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JOCV(青年海外協力隊)スウェーデン在住OB・OGの会

現在スウェーデン在住のJOCV参加経験者の女性2名が、2015年に偶然出会った結果生まれたブログです。

年末年始

2018-01-14 14:29:05 | ネットワーク
 2018年が明けて、早くも睦月の半ばが過ぎようとしています。私は今月の11日が叔母の49日だったので、それまでお祝いのご挨拶は控えさせていただいていて、喪中であることを示すために普段の白真珠ではなくて黒真珠のピアスをつけていたのですが、7日に叔母の埋葬が行われたので、この日から白真珠に戻りました。奇しくもこの日は友人宅にお茶の初釜に招かれていたのですが、叔母の埋葬も済んだので心置きなく過ごすことができました。

 お祝い事は控えるとは言っても、大晦日にストックホルムに残っている友人たちが我が家に集まるのは伝統になっているので、大晦日はしっかりお節料理などを作って行く年を送りました。我が家の大晦日は、家族でなく友人たちと過ごすという点を除けば、概ね日本で過ごす大晦日のように落ち着いたもので、お酒を飲んで大騒ぎをするようなものではありません。喪中であろうがなかろうが、行く年を感謝の気持ちを持って送り、新しく来る年をしっかり迎えるということは大切だと思います。

 昨年の大晦日は、できるだけ日本風のお節料理を作ろうと決め、暮れのうちに日本食屋さんで材料を揃えておき、ちらし寿司に入れる具や昆布巻きに使うニシンはお隣の魚屋さんに注文しておきました。そして初めて着物を着て過ごす大晦日にしました。大晦日に集まった友人たちにとって私の着物姿は初めてだったので、私はいつになくたくさんの写真の被写体となりました。着物と言ってもお料理をしたり運んだりしなければならないので、この日は洗える着物で過ごしました。人数が多い年は全部で12人くらいになることもあるのですが、今年は少なめで8人で大晦日を過ごしました。下の写真でお料理と参加者の一部をご覧いただけます。私の隣のアジア人の女性はベトナムの方で、日本人ではありません。



 
 大晦日のお客さんのうちの1カップルがクリスマス休暇でスペインに行って、巨大なスパークリング・ワインのボトルを買ってきてくれたので、結局夜中このワインで過ごすことになりました。私は赤ワイン、白ワイン、日本酒のグラスをそれぞれ準備していたのですが、結局使ったのはスパークリング・ワイン/シャンパン用のグラスだけ。おかげさまで後片付けがとても楽でした。我が家には食器洗浄器はあるのですが、古いクリスタルグラスは食器洗浄器を使うと傷むというので、私はいつもすごい数のグラス(時には12人x5グラス=60個になったりする)を手で洗わなければならず、元日はグラスを洗うのとウィーン・フィルの新年のコンサートを聴くだけで終わってしまうのが常なのです。流石の大瓶も時計が12時を打って新年を迎える頃には空になったので、ここで私が買って準備していたシャンパンを開け、新年はシャンパンと共に迎えました。元日は毎年のことながら大晦日の後片付けとウィーン・フィルのコンサートで終わりましたが、今年も親しい友人たちと新しい年を迎えることができて本当に良かったです。自分自身の家族が近くにいない者たちが集まる場なので、私たちみんなにとって大切な日なのです。

 今年のウィーン・フィルのコンサートの指揮者はマエストロ・リカルド・ムーティでしたが、実は私は彼が指揮するコンサートを18日にストックホルムのコンサート・ハウスで聴くことになっています。彼のコンサートは以前にも2回聴いたことがあるのですが、今回もとても楽しみです。数人の友人たちもこのコンサートに行く予定になっていると知って、やはりマエストロ・ムーティの人気はすごいなぁと思っています。

