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JOCV(青年海外協力隊)スウェーデン在住OB・OGの会

現在スウェーデン在住のJOCV参加経験者の女性2名が、2015年に偶然出会った結果生まれたブログです。

突然の体調不良

2017-10-14 17:00:25 | ネットワーク
 ストックホルムはすっかり秋です。私が住むアパートの庭にある菩提樹の木もすっかり色づき、葉っぱをどんどん落としています。気温も今週は日中の最高気温が5−6度の日が続きました。雨も多く、秋だなぁと感じる今日この頃です。

 さて私Kは9月29日の金曜日にB型肝炎のワクチンの3回目を摂取しに行きました。協力隊の時にはA型肝炎のガンマグロブリンは打ってもらえましたし、その後もアフリカに調査に行ったりする前などにA型肝炎のワクチンは打っていました。現在はA型肝炎に関しては一生有効になっているので、今後打つ必要はないのですが、私はB型肝炎のワクチンは打ったことがなかったのです。私が中国に派遣になった当時、肝炎が中国で流行していて、中国隊だけはB型肝炎のワクチンも打ってあげようという案もあったそうなのですが、ワクチンが高額であることと、医療従事者でもない限りB型は必要ないだろうという結果になったという話で、結局B型は打たずに行きました(医療従事者は受けていたと思いますが)。

 ところが現在医療従事者として仕事をしている私は、職場で2回ほど前立腺癌の治療で使った針を手に刺してしまったのです。幸い患者さんの血液検査をして、肝炎やHIVを調べたところすべて陰性だったので、私が感染の憂き目を見ることはなかったのですが、B型肝炎のワクチンを打つべしというチーフからの指令が出て、打つことになったのです。最初の2回は何の問題もなかったのですが、3回目の摂取の時は前2回とは違う看護師さんで、注射のあとがとにかくひどく痛み、翌日から身体中の節々が痛み始め、熱っぽい感じになり(実際に熱はなかったのですが)、頭痛や胃痛まで出てきました。そしてその翌週は他の問題がだんだん消えて行くと同時に、胃の痛みがひどくなり、食べ物がろくに食べられなくなってしまったのです。結局2週間近くもスープとお粥、リンゴと梨だけで過ごしたのですが、一昨日から白身魚くらいは食べられるようになってきました。もともと17日の火曜日の午後家庭医との予約が別件で入れてあったのですが、とてもそれまで待てないので、今週の火曜日の朝に飛び込みで家庭医に会いに行きました。胃薬を処方してもらって薬局で買い、その足で職場に向かう途中、もう一人のOGであるFと職場の近くでばったり出会いました。私たちの職場は道路を隔てて向かい合っているので、職場の近くで彼女に会うことは特に不思議ではなく、Fは昼食を取りに出かけるところでした。私が家庭医に行ってきたこと、何日間もろくなものを口にしていないことを伝えたら、確かに歩く姿がフラフラしていてバランスが悪そうだというコメントが来ました。

 そんな事情でノーベル文学賞の発表があった後の週末は、キンドル版で”私を離さないで”と”日の名残”を買って、2日間ベッドの中で読んでいました。恥ずかしながらイシグロ氏の本はそれまで読んだことがなかったのです。その前に職場で、今年も日本人が自然科学の分野でノーベル賞を受賞できるだろうかと期待していました。日本人が受賞すると、ストックホルムの大使館にいらっしゃる大使ご夫妻の主催で、高級ホテルのグランド・ホテルでレセプションが催され、私たち日本人研究者もご招待いただけるのです。ここ3年間連続で日本人の受賞があったので、毎年出席させていただいていたのですが、こういう非日常的な体験はとても素敵です。結局自然科学3賞の受賞がかなわなかったことが判明した時、職場で同僚とそんな話をしていたら、彼が”でもまだ文学賞があるから、取れるかもしれないよ”と言っていました。彼は村上春樹氏を念頭に置いていたようなのですが、結局イギリス国籍とはいえ日本人であるイシグロ氏が受賞されたので、彼は自分の言ったことが完全に当たらずといえども、完全に外れでもなかったので嬉しそうでした。

 職場のドクターも”日本人が文学賞を取ったね”と声をかけてくれ、イシグロ氏の本は読んだことがないけれど、随分昔に映画を見たことがあると言っていました。その時にはその映画がイシグロ氏の小説に基づいているとは知らなかったそうです。どの映画が聞いて見たら、”日の名残”だそうで、アンソニー・ホプキンスが出ていることがわかったので、今日の土曜日家でユーチューブで私も映画を見ました。彼はいつもの通りとても良い味を出していますね。

