夕食に今夜は酢豚ならぬ酢鶏を作ったのですが、これを作るために必須の、小麦粉をまぶした肉を揚げるプロセスでかなり疲れ、今は食事を終えてほっと一息です。酢豚(鶏)をつくるのは今回で3回目になり大分慣れてきましたが、それでも開始から食事、片づけまで一時間半はかかり、一仕事終えたという気分です。でも、やはり料理はよい気分転換になります。
さて、中国帰国を間近に控え、やることのないフラットメイトのナンシーは、もっぱら中国お得意のネット動画サイトから映画などをダウンロードしては楽しんでいるようですが、どうやらネタが尽きたのか、私に何か面白い映画はないかと聞いてきました。私は近頃ふと思い出して気になっていた「ウェールズの山」(原題The Englishman Who Went up a Hill But Came Down a Mountain)という映画を勧めました。ここウェールズが舞台の、ヒュー・グラント主演の映画です。ちょうどいい機会なので、ダウンロードが終わってから私も一緒に見せてもらうことにしました。
内容説明についてはリンク先を読んでもらえればいいと思いますが、まず印象的なのが、登場人物たちのウェールズ訛り。余りに典型的で笑えるほどです。第一次大戦下の典型的なウェールズの小さな村の住民たちの英語はヒュー・グラントのイングランド英語と比べると実に特徴的で、これがWelsh Accentってやつかとはっきりと掴みました。じつは普段生活していると、余り生粋のウェールズ人に会う機会がなく、したがってイマイチウェールズ訛りというものの自分の概念が弱かったのです。これを何度もみれば、ウェールズ訛りに慣れるいい練習になりそうです。
次に驚いたのが、彼らの懸案たる「山」というのが、じつは我が家からすぐそばの山がモデルだったということです。彼らの村はTaffs Wellというのですが、これは何と、先日中国式旧正月に招かれたナンシーの友人の中国人主婦の方の家がある場所で、列車で10分くらいの場所です。そしてその集落のすぐそばの山がその山なのです。(実はこの映画の監督がTaffs Well出身だそうです)。
さて、そもそも何で私がこの映画が気になっていたかというと、もちろんウェールズについてだということもありますが、じつは、カーディフに来ることなどまだ予想だにしていなかった修士時代にその原点があります。修論に向けてナショナリズム関連の本を読み漁っていたときに読んだ本の中に『国民国家とナショナリズム』という冊子がありました。この本の筆者が、ナショナリズムのひとつの典型を描いた映画として挙げていたのがこの「ウェールズの山」だったわけです。
この映画では、Taffs Wellの村人たちが、一見どうでもいいような小さな丘(あるいは山)をめぐって、滑稽な、しかしちょっと切ないすったもんだを展開するのです。「この山はイングランドとの国境にあって、ウェールズに侵入してくる敵を防ぐのに大きな役割を果たしたんだ!」と。このような自分の生まれ育った場所への愛着は誰でも持っているものですが、このような極自然な人間の感情(Sentiment)こそ、ナショナリズムの源泉なのだろうと思わされます。そんな感情は通常、ナショナリズムよりも広い意味でパトリオティズム(某党風に訳せば愛郷心でしょうか)と呼ばれます。このパトリオティズムは、ただ単に故郷を懐かしみ、愛しているだけならこれと言って有害ではありませんが、これが外部の者への敵意と結びつくと、危険になります。「故郷を、同郷人を愛するがゆえに、敵に向かう」となりかねず、このような戦争のモチベーションは20世紀に大きな効果を発揮してきました。特にここ英国をはじめヨーロッパでは、共通のパトリオティズムの対象を共有するnationがひしめき合っているわけであり、歴史上しばしば戦いを交えてきたわけです。ゆえに、こうした意味でのナショナリズムはヨーロッパ人にとって、外部者が身近であるだけに切実なものなのです。
