TA EIS HEAUTON

自省録。
自分自身という
最も手強い敵を相手に。

やっほいのこと。

2006年05月31日 | 日々是好日
ここの所、更新がまちまちなんですが、許してください。爆
近況報告とかやって言い訳します。笑

最近ですねー、
学校は講義とは関係なく、朝から学校行って夕方から部活、そいでそれが終わったら研究室にもぐりこんでの夜中の3時とか4時まで勉強してるんですよねー。
ご存知の通り(?)
僕は本当に眠れない人間なので、夜中に家でやるより学校の方が集中できるし、大学の喫煙所も1階に降りて外に出て、という面倒くさい感じなので、ベランダでタバコ吸いながら勉強するというアパートでよりはるかにはかどるんですよねー。
集中してやって一段落したら喫煙所というめりはりある勉強。
これをめりはりと言うのかは、謎です(ぷ)。

それでですねー
やっほい(!)とか、またこれ珍しく高めのテンションで更新してるんですけどね、今日は少しいいことがありました。高原が2点決めたこともそれはそれは嬉しかったですけど、もっといいことです、ワタクシ的に。笑

それは、フランス語のことなんです。
僕の研究室にはもう一人フランス史を専攻している人がいるので
負けず嫌いの僕にはもってこいの起爆剤なんですけど、そのおかげか
フランス語の文法を必死でやっています。
ブログではさぼってますけど、すいません。苦笑
それで今日、研究室でフランス語の文献を偶々目にしたので、どんなもんかなーーってすごく普通に手にとってみたんですよ。それでとりあえず、目を通してみることに…

あのね、
読めるんですよ。笑
大学院に入って、簡単なはずの教科書の仏文でさえ象形文字にしか見えなかったんですけど、いや、本当に意味がある人類の文とは思えませんでしたからね…。言うなれば、居眠りした後にノートに残されたミミズ文字のように。笑
そんなひょろり文字。笑
ところが今日は、普通に基本文型が見えるし、面倒くさい動詞の意味不明だった活用がわかるんですよねぇーー(!)もちろん辞書で引かないと分からない単語は山ほどあるんですけど、何となく意味が取れるようになったんですよ。しかも僕が目を通したその本はフランスの文献をコピーしたちゃんとした文献だったので、そういう所も含めて嬉しかったですね。

フランス語の教授も僕が一人で頑張ってるのをよく思っていてくれて添削もしてあげるからどんどんやりなさいって、嬉しそうに対応してくれます。この先生ホント見た目とか怖いし、声もフランス語似合うようなダンディーな声なんですけど、すげー怖いんです、なんか。
顔は目覚○しテレビの、カル○さんですけど。笑
それが少し怖いバージョンなんです。苦笑

更新も、時間作ってなるたけやります。
頑張ります、はい。

そして、高原まぢで、サ イ コ ウ。笑

取得と獲得。

2006年05月28日 | 日々是好日
1日を、無駄にすることもたまにはある。
だけど、無駄はない、No vainだと思っている。
人生には無駄なことはないんだと。
No venture,No gainとは少し違うけれど、
無駄も無駄ではないような気がする。
何かの自然法則のようなもので、その日をそうするためにある必然だったみたいなものなような気がしてならない。最近すごく疲れていて、夕方になると毎日のように激しい頭痛が続いていた。どうしようもなくて、薬を飲んで少し落ち着いてからまた勉強なりに取り掛かるという習慣。

昨日は、バスケ部の新歓があって、それでもやっぱり頭痛があって、そんなに呑んでないのに、♪呑みすぎたのは~あなたのせいよ~なんていうもんじゃなくって(笑)、とにかく頭痛がひどかった。で、多分すごい久しぶりに夜中から次の日の夕方くらいまで寝るという、偉業を成し遂げました。苦笑

もうすぐ6月で、2ヶ月だと思えばすごく短い期間なんだけど、12ヶ月のうちの2ヶ月、つまり6分の1を既に通過したんだと思うとすごく早い。
だんだんだんだん、この大学院での過し方というのが分かってきた。
眠れないとか、とにかくやってみるしかないとかいういかにも僕らしい不器用な、大きなリスクを犯してではあるけれど。だからそういう意味じゃやっぱりNo venture,No gain.なのかもしれないなとか思ったりする。

