2015 6/10 茨城県笠間市友部 筑波海軍航空隊跡地
阿見町の予科練平和記念館 の帰途に、ここに寄った。 閉館5時まで後30分しかなかったが入ることにした。
茨城県笠間市にある県立こころの医療センター敷地内及びその周辺には、旧筑波海軍航空隊の司令部庁舎、号令台、地下戦闘指揮所、滑走路などがほぼ当時のままの状態で残されている。ここはかつて、陸海軍が行った体当たり攻撃(特攻)の実行が最初に決められた地、すなわち特攻発祥の地ということだ。この航空隊は昭和9年(1934)に霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊として開設され、昭和13年(1938)に筑波海軍航空隊と改称される。多くの若者が
この地で訓練を行い昭和20年(1945)太平洋戦争終了と共にその役割を終えた。戦後、跡地は戦後、学校から病院に変わり、現在もその姿をとどめている
司令部庁舎(現:筑波海軍航空隊記念館)

映画『永遠の0』の公開を記念して、2013年12月20日から期間限定で記念館として公開

戦時中の司令部



当時のままの姿で前庭に残る号令台

戦時中、号令台前を行進 後ろは現在しない兵舎

記念館の中へ

93式中間練習機(赤トンボ)の座席とタイヤ

99式艦上爆撃機の主輪ホイル

7つボタンの士官服

零戦21型の胴体部分後ろ約1/4 南方戦線で米軍が捕獲したものの様だ

航空機機銃・機関砲の薬莢

航空兵の服装装備

アメリカのP&W空冷星型エンジン。戦後日本の練習機に搭載されていたもののようだ

昭和時代の懐かしい庶民の部屋を再現してあります。ちゃぶ台が・・

赤とんぼの木製プロペラ

2階の廊下

永遠の0 が映画化(H25.12.21公開)され、主人公が筑波海軍航空隊の教官だったという設定で、当史跡が映画のロケに実際に使用された。
主人公 宮部久蔵は南方戦線で任務に就いた後、筑波海軍航空隊の訓練生の教官、また神風特別攻撃隊の直援機(護衛と戦果確認を任務とする)
だった

司令室 宮部が特攻訓練生の事故の件で故人をかばい、上官に殴られるシーンはここで撮影された

病院棟のセット

宮部教官機を襲う敵機に体当たりし、負傷した訓練生(大石?)の療養場所の撮影はここ

映画では この外套を渡したのか

旧帝国海軍の艦船の模型が多数展示

大和 と 赤城 の模型は大きい

零式艦上観測機のジオラマ 又プラモデル作りたくなった

1944年(昭和19年)に筑波海軍航空隊は、より高度な戦闘機の練習航空隊となった。実用機(零戦)の練習航空隊となったのだ。
3月15日、それまで使っていた93式中間練習機(通称赤とんぼ)を 築城航空隊(福岡)に移動し、大分航空隊(大分県)から
零戦がやってきた

写真は文林堂 世界の傑作機から

他にも地下戦闘指揮所、滑走路跡、地下応急処置所などの史跡があるが今回は時間の関係上パス

昭和の戦時中に思いを巡らす。20歳前の若人がどのような思いで訓練をしていたのだろうか。
生まれていないから実感が沸かないかもしれないが、歴史の史跡を見ておくことをお勧めする
当初、2015年3月末日までの公開期間が1年延長されたということなので、お早めに。 入館500円
、
阿見町の予科練平和記念館 の帰途に、ここに寄った。 閉館5時まで後30分しかなかったが入ることにした。
茨城県笠間市にある県立こころの医療センター敷地内及びその周辺には、旧筑波海軍航空隊の司令部庁舎、号令台、地下戦闘指揮所、滑走路などがほぼ当時のままの状態で残されている。ここはかつて、陸海軍が行った体当たり攻撃(特攻)の実行が最初に決められた地、すなわち特攻発祥の地ということだ。この航空隊は昭和9年(1934)に霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊として開設され、昭和13年(1938)に筑波海軍航空隊と改称される。多くの若者が
この地で訓練を行い昭和20年(1945)太平洋戦争終了と共にその役割を終えた。戦後、跡地は戦後、学校から病院に変わり、現在もその姿をとどめている
司令部庁舎(現:筑波海軍航空隊記念館)

映画『永遠の0』の公開を記念して、2013年12月20日から期間限定で記念館として公開

戦時中の司令部



当時のままの姿で前庭に残る号令台

戦時中、号令台前を行進 後ろは現在しない兵舎

記念館の中へ

93式中間練習機(赤トンボ)の座席とタイヤ

99式艦上爆撃機の主輪ホイル

7つボタンの士官服

零戦21型の胴体部分後ろ約1/4 南方戦線で米軍が捕獲したものの様だ

航空機機銃・機関砲の薬莢

航空兵の服装装備

アメリカのP&W空冷星型エンジン。戦後日本の練習機に搭載されていたもののようだ

昭和時代の懐かしい庶民の部屋を再現してあります。ちゃぶ台が・・

赤とんぼの木製プロペラ

2階の廊下

永遠の0 が映画化(H25.12.21公開)され、主人公が筑波海軍航空隊の教官だったという設定で、当史跡が映画のロケに実際に使用された。
主人公 宮部久蔵は南方戦線で任務に就いた後、筑波海軍航空隊の訓練生の教官、また神風特別攻撃隊の直援機(護衛と戦果確認を任務とする)
だった

司令室 宮部が特攻訓練生の事故の件で故人をかばい、上官に殴られるシーンはここで撮影された

病院棟のセット

宮部教官機を襲う敵機に体当たりし、負傷した訓練生(大石?)の療養場所の撮影はここ

映画では この外套を渡したのか

旧帝国海軍の艦船の模型が多数展示

大和 と 赤城 の模型は大きい

零式艦上観測機のジオラマ 又プラモデル作りたくなった

1944年(昭和19年)に筑波海軍航空隊は、より高度な戦闘機の練習航空隊となった。実用機(零戦)の練習航空隊となったのだ。
3月15日、それまで使っていた93式中間練習機(通称赤とんぼ)を 築城航空隊(福岡)に移動し、大分航空隊(大分県)から
零戦がやってきた

写真は文林堂 世界の傑作機から

他にも地下戦闘指揮所、滑走路跡、地下応急処置所などの史跡があるが今回は時間の関係上パス

昭和の戦時中に思いを巡らす。20歳前の若人がどのような思いで訓練をしていたのだろうか。
生まれていないから実感が沸かないかもしれないが、歴史の史跡を見ておくことをお勧めする
当初、2015年3月末日までの公開期間が1年延長されたということなので、お早めに。 入館500円
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