JOCV(青年海外協力隊)スウェーデン在住OB・OGの会

現在スウェーデン在住のJOCV参加経験者の女性2名が、2015年に偶然出会った結果生まれたブログです。

1月も終わり

2019-01-30 09:49:11 | ネットワーク
 また大変久々の投稿になってしまいました。この間に昨年の秋は来て去り、冬が来てクリスマスや新年を迎え、新年の雰囲気はとうの昔に消え去って、とうとう今日は1月30日。睦月も残すところあと1日となってしまいました。実は私生活で10月に離婚というものを生まれて初めて経験し、それに伴うアパートの処分などで元夫と色々な選択肢を考えたりしていて、このブログを書く心理的なゆとりがなかったのが理由です。離婚そのものは協議離婚だったのでさっさと成立し、家庭裁判所に書類を提出して10日くらいで離婚を認めるという通知が来ました。ただしどちらか一方の気が変わったりする可能性もあるので、通知を受け取ってから3週間は猶予の時間が与えられるため、実際に離婚が正式に成立したのは3週間後でした。その後もアパートの処分の仕方でなかなか良い結論が出ずにいて、いまでもふたり揃って同じアパートに住んでいますが、ついに今日アパートを売却する契約書にサインをすることになりました。買い手の希望で2ヶ月後にはこのアパートの改装に取り掛かりたいということで、その2ヶ月の間に私たちはそれぞれのアパートを探して購入し、引越しをしなければならないのでなかなか大変です。引越しは業者に頼めばすぐにすみますが、ここに住みたいと思うようなアパートを見つけるのが大変です。

 スウェーデンでのアパートの購入方法は、オープンハウス式のお披露目(新築も中古も同じ方法)に行き、その時点で持ち主と不動産業者から提案されている価格に、購入希望者が上乗せして行く形で入札します。つまり同じアパートに興味を持っている人たちが複数いる場合(通常複数います)、その人たちの間で入札競売になるのです。このオープンハウスは通常日曜日の午後と月曜日の夜に30分くらいずつ行われます。私たちも3週間続けて、日曜日にはそういうオープンハウス式お披露目に行ってみました。毎回気に入った物件にお目にかかれるのですが、私たちは自分たちのアパートをまだ売っていないのでお金がないため、入札はできません。今日はそのアパートの売却がいよいよ成立するので、これから気に入った物件を見つけて購入することになります。幸い私たちは有能な不動産屋さんに出会うことができ、オープンハウスをせずに希望の価格を払ってくれる買い手が見つかりました。おかげでオープンハウスの面倒な手間が省けます。

 離婚成立の直後、職場が新しい建物に引っ越しました。新カロリンスカ病院は世界で一番高くついた病院という噂で、当初の予定よりもずっと高くなった割に発見される不具合が絶えない病院で、マスコミでカロリンスカでまたまたこんなミスが見つかるなどというニュースが流れるたびに、またかという呆れ気分になる日々です。この病院の目玉の一つは、様々な配送をロボットが行うこと。ロボットと言っても手足があって人間みたいな姿をしたロボットではなくて、長方形の箱型なのですが、ロボットが進んで行く前に立ちふさがって邪魔をしたりすると、邪魔ですからどいてくださいと音声で語りかけます。下の写真は手ぶらのロボットが廊下を歩いて(?)いるところと、洗濯された服の入ったワゴンを運んでいるロボットの写真です。これらのロボット、どこにものを配送するかプログラミングをするのは人間ですから、間違ったプログラミングをされてどこかに行ってしまうことも多々あり、私の職場でも翌日使う無菌殺菌されたアプリケーターがどこか別のところに配送されてしまったなどという騒ぎが2回起こっています。




 さて、同じアパートに住み続けているとはいえ、離婚したのですから私たちの行動は別々です。私はクリスマス休暇の一人旅を考え、10代の時から行ってみたいと思っていた、聖フランチェスコの生まれ故郷のアッシジに行くことに決めました。その前に友人夫妻から一緒にイスラエルに旅行しようと誘われてその気になっていたのですが、すぐに予約を入れなかったために飛行機代が跳ね上げってしまい、友人共々短い休暇でこれだけの飛行機代は払いたくないという心理状況になったので、それは取りやめにしてアッシジに一人旅をしたのです。職場のクリスマスの休暇を利用して、12月22日から26日まで4泊5日で出かけました。まずローマに飛んでそこから列車で2時間強の旅でした。朝とても早い飛行機でローマに飛んだので、その日の午後遅くにはアッシジに着くことができました。

 アッシジの村自体は端から端まで歩いても20分もかからないほど小さなところで、ここに住んでいる住人は2000人ほどとのことです。クリスマスの時期のカトリックの村ですから、とてもいい雰囲気でした。私はストックホルムのクリスマスの喧騒、つまり街中のクリスマス・セールや、クリスマスのプレゼントと料理を考えるとすごいストレスだと嘆く同僚たちから離れたくて、静かなアッシジに行ったのですがこれは大正解でした。村全体が中世の街みたいで、多くの建物は1200年代に建てられたものです。私は家族経営みたいな小さなホテルに泊まって、毎日聖フランチェスコ・カテドラルに通い、クリスマスイヴの晩は深夜のミサに参加しました。私が泊まったホテルは聖クララ・カテドラルのすぐ隣くらいでしたから、ここにも毎日足を運びました。こんな小さな村なので4泊5日はちょっと長すぎる気もしますが、カテドラルに長いこと座って色々なことを考えられるのは、とてもいい機会でした。これから毎年クリスマスにはアッシジに行こうかと思っているくらいです。