研究室には僕を含め3人の1年生と、1人の2年生が居る。
1年生は研究とかより、授業の予習なんかに追われているというより、なんだかあまり熱心に研究はやっていないけれど、2年生は修論に向けたりできりきり舞いというか、齷齪してる。僕は僕で、フランス語や自分の研究の文献を読んだりで切りきり舞い。
そういう温度差というのは確かにある。
昔からそういう温度差は、部活をはじめ色んな事から体験してる。
どうしてやらないのかなとか思ったりもしていたし、それで自分の努力を自分で決めて、努力の際限を規定していたように思う。いま、部活ではコーチという立場で色んな選手の姿を見て、努力の量と質の関係を改めて思う。

そして、今年からは週に5日の練習を4日に減らした。
体の休憩とか集中力とか色んなことを考えて。

なんだか、全然違う分野なんだけど、それでも共通するところはやっぱり色々と数え切れないほどあって、あ~やっぱり繋がりもあるし、自分のいまいる立場から何かを学ぼうとすれば、学べるものなんだなぁとつくづく思う。

今日ずっと休んでたのも何かのきっかけかなと、言い訳のように考えてみるのは何か汚い気がするんだけど、あー無駄にしたーって思うより、何だか目いっぱい休憩したから、今度からまた頑張れるような気すらする。

勘違いなのかそれは分からないけれど、
僕は昔から何だかそういう偶然のような必然がいつも訪れる。
無関係な事柄というものが、ない。
その結果、素敵なことも、辛いことも、ほとんど全て自分の記憶の中にある。何かを見出そうとかする、求めようとする、その姿がそうさせてくれているのかな~なんてよく思う。
日常的な表現にすれば、本とか映画とかCDとかは何かしらの手段で探そうとしたりするのと同じような気さえする。まぁ、ふとある時に見つけて「やったぁー」なんて時もあるけどね。それでそっちの方が何だかギャンブルみたいな感じで喜びがあるのかもしれないけど、僕はどっちかと言うと、一歩一歩進んでいくという不器用さだし、それにそっちの方が自分にはやっぱり合っている、そして好きだ。

力を尽くして狭き門より入れ。

最近、自分の事だけじゃなくって、自然の移り変わりとか、色んなものから何かを受容しようとする心が芽生え始めた。頭では分かっていた事もどこか説得力のないそういうことも、すごく感銘を受ける。

人には平等にそれぞれの環境に応じて、できることが目の前にある。
それを見過ごすのも自分次第だし、それを獲得するのも自分次第。
いろんな事を自分で獲得するために、生きる。
生きているってやっぱり素晴らしい事なんだなって思う。

花乱舞。

2006年05月27日 | 日々是好日
昨日、といっても木曜日のことなんですが、バスケ部の同学年の連中2人が練習に参加してくれて、その後久しぶりだったんで、ご飯食べに行ったんですよね。ま、同学年と言っても、一人は現役、僕は1浪、もう一人は3浪の3人で。笑

僕は大学の部活は、少しバカにしていたところが昔はあって、1年生の終わりころに入部したんですけど、僕の代の5人は本当に仲がよくって、共通して言えるのは、まじめ、ってこと。それだけが取り柄。笑
みんなはそれぞれ就職やら臨採教員やらやってるんで、僕だけ学生なんですけど、仕事のこと、彼女のこと、他愛のないこと、そんなことを長い時間、何の気兼ねもなくしていたんです。
気づいた事があって、友人の定義というのは分からないし、精神的に通じる人とか、僕がよく言うような深遠な心持ってる人とかってのを何となくですけど、定義してたんですよね。でも、こうして時間を忘れて、自分の押し込んでた気持ちとか、そのこと事態の悩み相談なんて一言も話してないし、話す気すら起こらなかったんですけど、すごく、気持ちが軽くなったんですよね。
ただ楽しいだけの時間も必要、そういうのとはまたなんか違って、お互いがお互いの近況とか色んなことを、隠したりすることもないし、冗談や毒舌で喋っていたりしても、空気の一部分みたいに気が楽でした。
部活をしていたころは適当な性格だったり、ナイーヴ過ぎたりしてて、「もー、何やってんだよ!」みたいに思ってたこともそれはやっぱりあるんですけど、僕がコーチをしているように、本当に自分達で作り上げるチームなんですよね、うちの大学。
低学年のころは、コーチの事、チームの事、そういったことを少しでもよくしよう、自分達の代ではいいチームを作ろうなんつって、毎晩のようにジョイフル通いしてましたから、色んな事をみんなで乗り越えたっていう所が、意識化であったんでしょうね。

