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書・人逍遥

日々考えたこと、読んだ本、印象に残った出来事などについて。

ウェールズの山

2008-02-26 07:14:30 | よろずレビュー
夕食に今夜は酢豚ならぬ酢鶏を作ったのですが、これを作るために必須の、小麦粉をまぶした肉を揚げるプロセスでかなり疲れ、今は食事を終えてほっと一息です。酢豚(鶏)をつくるのは今回で3回目になり大分慣れてきましたが、それでも開始から食事、片づけまで一時間半はかかり、一仕事終えたという気分です。でも、やはり料理はよい気分転換になります。

さて、中国帰国を間近に控え、やることのないフラットメイトのナンシーは、もっぱら中国お得意のネット動画サイトから映画などをダウンロードしては楽しんでいるようですが、どうやらネタが尽きたのか、私に何か面白い映画はないかと聞いてきました。私は近頃ふと思い出して気になっていた「ウェールズの山」(原題The Englishman Who Went up a Hill But Came Down a Mountain)という映画を勧めました。ここウェールズが舞台の、ヒュー・グラント主演の映画です。ちょうどいい機会なので、ダウンロードが終わってから私も一緒に見せてもらうことにしました。

内容説明についてはリンク先を読んでもらえればいいと思いますが、まず印象的なのが、登場人物たちのウェールズ訛り。余りに典型的で笑えるほどです。第一次大戦下の典型的なウェールズの小さな村の住民たちの英語はヒュー・グラントのイングランド英語と比べると実に特徴的で、これがWelsh Accentってやつかとはっきりと掴みました。じつは普段生活していると、余り生粋のウェールズ人に会う機会がなく、したがってイマイチウェールズ訛りというものの自分の概念が弱かったのです。これを何度もみれば、ウェールズ訛りに慣れるいい練習になりそうです。

次に驚いたのが、彼らの懸案たる「山」というのが、じつは我が家からすぐそばの山がモデルだったということです。彼らの村はTaffs Wellというのですが、これは何と、先日中国式旧正月に招かれたナンシーの友人の中国人主婦の方の家がある場所で、列車で10分くらいの場所です。そしてその集落のすぐそばの山がその山なのです。(実はこの映画の監督がTaffs Well出身だそうです)。

さて、そもそも何で私がこの映画が気になっていたかというと、もちろんウェールズについてだということもありますが、じつは、カーディフに来ることなどまだ予想だにしていなかった修士時代にその原点があります。修論に向けてナショナリズム関連の本を読み漁っていたときに読んだ本の中に『国民国家とナショナリズム』という冊子がありました。この本の筆者が、ナショナリズムのひとつの典型を描いた映画として挙げていたのがこの「ウェールズの山」だったわけです。

この映画では、Taffs Wellの村人たちが、一見どうでもいいような小さな丘(あるいは山)をめぐって、滑稽な、しかしちょっと切ないすったもんだを展開するのです。「この山はイングランドとの国境にあって、ウェールズに侵入してくる敵を防ぐのに大きな役割を果たしたんだ!」と。このような自分の生まれ育った場所への愛着は誰でも持っているものですが、このような極自然な人間の感情(Sentiment)こそ、ナショナリズムの源泉なのだろうと思わされます。そんな感情は通常、ナショナリズムよりも広い意味でパトリオティズム(某党風に訳せば愛郷心でしょうか)と呼ばれます。このパトリオティズムは、ただ単に故郷を懐かしみ、愛しているだけならこれと言って有害ではありませんが、これが外部の者への敵意と結びつくと、危険になります。「故郷を、同郷人を愛するがゆえに、敵に向かう」となりかねず、このような戦争のモチベーションは20世紀に大きな効果を発揮してきました。特にここ英国をはじめヨーロッパでは、共通のパトリオティズムの対象を共有するnationがひしめき合っているわけであり、歴史上しばしば戦いを交えてきたわけです。ゆえに、こうした意味でのナショナリズムはヨーロッパ人にとって、外部者が身近であるだけに切実なものなのです。