クリスマスイヴの聖フランチェスコ・カテドラル

 26日の真夜中過ぎにストックホルムに戻り、翌日と翌々日の2日間仕事をして29日から1月の最初の週いっぱい休暇で、大晦日はいつものように我が家で友人たちと過ごしました。今年の大晦日はこぢんまりとしていたのですが、その分みんなでゆっくり話ができてとてもよかったです。


大晦日は着物で過ごしました

 1月の最初の日曜日は、近くで茶道を教えている友人(神経科の医師でもある)の家で初釜でした。私は盆略手前を友達と一緒に少し習い始めたのですが、濃茶や薄茶を点てたことはありません。濃茶は先生である友人が点てたものを私たち参加者がいただく形だったのですが、薄茶の方は少しお遊びが入って札を使ったくじ引きのような形で、お茶を飲んだ人は次には点てなければならないという方式でした。私はお茶を点てたことはなかったのですが、他の人たちがやっているのをじっくり観察していたので、正客を務めた人から細かいところは教えてもらいながら、なんとか点てることができました。下の写真は、この初釜でいただいたおせち料理とデザートです。全て先生のお手製です。




 新年の心静かで楽しい日々はあっという間に過ぎ去り、普段の生活が戻りました。先週の火曜日からストックホルム大学の天文学部の夜間のコース”現代の宇宙論”が始まったので通っています。ヴァイオリンは相変わらず続けていて最近スランプを脱出できたようで、先週のレッスンでは先生からとても褒めていただけました。2月の末から2週間弱ブータンに行く予定だったのですが、新しいアパートを購入して引越しをしなければならないので、ブータン行きは延期することにしました。仕事面では、ロボットを使った腹部手術の手術室で仕事をしたいと思い、そこのチーフと面接をして検討中です。2週間前にロボット手術室で1日見学をさせてもらい、ここで働きたいという気持ちがますます強まっているのですが、実はトラウマ・緊急手術室の方が人手の必要性が高く、ロボット手術との組み合わせはどうかと持ちかけられています。トラウマ・緊急手術では、銃で撃たれた人とかお腹や背中にナイフが刺さったままで運ばれてくる人や、交通事故の怪我人などが来るそうで、別にそういう場面を見るのは私は全く問題ないのですが、週末の出勤が入るのでためらっています。ロボット手術のみで働けるかどうか、今週知らせが来る予定です。アパートも新しく買い直すので、できれば職場も変わって人生一新したいのですが、どうなることやら。
 

ストックホルムのタワーマンション

2018-10-14 15:50:07 | ネットワーク
 晩秋のストックホルムから投稿です。普段は秋が短くて、夏が終わったかなぁと思っていると秋らしい日が数日続いて、突然寒くなるのですが、今年は秋が長引いているようです。一時急に寒くなったことがあって、慌てて夏物と冬物を入れ替えたのですが、その後比較的暖かい日が続いていて、最近は日中の最高気温が15度を上回るような日もあります。街中の木々は紅葉が進んでいて、我がアパートの庭の菩提樹の木もすっかり黄色に染まり、葉がパラパラとひっきりなしに散っています。庭は落ち葉でぎっしり埋まってしまいました。

 今日はストックホルムのタワーマンションのお話です。下の写真のタワーマンションは、完成の暁にはツインの2棟になるタワーマンションの1つで、ツインのもう一方は最近建設が始まりました。完成しているタワーの方は高さ120メートルで35階建です。


ツインのタワーマンションの完成予定図



 このタワーマンションは、私の住むアパートと職場であるカロリンスカ大学病院の途中に建てられ、今この地区はハーガ・タウンという名の下に開発が進んでいて、新カロリンスカ大学病院や医学研究施設、眼科専門の病院などをこの地区に集中させています。周囲には次々とマンションが建てられ、新しい地下鉄の駅もこの地区内にできています。地下鉄の開通にはまだ至っていませんが、ノーベル医学賞の選考をするカロリンスカ医学研究所もこの地区にあり、全て完成の暁にはストックホルム地域の医学の中心地区となる模様です。

 普通のマンションが続々と建てられる中、このタワーマンションは計画が持ち上がった頃からお騒がせもので、近所の住民からの反対なども起こりました。反対の主な理由は、そんなに高い建物にする必要はないというものでしたが、私もこの計画には反対の立場でした。私の理由は、すぐそばにあるカロリンスカ病院から離着陸する救急ヘリコプターの邪魔になるというものでした。こんなに病院が近いのに、病院のヘリポートよりも高いタワーマンションを建てるなんてもってのほかだと思ったのです。結局この35階建てのタワーマンションは完成し、一番上の階が6600万クローナ(約8億2500万円)で売れたということがニュースになっていました。

 写真でご覧になってお分かりの通り、床面積がそんなに大きな部屋ではないはずだし、周りには病院とマンションばかりで特別魅力的な立地条件とも言えないのですが、きっと唯一良いのは遠方に湖が見えることでしょうか。あと床面積は小さいですが、この高価なマンションは中が2階建になっているという話ですので、面積は2倍になるということですね。私はとにかくこんなものが自分の家の近くに建つだけで気に入らなかったので、救急ヘリコプターは普通の救急車のようにピーポーピーポーとサイレンを鳴らしながら飛んで、この最上階の住人に嫌がらせの一つでもしてやったらいいと、意地悪なことを考えたくらいです。