僕が今大学でコーチを引き受けたのも、気持ちの中で紆余曲折はあるんですけど、結局は、自分が恩返しをしたいということなんですよね。
学校はすごく忙しいし、自分の研究で本当にきりきり舞いで、部活の時間がなかったらと思う事も本当はあります。だけど、僕がその中でも僕たちのころと同じように、みんなでチームの事を考えて、自分のやるべきことを一所懸命にするっていう事を心がけてるのがどこかで伝わってくれているから、逆に後輩の姿を見て僕も頑張ろうと思う事もあるし、僕から彼らに伝えられている事もあるんですよね。

でもこいつらとは、長い付き合いだから彼女の話とかも出て、僕はまぁなんとか今やブログで書かなくなってますけど、前の彼女の話も出たりで、ちょっとそこら辺だけは、「コラコラ、そこはなるべく触れない触れない…。」なんて思ってましたけどね。苦笑

やっぱり、さみしいですね、毎日。
ご飯を食べる時だって、ご飯の味を楽しむという『食』じゃなくて、ただ必要性だけのために食べている感じがあって、誰かとそうした時間を楽しむとか、自分の近況を誰かと話したりとか、そういうことができないですから。
こころに、ポッカリ大きな穴が開いたまま、人前では笑っていようと思うのは、少しだけ強くなったのと、少しだけ優しくなったからだと思います。笑顔でいることはやっぱり正直少し悲しい事でもあるなとも思います。
ただ、自分がこれまで嫌だと思っていた事、そうして顔に出ていた不快感も、例えば捨てられたゴミを見たら、自分が捨てれば問題ないとか、そういう多分当たり前の部分を、当たり前のようにできてきて、笑っていられるようになりました。

部活では当たり前の事を当たり前にやれよと後輩に言ってるわけですが、
こんなところで予想外の、共通点。笑
前の彼女のこと、自分の生き方のこと、コーチをしてからのこと、色んなことから学んで生きています。

なかなか僕自身が
納得できなかったりすることもあるんですけど、「振り向かない」ということと、「振り向いてみる」ということの大切さが、何となくあります。
ギヴ&テイクって事じゃなくて、人生の見返りを、努力の報いを、そう人は思ってしまうけれど、目先にそれが無くて、そのために悲しくなってしまうこともあるけど、その先にあるんじゃなくって、本当は自分の中にシッカリと刻まれていることを、改めて痛感しました。

雨と風の強い5月の今日。
その花乱舞は、僕に一枚の花びらを届けてくれました。

ポスター。

2006年05月25日 | 日々是好日
平日の街並みには、思っていた以上の波が、行きつ戻りつしていた。
波を掻き分けながら進む、僕の足取り。
行きたい店なんかないんだ。
何もしないのに、ただ波を掻き分ける昼下がり。

見たこともない海の中にゆっくり体をすべらせる。
時々、キラキラした水飛沫が僕の顔を、ぺろりと舐める。
時々、大きな波が僕を覆いつくす。
時々、ざぶんと波が押し寄せる。
へとへとになった僕は、やっと、浜辺に戻る。
へとへとになるくらいなら、初めから入らなきゃいいのに。

部屋に帰ると、貼り付けたマイケル・ジョーダンのポスターが、目に飛び込んできて、スラムダンクを決めるジョーダンの後ろには、たくさんの観客があんぐり口を開けながら見ていた。

知るはずの無い、人々。

こんなにたくさんの人が世界中にいて、僕は一人、この部屋で佇む。

毎日色んな事を考えて、泣いたり、頭を抱えたりしながら過す僕の日常なんて、誰も知るはずも無いんだと、当たり前の事を考えて部屋の方を見ると、真っ青なあおぞらに、ゆっくり一羽の鳥が飛んでいた。

僕はなんてちっぽけなんだ。

水道の蛇口を乱暴にひねって水を飲んだら、錆付いた鉄の味がした。

メッセージ。

2006年05月24日 | 言葉拾い
小さいころは神様がいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
おとなになっても 奇跡はおこるよ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ

