの認識論的二元論を取る立場に他ならないことになります。そして、この段階で既に彼は、このrealism批判を政治・道徳哲学的批判へと結びつけることをはっきりと意識していたことも分かりました。
この非常に特殊なrealismの定義によって彼は本当は何を批判したかったのか?これが今後の、そして博論の最終的な問いになりますが、まずはともあれ、当面の理論的な課題としては、とりわけユニークなrealismの第2の意味、つまりブラッドリーらをなぜrealismと呼ぶのかが解明される必要があります。同時に、今回、文献的にもさまざまアクセス困難な資料へのアクセスの必要性が生じ、資料閲覧のためにまずは遠からずオックスフォード、ロンドンへ行くことになりそうです。オックスフォードは初のなので今から楽しみです!
そんなこんなで、まずは今週末からのスコットランド旅行を存分に楽しみ、帰ってからは夏の静かな大学で、研究をしっかり進めたいと思っています。
3回目ということもあり、大分慣れてきたのかちょっと今回はEUROに気を取られたり準備に集中力を欠き気味でしたが、滞りなく終わりほっとしています。今回は、できうる限り、コリングウッド専門外の人にも分かりやすくペーパーを書くことに特に気をつけて準備し、その結果一旦書き上げたものが長くなりすぎて再度要約しなおすハメになりましたが、そんな努力がある程度実ったのか、質問もいつもより多めに出たのでよかったです。(応答はまだ満足にクリアな説明が口頭でできたかはまだまだ工夫の余地がありますが)。でも、何はともあれ、3回の内部での発表をこなす中でまがりなりにも英語での発表に慣れてきたので、秋学期には何とか2回の外部での発表というノルマ達成に向けて頑張りたいです。一回は昨年も参加した12月の英国政治学会British Idealism Specialist Gruopというのは確実で、あともう一つ、機会を探しているのですがなかなか見つかりません…。
今回の発表では、前回の日記での触れたように、コリングウッドの初期草稿に焦点を絞ってその内容を分析しました。とりわけ、realismという語で彼が何を意味しているのかを分析し、3つの哲学上の立場が意味されていることが分かりました。
1)objectivism:knowing makes no difference to what is knownというCook Wilsonの命題に代表されるような、認識における主観の作用を全く認めない立場。これはこの世界が純粋に自然法則だけで成り立っているという結論も帰結することから自然主義(naturalism)とも深い関係にある。Oxford realists (Cook Wilson, Prichard)やB・ラッセル、G・E・ムーアらが含まれる。
2)subjectivism:(1)とは逆に、バークリのesse est percipiというテーゼに代表される立場。バークリ、F・H・ブラッドリーらが含まれる。これらは通常realismとは逆のidealismに分類されるのが一般的だが、コリングウッドは敢えてrealismだと主張している。
3)eclectic realism(折衷的実在論):subjectとobjectの両方を認めて、両者のバランスを取ろうとするロックらの立場。もっとも常識的だといえる。
で、これらはすべて(彼によれば)subjectとobjectの二元論を前提している点でrealismだとコリングウッドは主張するのであり、すなわち彼にとってrealismとはなによりもこの認識論的二元論を取る立場に他ならないことになります。そして、この段階で既に彼は、このrealism批判を政治・道徳哲学的批判へと結びつけることをはっきりと意識していたことも分かりました。
この非常に特殊なrealismの定義によって彼は本当は何を批判したかったのか?これが今後の、そして博論の最終的な問いになりますが、まずはともあれ、当面の理論的な課題としては、とりわけユニークなrealismの第2の意味、つまりブラッドリーらをなぜrealismと呼ぶのかが解明される必要があります。同時に、今回、文献的にもさまざまアクセス困難な資料へのアクセスの必要性が生じ、資料閲覧のためにまずは遠からずオックスフォード、ロンドンへ行くことになりそうです。オックスフォードは初のなので今から楽しみです!
そんなこんなで、まずは今週末からのスコットランド旅行を存分に楽しみ、帰ってからは夏の静かな大学で、研究をしっかり進めたいと思っています。