このようなパトリオティズムは、現代でもいまだ健在です。例えば、アイルランド出身のフラットメイト・ロバートは、アイルランドをこよなく愛し、そしてそうであるがゆえに、ちょっとナイーヴなほどにイングランドにかなりネガティヴです。サッカーやラクビーの試合は常にアンチ・イングランド、英王室にも懐疑的なわけです。だからこそ、nationとstateの区別が意味を成す訳ですし、nation=stateという概念はすぐれてヨーロッパ的だということができそうです。そして、こういった形のパトリオティズムは、日本ではなにか時代遅れのもの、あるいは素朴に過ぎるものとして一笑に付されがちですが、ヨーロッパではいまだに意外と根強いように思います。少なくとも言えることは、ヨーロッパにおけるナショナリズムは、前述のようなパトリオティズムという確固たる地盤に基づいているのです。
翻って日本の場合を考えるに、確かにパトリオティズム的な郷土愛はあるものの、日本の住民の大多数が自らを日本人とアイデンティファイして疑わない島国という状況では、そうしたパトリオティズムの対象は自分の生まれ育った街のような非常に狭い地域に限られ、郷土愛がそのまま日本への愛国心に昇華しません。むしろ日本人が「国」と言って思い描くものは、もともとは、「お上」という言葉に象徴されるような上部権力機構であり、なかなか自分の存在と重ね合わせるような対象になりづらく、むしろ両者は対立関係にあったのが現実でしょう。こうした日本のナショナリズムの現状は、日本が歩んできた歴史、地理的条件、民族構成などの諸条件のもとに醸成されてきたものであり、ヨーロッパのそれとは全く違う状況下で育まれてきたものです。にもかかわらず、今の自称「保守」政治家たちのように、法律を変えて学校で教え込むことによってヨーロッパ的なナショナリズムを作ることができると考えることは、余りにもナンセンスというか浅はかというか、バカバカしい試みでしょう。よくナショナリズム教育推進派が発する言い草の一つに、「欧米では国旗や国歌に敬意を払うのは当然」というものがありますが、何で自分の郷土愛(パトリオティズム)を考えるのに「欧米」と比較し模倣しなければいけないんだ?という感じです。日本人の欧米崇拝は、自国へのナショナリズムまで欧米式にしようとするほどに、骨の髄まで達しているということでしょう。(ってこんなことを言っている私は自称保守政治家より保守ですか?(笑))
まあ、いろいろ理屈を述べましたが、「ウェールズの山」はそんなことは抜きでもwelshnessを十分に感じられる楽しい映画でした。(ちなみに、最後まで見ると長たらしい英語タイトルの意味が分かります)
さて、中国帰国を間近に控え、やることのないフラットメイトのナンシーは、もっぱら中国お得意のネット動画サイトから映画などをダウンロードしては楽しんでいるようですが、どうやらネタが尽きたのか、私に何か面白い映画はないかと聞いてきました。私は近頃ふと思い出して気になっていた「ウェールズの山」(原題The Englishman Who Went up a Hill But Came Down a Mountain)という映画を勧めました。ここウェールズが舞台の、ヒュー・グラント主演の映画です。ちょうどいい機会なので、ダウンロードが終わってから私も一緒に見せてもらうことにしました。
内容説明についてはリンク先を読んでもらえればいいと思いますが、まず印象的なのが、登場人物たちのウェールズ訛り。余りに典型的で笑えるほどです。第一次大戦下の典型的なウェールズの小さな村の住民たちの英語はヒュー・グラントのイングランド英語と比べると実に特徴的で、これがWelsh Accentってやつかとはっきりと掴みました。じつは普段生活していると、余り生粋のウェールズ人に会う機会がなく、したがってイマイチウェールズ訛りというものの自分の概念が弱かったのです。これを何度もみれば、ウェールズ訛りに慣れるいい練習になりそうです。
次に驚いたのが、彼らの懸案たる「山」というのが、じつは我が家からすぐそばの山がモデルだったということです。彼らの村はTaffs Wellというのですが、これは何と、先日中国式旧正月に招かれたナンシーの友人の中国人主婦の方の家がある場所で、列車で10分くらいの場所です。そしてその集落のすぐそばの山がその山なのです。(実はこの映画の監督がTaffs Well出身だそうです)。