小さいころは神様がいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱 ひらくときは今
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ

カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
           『やさしさに包まれたなら』



毎日毎日、僕は走る。
走って走って、自分すら見えなくなる。
それで、自分の事ばかり考えていると今度は
人の事が見えなくなるんだ。

よーいドンという合図は、いつ、誰が鳴らしたのか分からないのに
自分で走って走って、走っているばかり。
頭の中には、目の前を走る連中や僕を追い越そうとする連中のことばかりが思い浮かんで、そうして自分が先頭に立つとなんだか心もとない。

急に速度を落として、一緒に走る人に速度を合わせたりする。
目の前にはゴールも何もないのに、どうして僕は走っているのだろう。
頑張れ、頑張れ、という周りの声なんか聞こえずに、
ただひたすら前を向いて走っているんだ。

振り向くことなんかしないんだ。
僕の後ろには何も無くて、僕一人だけが、走っていたらどうするんだろうと不安がる。さっき、先頭を走っていた時は、得意げにゴールのない白線の外側を走っていたのに。

走ることを突然やめた僕に照り付ける、夏の日差し。
うつむいた先には真っ黒な、もうひとりの僕が張り付いて黙っているんだ。
さっきまで、頑張れと応援していたはずの観衆は、ざわざわしているばかりで、もう僕のことなど気に止めずにそれぞれの会話を楽しんでる。

隣の椅子に紫色の風呂敷に包んだ大きな弁当箱を置いている、テントの中のお母さんは、何も言わずに、ただ僕の方だけを見ていた。

朝早くから作った色んな種類のサンドイッチ、少し揚げすぎた唐揚げの匂いとプチトマトの甘酸っぱさと、お母さんの真直ぐな瞳が、僕をまた走らせた。

短距離走だと思っていた、ゴールがあるはずのない、長距離走。

走り始めた時と、ゴールする時だけをみんなは見守るんだ。
ついこないだ僕のことを好きだって言ってくれた女の子だって、隣の友達と喋っているだけだった。時々思い出したように、笑顔で頑張ってという彼女の声が、むなしく僕の耳を吹き抜けていくから、ギョウザを作った僕の耳には、貝殻に耳を当てたみたいな風の音だけが聞こえてきた。

ゆっくり目を閉じて、その音だけを聞いていたら、転倒した。
ドッと、周りから笑い声が聞こえてくるから、僕はまたギョウザを作って風の音だけを聞いて走った。

He is not。

2006年05月22日 | 日々是好日
君にこの悲しさを教えよう。

  HE is not what he was.
  (彼は昔の彼ならず。)

人の印象から、人は抜け出せない。
人の印象は、過去の自分を規定する。

いま、という瞬間は、無い。
過去の自分と、現在進行形の自分でしかない。
僕は誰かに、大体のイメージで規定された、自己だ。
君は瞳の中の、僕を見出さない。
いや、むしろ見出そうとはしない。


海の写真を見ただろうか?
海は陽の光の柱を投げかけていた。しかし、光はそれだけではなくて、それぞれの波がそれぞれの光と陰を持って、表面で浮き沈みしている。海中のゆったりとした動きを見ることはできない。
いや、見ようとはしない。

見上げてごらん。
重たい雨雲の上には、何があるかを。
何色の空がそこには広がっているのか。
人は、地上から見上げる現在進行形の雨雲しか、見ない。
いや、見ようとはしない。

夜の次には朝が来る。
光だけでは眩しすぎるから、陰をともなう。
陰だけでは進めないから、光を欲する。
どちらをも受け入れる昼と黄昏がある。

自然は無言のうちに、人間に語りかけているのを誰も知らない。
いや、むしろ知ろうとしない。

人は、あたかも写真という1枚のピクチャーで、僕を見る。
そこには、現在、しか存在しない。
ここにはないはずの、現在。
過去であるはずの、現在。
あるはずのない、現在。

僕は自分自身であろうと欲し、自分以外であろうと欲する。
He is not what he was.
僕は1枚のピクチャーであろうと欲し、
僕は1枚のピクチャーなからんと欲す。

あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
 見るには見るが、決して認めない。
 ・・・
 しかし、あなたがたの目は見ており、
 耳は聞いているから幸いである。