このようなパトリオティズムは、現代でもいまだ健在です。例えば、アイルランド出身のフラットメイト・ロバートは、アイルランドをこよなく愛し、そしてそうであるがゆえに、ちょっとナイーヴなほどにイングランドにかなりネガティヴです。サッカーやラクビーの試合は常にアンチ・イングランド、英王室にも懐疑的なわけです。だからこそ、nationとstateの区別が意味を成す訳ですし、nation=stateという概念はすぐれてヨーロッパ的だということができそうです。そして、こういった形のパトリオティズムは、日本ではなにか時代遅れのもの、あるいは素朴に過ぎるものとして一笑に付されがちですが、ヨーロッパではいまだに意外と根強いように思います。少なくとも言えることは、ヨーロッパにおけるナショナリズムは、前述のようなパトリオティズムという確固たる地盤に基づいているのです。

翻って日本の場合を考えるに、確かにパトリオティズム的な郷土愛はあるものの、日本の住民の大多数が自らを日本人とアイデンティファイして疑わない島国という状況では、そうしたパトリオティズムの対象は自分の生まれ育った街のような非常に狭い地域に限られ、郷土愛がそのまま日本への愛国心に昇華しません。むしろ日本人が「国」と言って思い描くものは、もともとは、「お上」という言葉に象徴されるような上部権力機構であり、なかなか自分の存在と重ね合わせるような対象になりづらく、むしろ両者は対立関係にあったのが現実でしょう。こうした日本のナショナリズムの現状は、日本が歩んできた歴史、地理的条件、民族構成などの諸条件のもとに醸成されてきたものであり、ヨーロッパのそれとは全く違う状況下で育まれてきたものです。にもかかわらず、今の自称「保守」政治家たちのように、法律を変えて学校で教え込むことによってヨーロッパ的なナショナリズムを作ることができると考えることは、余りにもナンセンスというか浅はかというか、バカバカしい試みでしょう。よくナショナリズム教育推進派が発する言い草の一つに、「欧米では国旗や国歌に敬意を払うのは当然」というものがありますが、何で自分の郷土愛(パトリオティズム)を考えるのに「欧米」と比較し模倣しなければいけないんだ?という感じです。日本人の欧米崇拝は、自国へのナショナリズムまで欧米式にしようとするほどに、骨の髄まで達しているということでしょう。(ってこんなことを言っている私は自称保守政治家より保守ですか?(笑))

まあ、いろいろ理屈を述べましたが、「ウェールズの山」はそんなことは抜きでもwelshnessを十分に感じられる楽しい映画でした。(ちなみに、最後まで見ると長たらしい英語タイトルの意味が分かります)

学問への情熱と大学

2007-08-12 06:10:54 | よろずレビュー
ここのところ、ネット動画でみつけた「白い巨塔」を、寝る前に少しづつ今更ながら観ていたのですが、昨晩全21話観終わりました。

このドラマは、大学病院を舞台に、里見と財前という対照的な二人の医師を軸としたさまざまな人間模様を描いているが、やはり山崎豊子の原作を土台としているだけあり、その辺のドラマとは比べ物にならない重厚な人間描写をしていた。単純な善悪二元論で割り切っていないところに迫力があったし、好感が持てた。

しかしながら、やはりもっとも私が関心をもったのは、大学アカデミズムにおける財前的なものと里見的なものの問題だろう。浪速大学医学部というのは日本の大学アカデミズムの典型的かつ極端な例だろうが、多かれ少なかれ、顕在的であれ潜在的であれ、未だに多くの日本の大学が抱える体質だろうと思われる。

若いときは誰しもがもっている学問的情熱・理想は、さまざまな要因で曇らされていく。まず立ちはだかるのは学者としての自立という課題であろう。大学に職を得るということは容易なことではない。限られたポストをめぐって院生たちは競争を強いられる。まずは学会発表・論文投稿によって実績を挙げることが求められるが、この段階でもさまざまな足のひっぱりあいがあることは想像に難くない。更に教授への取り入り、学会での人脈作りに浮き身をやつす者を少なくないだろう。これらは本来、自らの学問探求のために行われるはずだが、経済的な困窮のなかで、いつしか大学の職を得ることを渇望する余りに、それが目的にすり替わってしまうのである。