 さてこのタワー、建っている方角から言って私のアパートから見えることはないだろうとたかをくくっていたら、なんと我が家のキッチンからしっかり見えてしまうのです。下の写真がそれです。



 通りを隔てて建っているアパートの建物の屋根の向こうに、このタワーマンションの上の方が見えているのがお分かりかと思います。夏の間は菩提樹の葉が茂っているのであまり見えないのですが、冬になって歯が全部散ってしまえば丸見えになります。菩提樹が綺麗な黄色に紅葉しているのがお分かりいただけるかと思います。

 ストックホルムは住宅難で、昔なら高校を卒業した子供たちは自分でアパートを借りて親から自立し、学生ローンとアルバイトでやりくりしながら大学生活を送ったりしていたのですが、いまでは若者が借りられるようなアパートがなかなかなくて、大学に入学したものの住居がなくて勉強できないなどという例も後をたたないようです。学生寮も長い待ち時間で、悪い条件(多くの場合高い家賃を払う)で又貸しのアパートを借りたり、小さな部屋を誰かとシェアしたり、アパートの中の一部屋を借りる(つまりアパートの持ち主とキッチンやバスルームを共用して、一部屋だけ自分の部屋として使わせてもらう)などという場合もあります。何を隠そう、私がストックホルム大学にきた時には学生寮に入るための待ち時間が3ヶ月くらいで、その間私は部屋が5部屋あるアパートに一人暮らししている、年配の女性のアパートの1部屋を借りていました。幸い3ヶ月後には学生寮を当てがわれましたが、今では学生寮の待ち時間は1年を優に超えているそうです。

 そしてもう一つ問題があります。昔はアパートのほとんどは賃貸アパートで、これは公の機関である住宅オフィスが管理していました。ここに登録して自分の必要なタイプのアパートを配分されるわけで、別のアパートに移りたければ誰かとアパートを交換することになります。ストックホルム市内は人気が高いですから、市内でアパートをもらおうとなれば長い待ち時間が必要です。この待ち時間が信じられないほど長く、今では子供が生まれるとすぐに、親が子供を順番待ちに登録するそうです。

 それに輪をかけるような問題は、そういう賃貸アパートが購入用のアパートに変わってしまうことです。仕組みを簡単に説明すると、賃貸アパートとして借りて、同じ建物に住んでいる住人たちが住人組合を結成して、アパートを所有している会社からその建物を買い取るのです。それは住人組合がアパートの管理運営をしていくのが条件です。そして買い取った建物に住む住人たちは、アパートの大きさなどによって決められた値段を払って、今まで賃貸アパートとして借りていたアパートを自分の所有にするのです。つまり不動産を持つことになるわけですね。私の住む地区では、大部分のアパートがこのタイプです。問題は最近の値段の値上がりが激しくて、学生が買って住めるような部屋はないこと。また値段がとても高いので、経済力のあまりない人たちには購入が難しいこと。

 ちょうど今日私の住むアパートの建物の一室の住人がアパートを売るべく、自分のアパートを興味ある人たちに見せています。これは大抵不動産会社の助けを借りて行うのですが、55平米の2部屋のアパート(ちゃんとしたキッチンはなくて、キッチネットという部屋の一部にキッチンの機能がついたアパート)の初値が5100万円ほど。東京の基準から見れば大した値段ではないかもしれませんが、ほんの数年前まではその半額くらいで出ていた物件ですから、値上がりはひどいものです。しかもこれは初値で、興味のある買い手はオークションをするので、値段は釣り上がる一方。

 こんな感じなので、大学生になった子供も親元を離れられず、長いこと親元にとどまる形になります。地方のカレッジのようなところでも、最近は学生寮に入るのは難しくなりつつなっているそうで、スウェーデンの住宅事情は若者の自立を遅れさせる原因の一つになっています。
 

秋の気配

2018-09-09 20:51:29 | ネットワーク
 実に久々の投稿です。前回の投稿が6月22日でしたから、2ヶ月以上投稿していなかったことになります。スウェーデンの夏は色々なことが機能しませんが、私自身も機能していなかったみたいです。こちらでは7月が夏休みのハイシーズンで、8月も2週間目くらいになると、人々が少しずつ休暇から戻って来ます。これは街中を走る車の量や公共の交通機関を使っている人の数の違いで、目に見えてわかります。私の住んでいる住宅街も、夏休みのハイシーズンの時期にはまるでゴーストタウンと化したかと思うくらいです。レストラン等も閉めているところがたくさんあります。でも9月に入った今。ストックホルムはもう秋の気配です。

 かく言う私は、5月末から6月の半ばまでチベット旅行のために休暇をとったので、夏休みは取らせてもらえませんでした。ただし私の勤務するセクションは毎年夏の間2週間閉鎖するので、この閉鎖の間は休暇を取ることができました。最初の閉鎖は7月16日から22日までの1週間。その次の週は開けて仕事の週となり、翌週7月30日から8月5日までが再度閉鎖になりました。つまり2週間閉鎖とは言っても、飛び石閉鎖なのです。同僚の中にはこの真ん中の開けている週にも休暇を取って3週連続でとる人もいれば、前後に休暇をつける人もいました。夏季休暇は最高4週間まで連続で取る権利がありますが、多くの同僚は3週間だけにしておいて、あとでまた休暇を取るようにしています。

