金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

立春観測は暦の膽

二十四節気の暦の成立
縄文中期には縄文人は、春分、秋分の日の出、または日の入りを特徴的な山のピークで観測できる立地に遺跡を作っていたことで、既に所謂二至二分と言われる暦を持っていたことが分る。
しかし二至二分の暦では、季節を区分する暦としては、まだ余りに大まか過ぎるので、更に季節を細かく区分することを考えた。

冬至~夏至まで183日、夏至~冬至まで182日、計365日は知っていた。
二至二分の春分 183/2 91日、秋分 182/2 91日。
これを季節に分けるには 91/2 45日。
これは所謂四立と言うことになる。これで所謂八節の暦が出来る。

91/3は30日 これは月の満ち欠け周期になる。縄文人はこれを知っていた。
すると四立の45日は30+15日であることから、15日は上下弦の月の日数と分る。
四立と月の周期30日とは特別な関係にあることが分る。
このことから45/3 15日は月の周期に合うことが分るとともに、これは所謂二十四節気の暦である。

冬至と春分の中間点は八節の暦と二十四節気の暦とを繋ぐ特別な点であることと、同時に朔旦立春で月の周期とを繋ぐ特別な時点であることが分る。

太陽を立春に観測して、同時に月を観測することで、太陽暦と太陰暦を校正する特別な時点であることが分る。

何故縄文人が金生遺跡の立地で、冬至から45日の日の出観測を行っていたのか、それはこの事に有ったものと考える。
縄文人は太陽暦と太陰暦を持っていたものと考える。

立春観測は暦の膽


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