
2021 10/30
この日は朝焼けの奥日光・小田代ヶ原を写真撮影、帰りに華厳の滝によって、町中に降りてきました。
明智平ロープウエイが前日の停止トラブルにより、この日は臨時運休となり、展望台に上れなかったのが残念。
街中でも既に木々は色ずいていて、今年の紅葉はあまりきれいでないという噂も、急な冷え込みにより紅葉した鮮やかな色により払拭されたか模様です。
日光市清滝 ・清滝寺
本尊の千手観世音菩薩「清瀧観音」は、坂東三十三観音霊場の第十八番札所である中禅寺「立木観音」と同じ桂の木で作られたお前立観音だったそうで、日光山の開祖・勝道上人が一刀三礼(一刀入れたら三度礼拝)で彫り上げたという。

清滝寺は、中禅寺が女人禁制だったために女性巡礼者のための札所として栄えたが、明治の神仏分離令により一時廃寺となってしまう。その後、足尾銅山採掘の古河の日光進出に際し、明治42年(1909年)、円通寺と合併して再興された。

日光市清滝 ・清瀧神社
古の荒行(湯立神事)を今に伝える当社は、弘仁11年(820)弘法大師が日光に来山し、岩壁より一条の滝が落ちいているのを見て、かつて、役小角と雲遍上人が中国の大鷲山の清滝というところで、奇跡に逢った時の話を思い出して、ここが、その地形に似ていることから、この滝を清滝と名づけられ、祠を建てて、清瀧権現とし、大海津美神を祀った。
配神には、高龗神・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命を祀った。

日光市匠町・浄光寺
日光開山の祖勝道上人が日光一山の菩提寺として、仏岩(山内)に往生院を創設した。
これが浄光寺の起源である。
延応二年(1240)には日光山本坊光明院(輪王寺の前身)と同時に、その六供浄光坊が創立され、後に往生院と合併した。寛永十七年(1640)に当地に移され、現在はこの地の菩提寺である。
本堂は、昭和四十八年に増改築されたが、内陣は江戸期のものをそのまま残している。
本尊は、春日仏師作と伝えられる阿弥陀如来三尊坐像。
本堂には、鎌倉時代の青石の板碑があり、弘法大師真筆と伝えられる「妙覚門」の額が掲げられているが、これも往生院との繋がりを示すものである



この日は朝焼けの奥日光・小田代ヶ原を写真撮影、帰りに華厳の滝によって、町中に降りてきました。
明智平ロープウエイが前日の停止トラブルにより、この日は臨時運休となり、展望台に上れなかったのが残念。
街中でも既に木々は色ずいていて、今年の紅葉はあまりきれいでないという噂も、急な冷え込みにより紅葉した鮮やかな色により払拭されたか模様です。
日光市清滝 ・清滝寺
本尊の千手観世音菩薩「清瀧観音」は、坂東三十三観音霊場の第十八番札所である中禅寺「立木観音」と同じ桂の木で作られたお前立観音だったそうで、日光山の開祖・勝道上人が一刀三礼(一刀入れたら三度礼拝)で彫り上げたという。

清滝寺は、中禅寺が女人禁制だったために女性巡礼者のための札所として栄えたが、明治の神仏分離令により一時廃寺となってしまう。その後、足尾銅山採掘の古河の日光進出に際し、明治42年(1909年)、円通寺と合併して再興された。


日光市清滝 ・清瀧神社
古の荒行(湯立神事)を今に伝える当社は、弘仁11年(820)弘法大師が日光に来山し、岩壁より一条の滝が落ちいているのを見て、かつて、役小角と雲遍上人が中国の大鷲山の清滝というところで、奇跡に逢った時の話を思い出して、ここが、その地形に似ていることから、この滝を清滝と名づけられ、祠を建てて、清瀧権現とし、大海津美神を祀った。
配神には、高龗神・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命を祀った。

日光市匠町・浄光寺
日光開山の祖勝道上人が日光一山の菩提寺として、仏岩(山内)に往生院を創設した。
これが浄光寺の起源である。
延応二年(1240)には日光山本坊光明院(輪王寺の前身)と同時に、その六供浄光坊が創立され、後に往生院と合併した。寛永十七年(1640)に当地に移され、現在はこの地の菩提寺である。
本堂は、昭和四十八年に増改築されたが、内陣は江戸期のものをそのまま残している。
本尊は、春日仏師作と伝えられる阿弥陀如来三尊坐像。
本堂には、鎌倉時代の青石の板碑があり、弘法大師真筆と伝えられる「妙覚門」の額が掲げられているが、これも往生院との繋がりを示すものである



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