 さて私は最初の閉鎖の週はワルシャワに行こうと計画していました。ワルシャワ蜂起博物館とショパン博物館に行ってみたかったのと、ワルシャワの旧市街にとても興味があったのが理由です。実をいうとロシアのサンクトペテルブルクを再訪してみたかったのですが、こちらはビザが必要で、中国入国のために夫のビザ取得で面倒な思いをした直後だったので、今回はビザなしで行けるところにしようと心変わりしたのでした。けれどワルシャワ旅行も結局は諦めることになりました。その前の週に夫が前立腺の生検を受ける予定になっていて、結果が出るのがこの週になりそうだったからです。結果としてストックホルムに残って、近場でバードウォッチングをしたりして楽しんだ1週間でした。

 2度目の閉鎖の週には、日本に帰国していました。7月27日の金曜日の午後の便で出発して、翌日成田着の便だったのですが、ちょうど台風が近づいている日でした。この帰国の前に、Facebookの協力隊のグループでお友達になった同期のNさんと成田で会うことになっていました。Nさんとは同期ではありますが、彼女は駒ヶ根訓練所、私は広尾訓練所だったので面識は全くなかったのです。Nさんと落ち合う相談をFacebook上でしていたら、Iさんと言うOGもジョインしたいという希望で(彼女は同期ではない)、結局このふたりが成田まで来てくれていました。Nさんの運転で久しぶりの銀座に出て3人でしゃぶしゃぶのランチなどを取り、とても充実した気持ちで実家に向かいました。台風は心配していたほどの悪天候はもたらさず、雨には降られましたが強風には出会わずにすみました。この帰国は夫なしでひとりだったので、フットワークがとても軽く、1992年にJICAの国総研で一緒に仕事をしていた同僚とも、本当に久しぶりに会うことができました。

 今年の夏はストックホルムもとても暑く、34度にも達する日が何日かあったので、暑い日本への帰国のために体を慣らすことができたのは幸いでした。普段の年なら夏といえども平均気温が22度などと言うところから突然35度の東京に帰るなどというのは大変ですが、今年はそのギャップの少なさがありがたかったです。私の滞在中に体験した最高気温は37.7度でしたが、流石に体温を超えた気温になると厳しい感じがしました。ただ連日35度という気温を体験して、とにかく外に立っているだけで滝のように汗が流れて、まるでサウナの中にいるような気分になったのは、とても気持ちがよかったです。こんな夏はスウェーデンでは体験できないし、夏の帰国はとても久しぶりだったので、夏に思い切り汗を流すということをすっかり忘れていました。やっぱり夏はこうでなくちゃと思った夏でした。

 私の実家の目の前には中学校があり、ここは私が卒業した中学校なのですが、校庭一周にたくさんの桜の木が植えられています。そのほかにも様々な植物が植えられていて、校庭の裏庭に沿った道を歩いている時、蝉の抜け殻をいくつか見つけました。



 帰国最後の晩は、友人が茨城に持っているロシア風ウィークエンド・ハウスのダーチャに別の友人と泊まりに行きました。ここからはエアポートバスでも成田まで1時間くらいだそうですが、翌日の8月5日は車で成田まで送ってもらえました。所要時間約45分。東京西部の実家からだと2時間以上かかるので、これは大変有難かったです。ダーチャでは庭でバーベキューをして楽しく過ごしました。この友人のご主人は天文ファンで、屋上にちょっとした天体観測用のスペースができていて、折しも火星が大接近している時期だったので、肉眼と望遠鏡で火星の観察をしました。



 ストックホルムに戻ってからは相変わらずのお仕事。まだ夏季休暇を取っている同僚が数人いるので職場は人手不足で、普段は私服でアドミニの仕事をしているチーフまでがユニフォームに着替えて、普通の看護師として仕事をしました。でも8月も3週目になるとみんな休暇から戻ってきて、だんだん通常の職場に戻って行きます。8月19日の日曜日には、毎年恒例の世界一長い本屋さんという催しが、ストックホルムの目抜き通りの女王様通りで開かれ、私は今年もここで古本を売る看護師さんのお手伝いをして売り子さんになりました。彼女はこの売上金を、災害で両親をなくした子供達を支援する活動をしている施設に寄付しています。


(帽子をかぶっているのが私)

 8月26日は、こちらも毎年恒例のバルト海音楽フェスティヴァルにやってくる、ゲルギエフ率いるマリンスキー劇場オーケストラのコンサート。昨年はプログラムがワーグナーでいまいちな感じがしたのですが、今年はリムスキー=コルサコフとストラヴィンスキーでした。私のお目当てはリムスキー=コルサコフです。ストラヴィンスキーはそれほど好きな作曲家ではなく、今年は”火の鳥”の1楽章とバレエ音楽の”ペトリョーシカ”でした。ペトリョーシカは以前コンサートハウスで聴いた時に、どうしても好きになれなかった曲でした。ところがどうでしょう。マリンスキー劇場オーケストラの魔法でしょうか?やはりロシアの作曲家の音楽をロシアのオーケストラが演奏すると、何かが違うのでしょうか?今回は”火の鳥”も”ペトリョーシカ”もすっかりのめりこんでしまいました。本当に魔法にでもかかったような気持ちでした。それにしてもゲルギエフが年取ったこと。髪もすっかり薄くなってしまいました。



