徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

2016 足尾銅山 小滝抗跡-2

2017-10-01 00:51:11 | 足尾/足尾銅山
以前書いた記事から大分 日が経ってしまいました。>>2016 足尾銅山 小滝抗跡-1


小滝抗の上に石垣と平地らしきものがあるが・・


調べてみると抗夫長屋が昔あったのだ。こんな高いところに・・この辺り平地が少ないのと仕事場の近く・・という事で仕方なかったのか。

文献(足尾銅山 小滝の里より:ユーコン企画)より

明治二十一年五月、急死した木村長兵衛ののち、坑長(鉱長)となって釆山した木村長七は『木村長七自伝』で「そして好況の際は本山(坑)六に対して小滝(坑)四という比例にまで進展したのです」と述べている。更に、木村長七は部下の清七や未次郎の活躍をたたえたのち、「・いよいよ、小滝坑
(開発)ということになり、及川が掘立小屋を造った頃は獲がたくさんおりまして、度々食料を取りに釆たものです。(…或る時私は巡回の途次、小滝の及川氏の掘立小屋に立寄り、持参の弁当を食べようとしましたところ、及川氏が一寸待ってくれといって、釣り竿を持ち出し、谷へ下りてヤマベという魚を沢山取ってきて、私の御弁当の莱にすすめてくれたことを記憶しております…)と当時の小滝を回顧している。
 
当時、及川清七は抗夫長として数十名の抗夫を小滝に伴っており、その中には木村太郎吉や小柳末造、末太郎親子がいた。
彼らは今の象山の小尾根が庚申川に突き出て、絶壁の下部に洞窟を作っている小滝抗の対岸あたりに、掘立小屋を建てて住んでいた。やがて明治二十二年には抗夫三百六十人、鉱夫五十六人と増えて、抗夫飯場が当初は1号から9号まで、その他の鉱夫飯場と共に象山の山麓の北夜半沢その他に出来た。

その中で小柳末造は二号飯場を小滝抗の真上の高い山腹に開いた。ここは抗夫たちが住むようになり、石段と石垣を築き、その上に長屋が建った。後年の写真で見ると、一段目一棟、二段目二棟、三段目と四段目は三棟、五段目は二棟となっている。
二号飯場には小滝飯場中最高の七十八人の抗夫がいた。頭役は当初 小柳末造で、すぐ後を継いだ小柳末太郎が明治末年まで長く勤め、大正初期には小柳末吉に跡を譲っている。親、子、孫と三代に渡る世襲の飯場頭であった。
この地区は二号飯場名にちなみ続に二号(長屋)と呼ばれ、高台なのでここに行くには庚申川にかかる山岳橋の手前より、ジグザグコースの息切れのする山道を登らなければならなかった。





「小滝坑の坑夫達は、仕事を終えると何よりも先に、身体の汚れを流し疲れをいやすためにこの「お風呂」に入った。
さぞ四方山話で賑わったであろう。」 日光市説明版
鉱運橋から小滝の坑口に至る川沿いに、コンクリートの浴場跡が残っている。何時ごろ作られたものだろうか。


周囲を楕円形の浴槽が囲み、中央には大小の上がり湯槽という造り。この楕円形の浴槽は本山坑の遺構跡にもみられるが意外と小さい。
大人数は無理だから、抗口から出て、体の汚れをさっと流して、飯場に戻ってから共同浴場でゆったり汗を流したのだろう
風呂の燃料には資源の有効活用のため銀山平製材所のオガクズを利用していた


浴場跡の北側には坑内に空気を送るコンプレッサー室の防音壁が残っている



大正時代に入ると坑内では削岩機が使用されるようになる。大正5年に抗口手前にコンプレッサーと呼ばれる空気圧縮機2台が設置された。圧縮された空気が坑内に送風され 削岩機の先に取り付けられたタガを回転させて 岩に穴をあける用途なとに使われた。 空気圧縮機(送風機)はインガソール機て五百二十二馬力あり 日本の鉱山中最大のもので削岩機による機械掘りは手堀りの数十倍の能率を上けた。昭和に入ると手堀り坑夫は姿を消した
小滝圧搾機關場
明治中期  撮影場所:小滝
小滝のコンプレッサー室内。コンプレッサー室は小滝の浴場付近にあった。高圧空気をつくる装置。坑内に送って削岩機を動かした。