 秋は文化の秋、食欲の秋、スポーツの秋などと色々形容されますが、現時点では食欲の秋は私には無関係。昨日はちょっと素敵なレストランで日本人女性4人で作っている”美女会”の会合だったのですが、私は欠席。文化の秋は多少胃が痛くても楽しめるので、ここ最近2回ほど、イギリスのロイヤル・オペラを映画館のスクリーンで見るというプログラムに行きました。最初はモーツァルトの魔笛、2回目はプッチーニのラ・ボエーム。ラ・ボエームは私のお気に入りのオペラです。あのボヘミアン達がなんとなく羨ましいのですね。この秋から来年の春にかけては、コンサート・ハウスのチケットのパッケージが買ってあり、そのパッケージに含まれる最初のコンサートが今度の木曜日にあります。ストラヴィンスキーです。今まで何度もこの手のパッケージを買うことを考えたのですが、それよりも自分が聴きたいコンサートをその都度買ったほうがいいと考えて買わずに来ました。でもこういうパッケージを買っておくと、普段聴かない作曲家の音楽も含まれているので聴くことになり、新しい開拓をするのにはいいかもしれないと思って、パッケージを買ってみたのです。事実ストラヴィンスキーは私が積極的に聴く作曲家ではありませんし、後でバルトークなども登場しますが、こちらも私が積極的に聴く人ではありません。そういう意味で、新しく開拓できるのはいいことだと思っています。スポーツの秋も私はちょっと無縁ですが、夏以降ステッパーを購入して、毎日それでステップを踏んで足腰を鍛えています。

 話は変わりますが、私は11月の末に1週間ほど帰国することにしました。1年に2回帰国するのは今年が初めてです。11月28日が母の85歳の誕生日なので、そのお祝いのために帰国するのです。今まで母の誕生日には何かプレゼントを送ったり、電話をしたりする程度で済ませて来ました。おかげさまで母は特に大きな体調の問題もないし、頭もしっかりしているので、88歳の米寿に帰ればいいかななどと考えて来ました。ところが母が今年の夏、私がブータンに行っていて、すぐ下の妹もオランダに来ている間に玄関で倒れ、腰と頭を打ってしまったのです。一番下の妹がすぐ隣に住んでいるので世話をしてくれたのが幸いでした。運がいいことに骨折はなく、頭も脳に異常などは出ていなくて、打撲の痛みだけで済んだのですが、やはり元気とは言っても85際は85歳ですから、今年からは母の誕生日には毎年1週間くらい帰国しようと決めました。母は若いころ短距離が得意でよく走っていたので、未だに自分の足腰を過信しすぎる傾向があります。それで無理して転んでしまったりするのです。1週間という短い期間なので、夫は留守番です。今回の帰国中は、妹2人と私と母で、母娘水入らずの1泊旅行をすることになりました。私たち3姉妹と母だけで旅行するなんて、生まれて初めてのことです。

 帰国する前の週には、日本からヨーロッパひとり旅にやってくるMさんとバルセロナで落ち合うべく、週末を利用してバルセロナに行きます。実はスペインは初めてです。Mさんとは5−6月の帰国中に会ったのですが、バルセロナでの再会なんていうのも乙ですね。

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すっかり秋

2017-09-10 21:17:52 | ネットワーク
 ブータンでの休暇から戻ってから、夏らしい日がないままに秋になり、もう晩秋の気配です。今月初めの週末に、協力隊OGのUちゃんが大学生のお嬢さんと一緒にストックホルムにやって来て、9月4日に帰国しました。Uちゃんは隊次は私より一期早い62年3次隊で、職種も派遣国も違うのですが、帰国後に協力隊のOG会で一緒に活動していました。帰国直後私は国際協力センターで仕事をしていて、オフィスが市ヶ谷にあったのですが、Uちゃんの職場もすぐ近くで、たまに一緒にお昼ご飯を食べたりもしていました。Uちゃんも私もその後あちらこちら移動していたので、途中で連絡が途切れてしまったのですが、オランダ在住の共通の友達のOBであるSさんのおかげで復活し、今年の5月に私が帰国した時には、Uちゃんが名古屋から来てくれて会うこともできました。