                マタイ伝13


人は、
僕が喋れば、うるさいと言う、
僕が黙ると、どうしたのと言う。

僕は、1枚のピクチャーでは、無い。

人を、規定しないこと。
人を、受け入れること。
人を、信じること。

自分自身であることを。

小さなモンテスキュー。

2006年05月21日 | 日々是好日
以前にも言ったことがあるんですけど、
ブログでは真実を、ミクシーでは普段の自分を、
そう割り切っていたんですが、どちらでも少しづつですけど
自分の真実というか、ブログで書いているような事を
最近書いているんです。

自分の弱い部分というのを人に言うという行為は、
とても勇気の要ることだし、一生のうち、その中のたったひとつでさえ
誰か自分でない誰かに言うことがあるのだろうかと思う事もしばしば。
友人というのは、結局自分自身の中の自分でしかないのか、と。
以前、母にこう言われた事がありました。

「自分の弱みを簡単に口にすると、社会では痛い目に遭うことがある。」

僕はこれは事実だと思うんです、それくらい社会は複雑だ。
でも僕が今、思っていることは自分の真理の何かひとつでも、思想として、
誰かに言う事、そしてそれを言う勇気、そして自分でない誰かと、
例えそれが一生のうちたった一人でも、分かり合えればと思います。
社会という単位、その大きさはよく分からないけれど、
そうした誰かと本当の友情や愛情を持つために必要なことは、
結局、そうした勇気であるとともに尊重でもあると思っています。

半信半疑。
自分の真理がたとえ誰かにその時伝わって、その後いつか忘れ去られてしまうということもあるかも分からない、いつかのもがいた自分の誠実さというものが生き辛いわずらわしいものとなって、不要なものとなってしまうかもしれない、そう思ったとき、果たして自分の希望や勇気は何だったのだろうという虚無、絶望を見るかもしれない。
怖い。
反面、信じたい。
今、僕の心の中のある告白は誰かの胸を打つ。
本物の言葉は、人の感情に触れる。

神に問う、無垢の信頼心は罪なりや!
太宰治が『人間失格』で弱々しくも呟いた言葉を、現時点での僕は
力強く、神に問う。
信じて敗北することに悔いは、無い。

やさしくなりすぎてしまった自分という、現在。
苦しいことばかりが思い起こされてしまう、過去。

本当に笑っていられる人は強く、そして瞳は悲しさを持つ。
光と陰の交錯する自己を、理解してあげること
光だけでは眩しいもの
陰だけでは光を欲するもの
自分の中の喜びも悲しみも、自分で見つめ、受け入れ、
人生は自然の動きと同じように一体となる。

昼の光と夜の闇、重苦しい雨雲とその上にある青空。
自然は僕たち人間に、無言のうちにある真理を伝えてくれている。
僕たち人間は進むこと、大きくなることにばかり目を向ける。
自然は、花を咲かせ、花を枯らし、また芽吹かせる。
自然は山を岩を大きくし、そして風化させる。

光と陰。
僕はこれを今胸に抱いて、今日という一歩を踏み出す。
僕の後ろにある道は僕の歩んだ道だ。
これからどうゆう道を辿るのか分からないけれど、
自分の残す道のりを、生きた証として、生きる。
生き、切る。

雨からのいい知らせ。

2006年05月19日 | 日々是好日
あいかわらず、じとじと…。
だから、じっとしてます。ハイハイ 笑

昨日からの頭痛が本当にひどくって、朝方もう一度寝たんですけど
なんだか眉間に皺が寄っちゃいますね、いまだに。鬱
雨だからの偏頭痛なんだったらまだいいんですけど、
僕は頭痛というのが頻繁に起こるので、もう何だかなという感じ。

病院に行っても、僕は昔から原因不明ですねぇ…としか言われない。
血液検査やら何やらいっぱいするのに原因不明。笑
だからもう何だか自分でゆっくり休むとかしたほうがいいなって。

朝起きると、物凄い雨音と雷の音がするもんだから、外に出たくないです
といういつもの症状が出ました。笑
しかも、顔もなんかじとじとしてて気持ちが悪い、歯磨きもしたい。
だから何だか、じっとしてれない。ハイハイ 笑