 実はこのコンサートの2日前に、自分でわざわざチケットを買って行くことはないだろうなぁというコンサートに行きました。その名もMamma Mia: The Party!食事を取りながらABBAの音楽を楽しみ、最後はDJでABBAの音楽をかけまくって踊るというもの。知り合いの日本人ドクターが6人用のテーブルを予約してあったのだけれど、ひとり行けない人が出てしまってチケットが1枚残っているからどうかという誘いを受けたのです。もちろんお金は払ったのですが、自分でこういうもののチケットを買うことはないと思うので、この際行ってみようとすぐに了解して一緒に行きました。そうしたら楽しいこと楽しいこと。私はストレスがとてもたまりにくい性格なのですが、やっぱり時には大いに食べて笑って踊って、もやもやしたものを発散するのはとてもいいです。レストランの中はこんな感じ。



 さて最後になりますが、私は今猛烈に忙しくて、1日が48時間だったらいいと毎日思っています。アリゾナ大学の天文学のオンラインコースを取り始めたら、ストックホルム大学の天文学の基礎コースにも入れてしまって、天文学のコースがふたつ同時進行です。その上私は前立腺癌の特殊放射線治療であるブラキー治療に携わっているので、ジョンズホプキンス大学の前立腺癌のコースもオンラインで取っています。こちらはスケジュールに遅れてしまっていますが、受講は可能です。それに加えてヴァイオリンの練習。時間との戦いです。
 




 

チベット再訪

2018-06-22 17:01:05 | ネットワーク
 昨日6月21日は暦の上で夏至でしたが、スウェーデンは今日22日が暦とは関係なく、人間の都合で定めた夏至のイヴです。冬が暗くて長いこの国の国民にとって、陽が一番長い夏至はとても大切な日で、しかも週末とつけて3連休にしたいがために、毎年暦の夏至とは関係なく(偶然暦通りになる年もあるはずですが)、本当の夏至に一番近い金曜日が夏至のイヴとなってお休みで、これに土日をつけて3連休にするのです。ところがスウェーデン人にとってとても大切な夏至祭の週末は、ほとんど毎年と言っていいほどお天気が崩れます。今年も例外ではなく、1週間早ければとても良いお天気に恵まれていたのに、今日の夏至のイヴは風が強くて雨がちのお天気。陽が一番長いこの時期の週末、人々は野外でバーベキューを楽しんだり、別荘で親戚や友人と一緒にガーデン・パーティをするのが普通のようですが、突然降り出す雨に慌てて軒下に駆け込んだりするのが毎年の恒例のようです。不思議なことに毎年お天気が崩れるのはこの週末で、翌週になるとまた好天気に恵まれることが多いのです。全く気の毒な話です。

 さて私は5月31日にストックホルムを出発し、翌6月1日に北京入りして、2日にはチベットのラサに飛んでチベット再訪を果たしました。再訪というのは、協力隊員として中国に住んでいた時、協力隊の仲間と一緒にチベットに行ったことがあるからなのです。任国外旅行をどこにしようかなぁなどと考えていた矢先、吉林省で日本語教師隊員だった仲間からチベットに行く話が持ち上がり、結局それに乗ることにしたのでした。確か全員で7人だったと思うのですが、それぞれの任地から四川省の成都に集まって、そこからラサに飛んだのでした。その時の旅行ではチベット第二の都市であるシガツェまでしか行かなかったのですが、今回の旅行の目的地はチベット仏教の聖地であるカイラス山でした。

 ずっと昔にN H Kでカイラス山を紹介する番組を見て以来、生きているうちにカイラス山に行ってみたいとずっと考えていて、今年それを実行に移したのでした。昨年の10月頃から中国の旅行社と連絡を取り始め、3月に本当に行く決心をして申し込みをし、本格的な雨季が始まる前で職場の方も少しまとまった休暇を取れる状態の時期を狙って行ったのです。最初は夫も同行するはずで、中国国内での旅行代金も支払い済み、北京までのフィンランド航空のチケットも購入済みだったのですが、出発の直前になって尿路感染症にかかってしまい、結局西チベットのように環境が厳しい(高度が高くて健康体でもかなり厳しい条件)ところに行くのは無理だと判断して、私ひとりで行くことになりました。ひとりと言ってもチベットは個人が自由気ままに旅行して歩くのは難しいところですから、元々夫と私のふたりのために英語を話すチベット人のガイドさんと、私たちの専用の車(運転手さんもチベット人)が準備されていました。

 北京に着いた6月1日は私の誕生日だったのですが、翌朝早くラサに飛ぶために空港近くのホテルを取ってあり、誕生日の夕食はひとりでホテルの近くの中国版ファーストフードのお店で、牛肉入りの麺を食するというとてもシンプルなものになりました。GmailやFacebookを通じて友人や家族からお誕生日のメッセージが入っていたのですが、GmailやFacebookへのアクセスができないため(ブロックされていたようです)帰宅してから読むことになりました。幸いS M Sは機能するので、家族や一部の友人たちとはこちらを使ってコミュニケーションを取っていました。

