TA EIS HEAUTON

自省録。
自分自身という
最も手強い敵を相手に。

稼動。

2009年08月23日 | 着想

考えても仕方がない。考えても無駄だ。
そんなことはない。
行動しても、いつかつまづく。山あり谷ありというじゃない。毎回毎回さ、考えるより行動しなきゃ意味がないってばかり言ってたら、成長しないとか、学習しないって言われるよ。そう言われたら、いや、経験があるから大丈夫だとか何とか言うけれど、人間て忘れるんだよ。それを見ないふりして言い訳してるだけなんじゃないかな。考えても忘れるわけだよ。やっぱり、考えて、行動して、また考えて、そして行動する。その繰り返しなんじゃないかな。これでいいかな、駄目なのかな、でもこうやるしかないって具合にしてさ。そうじゃないとやっていけないじゃないか。人間がどうやって進むかって、自分のやってることに自信を持つとか、自分を正当化するとか、そんな風にしないと、生きていけないじゃあないか。考えて、悩んでしまうのは悪いことじゃないと思うな。悩んで発狂したり、病気になったり、自殺したり、それはそれで仕方ない。それはその人たちの結果であって、考える過程でいろいろあるんだろうからさ。君が何と言おうと、僕は考える。考える人なんだから仕方がない。考えるという行動さ。

花を埋める。

2009年08月21日 | 着想

 私が今現在持っている考え方とか、共感感覚とか、不満感とか、そういうのはこれから先いったいどうなるのだろう。今までのことを考えてみる。そうしたら、私は10位も前から考えていることは大して変わっていないんだ。何かが変わったといったら、世の中というものがだんだんと分って来て、知識というのか知恵といったらいいのか、なんだかとにかく世の中が分って来たというくらいで、私という人間は何も変わっちゃいないだ。むしろ、世の中が分って来るにつれて、いっそう私の考え方がまっとうな気がして来て、不満も共感も、熟成されたみたいに色濃くなって来たくらいだ。それなのに周りの人たちは、世の中がわかって来るにつれて、段々と自分の考え方が間違っていたみたいに、世の中がやっぱり正しかったですみたいにして、どんどんどんどん俗っぽくなっていくような気がする。現実的といったらいいのかしら、理想はダメで、現実が良いみたいな格好になっている。それならそうと、子どもたちの夢は奪っちゃ駄目だとか、子どもに夢を与えるだとか、最初っからそんなこと言わなけりゃいいんじゃないか。私にはそう思えて仕方がないんだ。

亜種。

2009年08月09日 | 着想

1.
 わたしたちはみんな、見てしまったらおかしくなってしまうくらいに、自分を失いそうになる「見ないもの」を持っている。見たくないのではなく、見たいけど見たくないのだ。見たいのではなく、見たくないけど見たいのだ。そうして、口を突いて出る言葉は、嗚呼。そうして、振り絞るような心のうねりは、隙間を見つけて、わたしを苦しめるんだ。わたしたちはみんな、自分のバランスを保つだけで、本当は精いっぱいに違いないのだ。それなのに、あれやこれやと、「わたし」の反対にある天秤台の上にのしかかってくるから、「わたし」がどんどん軽くなって行く。ああ、見たい。見たい見たい見たい。でも、見てしまったら……。嗚呼。
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2.
 「不治」の病の患者みんなが覚悟していることがある。この病を治すために、わたしの髪の毛が全てなくなってしまうかもしれないということを。
前社会の病を治すために、「現代」はある画期的な薬を投与したと確信した。わたしたちは気付いていなかった。否、気付いていないふりをしていたのかもしれない。だって、芸術だって哲学だって、小説だって音楽だって、この病の副作用を表現していたのだから。教科書や頭で理解する以上に、わたしたちの感情は知っていたのだ。みんなが、理性だ知性だと言っている間に、わたしたちの感情は、まるで悪者ででもあるような扱いを受けてきた。
副作用患者たちは街をさまよい始めた。色とりどりの洋服を着た。さまざまな音楽を創り、聴いた。たくさんの文学を書き、読んだ。それでも、患者たちはあることに気付いた。どこにも本当がない。あれ、みんなどこか同じだぞ。わたしがあそこにいる、おや、こっちにもいる、と。
「病」を治した「健全者」は口を開いた。「お前たちはいったい何をしてやがるのだ」と。