学部の頃の友人で、
今、法科の大学院で弁護士を目指してる友達がいるんですけど
電話がかかってきて
「あれ、飯食い行かない(?)ってメールしたんだけど…??」
って、久しぶりに連絡が来ました。
彼はなぜだか電話の声だけで、僕の体調の良し悪しが分かるみたいで
「だいじょうぶぅ~??」
と、若干笑いながら心配してくれます。笑

4限の講義まで休んでいたかったので、確かに雨だからという理由も(笑)
飯食いには行かなかったんですけど、電話をちょっと続けました。
学部の頃、男と女10人くらいがわりと仲が良くて飲みに行ったり、
そんな事をしてたんですけど、この友達はそのうちの女の子に最近
会ったみたいで、僕の体調があまりよくない事言っちゃったらしい。苦笑
「え~!またかぁ~!!」
という当然のリアクション。苦笑

でもね、少し嬉しかったんですよ。
自分の知らないところで誰かが悪口じゃなくて、心配してくれてたり
気遣ってくれてると思うことが。
今じゃもう連絡もとらなくなってるし、多人数で仲がいいけど、
個人的に友人と呼べるんだろかと思ってることもあったんですけど
やっぱり嬉しいんです。
法科の友人だって、歳は1つ下だし、話しをしててまだちょっと甘いな~
とか思うこともあったりするんですけど、彼は弁護士になるために
頑張っているし、きっと勉強自体が辛くなる時も多々あるんだなって思う。

僕をご飯に誘ったのも、息抜きだけじゃなくって
僕もまたある目標にむけて頑張ってるから、
たぶん同じように頑張ってるから、少し癒しと勇気がほしんだと思います。
僕もそういうとこは実はあるんですよね。
大学で飲み友というか、そういう人はこいつだけで、
たまに男2人で行くんですけど、最近はお互い気を遣ってるのか
飲みにいかない??なんて連絡を取らなくなりましたね。
喫煙所でたまに見かけて少し喋る程度なんですよ。

だから、
「週末とか時間あるとき、息抜きに飲みに行くが★」
って言ってみました。
時にはこういった偶然のやり取りだけで嬉しくなったりする。
ただの自己愛なんだろかと思ってしまうときもあるけど、
暗にですけど、お互いの弱い部分の共有だったり、
お互いを気にかけるよな面持ちを伺いあえるのがいいことだなって。

自分が変わろうとすれば、少し見方が変わるものだなって。
感情が少し軽くなるなって、そう思えてます。

雨でじとじと、僕はじっと、
そんな日々でもいい事があるものですね。笑

そんな『大切な友』という仏語は

   cher ami

シュー・ラミ(シュール+アミ)と読みます。
手紙や呼びかけるときに使うみたいですよ。
仏語は形容詞が名詞の後に来るか前に来るかで意味が違うんです。
cher(シュール)は、後につけたら、高価な、という意味もあるので、それくらい大切なというニュアンスが伝わってきますね。

雨降って地固まるよね。

2006年05月18日 | 日々是好日
朝から昼にかけて晴れてたから、
おッ!
とか思いつつも、相変わらずの雨模様。

じめじめしてすごく気持ち悪い。
僕は雨の日には偏頭痛(?)がひどくなるから苦手
という、相変わらずの病弱ぶり。苦笑

部活、今日からまた再出発ということだったんですが、
哲学の講義を受けていたから1時間遅れていきました。
どんな練習してるんだろうなぁ~とか期待しつつ行ったんですけど
本当にビックリ!しました。

人数の多さに。笑

4年2人、3年2人、2年がたくさん、1年3人という少人数な
部活動だったんですけど、1年生が今日から3人もきました。
すごく、多く感じるんですよね、たかが3人といえど。
とまぁ~
本命の期待していた練習の方なんですけど、
頑張ってはいるんですけど、意識的なレベルで少し残念だなぁと。
やっぱりこの前、悔しいとかかっこわるいとかそういう目に
会った訳だから、今日までに色々考えて乗り込んできて欲しかったなって。
少し残念。
細かい事も色々あると思うし、きつい練習もある。
そういう時、いつでも同じようにできるようになってなくちゃいけない。
そういうレベルにまでなるのは、“意識”を持って継続してやるしかない。

僕が言うのは簡単なんですよね、誰でもするようになる。
でも、自分で気付いたり、自分で発見したりするような目を養って欲しい。
あくまで僕はみんなのアシスト。
黒子役。
もう慣れてるんですよ、そういう作業。

だけど、もうちょっとみんなに頑張って欲しいから、
ちょこちょこ口を挟みながら、こんなとこでも願ってみる。
いいチームなんだから、頑張って欲しい。


今日はちょうど、頭が痛いのでこんなので

   J'ai mal 'a la tete.

