こんなことが云われていたので---
バビロニアでは当初1年は6ヶ月であったらしいのですが、後に12ヶ月となり、 四季を決める太陽暦との食い違いが生じてきました。 ---
これではシュメールは半年一年暦と成るので、シュメールの年代は本当にはどうなるのか疑問が出る。
ところで縄文人も半年一年暦だったようなので、それを考えてみた。
15日*12月 15日が一月と云うことになり、 一年 180日+3日夏至祭 としていたのか。
冬至も15日*12月 180日+2日として、半年ごとに祭が行われたのだろうか。
図はお借りしました
シュメールでは太陰暦が重要視されていたといい、月の満ち欠けに関する観察は鋭かったものだろうから、上下弦の月の日数15日は求めていただろう。
30日*6月よりも15日*12月としていたとする方が暦としては利用し易い良いように思う。
シュメール人は春分が年の初めとして祭をしていたようだ。
そうすればシュメール人も縄文人と同じ半年一年暦となるのだが。
引用ーーーーーー
バビロニアの太陰暦
●遡望月
月は約28日で地球を一周しますが、その間に地球は太陽の周りを巡っているので、 新月から次の新月までの間は平均で約29.5日となります。
●バビロニアの太陰暦
バビロニアでは、新月から新月の期間を「月(Mounth)」として定めておりました。 遡望月が平均で約29.5日なので、1ヶ月の長さが29日や30日になりました。
この太陰暦は純粋な太陰暦で、通常「太陰暦」と呼ばれていますものは 正確には「太陰太陽暦」のことをいいます。
++++そうなのか
バビロニアでは当初1年は6ヶ月であったらしいのですが、後に12ヶ月となり、 四季を決める太陽暦との食い違いが生じてきました。
++++そうなのか 半年一年暦
●太陰太陽暦
太陰暦は約29.5日*12ヶ月=約354日
太陽暦は約365.25日
上記のように一年ごとに約11日の不足が生じてしまいます。 この不足の日数を他の月に加えたりしていたのですが次第に煩雑になってしまい、 もっと正確に暦を測り、閏年を規則的に置く必要が出て来たのですね。
++++そうなのか それは何の必要からか 農業では無い 都市生活のため 人間生活のため
ニサンの月
●カペラとニサンの月
日の出直前の東の空と、日没後の西の空にカペラが現れるのを観測して1年の長さを測ったといいます。 これには2つ説があり、春分の頃のカペラの日の出直前昇天を年初とした説と、 日没後に新月と並ぶのを年初とした説があります。
カペラはバビロニアの前代アッカディアでは、「ディルカンイク(光の使い)」と呼ばれ、 バビロニアでは「ディルカン・バビリ(バビロンの護星)」と、 ついでアッシリアでは「年の案内者」と呼ばれました。 また年初を教える星として「マルドゥクの星」と呼ばれました。
●アッカディア
アッカディアの時代はバビロニアよりも2000年あまり溯りますので、 年初の星は歳差運動により、カペラではなくカストルとボルックスでした。 アッカディアの粘土版には
ニサンの月の第1日に、星の中なる星(ディルカン)と月が並べば、その年は平年なり、 ニサンの月の第3日に星の中なる星と月が並べばその年は閏年なり
とあります。
●ニサンの月の第3日
第一年 新月とカペラが合
第二年 2日月とカペラが合
第三年 3日月とカペラが合
第四年目の合は翌月第1日の夕暮れに新月とカペラが合になることでもあり、 真の年初が再び回ってくることを示します。
月の第三日に新月がカペラと合になるときは、それより1年1ヶ月(13月)後にには、 月の第1日に合となるので、この年を閏年として「13月」を置きました。
黄道十二星座へ
●歳差運動
地軸の振り子現象により、春分点が毎年約54秒西に移動するため、 70年に約1日の割合で季節に狂いが生じます。 恒星年をカストルやボルックス又はカペラに頼れなくなってしまいました。 そこで昼と夜の長さを正確に測り春分点を決め、回帰年を使うようになりました。
黄道の星々により観測することを止め、黄道を木星周期の12年から12等分して、 白羊宮の原点を春分の太陽の位置と決めましたのが、紀元前7~8世紀のことであるようです。