 ラサは29年ぶりでしたが、すっかり様相が変わってしまってショックでした。高層のアパートが立ち並び、車の量も大変多くて朝夕のラッシュアワーはかなり深刻です。昔行ったときに歩いた八角街の青空市場はすっかり姿を消してしまい、小ぎれいなお土産物屋さんがずらりと軒を並べています。前回八角街で買ったマニ車や布製のバッグなどは今も大切に持っていますが、当時ヤクの毛皮を肩からかけたチベット人たちが闊歩していた市場は、見る影もなくなっていました。そしてこ市街への入り口には空港の安全検査のような場所があって、手荷物のチェックと外国人の場合はチベット入域許可証のチェックがあります。どこに行っても警察や軍人の姿が見られ、信仰の街からは程遠い様相でした。

 6月3日はポタラ宮殿の見学が入っていたのですが、なんと見学に費やせる時間はたったの1時間と制限されていました。前回行ったときには、中国語ができる若いチベット人の女性のガイドさんがゆっくりポタラ宮殿内を案内してくれて、過去仏、現在仏、未来仏の違いについて説明してくれたり、ソンツェンガンポ王やそのふたりの妃の話やツォンカパの話などを詳しく説明してくれて、数時間かけて宮殿内を見学した記憶があります。見学できる部屋も今よりたくさんありましたし、文化大革命の時に破壊された仏像や仏教画の説明なども聞くことができました。当時は観光客も非常に少なく、本当にじっくり見学できたのです。これは他の僧院を訪問した時も同様で、とにかく他の観光客がほとんど皆無に等しかったので、ゆったりと見学ができました。



 ところが今は見学時間が1時間に限られ、入場の時点で時刻のスタンプを押されます。そしてこの制限時間を過ぎてしまうと、その旅行会社が次の予約を入れるのが困難になるそうなのです。見学できる部屋も限られていて、宮殿内はどこに行っても観光客で溢れかえっていて、仏像を拝むにも何をするにも、例えば有名な絵画展が開かれている上野の美術館を訪問した時の様子でも想像していただければいいかと思います。こんな状況でしたから、私は4日にラサを離れてシガツェに向かうのが楽しみでした。

 ラサからは聖湖ヤムドゥク湖を経てまずギャンツェに向かいます。前回行った時はこのヤムドゥク湖の前から体調が極端に悪くなり、酸素吸入を受けたらますます具合が悪くなって嘔吐してしまうという事態に陥りました。後で聞いたところによると、私の体調があまりにも悪いので、同行の仲間たちは軍にヘリコプターの要請をして私を低地に下ろすことまで考えていたのだそうです。そういう前例があったので今回もどうなることかと思ったのですが、海抜4700メートルというこの湖では特に問題が起こりませんでした。前回行った時には湖の青さが目にしみるほど美しく、高山病でふらふらになりながらもリュックサックから当時使っていたニコンのFAをなんとか取り出して写真撮影をしたのを記憶しています。今回のヤムドゥク湖は残念ながらあまり明るくない空の色を反映して、美しい青色ではありませんでした。



 ギャンツェからシガツェに行って、チベットでの3泊目はシガツェでした。ここまでは普通のチベット入域許可証で行けますが、この先西チベットに行くには特別な許可証が必要になるとガイドさんが教えてくれました。もちろんそういう許可証は全て旅行会社の方で準備してくれていましたので、私自身が何かをする必要は特になかったのですが、とにかく西チベットを旅行している間、頻繁に警察のチェックポイントがあるのには驚きました。警察のチェックといっても、特に威圧的だとかいうわけではないし、日本人なのに中国語を話すといって珍しがられて、愛想よく”はいどうぞ、行っていいですよ”などと言われましたが、そういうチェックが頻繁にあるというだけでも精神的に少し落ち込みます。

 西チベットはずっと荒涼とした感じの地形が続きますが、ヤクや羊の放牧が見られたり野生の動物がいたりするし、とにかくどこに行ってもずっと山並みが連なっていてとても気持ちの良いところでした。山並みは近ければ茶色っぽいし、遠くには雪をいただいた山並みが見えるし、あの山の向こうはラダックだなどとガイドさんに言われると、昔テレビで見たラダックの様子などが思い起こされて感動的でした。



 今回の旅行で海抜が一番高かった地点はマユム・ラで5211メートルでした。前回ヤムドゥク湖の4700メートルで酷い目にあっていたので、マユム・ラではどうなるだろうかと思っていたのですが、高地のために頭がぼーっとしているということはありましたが、特に頭痛とか吐き気に襲われることもなく無事写真を写して通過することができました。チベットにいる間にいた一番海抜が低かったところはおそらくラサで約3600メートル。西チベットでは連日4500メートルほどのところにいたので、体がとても変な機能を見せました。どうやら水分が体内に溜まってしまうようで、手足にむくみが出てきて北京に戻って体重を測ったら、旅行の間ろくに食べ物も入らない状態だったのに体重が4キロも増えていました。ただ低地に戻って体内の水分が出て行くと、間も無く体重は元に戻りました。



 マユム・ラを超えてカイラス山の南麓に出たのですが、カイラス山が遠くに見えた時に、チベット人の運転手さんが”カイラス山だ”と叫んだのでそれとわかりました。カイラス山は写真で何度も見ていたのですが、遠くに小さく見える状態ではすぐにはわかりませんでした。幸いお天気が良くて車で進むにつれて姿がよく見えるようになり、”ああ、カイラス山の近くに来たのだな”と実感することができました。ガイドさんの話によると、運が悪ければカイラス山が雲に隠れて見えなくて、見えるまで2−3待たなければならないことがあるそうですが、私は運良くその全景も見ることができましたし、頂上が雲に隠れた姿も見ることができました。宿泊地はカイラス山の南麓で、聖湖のマナサルワール湖も近くにあります。カイラス山とマナサルワール湖を同時に見るのは不可能で、この聖湖とカイラス山を一緒に写真に収められたら素晴らしいのにと思いました。

