(※タイトル欄に文字数が入らなかったので…)
P. Hylton, Russell, Idealism, and the Emergence of Analytic Philosophy, Clarendon Press, Oxford, 1990
一連のコンテクスト・サーベイの第3弾、ということでここのところ読んでいたのがこの本です。Candlish本から始まって、20世紀初頭の分析哲学の起源というトピックはなかなか興味をそそられ、ちょっとはまってる感もあります(苦笑)
Bertrand Russell Societyの1991年のBook Awardを受賞したこの本は、ラッセルが対決し論駁を試みたイギリス観念論をその始祖T. H. Greenまで遡りその哲学を素描するところから始める(1章)。次に、いわばイギリス観念論のスタンダードとも言うべきグリーンとの対照のもとに、ラッセル・ムーアらが直接対決したBradleyの観念論を概説する(2章)。その後は、ラッセルの観念論時代(3章)、ラッセル・ムーアの形而上学的基礎(4章)、という感じで論じ進めつつ、その後はラッセルにおける分析哲学の発展を描くという形で構成されている。私の関心の中心はラッセルの分析哲学そのものというよりもその発生過程でラッセルらがどのように観念論と対決したのかという問題であるので、上記の4章までに論点は集中している。
私の関心から論点をまとめると・・・
(1)ブラッドリーは、主著Appearance and Reality(1893)を出版した1890年代にとりわけイギリス哲学界においては大きな影響力を持ち、ラッセル・ムーアらも当初、賞賛と合意を持ってブラッドリーの哲学を学んだ。
(2)しかし、RealityのOnenessを強調する一元論を志向していたはずの彼の哲学体系は、結局thoughtとrealityの二元論へと逆戻りすることを余儀なくされる問題・矛盾を孕んでいた。
(3)このようなブラッドリーの観念論に対して、Mooreとそれにしたがったラッセルは、著者が名づけるところのPlatonic Atomismという主張をすることによって、観念論と決別しようとした。
(4)Platonic Atomismとは、
①Relationのrealな性質を主張するのみならず、relationの客観性とそのmindからの完全なる独立性を主張。
②act of judgmentとobject of judgmentの区別(→(mental)actsと(objective, non-mental )objectsの区別)
③真・偽の完全な区別。真理の程度(degree of truth)は一切認めない。
※ラッセルとムーアは、この二元論を、knowledge, belief, thought, perception, imaginationなどさまざまなphaseに適用した。
④whole, universalといった、objectやrelationという構成要素の合計以外の全体概念の否定。
という主張であり、特に観念論との論争の中心的問題は、relationがrealか否かという問題だった。
(5)しかしながら、ある意味でブラッドリー的観念論へのbacklash的な色彩を帯びたラッセル-ムーアのPlatonic Atomismは、
①一般的言明の不可能性、
②原子としてobjectsとrelationはそのように結びついて命題を形成するのか?
などといった困難を孕んでいた。
(6)このような困難を克服するためのラッセルの以後の取り組みが、現在の分析哲学において慣れ親しまれた諸観念を生んでいくことになる。
という感じになる。
コリングウッドとの関わりで興味深い点としては、
(1)ラッセル-ムーアのPlatonic Atomismは、別の言い方をすると、naive realismということもできそうで、コリングウッドが激しく批判したオックスフォードの実在論者たちの主張とも重なる。
(2)Hyltonもやはり、ラッセルやムーアによる観念論批判のポイントが、relation概念がrealか否かという問題に集約されると指摘しており、さらには、彼らのPlatonic Atomismの困難もまたこの点に生じるわけであり、この問題が当時の哲学的議論の大きなissueの一つだったことは間違いなさそうである。(これは、Candlishとも通じている)
(3)コリングウッドは、通常は観念論者とみなされるブラッドリーをも、二元論を前提しているという意味で'realism'とみなすわけであるが、これはブラッドリー哲学の、一元論を志向しながらも二元論に帰着するという矛盾を突いたものといえ、一見奇妙なコリングウッドのrealistというブラッドリーへのラベリングは、その限りでラッセルらと問題意識を共有しているともいえまいか?
(4)しかし、コリングウッドは、ブラッドリーの矛盾に対するラッセルらのPlatonic Atomismには同意できなかった。ゆえに、それに代わる理論として、歴史を大きなヒントとして独自の出口戦略を構想したとはいえないだろうか?
