いっぷく亭

ジョウカンおじさんの独り言。
話題になった事を時期遅れで書いて行きたいと思います。
皆様の返信をお待ちしています。

人間の本能・1、道徳起源論から進化倫理学へ

2005年01月30日 | Weblog


道徳起源論から進化倫理学へ
内井惣七

人間の持つ道徳が進化(自然淘汰)の過程で備わったものだという説です。
第一部 道徳起源論と還元主義
8 ダーウィンの仮想心理学
から引用すると

>簡単に言えば、社会的本能に反する行為を数多くおこない、後悔、自責の念、
>あるいはそのたぐいの感情を感じず、自分の行為パターンを他者の反応や利害の考察によってある程度規制できないような個体は、
>次世代に自分の子孫を残せる見込みを減少させ(生物学的に不利)、だんだん数を減らす。
>逆に、適切なしかたで「利他的」行動をとれる個体は生物学的に有利で数を増やせる。
・・・・・・・・・・
>ダーウィンは、多くのヒントを示唆しつつも、この論証は行なわなかった。
>しかし、20世紀の進化生物学の成果は、この論証が可能であることを示している。
・・・・・・・・・・
として働きバチの「血縁淘汰」、ダニ取り鳥の「利他的行為」などの例を挙げている。
さらに
11 行動生態学からの支持・・・・では
「道徳の素材となるような能力や心性」は人間に限らず動物全体に共通する事だと言うのである。
特に霊長類に至っては「道徳の萌芽」が見られる、以下のような・・・・

共感と関連した特徴

愛着、援助、感情の伝染

学習によって、能力に障害がある者あるいは傷ついた者に対して順応し特別な取り扱いをすること

心の中で他者と立場を入れ替える能力、認知的感情移入

規範と関連した特徴

指令的な社会的規則

規則の内面化と罰の予見

相互性

与えること、取り引きすること、復讐すること

相互的な規則を破った者に対する「道徳的」な攻撃

協調

仲直り、および衝突の回避

共同体への配慮、よい関係の維持

利害の対立を交渉によって調整する

・・・・・ドゥ・ヴァ-ル、F. (1998)『利己的なサル、他人を思いやるサル』
から引用されている

このように「彼らはほとんど人間と同じですよ!」と言う訳である。
この傾向は生物進化の中で・・・
>わずかずつの違いでつながる類似性の連続的なスペクトラムがあり、
>どこかで鋭く切り離すことはむずかしいという事実である

と言う事である。
私も道徳、倫理は感性であり先天的に備わっていると思います。
前回の 「なぜ人を殺してはいけないのか」 でも問題になりましたが、やはり本能的な事まで考えないと道徳心は説明できないと思います。
では一体人間の体の何処にそんな物がしまわれているんでしょうか?
是については又後日・・・。


人間性・3、「なぜ人を殺してはいけないのか」・・・・・・其の3

2005年01月28日 | Weblog
もともとこの問題は
一人の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と大人に問いかけた事が始まりです。
他の人も言っていますが問いかける年齢によって意味が違います。
大人の言葉だったらそんな事も解からないと顰蹙を買うかもしれません、中学生なら?4-5歳なら?
どの様に答えが違うのでしょう。

学校の今をタイムリーに伝える
>「人間とは何か」「人間は何のために生きるのか」というような根源的な問いに対しても、
>「教科教育」と同じ姿勢で教えようとしていたのではないでしょうか。
>このような領域の問題についても、模範解答を与え、正解を要求していたような気がします。
>そのために、生徒たちは教科の学習をしている時と同じようにこうした問題に対しても性急に正解を求め・・・・・

と有るように本来自分で掴み取っていかなければいけない事も答えを与えようとしてしまう。
しかしそれには教育関係者だけでなく、マスコミなども「教育がなされていない」等と非難する事もある。
現にこの問題が大きく取り上げられたのは、この質問に大人たちが答えられなかったと言う視点からでした。
こう考えると少なくとも答えを求めたマスコミ、識者は何も判っていないと言う事になりそうです。
若者の成長につれて 「なぜ人を殺してはいけないのか」と言う問いは何度も発せられる、しかし其れに大人が答えを用意してはいけないと言う事。
ましてもっと子供の場合は対応は全く違うはずであろう。

最新の脳科学は、子ども観をどう変えたのか

に有るように10歳くらいまでに決まってしまう。
「なぜ人を殺してはいけないのか」が理解できず平気で殺す様な反社会的性格が決まってしまうと言う事だろう。
では10歳以下の子供に「殺すな」と言って理解できるだろうか。
そこには別の根源的な育て方があるはずである。