 西チベットでは僧院の見学などはあまりなかったのですが、グゲ王国の遺跡の見学とトリン寺の見学がありました。グゲ王国の遺跡では、遺跡の上まで登るのは呼吸困難でとても無理で、下から見上げることしかできなかったのですが、ガイドさんが上まで登って写真を撮ってきてあげると言って、遺跡の写真を撮ってきてくれました。あの上まで登れなかったのは返す返すも残念ですが、とにかく少し体を動かすだけでも息が切れてしまうので諦めるしかありませんでした。

 ガイドさんの話によると、今外国人に人気があるのはエベレスト・ベースキャンプへの旅だそうです。シガツェを出てしばらく行くと道が二手に分かれる地点があって、左に行くとエベレスト・ベースキャンプからネパール方面、右に行くとカイラス山方面に向かいます。その地点からエベレスト・ベースキャンプまではほんの200キロくらいだそうですが、私が進んだカイラス山方面の道路からはエベレストは見えませんでした。このベースキャンプは海抜が5200メートルほどだそうでそれほど高くはないのですが、観光客がそのベースキャンプで一泊してしまうと翌朝非常に体調を崩すので(酷い頭痛になるという話)、ベースキャンプで宿泊はしないで、朝早くにベースキャンプに向かって1時間くらい登って写真を撮って帰ってくるのだそうです。割と簡単に行けるようで最近はとても人気があるそうで、私もラサのホテルや途中で昼食のために立ち寄った食堂で、ベースキャンプに行く外国人のグループをいくつも見かけました。確かに仏教徒でもなければカイラス山には興味がないかもしれません。

 カイラス山の中には52キロの巡礼路があって、信仰深いチベット人は五体投地でこの巡礼路を歩きます。この52キロの巡礼路を3日間かけて歩くという方法もあり、旅行の申し込みをする前に少し考えたのですが、やはり高地で52キロの山道を3日間で歩くのはかなりきつそうだと思い、この巡礼路を歩く旅は諦めてカイラス山を眺めて南麓に宿泊するだけに留めました。これは正解だったと思います。平地なら52キロを3日もかけて歩くなんて楽勝も楽勝ですが、ガイドさんに聞いて見たところこの巡礼路を3日で歩くのはやはり大変きついとのことでした。特に2日目は1日で22キロも歩かなければならず、もっともきつい日だということです。

 チベットには10日間滞在して北京に戻り、北京でユネスコの文化遺産に登録されているところを見学しました。この北京での観光は、中国に行ったことのない夫のために計画していたものでした。この観光に入っていた場所は、私は協力隊の現地訓練の時に全て行ったことがあったのです。万里の長城の発達嶺は1992年に国際交流基金の派遣で吉林省の長春に行った時にも再訪しましたが、その他の場所は実に30年ぶりだったので、やはり行ってよかったです。万里の長城は今回も予定では発達嶺に登る予定だったのですが、私はやはり現地訓練の時に行った慕田峪長城の方が好きだったので、ガイドをしてくれた人にそのことを伝えました。ただこちらは場所が北京市内からかなり遠くなるので、それでは居庸関長城はどうかと勧められて初めて行って見たら、すっかり気に入りました。結局ここで一番高い第12楼まで登ることができ、大変満足しました。チベットの高地だったら絶対に登れないような楼閣ですが、北京はやはり楽でした。



 チベットに一緒に行った隊員の中で癌で他界した同期がいて、チベットにいる間時々彼女のことを考えていました。カイラス山までの道のりは長かったですが、協力隊の仲間と行った僧院を再訪したり、あの時の辛かった体調を思い起こしたりしながら良い旅ができました。西チベットにはチャンスがあればまた行きたいですが、今度はラサを通らずにネパールから入ろうかと考えています。

ストックホルムで見られる日本

2018-05-01 11:50:24 | ネットワーク
 ストックホルムにも春が来たらしいということは前回の投稿でお知らせしましたが、4月も寒い日が続き、朝の気温が零下の日もありました。庭の春一番の花スノードロップは一度頭をもたげたものの、その後に降った雪の下敷きになってしまいました。ただこの健気な花は春の雪もしのげるようにできていて、雪が溶けたらしっかり咲いてくれます。



 ストックホルムの春はいつもそうなのですが、寒い日が続いた後に突然やって来ます。今年は寒さが長く続いたので、スノードロップはじっと我慢していたらしいのですが、突然暖かい日が数日続いた時にあっという間に満開になって終わってしまいました。スノードロップが終わると、別の春の草花(例えばニリンソウなど)が開き始めますが、4月も20日近くになると市内の桜の様子が気になり出します。 