 今回Uちゃんが泊まったホテルは、偶然にも私の家からとても近いホテルだったので、待ち合わせをするにも、家に晩御飯を食べに来てもらうにもとても便利でした。1日の金曜日は職場からフレックスを取ってホテルに行き、近くのベトナム料理レストランで食事をしました。何しろ金曜日の晩なので、予約なしで入れるレストランといえば中華やベトナム料理のレストランくらいしかありません。重要なのは食べ物ではなく、とにかく会って色々話をしたり、週末の予定を立てたりすること。とりあえず食事も割と美味しくて一安心。

 実は私はその前日の木曜日、以前の職場の同僚たちと女子会があって、レバノン料理のレストランでワインを飲みすぎたのか、金曜日は一日中頭痛に悩まされていました。ワインもそんなにたくさん飲んだわけではないのですが、この頃普通のワインを飲むと翌日頭痛がすることが多くなって来たのには気づいていました。エコロジカル・ワインとかオーガニック・ワインというと頭痛がしないので、それ以外のワインには何か私の体に合わないものが入っていて、今までそれに反応したことはなかったのに、最近は体質が変わって反応しているのかもしれないと考えています。以下はその女子会の写真。



 Uちゃんはお酒をほとんど飲めないので、ベトナム料理のレストランでもソフトドリンクで済ませます。そして翌日の相談。土曜日には野外博物館のスカンセンに一緒に行くことになりました。スカンセンは観光名所のひとつですが、スウェーデン人も大好きな場所です。ここは動物園と民家村を合わせたようなところです。私はスウェーデンに住むようになって21年になりますが、実はこのスカンセンに行ったのは、まだスウェーデンに住むようになる前、22年前に観光客としてスウェーデンに来た時で、それ以来行ったことがなかったので、Uちゃんの案内役もすることができませんでした。スカンセンの中のことなんかすっかり忘れてしまっていたのです。

 スカンセンの後は、私がお勧めしていた北欧博物館と、処女航海ですぐに沈没してしまった船のヴァーサ号が展示されているヴァーサ博物館に行ってみたいということでしたが、この日の晩はUちゃんたちが私の家に食事に来ることになっていたので、私はスカンセンの後に一緒に昼食を取ってから、夕食の準備のために家に帰りました。夕食に来てもらうにも、ホテルが近くなので本当に便利です。スウェーデンの名物料理である、ヤンソン氏の誘惑というすごい名前の料理と魚のスープ、デザートはラズベリーのパイで夕食にしました。飲み物はUちゃんにはノンアルコールのビール。私はライトビールを飲み、お嬢さんにはリンゴのサイダー。私は普段はビール派ではなくワイン派なのですが、前日のワインによる頭痛のためにワインは避けました。

 食事を始めてしばらく経った時、Uちゃんがお嬢さんの顔を見て、お酒を飲んだみたいに赤くなってると言いました。お嬢さん自身も顔が火照った感じがすると。そこで見てみたら、なんとこのリンゴサイダーにはアルコールが0.9パーセント含まれていたのでした。私はサイダーを買うときはいつもこのリンゴサイダーか、同じメーカーが出している梨のサイダーを買っているのですが、アルコールが含まれていることに気をとめたことがありませんでした。お嬢さんもUちゃんに似てお酒に弱いらしく、本当に真っ赤になってしまいました。でもそれ以上大きな問題にならなくてよかったです。

 日曜日はお土産を買いにデパートに行った後、Uちゃんたちは市庁舎の中のガイド付きの見学に出かけて行きました。私は翌日の月曜日に、日本から来る国会議員の訪問団と昼食を取りながらの会合があるので、その準備をするためにUちゃんたちと別れて家に帰りました。別れる前に王様公園でUちゃんと一緒に写した写真が、以下の写真です。向かって右側がUちゃん。



 Uちゃんたちが帰国の途につく月曜日は、朝からかなりの土砂降り。私も国会議員とのミーティングの会場に行くのに少し大変でした。雨だけならいいのですが、風がかなり強くて傘をさして歩くのが大変だったのです。Uちゃんには、ホテルから空港行きのバスに乗るバス停を教えておいたのですが、多分タクシーで空港まで行く羽目になったと思います。帰国したUちゃんから、名古屋でスーツケースがひとつ出てこなかったというメッセージが届きました。実はその前まだUちゃんがストックホルムにいる間に、今回合流できなかったSさんからメールが来ていました。Sさんは仕事でキルギスタンに行っていたのですが、キルギスに着いた時にスーツケースがひとつ届かなかったと言っていたのです。そうしたら今度はUちゃんが同じ憂き目に。今回Uちゃんが使ったのは信頼できるフィンランド航空だったので、ちょっと意外でした。