 7日の日曜日は、昨年に続きお茶の初釜に招いていただいていました。お茶の初釜と言っても私には茶道の心得がないので、今まで何度か茶事に招いていただいた時に教わった限られた知識で乗り越えようと考えていました。ところが一緒に招かれたお友達のSさんも茶道の心得はなく、私は数回茶事に参加したことがあるというだけの事情から、なんと正客になってしまったのです。もちろん招待してくれた友人のFさん(協力隊OGのFではない)は、私がきちんと正客を勤められるような知識を持たないことは知っているので、ちゃんとできそうもないからといって大きな問題はないのですが、やはり少し責任を感じてしまって前もってインターネットで色々勉強はしておきました。ところが濃茶のマナーと薄茶のマナーをごちゃ混ぜにしてしまったりして、どうも今ひとつという結果になってしまいました。お友達のSさんはすぐに何かに熱中するタイプの人で、早速茶道の作法を身につけることに興味津々です。Fさんは初釜をすることからもお分かり頂けると思いますが、自宅で茶道を教えています。結局Fさん、Sさん、私の全員に都合の良い時に、茶事に出席する時のマナーを教えてもらうことになりました。



 この日は初釜ということで1つ紋が入った色無地の着物で行ったのですが、この着物、私が協力隊に参加して留守の時に、母が呉服屋さんに注文して作っておいてくれたものなのです。私の着物ではあるのですが寸法を間違えて仕立てたらしく、合わせがものすごく深くなってしまうし、上半身の部分も大きくてだぶついている感じで、なんだか見栄えが今ひとつです。私が協力隊に参加したのは1988年から90年までの2年と2ヶ月ですから随分前ですが、この着物は仕付け糸がついたままの新品で、今年の初釜に初めておろして着たのです。

 さて話はすっかり変わりますが、私は最近全く意図しない体重減に見舞われています。元々痩せ型で、身長160センチで体重は大人になってからは44−45キロでずっと安定していました。体調が悪くてしばらくちゃんと食事ができなくても1キロくらいしか減らない代わりに、たくさん食べても1キロくらいしか増えないという、実に安定した体重を保ってきたのです。今までの人生の中で体重の最高記録は47キロで、それは協力隊の訓練所にいた時でした。3食しっかりすごい量の食事でしたし、食べ物を残すのがいけないことだと思っている私は無理してでも食べていたので、結局47キロまで上がったのですが、この時は体が重い感じで実に不快でした。

 そういう安定した体重が、最近普段通りに食べているにも関わらず41キロまで落ちてしまったのです。私自身はどこかが痛いとか、何か異常な症状があるというわけではないので大して気にも留めていなかったのですが、お医者さんの友人が、そんなのんびりしたことを言っている場合ではない、腹部のCTとかエコーを撮った方がいいと言うので、CTを撮ることになりました。私自身癌クリニックで働いていますので、意図しない体重減というのは癌の兆候である可能性があるということは承知しているのですが、なんだかあまり真剣に考えていない私です。

I さんの思い出

2017-12-25 08:25:25 | ネットワーク
 今日は12月25日、クリスマスの日です。スウェーデンではクリスマス・イヴを大きく祝うので、クリスマスの日と26日のボクシング・デーは休日ではありますが、クリスマスはもう終了ずみという感じです。以前投稿したように、今年のクリスマス・イヴはいつも一緒に過ごす友人たちの都合がつかないので、私たちは家で静かに過ごしました。もともと私が叔母の喪中でもあるし静かにしていて、クリスマスから新年にかけてのお休みの間は(私は27日と28日は仕事に出ますが)本を読みまくろうとkindleで買い込み、ヴァイオリンの練習にもいつも以上に力を入れようと考えていて、こういう貴重な時間はフルに活用したいです。昨晩は簡単な手作りクリスマス料理を食べ終えてから、テレビで少しクリスマス・コンサートを見た後、BBCのテレビドラマ・シリーズの”イースト・エンドの助産師”を見ていました。私は自然に関する番組とかドキュメンタリー、ニュース以外テレビを見ないので、このドラマもたまにテレビをつけた時にやっていると見ていたくらいでした。昨晩のお話は、ミッションがアフリカで助産クリニックを開くお話でした。このドラマは自伝に基づいてBBCが製作したもので、本も出ています。この本もいずれ読みたいと思います。