激しい競争を経て晴れて大学に常勤の職を得たとしても、その段階ですでに学問的情熱が擦り切れてしまっている人もいるだろう。こういう人びとは、「学内政治」に関心を移したり「教育」というエクスキューズのもと、凡庸なる大学人の道を歩むことになる。我が出身大学にも実に多く見られた人種であり、得てしてこういう輩が学内の実権を握っている。こうなるともはや彼らにとって学問は手段でしかなくなり、大学に留まるための「資格」と化す。この学問の手段化の防止は、言うは易く実行するのは実に至難である。そのうえさらに、家庭をもつことによって経済的・社会的責任が増し、安定を志向するようになると、学問的理想の追求はますます困難となり、たとえ学内に学問的良心に照らして問題ある事態があろうと、理想を声高に唱える「青臭い」主張はできなくなる。こうして事なかれ主義が蔓延していくことになる。

里見は言うに及ばず財前も、この点では学問的情熱を失った類の人間ではなかった。それは彼の死の直前、里見の前でのうわ言が示している。ではなぜ、ここまでの大きな違いが生じたのだろうか。ここには、財前のギラギラとした上昇志向という要因ももちろんあるが別の大きな問題が横たわっているようにも思える。それは、理想を追求するための手段の問題である。里見が常に自分の理想に正面から向き合い、常にその実現を追求しようとしたのに対して、財前はまずはじめに、その理想を実現できる権力を得ようとした。そのためには理想を棚上げすることも辞さなかった。往々にして組織の中にある人間が、その問題点を変革するために「上を目指す」という発想をするが、それに似ている。しかしながら、「上を目指す」過程では旧態依然たる組織の泥にまみれなければならず、さまざまなしがらみを背負い込むことになる。そして結局、力を得た頃には、そうしたしがらみで雁字搦めになり、身動きがとれなくなっているものである。はっきりとは描かれていないが、東教授はそういう人だったのかもしれない。このドラマでは、結局里見的姿勢こそが、無意味に見えて周囲の人びとを揺り動かしていくことが語られている。

その当否はともかくとしても、このドラマは、「自分にとって学問とは何か」、「自分は学問的情熱をたもちえているか否か」を不断に問い続けなくてはならないことを、改めて思い出させてくれたような気がする。

フルトヴェングラー:ベートーヴェン交響曲全集

2007-03-08 03:15:27 | よろずレビュー
中学のときにピアノをやっていた友達の影響でクラシック音楽に目覚めて以来、燃え上がっては下火になりまた燃え上がるということを繰り返してきた私のクラシック熱が、最近また勢いを取り戻していまして、先日表題の5枚組CDを衝動買いしてしまいました。別に自分が楽器をやっていたわけでもなくまったくの音楽音痴にもかかわらず…。

フルトヴェングラーは、3大巨匠と言われるくらい日本では有名らしく、私もよく名前は耳にしていたのですが一回もまだ聴いたことがなかったのです。一通り全部聴いてみての感想は、何となく、「マニア向けかも」というものでした。彼は20世紀前半に主に活躍した人なので、録音がそれほど多いわけではなく、また指揮法も現代の確立された指揮法ではなく独特のものだったそうで、彼の演奏からは現代のものとはかなり違った印象を受けました。私はカラヤンに慣れていたので、特に5,6番はフルトヴェングラーのスローテンポに違和感を覚えました。また、2、8番は音質がかなり厳しく(でも2番は残っている唯一の音源らしい)、普通に聴くなら別のものを買ったほうがよさそうでした。しかし、個人的には1、7,9番はとてもよかったです。同じ曲でも指揮者によってここまで違うんだということに改めて気づき、なかなか面白かったです。