 幸いUちゃんのスーツケースは、翌日には届いたそうです。Uちゃんは近いうちにメキシコに出張が入っているそうですが、今回の地震でどうなるかと言っています。SさんもUちゃんも、テロや自然災害には気をつけて活躍してほしいです。


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夏休み第2段:ブータンへ

2017-08-27 20:01:48 | ネットワーク
 8月5日にストックホルムを出発し、翌朝バンコクに到着。7日の早朝のドゥルク・エアーに乗って、3度目のブータン訪問をしました。昨年もドゥルク・エアーの便は確か朝の6時半頃と早かった記憶がありますが、今年はドゥルク・エアーのフライト・スケジュールが変わって、何と朝の4時半発。空港には2時間前に行かなければならないので、宿泊先だった空港の近くのホテルを2時過ぎに出発しました。昨年は空港が大変な混雑で出国に大変な時間がかかったのですが、今年はかなり順調に手続きが済んでホッと安心。飛行機はほぼ時間通りに出発し、コルカタ経由でパロに向かいました。

 パロの空港に迎えに来てくれていたのは、昨年もガイド、通訳としてお世話になったウゲンさん。運転手さんは昨年とは違う人ですが、若くてにこやかで愉快そうな人。名前を聞いたのですが覚えられなくて、私はいつもミスター・ドライバーと呼んでいました。ウゲンさんとミスター・ドライバーは東部の同じ村の出身で、遠い遠い親戚にあたるそうです。

 今回のブータン訪問の目的は、Rural Development Training Centreを訪問すること。訪問に先立って農林省でこのセンターの統括をしている方からお話を聞きたいというリクエストを出し、質問したいことをあらかじめウゲンさんにメールで送っておいたので、こちらのアレンジはぬかりなくしてくれていました。問題はこのセンターへの訪問。通常だと首都のティンプーからTrongsaまで行って、そこから南に向かうらしいのですが、何しろ雨季の真っ最中で、Trongsa経由はほぼ不可能に近いというウゲンさんからのメールが、ブータンへ出発する数日前に届いていました。ついては、この件に関してはブータンに到着されてから相談したいというメッセージだったので、きっとこのセンターに行くのは不可能なのだろうと諦め気分でブータン入りしました。

 ところがパロからティンプーのホテルに向かう車の中で聞いたウゲンさんの説明によると、ティンプーから南に向かってインド国境近くのGelephuという街まで行き、そこから北上してセンターがあるZhemgang(シェムガンと発音するらしい)に行く方法があるということなのです。ティンプーからゲレフーまでは道も良く、ゲレフーからシェムガンは途中2ヶ所ほど土砂崩れの問題があるところがあるが、何とかなるだろうという提案でした。私は迷わずその方法で行きたい旨を伝えました。ウゲンさんが、それでは明後日出発しましょうと言うので、早速予定が決まりました。

 到着したのが朝早かったので、ゆっくり休む間も無くその日の午後3時にもう農林省のお役人と会うことになっていました。予定はウゲンさんが全て立ててくれていました。ウゲンさんが、農林省ではセクレタリーに会うことになっていると言うので、私は誰かの秘書をしている人と会うことになるのだろうとのんびり構えていました。ただ中央省庁にブータンの伝統服で行く場合は、女性は肩から細長い飾り物をかけ、男性は身分によって色が違う大きなスカーフを肩の周りにぐるりとかけることになっていると聞いていたので、まずはそれらを買いに出かけました。女性のキラと男性のゴーは昨年買ってあったので、スーツケースに入れて持って行ったのですが、肩飾りとスカーフは持っていなかったのです。街中で昼食を取ってから買い物に行き、一旦ホテルに戻って着替えです。ホテルのスタッフに手伝ってもらって、何とか形になりました。下の写真が、着替え後にホテルで写したものです。夫はまだスカーフを巻いていません。



 さて農林省に向かう車の中で、私がこれから会う人についてウゲンさんに尋ねてみました。その人は誰の秘書をしている人なのかという私の質問に、ウゲンさんはちょっと驚いたような顔つきで、いや秘書じゃなくて、この方は農林大臣に次いで偉い人なのですと言うではありませんか。私はあっけに取られてしまい、普段滅多に緊張なんかすることがないのに、たちまち緊張してしまいました。昨年も教育省や農林省でお役人からお話を聞きましたが、大臣に次ぐ偉い人と会うのは初めてです。その方の執務室に入る前に、ウゲンさんが相手に対して敬う気持ちを表すようなマナーを手短に教えてくれました。