 このドラマを見ながら、私は協力隊の同期だったIさんのことを思っていました。私たちは当時広尾にあった訓練所(現在は聖心女子大学の一部)で訓練を受けました。およそ男性100名、女性50名が一緒に訓練を受け、Iさんと私は同じ生活班の7班でした。7班は8班、9班と比べると何故か平均年齢が高く、男性たちからは”7班婦人会”などと揶揄されることもありましたが、みんな仲が良く愉快な班でした。Iさんは私より少し年下の助産師で、マラウィに派遣予定でした。毎朝朝食の後語学訓練が始まるまでの短い間、ふたりでバルコニーでコーヒーを飲みながら色々なおしゃべりをしたものです。彼女は歌って踊るのが大好きな(つまりカラオケとディスコ)とても陽気な助産師でした。いつもニコニコ楽しそうで、出産の時に子供の頭が出てくる時の感動や、女性の産道は百人百様であることなどを、いつも熱心に語っていました。そして私に、私が出産する時には私の子供はIさんが取り上げてくれると言っていました。”あなたの子供ならきっと可愛いでしょうねぇ”というコメントでしたが、私は内心それは相手の男性の容姿によっても左右されるだろうと考えていました。結局私はものすごい晩婚で、子供を持つことはなく一生を終わりますが。

 この訓練の期間中私は誕生日を迎え、同じ生活班の隊員候補生に祝ってもらいました。”あなたのファンより”という未知の男性から大きな誕生日ケーキの差し入れが入り、一体誰だろう、XX班のXX君じゃないのとか、ひとしきり騒ぎになったのですが、後で当時の訓練所副所長からであったことが判明しました。ボリビアに派遣予定だったセニョールYは、私がアンデスの民族音楽を好きなのを知って、空いている語学教室で民族衣装をまとって音楽を演奏してくれました。素晴らしいお誕生日プレゼントです。生活班の部屋では、みんなが実家から送られてきた食べ物などを開けて分け合って誕生日パーティを開いてくれて、Iさんは私のために、彼女が大好きな歌”マイ・ウェイ”を日本語で歌ってくれました。この歌詞を聞いて、ああIさんらしいなと思ったものです。

 私がIさんの訃報を受け取ったのは、最後の隊員会議で北京に上京している時でした。私たちの調整員のTさんがファックスを受け取り、”あなたの同期がマラウィで亡くなりましたよ”という連絡でした。実は私たちはマラウィではすでにひとり同期を交通事故で亡くしていたのです。私の頭はぐるぐる周り”一体誰?Mちゃん?Iさん?” Iさんは任期を満了して帰国の途につくべく、派遣されていた地方都市から首都にセスナで向かう途中、そのセスナが事故を起こして亡くなったのでした。

 私は2ヶ月任期を延長して帰国した後、Iさんのお母さんと電話でお話ししたり、手紙をいただいたりしました。お母さんの手紙によると、Iさんはご両親への手紙の中で、アフリカの生活は自分に向いている、とてもやりがいを感じているというようなことを書いていたそうです。そして私に娘のことをもっと教えて欲しいとおっしゃっていました。私はIさんが亡くなってからずっと、喫茶店やレストランでマイ・ウェイがバックに流れていると、涙が溢れてきてたまらず、ラジオからこの曲が流れてくると止めてしまったりしたこともありました。スウェーデンでは喫茶店などでバックに音楽が流れることはあまりないので、この心配はほとんどありません。ところが多分10年くらい前だったと思うのですが、ストックホルムのレストランでバックにマイ・ウェイを流していたところがありました。その時私は”あれ、スウェーデンにしてはバック・グラウンド・ミュージックなんて珍しいな”と思いながら聞いていたのですが、それはマイ・ウェイでした。私は涙を流すこともなく、心静かにその曲を聴くことができ、その時自分でもやっとIさんを失った辛さから立ち直れたのだと実感したのです。
 
 昨晩のドラマを見て、もしIさんが元気で帰国していたら、やっぱりまたアフリカに戻って助産師をしていたかなぁと思い、心の中が温かくなってきました。やはり少し涙も出てきましたが、彼女なら多分アフリカに戻っていたと感じています。Iさんの思い出は、彼女から私へのクリスマス・プレゼントだったのだと思います。