* * *
最近の読書録は、ほぼ自分のためのノートのつもりで書いていますので、つまらなくてすみません。しかしこうして、今更ながら20世紀初頭の哲学史を勉強していると、20世紀の英米哲学を席巻し、いまやスタンダードとして君臨している感のある分析的な哲学潮流の源流に、若きコリングウッドもまさに居合わせ、彼らとは異なる、マイノリティとして運命付けられることになる道を歩んでいったことが浮かび上がってきます。
このような分析哲学の歴史の研究は、じつは1990年代からやっと本格化したというのが実情で、Candlishのような、20世紀における英国の観念論の再評価という仕事は、本当につい最近の関心であるといえます。HyltonもCandlishも、20世紀に余りにも分析哲学が標準化し、大学にもよりますが、分析哲学にあらずんば哲学にあらずという風潮まで生み出した、分析哲学偏重への反省を加えようとしています。また、当初はブラッドリー観念論の抽象性の分かりづらさを忌避し、明晰な哲学を目指して始まったはずの分析哲学が、逆に一般的にわかりづらい記号などを駆使した、極度にテクニカルなものになってしまったという反省も意図しているようです。いずれにしても、このような再評価の勃興の中で、20世紀前半の英国にあって頑なに主流の哲学を拒否し、独自のユニークな哲学を構想しようとしたコリングウッドの存在は、このような文脈からも、一顧の価値があるのではないかと思われます。
P. Hylton, Russell, Idealism, and the Emergence of Analytic Philosophy, Clarendon Press, Oxford, 1990
一連のコンテクスト・サーベイの第3弾、ということでここのところ読んでいたのがこの本です。Candlish本から始まって、20世紀初頭の分析哲学の起源というトピックはなかなか興味をそそられ、ちょっとはまってる感もあります(苦笑)
Bertrand Russell Societyの1991年のBook Awardを受賞したこの本は、ラッセルが対決し論駁を試みたイギリス観念論をその始祖T. H. Greenまで遡りその哲学を素描するところから始める(1章)。次に、いわばイギリス観念論のスタンダードとも言うべきグリーンとの対照のもとに、ラッセル・ムーアらが直接対決したBradleyの観念論を概説する(2章)。その後は、ラッセルの観念論時代(3章)、ラッセル・ムーアの形而上学的基礎(4章)、という感じで論じ進めつつ、その後はラッセルにおける分析哲学の発展を描くという形で構成されている。私の関心の中心はラッセルの分析哲学そのものというよりもその発生過程でラッセルらがどのように観念論と対決したのかという問題であるので、上記の4章までに論点は集中している。
私の関心から論点をまとめると・・・
(1)ブラッドリーは、主著Appearance and Reality(1893)を出版した1890年代にとりわけイギリス哲学界においては大きな影響力を持ち、ラッセル・ムーアらも当初、賞賛と合意を持ってブラッドリーの哲学を学んだ。
(2)しかし、RealityのOnenessを強調する一元論を志向していたはずの彼の哲学体系は、結局thoughtとrealityの二元論へと逆戻りすることを余儀なくされる問題・矛盾を孕んでいた。
(3)このようなブラッドリーの観念論に対して、Mooreとそれにしたがったラッセルは、著者が名づけるところのPlatonic Atomismという主張をすることによって、観念論と決別しようとした。
(4)Platonic Atomismとは、
①Relationのrealな性質を主張するのみならず、relationの客観性とそのmindからの完全なる独立性を主張。
②act of judgmentとobject of judgmentの区別(→(mental)actsと(objective, non-mental )objectsの区別)
③真・偽の完全な区別。真理の程度(degree of truth)は一切認めない。
※ラッセルとムーアは、この二元論を、knowledge, belief, thought, perception, imaginationなどさまざまなphaseに適用した。
④whole, universalといった、objectやrelationという構成要素の合計以外の全体概念の否定。
という主張であり、特に観念論との論争の中心的問題は、relationがrealか否かという問題だった。
(5)しかしながら、ある意味でブラッドリー的観念論へのbacklash的な色彩を帯びたラッセル-ムーアのPlatonic Atomismは、
①一般的言明の不可能性、
②原子としてobjectsとrelationはそのように結びついて命題を形成するのか?
などといった困難を孕んでいた。
(6)このような困難を克服するためのラッセルの以後の取り組みが、現在の分析哲学において慣れ親しまれた諸観念を生んでいくことになる。
という感じになる。
コリングウッドとの関わりで興味深い点としては、
(1)ラッセル-ムーアのPlatonic Atomismは、別の言い方をすると、naive realismということもできそうで、コリングウッドが激しく批判したオックスフォードの実在論者たちの主張とも重なる。
(2)Hyltonもやはり、ラッセルやムーアによる観念論批判のポイントが、relation概念がrealか否かという問題に集約されると指摘しており、さらには、彼らのPlatonic Atomismの困難もまたこの点に生じるわけであり、この問題が当時の哲学的議論の大きなissueの一つだったことは間違いなさそうである。(これは、Candlishとも通じている)
(3)コリングウッドは、通常は観念論者とみなされるブラッドリーをも、二元論を前提しているという意味で'realism'とみなすわけであるが、これはブラッドリー哲学の、一元論を志向しながらも二元論に帰着するという矛盾を突いたものといえ、一見奇妙なコリングウッドのrealistというブラッドリーへのラベリングは、その限りでラッセルらと問題意識を共有しているともいえまいか?
(4)しかし、コリングウッドは、ブラッドリーの矛盾に対するラッセルらのPlatonic Atomismには同意できなかった。ゆえに、それに代わる理論として、歴史を大きなヒントとして独自の出口戦略を構想したとはいえないだろうか?
* * *
最近の読書録は、ほぼ自分のためのノートのつもりで書いていますので、つまらなくてすみません。しかしこうして、今更ながら20世紀初頭の哲学史を勉強していると、20世紀の英米哲学を席巻し、いまやスタンダードとして君臨している感のある分析的な哲学潮流の源流に、若きコリングウッドもまさに居合わせ、彼らとは異なる、マイノリティとして運命付けられることになる道を歩んでいったことが浮かび上がってきます。
このような分析哲学の歴史の研究は、じつは1990年代からやっと本格化したというのが実情で、Candlishのような、20世紀における英国の観念論の再評価という仕事は、本当につい最近の関心であるといえます。HyltonもCandlishも、20世紀に余りにも分析哲学が標準化し、大学にもよりますが、分析哲学にあらずんば哲学にあらずという風潮まで生み出した、分析哲学偏重への反省を加えようとしています。また、当初はブラッドリー観念論の抽象性の分かりづらさを忌避し、明晰な哲学を目指して始まったはずの分析哲学が、逆に一般的にわかりづらい記号などを駆使した、極度にテクニカルなものになってしまったという反省も意図しているようです。いずれにしても、このような再評価の勃興の中で、20世紀前半の英国にあって頑なに主流の哲学を拒否し、独自のユニークな哲学を構想しようとしたコリングウッドの存在は、このような文脈からも、一顧の価値があるのではないかと思われます。