 会ってみると、昨年会ったお役人たちと比べてちょっと強面で、私は多分生まれて初めてタジタジとなってしまいました。2008年に学会でブータンに行った時、6人がけくらいの小さなテーブルで現ブータン国王と昼食を共にするすごくラッキーな機会に恵まれた時でさえ、ここまで緊張はしなかったのに。まあ私が質問したいことは前もって相手に伝わっていたので、私はただそれを繰り返し、ちょっと追加の質問をする程度で終わりました。何しろ忙しそうな方なので、いつまでもダラダラと話しているわけにもいきません。この執務室を出た時には、本当にとっても安堵しました。こんなに緊張するなんて、我ながら驚きでした。

 翌日は午前は丘の上の仏像があるところに行って、僧侶の最高位であるジェ・ケンポのお説教を聞きました。聞いても何もわからないのですが、ジェ・ケンポがそこで毎日お説教をしているというので、聞いてみたかったのです。大きなテントの下には多くの民衆や僧侶が座って、お説教を聞いていました。ここにある仏様の坐像は、座っているものとしては世界で一番高さが高いのだそうです。昨年まだ完成していない時点でここに行ってみたのですが、今年は建物の中もだいぶ出来上がっていました。下の写真はその丘の上で写した写真です。



 この日はお昼過ぎに病院の癌病棟に行って、看護師さんから少しお話を伺う予定になっていました。私自身が現在はストックホルムの大学病院の癌クリニックで、特殊放射線治療に携わっているので、ブータンの癌病棟をできれば見学したかったのです。総副婦長さんという方からまずお話を伺って、それから病棟の方に行ってふたりの看護師さんからお話を伺うことができました。ブータンの医療は全て無料ということは知っていましたが、国内で治療できない患者さんをインドに送る場合にも無料、付添人も必要なら無料でつけるということでした。現在は放射線治療は国外に行って行なっているそうですが、近いうちにブータンで放射線治療が始まる予定だと聞きました。看護師さんたちは抗がん剤治療に携わっているということ、緩和ケアは自宅で行われることがほとんであることなどを伺いました。

 そして3日目。いよいよインド国境の街ゲレフーに向けて出発です。ゲレフーまでは長旅なので、朝は8時に出発する予定になりました。ブータンの南の方に行くのは初めてなので、バードウォッチャーである夫と私は、今まで見たことがない鳥が見られるのではないかと、期待も膨らみます。前もってブータンの鳥の本をおさらいしていた夫は、ホーンビルが見られるのではないかと嬉しそうです。途中昼食を取るのに適した場所がないからという理由で、ウゲンさんがホテルに頼んでピクニック用のランチを準備してもらってくれていました。ピクニックといっても、芝生の上に敷物を敷いて座ったりしたわけではなく、公衆トイレもある東屋のようなところで、椅子とテーブルで食事をしたのです。ブータンで初めてのピクニック。これは楽しかったです。

 ゲレフーまでの道のりは確かに舗装されていて、土砂崩れで通行止めなどということもありませんでした。もちろん道路はずっと曲がりくねった山道ですが、昨年体験したような、途中で土砂崩れを取り除くためのショベルカーの作業が終わるまで通行止めなどということもありませんでした。ゲレフーに近づくにつれ、植生がどんどん変わって行きます。そして途中で窓から目を凝らして外を見ていた夫が、とうとうホーンビルを発見したのでした。今回の旅行中には、3種類のホーンビルを見ることができました。夕方ゲレフーに着いてみると、ここはやはり暑いです。今回インド国境まで行くのは、ブータンに着いてから決めたので、暑いところ用の服装はあまり準備してきていませんでした。ゲレフーも、目的地であるシェムガンも、観光客が行くようなところではないので、ツーリスト・クラスのホテルはないとウゲンさんから聞いていたのですが、私たちが泊まったKuKuホテルには、冷房が完備されていました。ただし冷房に弱い夫と私はほとんど使わないような状態でしたが。