 さて話はすっかり変わって、前回の投稿でお知らせした文明堂の5切入カステラの行く末のお話。この賞味期限は12月17日の日曜日だったので、18日の月曜日にドクターにもうカステラは食べたか聞いてみたのです。すると答えは”まだだよ、クリスマス休暇に食べるんだよ”とのこと。私はまるでたかがカステラが、神棚に祀って大切に拝むもののような扱いを受けた気持ちになって大笑いしそうになったのですが、賞味期限があるもののことなので笑ってばかりもいられません。”ですから先日も申し上げた通り、賞味期限は17日だったのです”。するとドクター賞味期限は過ぎてしまったと知ってショックを隠せない様子。そこで私は”賞味期限は数日間くらい過ぎても大丈夫ですが、クリスマス休暇に召し上がるなら冷凍庫に入れてください。冷凍ですよ!”と大変賢い助言をして差し上げました。

 その翌日ドクターから”あればマイナス21度で冷凍したから大丈夫。うちの冷凍庫はマイナス21度は肉用で、マイナス8度もあるんだけれど、マイナス21度に入れたから”との報告。マイナス21度なんてすごい温度で冷凍したカステラは、解凍した時一体どんなふうになるのか、とても気になる私です。

 最後にもうひとりのOGであるFは、今年は色々忙しくて大して旅行もできなかったので、来年は旅行をしたいということです。彼女は日本人会の役員をやっているので、色々忙しいのです。昨年は彼女とご主人もノーベル賞コンサートに来ていたのですが、今年は日本人会の忘年会と重なって、Fは忘年会の方に出ていたようです。

 それでは皆さま、実り多き2018年をお迎えください。

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JOCV in Sweden

E-mail: jocv.sweden@gmail.com

クリスマス・シーズン

2017-12-17 09:06:38 | ネットワーク
 師走も半ばを過ぎてしまいました。12月10日のノーベル授賞式の晩は、毎年の恒例に従って友人宅に正装して集まり、テレビでノーベル晩餐会の様子を見ながらお料理をご馳走になりました。最近着物に凝っている私は、ノーベル賞コンサートに引き続きこの晩も着物で出かけました。この晩着た着物は、母が結婚前に自分で仕立てたウールの着物ですから、60年以上も前に作られたものですが、仕付け糸がついたままで袖を通していないものでした。その上に母が昔よく着ていた記憶のある羽織(今回の帰国中にもらってきたもの)を着用しました。



 シャンパンで科学の発展を祝いながら受賞者のスピーチを聞き、この賞の存在の偉大さを毎年思います。招待主である友人はポーランドの出身ですが、イシグロ氏はポーランドではよく知られた作家だそうで、彼女はちょうどイシグロ氏の最新作を読んでいる最中でした。恥ずかしながら、私より彼女の方がたくさんの作品を読んでいることがわかりました。私は以前お伝えしたように”日の名残り”と”私を離さないで”しか読んだことがなかったのですが、授賞式の翌日にキンドル版で”遠い山なみの光”と”忘れられた巨人”を購入し、前者はすでに読み終えたのですが、その後坂口安吾の”吹雪物語”を読み始めてしまったので、”巨人”の方はその後読むことにします。

 13日はルチア祭でした。職場であるカロリンスカ大学病院の癌クリニックでは、ピアノが得意で作曲までするドクターが入り口のホールでピアノを弾き、歌手がルチア祭やクリスマスにまつわる歌をお昼休みに披露するという催しがありました。癌クリニックには以前”ラディウム・コーラス”という、スタッフによるコーラス・グループがあり、私もメンバーになっていて夏至祭とクリスマスにはこの入り口ホールで歌っていました。その中心人物であった秘書が退職すると同時にこのコーラスも無くなってしまいましたが、今年のような催しをする人がいるのは素敵です。

 そしてこの週末から来週いっぱい、人々はクリスマスの最終準備に忙しくなります。クリスマスのお料理を準備したり、プレゼントを買ったり、クリスマスツリーを買って飾りつけたり、私には縁のないことばかりですが、毎年市内のあちらこちらで開かれるクリスマス・マーケットを覗くのは楽しいです。昨日は”農夫のマーケット”というのに行ってみました。ここには初めて行ったのですが、思ったより小規模で驚いたのですが、逆にあまり商業化されていない質素さがあり、これはこれで大きな広場で人々でごったがえすマーケットよりいいなと感じました。私はクリスマスは特に何も準備しませんが、大晦日のパーティのためにスモーク・サーモン、チーズ、様々なジャム、飲み物、お菓子などを買い込みました。みんな農家の人たちが起業して行なっているビジネスで、エコ食品です。私はエコ食品に対してヒステリックなまでのこだわりはありませんが、やはり農家の人たちが自ら作った食品ということで安心感は高まります。