さて、そもそも何で私がこの映画が気になっていたかというと、もちろんウェールズについてだということもありますが、じつは、カーディフに来ることなどまだ予想だにしていなかった修士時代にその原点があります。修論に向けてナショナリズム関連の本を読み漁っていたときに読んだ本の中に『国民国家とナショナリズム』という冊子がありました。この本の筆者が、ナショナリズムのひとつの典型を描いた映画として挙げていたのがこの「ウェールズの山」だったわけです。
この映画では、Taffs Wellの村人たちが、一見どうでもいいような小さな丘(あるいは山)をめぐって、滑稽な、しかしちょっと切ないすったもんだを展開するのです。「この山はイングランドとの国境にあって、ウェールズに侵入してくる敵を防ぐのに大きな役割を果たしたんだ!」と。このような自分の生まれ育った場所への愛着は誰でも持っているものですが、このような極自然な人間の感情(Sentiment)こそ、ナショナリズムの源泉なのだろうと思わされます。そんな感情は通常、ナショナリズムよりも広い意味でパトリオティズム(某党風に訳せば愛郷心でしょうか)と呼ばれます。このパトリオティズムは、ただ単に故郷を懐かしみ、愛しているだけならこれと言って有害ではありませんが、これが外部の者への敵意と結びつくと、危険になります。「故郷を、同郷人を愛するがゆえに、敵に向かう」となりかねず、このような戦争のモチベーションは20世紀に大きな効果を発揮してきました。特にここ英国をはじめヨーロッパでは、共通のパトリオティズムの対象を共有するnationがひしめき合っているわけであり、歴史上しばしば戦いを交えてきたわけです。ゆえに、こうした意味でのナショナリズムはヨーロッパ人にとって、外部者が身近であるだけに切実なものなのです。
このようなパトリオティズムは、現代でもいまだ健在です。例えば、アイルランド出身のフラットメイト・ロバートは、アイルランドをこよなく愛し、そしてそうであるがゆえに、ちょっとナイーヴなほどにイングランドにかなりネガティヴです。サッカーやラクビーの試合は常にアンチ・イングランド、英王室にも懐疑的なわけです。だからこそ、nationとstateの区別が意味を成す訳ですし、nation=stateという概念はすぐれてヨーロッパ的だということができそうです。そして、こういった形のパトリオティズムは、日本ではなにか時代遅れのもの、あるいは素朴に過ぎるものとして一笑に付されがちですが、ヨーロッパではいまだに意外と根強いように思います。少なくとも言えることは、ヨーロッパにおけるナショナリズムは、前述のようなパトリオティズムという確固たる地盤に基づいているのです。
翻って日本の場合を考えるに、確かにパトリオティズム的な郷土愛はあるものの、日本の住民の大多数が自らを日本人とアイデンティファイして疑わない島国という状況では、そうしたパトリオティズムの対象は自分の生まれ育った街のような非常に狭い地域に限られ、郷土愛がそのまま日本への愛国心に昇華しません。むしろ日本人が「国」と言って思い描くものは、もともとは、「お上」という言葉に象徴されるような上部権力機構であり、なかなか自分の存在と重ね合わせるような対象になりづらく、むしろ両者は対立関係にあったのが現実でしょう。こうした日本のナショナリズムの現状は、日本が歩んできた歴史、地理的条件、民族構成などの諸条件のもとに醸成されてきたものであり、ヨーロッパのそれとは全く違う状況下で育まれてきたものです。にもかかわらず、今の自称「保守」政治家たちのように、法律を変えて学校で教え込むことによってヨーロッパ的なナショナリズムを作ることができると考えることは、余りにもナンセンスというか浅はかというか、バカバカしい試みでしょう。よくナショナリズム教育推進派が発する言い草の一つに、「欧米では国旗や国歌に敬意を払うのは当然」というものがありますが、何で自分の郷土愛(パトリオティズム)を考えるのに「欧米」と比較し模倣しなければいけないんだ?という感じです。日本人の欧米崇拝は、自国へのナショナリズムまで欧米式にしようとするほどに、骨の髄まで達しているということでしょう。(ってこんなことを言っている私は自称保守政治家より保守ですか?(笑))
まあ、いろいろ理屈を述べましたが、「ウェールズの山」はそんなことは抜きでもwelshnessを十分に感じられる楽しい映画でした。(ちなみに、最後まで見ると長たらしい英語タイトルの意味が分かります)