グレート・ホーンビル

 翌日は朝8時にゲレフーを出発して、目的地シェムガンに向かう予定で出発しました。ところがホテルを出て間も無く、一晩中降った大雨の生で橋の上まで川の水が流れ出し、この橋の手前でしばらく通行止めになりました。しばらくして通行止めは解除になったのですが、ウゲンさんが交通警察から、シェムガンまでの道の途中2ヶ所が土砂崩れになっており、ショベルカーが出て作業を行なっているので、それが済めば出発できるが、作業が終わらなければゲレフーにもう一泊しなければならない、しばらく様子をみるしかないという情報を掴んできました。そこで待っていても仕方がないので、またホテルに戻って休むことに。結局ゲレフーを出発したのは午後の3時近くでした。


橋の上にあふれた川の水

 シェムガンに着いた時は夜8時近くで真っ暗。ブータンの運転手さんの運転の腕前は素晴らしいですが、夜曲がりくねった道を運転するのは、さぞかし疲れるだろうと思います。とても簡素だけれど清潔でさっぱりしたホテルに入って夕食。翌日はセンターには9時過ぎに向かえばいいということなので、朝は少しゆっくりします。

 翌日はいよいよ目的のRural Development Training Centre訪問です。このセンターは様々なレベルで学校をドロップアウトした若者が、農業経営に携わり自営になれるように訓練するところです。学生たちも先生たちもみんな元々農家の出身ですが、ここで肥料、種まきに適した時期、栽培のプラン、土壌の手入れなどを、科学的な知識に基づいて学びます。まずは所長さんに会ってお話を聞きます。この所長さん、実におおらかで素晴らしい方で、先生たちもどんどん部屋に呼んで話を聞かせてくださいます。このセンターの継続、拡大、質の向上のために尽力されている方で、今まで様々なリクエストを例のセクレタリーにしてきたそうですが、あのセクレタリーは大変いい方で、今まで自分のリクエストを拒否したことは一度もないとおっしゃっていました。先生たちからもお話を伺ったのですが、皆さんこのセンターが設立された時から10年間勤務されていて、ここで教鞭を取ることにとても満足されているようでした。


センターの教室の建物のひとつ

 所長室を出てからは、ちょうど授業が進行中のクラスの見学をさせていただきました。この日の授業は野菜プランニングの内容でしたが、2週間のコースが始まったばかりで、この日は2日目でした。先生は矢継ぎ早におさらいの質問をしています。また学生たちは前日自分が学んだ新しいことを発表しています。午前の授業が終わったら、私たちは一旦ホテルに戻って昼食を取る予定でしたが、先生が学生たちと学生食堂で一緒に食べませんか、粗末な食事ではありますがと誘ってくださったので、学生たちと一緒に食べることにしました。学生さんたちからも話を聞きたかったのです。ところがみんなとても恥ずかしがり屋で、なかなか隣にきて座ってくれる人がいません。その理由は、恥ずかしがっているだけではなく、英語で会話をするのが少し苦手ということもあったようです。ブータンでは基本的には英語で授業が行われるので、中学校くらいまで行っていれば簡単な日常会話くらいはできますが、外国人と話したりするのはやっぱり気がひけるようです。授業は英語と国語であるゾンカが混ざっていて、英語で聞いてはわかるようですが、話すのはやはりそれほど簡単ではないようです。

 昼食の後は、実習用の農場や動物の厩舎、鶏卵室などを見せていただきました。私はここのセンターをたちまち好きになってしまいました。そして花巻農学校で教鞭を取っていた宮沢賢治が、辞職して開いた私塾である羅須地人協会のことをずっと考えていました。宮沢賢治がひとりでやっていたことが、ここではセンターという形で行われているのです。翌日もこのセンターに行って、授業を見学させていただきました。この日は土曜日だったので、授業は午前中だけ。学生たちは前日行ったグループ作業の発表をします。グループ作業は、出身の地域ごとに作られたグループが、農業協同組合の形式で農業経営をするという想定で行われていて、グループで話し合った結果が模造紙に書かれていて、その内容を代表者が発表するというものでした。この日はホテルもこのセンターも停電していて、先生もコンピューターとプロジェクターを使った説明ができないので、全て紙で行います。