 クリスマスはほとんど毎年友人宅に招待されて過ごしていたのですが、今年はそういう友人のひとりは娘さんがいるアメリカに旅行に出てしまい、もうひとりは引っ越の最中でとてもそういう状況ではなさそうです。私は普段でもクリスマスのために特別なことはしないのですが、ただひとつ毎年欠かさず行ってきたことがあります。ひとつはクリスマス・コンサートに行くこと、もうひとつはスウェーデン語で”ユール・ボード”と呼ばれている、クリスマスのお料理を食べにレストランに行くこと。実は今夜は友人カップルと4人でクリスマスのお料理を食べにレストランに出かけます。クリスマス・コンサートは、私が帰国する前日に亡くなった叔母の喪中なので、今年は行かないことにしました。

 さて話はすっかり変わって、ずっと前の”頭脳の違い”の投稿に登場したドクターのお話。このドクターとはよく一緒に仕事をするので、今回帰国した時に文明堂のカステラの5切れ入りの小さな箱をお土産に買ってきました。奥様と一番下の息子さんと3人暮らしのドクターです。お土産の袋の中には、カステラの小さな箱と一緒に100グラム入りの静岡の緑茶(叔母の葬儀は叔母が住んでいた藤枝だった)が入れてありました。このお土産の袋を渡す時、箱の方はスポンジケーキのような焼き菓子で、小さな袋は緑茶であることをしっかり伝えました。ところがこのドクター、お菓子の情報はしっかり脳に記録されたらしいのですが、緑茶の方は上の空で聞いていて脳に記録されなかったらしいのです。このお土産を渡したのがある木曜日。その翌週の月曜日にドクターが”お土産をどうもありがとう”と言うので、それに続いて”美味しかったよ”とか”家族も喜んでいたよ”とか、そういうありきたりのコメントが返ってくるかと思いきや、次にドクターの口をついて出た言葉に、私は呆然としてしまいました。”あれは一体どうやって食べるの?”

 ”どうやってと言われても、そのまま食べればいいのです。何も特別なことをする必要はありません”と、ようやく気を取り直した私は他に答えようもなく困ってしまいました。”説明書きが全部日本語だから、どうやって食べればいいのか分からなくて困ってさ”とのお言葉。ドクターが食べ方の説明書きだと思い込んだのは、おそらく”直射日光は避けて保存してください”とか”開封後はお早めにお召し上がりください”という注意書きのことでしょう。そしてその次にドクターが言う言葉を聞いて、私はまたも呆然としてしまいました。”息子が説明書きを写真に撮って、それを読み込ませて翻訳するアップを使ってみたんだけれど、うまくいかなかったんだよ”。このドクター、知能指数がべらぼうに高いようで、息子さんの方も義務教育の最終成績がほぼ満点で高校は選びたい放題で、スウェーデンでも屈指のレベルの高い高校の自然科学のプログラムに入るという快挙を遂げているのですが、まさにこの父にしてこの子あり!知能指数の高い人たちの間に、しばしば奇怪な行動が見られるというのは、アインシュタインの例を始め枚挙にいとまがありませんが、この父子もその一例かと思った私です。

 ところがよくよく話を聞いてみると、彼らの行動はそれほど奇抜でもなかったのかもしれないと思われる要素もありました。ドクターが小さな袋の内容物が緑茶だという情報を脳に記録していなかったのが原因のようです。”あれは緑茶ですよ。普通の紅茶と同じような要領で飲めばいいのです”と言うと、”なーんだ、緑茶かぁ”と初めて聞いて驚いたというような顔つきです。緑茶の袋には急須の絵がついていて、お湯の温度とか分量の説明が書かれています。でもドクターはそれが緑茶だと認識していなかったので、箱に入ったお菓子とこの袋の中の正体不明な物質を一緒に食する方法とはどんなものだろう、間違った方法で食べてはいけないから調べてみようと、四苦八苦したらしいのです。ともかくカステラに緑茶をかけて食べるなどと言う奇妙な方法に行き着かなくて、本当に良かったです。