第19回現代教化フォーラム
相互性の観念と幼児期の感情交流


>親子の感情交流を経験し、この感情交流を通じて相互性を学習していきます

この相互性(前出の共感に通じると思います)が身についていれば、この問いは成長して自問自答していくうちに理解できると言う事です。

最後に私の考えを要約します
「なぜ人を殺してはいけないのか」には答えはない。
人間が先天的に持つ理屈ではない感情だから。
それは本能的な根源を持つ「共感の能力」が発展したもので
共感の能力は幼児期の親子の愛情によって後天的に脳に定着する。
其の感情が道徳等を理解する能力となり「人を殺すな」となる。
従って自分で内省して「何故か」が解からないと意味が無い。
教師や大人が青少年のこの問いに答えを用意する事は出来ない。

以上です。



人間性・2、「なぜ人を殺してはいけないのか」・・・・・・其の2

2005年01月27日 | Weblog
今回は「殺すな」と言うメッセージが本能的に有るのではないかと言う事を調べてみたいと思います。

なぜ人を殺してはいけないか、という問い、および共感について

これはとても参考になると思います。
ここでは「共感の能力」と言う事が取り上げられている。
他人に共感する事が人を殺してはいけないと言う事に繋がる訳で。
この問題の答えで例えると
「君は殺されたくないだろう?」
「恐怖を与えるから」
に近い気持ちであろう。
その気持ちの出所が先天的なものであるという説。
その説の出所は『やわらかな遺伝子』(マット・リドレー著)であり。
人間のホルモンの中に共感の能力を左右する働きのあるテストステロンが有ると言っている。

私としてはそんなに簡単な物じゃないと思うが・・。
大変複雑な構造で先天的にホルモンとか遺伝子あるいは人の細胞の仕組み自体に、「共感」のメカニズムがあるのだと考えています。

更になぜ人を殺してはいけないか、という問い、および共感について
では
道徳感情論(アダム・スミス著)から
>共感の心を無視して利己的な欲望達成という側面のみから、
>道徳の根拠を引き出そうとしたって、それはどだい無理な話だ。

という事を読み取ろうとしている。
そして私がとても痛快で素晴らしいと思ったのは以下の文。

>・・・やはり共感の能力が比較的乏しいのかな、なんて感じてしまう。
>そういう人はえてして、「なぜ、人を殺してはならないの?」という問いに対して、
>事実関係や利害関係から説明してしまいがちだ。

私も思います、素直に「生まれつき人間とはそういうものだ」と考えないで、前に挙げた「効率やルールの理由で、明白な答えになっていると言う人たちは、共感の能力が少ないと。

最後になぜ人を殺してはいけないか、という問い、および共感について
では

>※ 共感の能力と、幼児期の育てられ方との関連を指摘した研究もありました。
>これについても、後日書いてみたいと思います。

と有りましたので、私もまねをして「育てられ方・教育」との関連を次回にしたいと思います。


人間性・1、「なぜ人を殺してはいけないのか」・・・・・・其の1

2005年01月23日 | Weblog
この問題はかなり評判になって面白い話題でした。
その発端は・・・・・・・・・・・
吉外井戸のある村
 M'S CLINICAL SOCIOLOGY
>1997年の夏にちょっとした「事件」があった。
>終戦記念日にちなんで、筑紫哲也氏がキャスターを務めるテレビニュース番組『ニュース23』(TBS制作)が企画・放送した
>「ぼくたちの戦争'97」という特集コーナーで、
>高校生たちが大人たちと討論する中、一人の高校生が大人たちに何気なくこの問いを投げかけたのだ。
>しかし、そこにいる大人たちはこれにうまく答えられなかった。
>その後、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えるかが各所で話題となり、
>ノーベル賞作家大江健三郎氏も朝日新聞に一文を認めた
>そこで大江氏はこの問いを発すること自体に不道徳を嗅ぎ取っている。
>つまり、なぜこのような問いを発してしまうのか、それこそが問題だと論じたのである。

「週刊電藝」text/金水 正
>『文藝』誌の1998年夏号で「なぜ人を殺してはいけないのか?」という特集が組まれている。

さらに本にもなった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奇怪としかいいようがない本
「なぜ人を殺してはいけないのか?」永井均、小泉義之 / 河出書房新社 / 98/10/23
>これを大江健三郎が朝日新聞のエッセイで取り上げて、そのような質問をすること自体がだめだと書いた。
>永井はこのような立場を批判する立場にたった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上の様な経緯で書かれた本があるということです。