 このグループ作業の発表が実に面白く、私にとって抱腹絶倒の場面がいくつかありました。私たちのために英語で発表しようと努力してくれる人もいるのですが、やはり途中からゾンカになってしまいます。ゾンカだと私は全然わからないのですが、何が起こっているかくらいは想像ができ、私が面白いと思う場面では学生さんたちも大笑いをしていたので、やっぱり面白い場面なのだと納得していました。もちろん彼らは真剣にやっているのです。この発表の結果にも成績がつけられるからです。面白いのは、みんな農家の出身なので、実際の農業のこととなればかなりの知識を持っているわけで、それを元にいろいろな批判が出るのです。それに対して答える方も必死です。何しろ成績がかかっているのですから。とにかくものすごく面白くて、地に足がついた学習で、私もこんな教育にたずさわれたらよかったとしみじみ思いました。

 とても感心したのは、どのグループもまず私たちゲストを歓迎する挨拶をしてくれます。これはブータンではきっと普通の常識的なことなのでしょうが、こういう心地よい形式というのはいつまでも続いて欲しいなぁと思います。私と夫も少し自己紹介を兼ねて話をしました。私は今ヨーロッパで問題視されているスプレーが蜂を殺してしまっているという話をしました。蜂を殺すことが目的のスプレーではありませんが、農民にとって作物をダメにする害虫との闘いはつきものです。その場合どういう方法で害虫を駆除するのかというのは、農民にとって大きなチャレンジではないかと思うというような話をしました。何故ならブータンはオーガニック農業を目指しているからです。

 このセンター訪問ですっかり満足して、土曜の午後はまたゲレフーに向けて出発予定でした。ところが私たちのホテルのそばの電柱が、前夜の大雨による土砂崩れのために5本なぎ倒され(それが原因で停電になっていた)、ゲレフーに向かう途中も土砂崩れで通行止めだというのです。結局予定通りにシェムガンを出ることができず、1泊余分に泊まることになりました。シェムガンは何もないところですが、ゲレフーの喧騒のあとではとても気持ちのいいところで、もうしばらくいたいと思ったくらいです。シェムガンからゲレフーに向かう道の途中で、土砂崩れがまだ解決されていないところがあって、2時間くらい通行止めになっていました。幸い私たちにはバードウォッチングという趣味があるので、飽きることもありません。


土砂崩れを取り除いているショベルカー

 ティンプーには月曜日に戻りました。この日の夜は、古くからの知り合いで、現在ブータンのユニセフに勤務されているミシュラさんとホテルで会うことになっていました。結局ミシュラさんとはホテルで夕食を共にすることができました。雨季の地方への旅はちょっとした冒険です。念のために日程に余裕を持って計画していたので、シェムガンに1泊余分にすることになっても大きな問題はありませんでした。
 

ホテルでミシュラさんと

 今度ブータンに行くのは再来年の予定です。次回はアッサムを通ってブータンの東部から入国し、2週間ほどかけてブータンを横断しながらお寺詣りをします。出国はパロからです。来年の5月から6月にかけてはチベットに行き、カイラス山詣でをする予定です。協力隊時代に、任国外旅行をする代わりに他の隊員5人とチベットには行ったことがあるのですが、その時はカイラス山には行けませんでした。来年はチベット、再来年はブータン、そしてその翌年はできればブッダガヤに行ってみたいです。来年からは巡礼の旅を始めます。

 さて長い旅行記になりましたが、今度の週末には協力隊OGのUちゃんが、お嬢さんと一緒にストックホルムに来ます。別の共通のOBでオランダ在住のSさんも合流を計画していたのですが、様々な事情で今回はストックホルムに来られなくなりました。ちょっと残念ですが、私は割と近くにいるのでそのうち会えるでしょう。

 それでは次回の投稿をお楽しみに。



生きているうちに一度は行こうと思っていた所

2017-07-22 16:19:15 | ネットワーク
 今回は2つの投稿を同じ日にするという快挙(?)を果たします! 

 スウェーデンは夏休みモード真っ盛り。こちらでは色々な日程の話をする時に第XX週目という言い方を頻繁にします。週で日程を考えるなんてことに慣れていない私は、第XX週目と言われるたびにカレンダーで確認しなければならないのですが、その時使うカレンダーはスウェーデンのものでなければ、週の番号など書いてありません。私は通常スケジュール確認はiPhoneやiPadでやっていますが、これらには週の番号が付いていないので、結局スウェーデンで印刷されたカレンダーが必要になることがままあります。私の職場は第29週目と第31週目に閉鎖になるので、これらの週の前後に休暇を取って4週連続にするスタッフもいますが、私はそれはしないで、29週目の今週は月曜から金曜までポーランドの古都クラコフに行ってきました。クラコフは行ったことがある人みんなが美しい古都だと言うので、もちろん旧市街にも興味があったのですが、私の主な関心はクラコフから60キロくらいのところにあるアウシュビッツとビルケナウの強制収容所にありました。