 数日後に”あのカステラもう召し上がりました?”と聞いてみると、”まだだよ、週末に食べるんだ”とのお言葉。このドクター、普段目も回るような忙しい生活を職場でしていて、週末の休日は彼にとって神聖な日々のようなものらしいのです。その”特別な”日に、あのカステラを緑茶と一緒に正しく食べようとしているのでしょう。賞味期限はしっかり伝えてあるのですが、賞味期限ギリギリで食されることになる、5切れの文明堂のカステラです。

ノーベル週間

2017-12-10 10:53:26 | ネットワーク
 前回の投稿から早くも1ヶ月近く経ってしまいました。11月17日から19日まで、2泊3日でスペインのバルセロナに友人に会いに行っていました。実はスペインに行くのは今回初めてでした。折しもカタルニア独立問題で揺れるバルセロナ。指導者たちが国外亡命したり逮捕されたりするという状況の中、多分デモにでも出くわすだろうと思っていたのですが、とりあえず何事も起こりませんでした。会いに行った友人は、実は私が一昨年の冬知床のウトロにカムチャッカから渡って来るオオワシを見に行った時に泊まった、小さなホテルのオーナーです。今年の6月に帰国してウトロに行った時も、同じホテルに泊まりました。このオーナーのMさんが一人旅でヨーロッパに来るというので、それではバルセロナで会おうと相談して、金曜日の夕方私が仕事を早退してバルセロナに飛んで行ったのです。Mさんは自分のホテルに泊まった世界中のお客さんとコンタクトを持っていて、そういう人たちを訪ねて歩く旅を昨年から始めたようです。カタルニアにもお友達が2人いて、カタルニア広場に近いホテルに私が着くとメモが残されていて、10時にレストランの予約が入れてある、9時半にホテルに迎えに来るということでした。10時から夕食なんて普段なら絶対に取りませんが、Mさんのお友達がバルセロナで一番古い、カタルニア料理のレストランを予約してくれたというので、これを断る手はありません。私たちふたりだけだったら絶対に探せなかったレストランなので、とても幸せでした。翌晩はMさんの希望でフラメンコのショーのチケットが買ってあり、その前にパエリャを食べてショーに出かけ、情熱的な夕べを過ごしました。バルセロナに行く前に、大学生時代に読んだジョージ・オーウェルの”カタルニア賛歌”を再読してみたいと思い、Kindle版で購入して再読しました。これはオーウェルがスペイン内戦に義勇兵として参加した体験に基づいて書かれていますが、今回バルセロナの旧市街でも、内戦の時の銃撃戦の銃弾の跡が残る建物の壁などを見ることができました。



 今日12月10日はノーベル賞授賞式の日。一昨日の8日には、コンサート・ハウスで恒例のノーベル・コンサートがありました。昨年のノーベル・コンサートには、あのヨーナス・カウフマンが来る予定でしたが、声帯からの出血とのことで直前になって彼の出演はキャンセル。ノーベル・メディアはそのようなソリストによる直前のキャンセルを見越して、おそらく代理も立てているのでしょう。急遽スウェーデン王立交響楽団によるベートーヴェンの交響曲第6番(ちょっと季節外れの感あり)と、ブラームスのヴァイオリン・コンチェルトに変わりました。すでにチケットやプログラムは印刷済みだったでしょうから、この直前のキャンセルによって刷り直さなければならなかったのは大変だったことでしょう。ノーベル・コンサートは実は歴史はそれほど古くなく、私は1番最初と2回目のコンサートには行ったのですが、それからしばらくブランクがありました。久しぶりにノーベル・コンサートに行ったのは一昨年、ダニール・トリフォノフによるラフマニノフのピアノ・コンチェルト第3番でした。その後昨年も今年も行ったのですが、昨年から何故かこのコンサートのチケットを入手するのが異常に難しくなりました。実は昨年は最初チケットは購入できなかったのです。発売と同時にコンサート・ハウスのホームページにアクセスしたのですが、すでに完売状態。これは出演者がヨーナス・カウフマンだからだろうと考えていました。事実その後彼の直前キャンセルがあった後、再びチケットが売り出されたのです。おそらくカウフマンが来ないならコンサートに行く価値なしと考えた人たちから、キャンセルが出たのでしょう。それで私も行くことができたのです。