ジュ エ マラ ラ テット。
『頭が痛い。』

Ⅰ have a headache.みたいなもんですね。

あ~ほんと痛い。鬱

雨のち晴れ。

2006年05月17日 | 日々是好日
春らしい天気が今年はなかなかなくて、
五月雨と言わんばかりに、雨ばっかりで肌寒い今日この頃。

フランス語をずっとやってきて、単語が分からないとか、簡単なテキストの文章すら、りあるに象形文字ですか…と、気が遠くなるよな感じだったんですけど、最近ちょっとずつだけど、フランス語がちゃんと文型をもった言語として何となくですけどね、読めるようになってきました。いぇぃ

中学校の時とかに、Ⅰ-my-me-mineとか、現在形と過去形と過去分詞とか言って、動詞の活用で変化するとか色々あったのを思い出して、クラァ~…となったのを思い出すんですけど、ここんところフランス語のそういうとこで躓いてたんですよね…。
もう、ハイジ~とか叫びたくなるんですけどねコレ。笑

やっぱり原則とかそういうのがもちろんあるからコツさえ掴んで慣れてしまえばこっちのもんだよみたいなとこあるんですけど、何せ今年中には読める力付けなきゃとか、余計にプレッシャーがある分だけ焦ります。
当然なのかもしれないけど、卒業単位のためにとらなくちゃならない授業とか、そういう講義の予習、しかも英文の読解とか、部活のコーチしてて時間がすごい押してるよとかで、自分の中で、
あー!!研究とフランス語だけさせてよー!!
みたいな叫び声があって、なんとなく歯がゆいんですよね、正直。
今やってる色んな事が無駄ではない事も理解しているし、
むしろ自分の人生にとってはプラスの働きになるかもしれないよな…
そんな風に思ったりするにはするんですけど、
やっぱり、これに絞って集中してやりたいなぁ~と思うから。

僕は負けず嫌いなところもあるから、
他の人よりもっと頑張んなくちゃ!!
とか思って勝手に自分でプレッシャー作ってしまったりするんですけど、
でもやっぱり、頑張らなくちゃというところに帰結するんです。

体にまとわり付いてる劣等感が嫌で嫌で、もがいています。
優越感を得たいわけじゃないんですけど、自分の研究する時に
ある程度心に余裕を持ってなきゃうまくやっていけないな~とか
考えたりするわけで。

勉強の事だけじゃなくって色んなことにアンテナを張って無くても
いつの間にか受信されてるみたいな状況があって、しがらみのようなもの
がやっぱりあります。

母の日に、お母さんに電話をしたとき、声が少し疲れていました。
毎日仕事があって朝から夜遅くまで働いていて、
多分僕が就職してたら、お母さんだって仕事をやめるとか、
他に生活レベルを持てる程度の仕事に就くとかできてるんでしょうけど
僕が大学院に行くといったから、まだきつそうに働いている。

一方、僕はといったらちょっときついと逃げようとしたり、
今日はいいかな…とか心に隙ができたり、そんなことばかり。
有言実行をしようとすれど、負けそうになる自分に出会う。

激しい雨に耐えなければ、その後の虹の美しさだって色あせる。
雨のち晴れ。
そんなことは分かっているから、
雨に耐えていく自分の姿を見出さなくちゃいけない。

フランス語は段々いい方向に向かっている。
いつかまた壁が見えるのだと思うけど、またそれを乗り越えていけばいい。
どんどん高く登っていくんじゃなくて、一歩一歩しかり歩んでいく。
間違った高さにあるのならいっそ、そこから飛び降りる勇気を。

自分に魔法の言葉をかけてみる。

がんばれ、たくみ。

自問自答、それでも道を開いていかなくちゃならない。
だから頑張ろうと思う。

Un certain sourire.

アン・セルタン・ソリール。
ある微笑。フランソワーズ・サガンの作品の一つ。

太宰の、『正義と微笑』を思い出す。
頑張ろうしか最近言っていないけど苦笑
やっぱり、頑張ろう、そう思う。