・・・・・・さらに一般の私達がどう考えるかは

http://www.page.sannet.ne.jp/mikotan/sango/sango8.htm
教育者が子供の理解能力を過小評価するために物事の上辺だけのきれい事しか教えずに、その本質を教えてこなかったことにある。なぜ人を殺してはいけないかという問題にしても少し考えれば明確な回答が得られるはずである。

・・・・・・・・・・・さらに

教えて!goo等でも参考にすると色々の意見がありますが、
整理すると「なぜ人を殺してはいけないのか」についての答えが有るか無いかに分かれますが、答えがあると言う立場の意見が多い。
その答えを整理してみると以下の通り。

種の保存
群れ(仲間、家族)を守る為
自分を守りたいから
報復の連鎖を避けるため
共同体のルールだから
法律で決めたから
刑罰が怖いから
不利益になる
恐怖を与えるから
殺生はいけない
延命はしないで欲しい時もある
「神が禁じているから」http://takapan.nobody.jp/tbyk/t_nazehitoo.html

ちなみに私ジョウカンは答えは難しい、無いかもしれないと思います。
少なくとも明確ではないと思っていますが、その様な意見は少ないようですね。
では専門家の意見はどうでしょう

「なぜ人を殺してはいけないか」
古茂田茂氏と加賀乙彦氏との間の往復書簡
・・・・・・・・・・以下まとめると・・・・・・・・・・・・
古茂田茂氏
>突き詰めれば「殺すな!」という命令文に帰着するように思われます。
>一つ「神がそれを禁じておられるからだ」
>二つは"社会が滅ぴるから"
加賀乙彦氏
>なぜ人を殺してはいけないかという説明は、人を納得させるような論理では突き詰めていくとできないと私は思っています。
>「殺すな」は信徒集団や国民国家などの内部における禁則でしかなく、>外部(異教徒・敵国)に対しではしばしば「殺せ」という反対の命令がなされてきた
>人間の心の奥底には他人を殺してしまいたい、すくなくとも父親殺しのエディプス的な暗い衝動がひそんでいる
古茂田茂氏
>「殺すな」という内部規則をもたない社会集団は、諸とうた集団間の淘汰にさらされて自滅していった
>「殺すな」の客観的理由とは別に、それが一人一人の「私」にも納得しうる主観的理由が求められることになるでしょう。
加賀乙彦氏
>殺すなという禁止は、本能のように住み込んでいるのでなく、社会集団の戒律とか法律によって主観を制御されているということです。
>個人の主観も他人の主観との関係において、つまり言葉による相互伝達によって生きています。
>人間は幼いときから、集団の禁止事項を教えられてきました。人を殺すなは、もっとも大事な禁止でした。
>集団内部の戒律や法律を外部から流れこんでくる情報が打ち消しています。
>全世界で飛び交う殺せという言葉は雄弁てじょう舌です。
>人を殺してはいけないという言葉が、集団の内部で無力になり、
>外部からは打ち消されているのが現代の悲しい現実です。
>なぜ人を殺してはいけないかという理由は、じつは受け身で考えれば簡単でしょう。
>だれも殺されたくないのですから答えは出てきます。
>あの高校生には、ではきみは殺されていいのかと問えばよかったのです。>ただし、殺されるのは苦痛で恐ろしいことだと納得させる努力は必要でしょうけれど。
古茂田茂氏
>怒りや憎悪の前には必ず愛がある。
>社会的制裁(刑罰)という憤りや憎悪の表現は
>人間の愛の陰画的表現であるとも言えます。
>人を殺してはいけないという思いが実感として感じられない若者に対して>本当の意味で説得的な言葉がありうるとすれば、
>こうした愛憎のリアリティの了解をとおしてなのでしよう。
加賀乙彦氏
>愛さない人間を殺してもいいという、この世にはびこる言説かおかしい。
>愛するものも憎むものも殺してはならないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上

中々論点が煮詰まっていると思います。
ここで私なりに疑問があります、本当に本能に「殺すな」のメッセージは無いのかと言う事です。

以下・・・・其の2に続く

始めまして

2005年01月21日 | Weblog
色々と広い範囲に手を出して(口を出して)いこうと思っています。
目指すのは誰かこんな偏屈な考えに共感していただける人との出会いです。
勿論自分自身では偏屈とは思っていませんが50台の今まで「偏屈」とか「変わっている」とか言われ続けたので、素直を自認する立場から「素直でない」と言う評価を受け入れた訳です。