金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

立春方位の墳丘墓と縄文時代 金生遺跡

    追加しました。2022.02.10  金生遺跡の日の出関係

平原遺跡の平原1号 平原王墓ともされる、
この古墳 弥生時代の墳丘墓と言うようだが、この築造時期も弥生時代と古墳時代の境目に近いようだ。この墳墓の指す方位も色々調べてみたが、観測データは今の所分らない
この方位について決定的な観測結果は出されていないようだ。
弥生時代の立春方位のものは、纏向石塚古墳 ホケノ山古墳などがある。
平原遺跡は前方後円墳ではないため、古墳が向けている方位は埋葬施設発掘状況から
推測すると、東にある付近の山のピーク 王丸山に向いているように見える。
東側にある高祖山 クシフル岳あたりが 春分の日の出となる
王丸山 立春の日の出 右裾からの冬至の日の出
と言う予想をしたがどうだろうか
発掘時の遺跡

        遠くに見える山は王丸山

棺のアナ

 

46センチの内行花紋鏡の破鏡が出ている

 

遺跡東の山並み 東に高祖山がある

         高祖山          日向峠     王丸山

王丸山の右裾に冬至の日の出が見える形なので、王丸山ピークまで、立冬から冬至そして 立春までの日の出を追跡することが出来る形になっていて太陽暦が作れる。この形は三輪山での纏向石塚古墳やホケノ山古墳での立春観測と同じ状況で、さらに縄文遺跡 金生遺跡配石での日の出観測の流れにある。
三輪山の冬至 日の出位置 矢印

                       三輪山

王丸山の麓からの冬至の日の出を予測している人が居たので参考にしました。王丸山ピークを立春観測のヒールストーンとしているものと考える。
曽根遺跡周囲の地形

               王丸山

ついでに弥生時代末 墳丘墓の時期の方位について
畿内より西で弥生集落で大きなものは倭国と吉備国となる
北九州では墳丘墓として大きなものはまだ出来ていない
吉備国の楯築墳丘墓が最大と言われている。
ここには東の国から土器が集まっていたようだ
その後の古墳時代の直前には纏向で纏向石塚古墳が作られている。
西九州には吉備、出雲、東海など各地からの土器が集まっていた

平原王墓  木棺方位は立春のようだ
吉備国 楯築墳丘墓 木郭木棺墓  木棺の方位 立春

 

周囲の山との関係などランドスケープは観測が無くて、分らないものの立春方位とみている。

纏向石塚古墳  立春方位に前方部を向けている


比較してみると
何れも方位は立春方位を示しているようだ
纏向で箸墓という巨大古墳が、作られるようになる前までは、立春方位を執っていたようだ
纏向に列島勢力が集合すると巨大古墳を作るようになり古墳時代になる。
ここには九州以外の列島各地から土器が集まっていた。

 

縄文時代の金生遺跡での立春観測

                  林が金生遺跡

 

平原王墓の周囲の山との対比として金生遺跡東の山並みを掲載します

日の出観測の山並み全景  

 夏至   立夏           春分        立春   冬至      

      飯盛山             遺跡辺り      ピーク  裾

 

立春観測は遺跡の配石の先端に柱を立てれば、日の出と共にセンターの石棒に柱の影が当たった日が当日になる。ヒールストーンは立てた柱。縄文人達は配石周りに集まり、石棒をじっと見詰め、日の出と共に柱の影が遂に石棒に差す日 春の始め 再生の日 を冬至から指折り数えて、待ちかねていたものと思う。この設計が4539年前には行われていた。

金生遺跡の配石は、公園として整備されてしまったため、写真で見るように、東側は樹木とモニュメントの石棒により、日の出の太陽光線は配石に射さない。特に冬至の日の出は、石棒で完全に遮られてしまっている。

写真はお借りしました

引用ーーーーーー

平原王墓の凄さと地形環境
2022-02-01 17:21:30
https://ameblo.jp/kennosukeban/entry-12724487716.html


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