 ソリストを招待して直前キャンセルになる恐れを考慮したのかどうかはわかりませんが、今年はなんとソリストなしのノーベル・コンサートでした。その代わりスターは指揮者のグスタボ・ドゥダメルです。ベネズエラ出身の若手指揮者で、彼はスウェーデンのヨテボリ(スウェーデン第2の都市)交響楽団の常任指揮者だったことがあるのです。ご存知の方も多いと思いますが、彼は音楽を勉強できるような恵まれた環境にない子供たちに、音楽の楽しみを伝えるというエル・システマで活動していて、彼自身そういう活動の中で音楽の才能を培った人です。彼曰く、エル・システマは音楽学校ではなく社会活動であると。私もヴァイオリンがすごくよく弾けたら、そんな活動に参加して音楽の楽しさを広めたいものだと思います。けれどもなにぶんにもヴァイオリンを習い始めてようやく2年目に入ったばかり。お呼びではないですね。

 さてこのノーベル・コンサート、通常のコンサートと違ってチケットをホームページからダウンロードすることはできません。お金を払って予約だけして、チケットそのものは取りに行くか郵送してもらうことになるのです。私は近くに住んでいるので毎回自分で取りに行きますが、その際にスウェーデンでは珍しく正装で来るように、開演の15分前までには着席しているようにという指示があります。スウェーデンでドレス・コードが付くのは非常に珍しいことです。今年は国王夫妻も出席されるという情報も与えられました。

 実は私は11月26日から12月3日まで、たった1週間ですが帰国していました。ノーベル・コンサートを聴きに行くのは決まっていたので、今回の帰国で着物の訪問着と袋帯をストックホルムに持ち帰り、着物でコンサートに行きました。昨年から帰国するたびに着物や帯を運んできて、最近ではコンサートや友人宅訪問などにも着物を着て行くようにしています。袋帯2本と名古屋帯2本を作り帯にしてあり、簡単に締められるようには準備してあるのですが、今回着た訪問着には作り帯の柄が合いません。それで仕方なく、今回持ち帰った袋帯を生まれて初めて一から自分で締めてみました。何度も締めたりほどいたりして、結局満足できる状態になるまでには1時間半もかかってしまいました。まだ時差ボケから完全に回復していなくて寝不足のひどい顔ですが、コンサート会場でひとりの老婦人が私の手をとって、とても素敵よと言ってくださったので、ちょっと嬉しい気分に。





 
 さてノーベル賞授賞者ですが、今年はイギリス国籍ではあるけれど日本人のカズオ・イシグロ氏が文学賞を授賞されましたね。過去3年連続で日本人の受賞者があり、日本人が授賞すると在スウェーデン日本国大使館の大使ご夫妻の主催で、ストックホルムの豪華ホテルであるグランド・ホテルでレセプションがあります。日本人の研究者もお招きいただき、私も毎年出席させていただいてきました。一昨年は受賞者の梶田先生と写真まで一緒に撮らせていただくという経験もできました。今年は”日本人”の受賞者がなかったのでこのレセプションはありませんでしたが、イシグロ氏の授賞はやはり嬉しい感じがします。授賞が決まってから、”日の名残り”と”私を離さないで”のKindle版を買って読み、”日の名残り”の映画もYouTubeで見たことは以前の投稿でお伝えした通りですが、イシグロ氏の作品には魅せられてしまい、もっと読んでみようと考えています。今日のノーベル賞授賞式の晩は、私たちの伝統で友人夫妻の家に正装して集まって、シャンパンで科学の発展を祝いながらノーベル晩餐会の様子をテレビで見ることになっています。今夜は母からもらってきたウールの着物と羽織で出かけます。この着物は母が結婚前に和裁を習って自分で仕立てたもので、作られたのは60年以上も前ですがまだ仕付け糸がついたままの新品。今回は母のお手製のウールの着物も3枚もらいました。

 12月はルチア祭やクリスマス・コンサート、ノーベル賞と、様々なイベントで溢れています。私たちも毎年どこかにクリスマス・コンサートに行くのですが、実は今回の帰国直前に叔母が亡くなって葬儀に出席したので、今年はクリスマス・コンサートには行かないことにしました。ノーベル賞は学術に関する祝い事なので別物ですが、どうもクリスマスで騒ぐ気分にはなれない状態です。