 4月21日はストックホルム日本人会主催の恒例の桜祭が、市内の王様公園で開かれました。この公園の名前をスウェーデンごから直訳すると国王の庭となるのですが、私たち日本人は王様公園と呼んでいます。ここは王宮からほど近く、かつては国王が散歩なんかしたらしいのですが、それほど大きな公園ではありません。この公園の両側に桜(八重桜ですが)がずらっと並んでいるので、日本人会がここで桜祭を行うのです。毎年舞台では日本人会のさくらコーラスの合唱や和太鼓の演奏、武芸の演出などがありますが、今年はユネスコの文化遺産に登録された文楽のグループや、大正琴の演奏グループが日本から招かれていました。今年は日本とスウェーデンの外交樹立150周年の記念の年で、様々な文化活動が展開されています。日本人会のニューズレターを通じて、様々な展示会などのお知らせが飛び込んで来ます。

 さて桜のお話に戻りますが、今年はなんと21日の段階で王様公園の桜が全然咲いていませんでした。その前数日間暖かい日が続き、日中の気温が20度を超えたくらいなので、一気に開くのではないかと期待して行ってみたら、なんと開花率ほぼゼロ。この桜祭で、ウプサラという、ストックホルムから電車で40分くらいの都市の郊外に住み始めた客員研究員の友人一家と待ち合わせたのですが、この友人は咲いている桜を8個見かけたと言っていました。ちなみに以下の写真は昨年の4月22日に行われた桜祭の時に写したものです。



 獣医OGのFは今まで日本人会の書記をやっていたのですが、ここで役員を降りることにしたと言っていました。ただ桜祭は大きな行事なので、旧の役員も実行委員として活躍したようで、会場で会えるかどうかという状態でした。そんな折、会場でトイレに行くと行って座っていたベンチを離れた私の夫が、いつまでたっても戻ってこないという事態が発生。公園には仮設トイレがあるだけなので、最初のうちはトイレに長い行列でもできているのだろうと思っていたのですが、さすがに1時間も戻って来ないと何かあったのではないかと心配になります。あいにく夫は携帯を持たずに出かけたので、連絡の取り用がありません。もしかしたらFのご主人とばったり会って立ち話でもしているのかと思い、Fの携帯に電話してみました。Fの話ではご主人は会場に来ているけれどどこにいるかわからないので、ご主人に電話してから折り返し電話をくれるとのこと。ところがFのご主人は私の夫を見かけていないという返事が来ました。Fもご主人と連絡を取りながら一緒になって探し回ってくれました。結局夫は元座っていたベンチの近くにとっくに戻って来ていたことがわかり、全くFにお騒がせの迷惑をかけてしまいました。

 この王様公園での桜祭は、日本に興味がある人たちとか日本語を勉強している学生などにも大きな行事で、会場に設置されたテントではたくさんの若者がボランティアで働いていました。私たち日本人が普段着で気楽に出かけるのに対して、たくさんのスウェーデン人の若い女の子たちが着物を着て闊歩しています。当日会場では、日本人会の小袖クラブのメンバーが着付けを手伝うという催しをやっているので、スウェーデン人女子、私の着付けよりもはるかにきちんとまとまった着付けで着物を着ています。ただし草履を履いて歩くのは苦手な人が多いらしく、ビシッと着物で決めているのに足元を見ると普通の靴やサンダルばきだったり。これもご愛嬌というところでしょうか。毎回日本人会の催しで見かける若いスウェーデン人(だと思う)のカップルがいるのですが、男性の方は毎回紋付に袴、足袋に下駄履きで、女性の方もいつも着物です。一昨年お天気が悪い桜祭の時には、この女性が蛇の目傘を持って歩いていたので、相当徹底していることがうかがわれます。

 さてこの外交樹立150周年と関係があるのかどうかはわからないのですが、最近日本映画がいくつか立て続けに上映されていて、私もここ3週末は続けて見に行きました。最初は”光”。スウェーデン語のタイトルは”夕日に向かって”というような意味で、元のタイトルとは随分意味合いが違うし、映画の内容にあまり合っていないような気がします。確かに夕日を眺めるシーンは出てきますが。次の週はアニメの”この世界の片隅に”。庶民から見た戦争ってきっとこういうものだったのだろうなと考えながら見ていました。この映画を見る前に、こちらのテレビで太平洋戦争での日米戦の記録を3回に渡って見ていたのですが、普通の庶民にとっての戦争ってきっと全然違うものなのだろうと漠然と考えてきました。というのも、子供の頃よく母や伯母が戦争中に防空壕の中で起こった面白い話などをよくしてくれたからです。あとは食料や薬が不足して困ったことなど。この映画でも食糧不足をいかに工夫で乗り越えるかという場面が出てきますが、これは面白かったです。一番最近見た映画は”3度目の殺人”。私の好きな役所広司が良い味を出していました。この映画は結局3度目の殺人は一体何を意味するのか、見るものの解釈に任されるようなところがあり、とても良い映画だと思いました。私はこのように見るものの解釈に任せる映画がとても好きなのです。今の情報社会、情報が与えられすぎて人間の想像力が貧相になりやすいので、このように自己の想像力を働かせなければならない機会はとても貴重です。

 最後に余談を1つ。”3度目の殺人”を見た映画館は小さな映画館で、映写室も小さな部屋です。そこで観客の2人がお菓子を食べながら映画を見ていました。私はお菓子を食べることに大した異議はありませんが、そのお菓子の袋がガサガサ音をさせ続けて甚だ迷惑だったのです。そのうちにたまりかねたスウェーデン人の女性が、”その袋をガサガサいわせるのやめてください!”ときっぱり言い放ったのです。もちろんそれは大きな効果がありました。私は心の中で拍手喝采しました。