「わたしゃ足尾の坑夫の女房、「しき」をこわがる子は生まぬ」と歌われているように足尾では坑内を「しき」と呼んでいる。一方、坑外を「おか」と言った。坑内の見張員が『しき』の気温は何度位ですかと聞くと『しっぱちど』ですと答える。その後二、三カ月経てまた同し問をするとやはり『しっぱちど』ですと答える、と述べている。『しっばちど』とは、摂氏十七度~十八度(華氏では二十度前後)を意味していた。坑内は真っ暗で夜と昼の区別もなく、春夏秋冬の寒暑の差もない。一年中一定した適温である。そのため夏は涼しく、冬は暖かい。しかし、仕事は危険で怪我が多く、「よろけ」にかかり易いという不安もある。真っ暗な坑内でカンテラの明りを頼りに、明治時代には右手にセット左手にノミを持ち、いわゆる手掘りで穴をあける。穴に詰めたダイナマイトを爆破させることを発破を樹けるというが、こういう方法で鉱脈を崩して鉱石を採掘した。

切刃(セットウ)作業:切刃とは、タガネとハンマーの総称。明治から大正にかけては 坑内の近くにノミ(タガ)の焼場があり 手掘り坑夫のタガの修理は日常の坑夫の仕事てあった。
採掘作業を撮影したものだが、二人が上下に位置して作業は危険であり、明らかに作業の再現である。 カンテラがカーバイトに変わっているので大正時代後半と推測できる。カンテラの使用は日本初、ジーメンスから導入した。ジーメンスとの深い関係は、銅の輸出によるところが大きい。最初、カンテラは急須状で、鯨油やナタネ油を入れていた。大正後半からカーバイトランプを使用、昭和はバッテリーになる。
 レールはトロッコのものである。トロッコも日本各地に先駆けて足尾で実用化した。
足尾銅山坑夫坑内手掘操業(新田書店発行) 撮影時期:大正時代後半


撮影期 明治38年以前
日本で初めて使用した削岩機。パイプの1本は水、1本は高圧空気。水を噴射することで粉のような岩石が飛ばないという工夫である。



大正4年(1915年)、Safety Firstの概念が「安全専一」のスローガンの下で導入され、笠型の保安帽と防塵マスクの着用が始まった。靴にも改善がみられる。 削岩機に1本は圧搾空気、1本は水のホースがついている。水の粉塵対策で削岩能力は低下した。
 写真の左手のバール状のものは削岩機の交換用先端部、中央奥には天井の崩落を防ぐ可能式の鉄柱である。


撮影時期:大正3年(1914年)  撮影場所:坑内
大正3年(1914年)、国産の足尾式削岩機ができる。輸入した大型機と違って小型、軽量。一人で使用できる。水が出ず粉塵対策がなかった。作業員はマスクで対応している。パイプは高圧空気専用である。この後に水で粉塵防止をするタイプもできる


坑内の運搬は鉱車軌道を当初は人力や馬力に頼ってきたが 明治三十年からは主要坑道は電気機関車を使用した。 なお、六百m以上の手押し運搬距離を大正十四年からはガソリン機関車が使用された。いずれの使用も全国の鉱山に先駆けて行われた 更に 本山坑(有木坑)と小滝坑は坑内迂回路で連絡されており当初延長3250mであったが 明治四十年には小滝から有木坑まて一直線に近く(2150m)に短縮されたのは一大革新である。
 坑内夫(坑夫 支柱夫 進削夫=削岩夫 その他坑内で働く車夫 運転夫 沈澱夫 線路夫 石工 手子を含む)の勤務時間は三部制(三交共制)で 一ノ番(一の方)は午後11時出勤て翌朝の七時まで 二ノ番(二の方)は午前七時より午後三時まで 三ノ番(三の方)は午後三時より午後十一時までであった。 仕事の都合で時間外になること続番といって 手当とおにぎり弁当が支給された。
文献引用(足尾銅山 小滝の里より

コンプレッサー室の防音壁の付近にも、石垣が高く積まれた平地部がある


道を挟んで、庚申川対岸の、小滝抗口正面の岩盤むき出しの部分は通称“燕岩”と呼ばれていた。
道路に面した部分が大きくえぐられ、前面を鉄格子で囲って火薬貯蔵庫としていたことが判る。


現在は煉瓦構造物が残っている。なお、燕岩の頂近くに、銀山平製材所と小滝停車場を結ぶ第十索道(明治三十五年開設)の索道用トンネルがあるらしい


弾薬庫の横には削岩機での試掘の跡が沢山残されている。


タガによってあけられた孔穴。おそらく先輩に教わりながら、あるいは自主的に削岩機の練習をしたのだろう。




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