ガチョウの丸焼き

2017-11-12 15:51:32 | ネットワーク
 11月11日は、スウェーデン、特に南部のスコーネ地方ではガチョウを食べる習慣がある日です。ドイツなどでは、10日の聖マーティンの日にガチョウ料理を食べるらしいのですが、スウェーデンでは11日です。私は今までこの習慣に特に関心はなかったのですが、今年は生まれて初めて自分でガチョウの丸焼きを作って、友人たちを招くことにしました。実を言えば順序が逆で、ルチア祭、ノーベル賞、クリスマスにかかる楽しい催しが多い12月と比べて、11月はただ暗くて寒いので、毎年11月に仲の良い友人たちを招いて、我が家で食事をすることにしているのですが、今年はちょうどその計画をした日がガチョウを食べる日だったので、ガチョウの丸焼きを思い切ってやってみようということになったのでした。

 初めて何かに挑戦するのはいつもワクワクしますが、今回は少し残念な問題が。というのは、我が家のオーブンで焼けるガチョウはせいぜい5キロ半くらいの重さのものまでで、これだと6−8人分くらいにしかならないのです。普段はもっと多くの友人たちを招くのですが、ガチョウの丸焼きは1羽でも3時間もかかるので、2羽焼いている時間的余裕もなく、結局招待する友人の数を限らなければなりませんでした。結果として、我が家に歩いて来られる距離に住んでいる人たちという条件をつけて、2組のご夫婦と私の元学生ふたりを招待しました。私と夫を含めて全部で8人。私が料理したガチョウで足りるギリギリの人数です。

 友人たちは6時に来ることになっていたので、ガチョウは12時ごろオーブンに入れました。時々様子を見ながら、付け合わせのサラダや前菜の準備をします。時間が経つにつれて、ガチョウのお腹の皮がこんがり焼けてくるのが見え、油がジュージューとしたたり落ちる音も聞こえてきます。ガチョウはとても油っぽいので、付け合わせはさっぱりしたものにし、飲み物はこれまたさっぱり系のアルザス・リースリングの辛口のものにします。前菜としてはガチョウのレバーのパテ(缶詰で売っている)と、私が買ったガチョウの心臓を玉ねぎと炒めたもの、肝臓をニンニクとセロリと一緒に痛めたもの、それにチーズ2種類をカナッペにしたものです。飲み物はシャンパン。

 3時間かけて焼きあがったガチョウの写真です。



 ところで私はガチョウの丸焼きの解体など、もちろんやったことがありません。幸い招待した友人たちの中にアメリカ人のカップルがいるので、ご主人の方にお願いしようと心に決めていました。彼らはきっと感謝祭の七面鳥の解体に慣れているだろうから、きっと手際よくやってくれるに違いないと思ったのです。運がいいことに、ハンガリー出身の別の友人がガチョウの解体に慣れているということで、このふたりにすっかりお任せすることに。私は知らなかったのですが、ガチョウの解体を始める前にお客さんに丸焼きを見せて回るのが習わしだそうで、下はその写真です。



 お披露目が済んだら解体の開始です。アメリカ人の友人が解体する側で、ハンガリー人の友人が見守ったり手助けしたりしてくれました。



 この日がガチョウを食べる日だとはみんな知っていたのですが、私がガチョウの丸焼きを準備していたのはサプライズだったようで、みんな興奮気味です。ポーランド人の友人は、ポーランドに帰るとよくガチョウを食べるそうです。シャンパンとワインの他に、小さなグラスで飲むシュナップスという強いお酒も出します。それぞれのお国柄でお酒を飲む時に歌う歌を披露することになったのですが、私はどうしても思いつかず、結局”酒は飲め飲め飲むならば”で始まる黒田節を歌う羽目に。下の写真は小さなグラスでシュナップスの乾杯をするところです。



 みんなガチョウの丸焼きをとても喜んでくれ、帰って行ったのは夜中すぎ。とても楽しい時間を過ごせたのは嬉しいのですが、とにかくものすごい油なので、今朝は後片付けにとても時間がかかりました。こういう料理は、やはり1年に1回でいいなと思いました。