 元々私は学部時代の専攻は西洋史学でしたし、西ヨーロッパの現代史は自分なりに少し勉強していたので、第二次大戦中の出来事には関心のあることがいくつかあります。特にアウシュビッツは人間として生まれた以上、人間の極限の残虐性と極限の犠牲を知るために、一度は行っておかなければならないと考えてきました。アウシュビッツの他にもう一ヶ所近いうちに行きたいのが、ノルマンディー上陸作戦が行われたところです。幸いクラコフにはストックホルムから直行便があることがわかったので、それでは今週をそのアウシュビッツへの訪問に当てようと計画したのでした。宿泊の予約はBooking.comを使って行ったのですが、そこはホテルではなくてアパートで、クラコフ中央駅から歩いても10分強、今回の旅の目的地だったユダヤ人地区にはとても近く、ユダヤ人ゲットー、シンドラーの工場跡にも歩いて行ける距離でした。

 もちろん私たちは誰も、第二次世界大戦中にユダヤ人がナチスのホロコーストの犠牲になり、その中心的役割を果たしたのがアウシュビッツだったということは知っています。私は学部時代の卒業論文は、アメリカの先住民族であるダコタ族の西部開拓時代の歴史について書いたので、アメリカ先住民のジェノサイドについてもかなり勉強はしていましたが、ナチスのホロコーストはシステマティックで高度に練られた計画性に満ち、そういう点でカンボジア、ボスニア、ルワンダ、シリアなどでの虐殺とは一線を画していると思っています。しかもユダヤ人の迫害の歴史はナチスの時代に始まったっことではありません。私は子供の頃”十戒”という映画を見に行ったことがあるのですが、紀元前1200年も前からユダヤ人の迫害は続いていたわけで、そういう点からも現代史に残る他の虐殺とは少し異なると考えています。アウシュビッツで起こったことは、人類の極限の残虐性を示していると思い、人間として生きているうちに一度は行っておきたいと考えていたのでした。

 その前に5月下旬から6月上旬の帰国中に、福島の白坂にある原発災害情報センターでの講演会に参加した時、そのセンターの隣にある小さなアウシュビッツ平和博物館を訪れていました。ここは本当に小さな博物館なのですが、その中に展示されている生存者の声や目撃者の声を読んでずっしりと重く心にのしかかってきて、今度生まれ変わる時にはもう人間には生まれたくないと思いました。もちろん自分が何に生まれ変わるかは自分で決められることではありませんが、今度人間に生まれたら天体物理学者になりたいという希望を抱いていたのです。でもそれよりもできれば鳥、特にワシに生まれ変わりたいと考えるようになっていました。そして本物のアウシュビッツに行ったら、自分が一体どんな反応を示すだろうかという不安がありました。

 そしてアウシュビッツ訪問の準備として、ユダヤ人の子供たちのスイスへの逃避行を描いた、実話に基づいた映画”ファニーの逃避行”をストックホルムで見ておきました。これは現在イスラエルに在住のファニー・ベン=アミさんの自伝に基づいて作られた映画だそうです。子供達はファニーを中心に無事スイスに逃れたのですが、後でインターネットで調べた情報によると、ファニーと2人の妹の両親はアウシュビッツで命を落としたそうです。

 アウシュビッツには木曜日に行ったのですが、その前にユダヤ人地区でシナゴーグの中を見学したり、現在は博物館になっているシナゴーグを見学したりしました。翌日はユダヤ人ゲットーに行き、ここで薬局を営んでいたポーランド人がユダヤ人をかくまってて助けた史実などを残した小さな博物館も見学しました。その中でユダヤ人の生存者たちの証言があるのですが、ユダヤ人は本当にすごい人たちで、ゲットーの劣悪な住環境の中でも夜は音楽会などを催して、束の間の楽しみも持っていたというのです。ある女性の弟さんはピアノやヴァイオリンを弾いていて、彼女は今でもメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴くと、ゲットー時代を思い出すと言っていました。別の女性は、自分はゲットーの中で夫に出会った、あそこには他に行く場所もなかったので、デートはいつもバルコニーだったなどと話していました。こういうたくましさが、歴史上迫害され続けてもユダヤ人が滅びることなく健在である秘訣なのだろうかとも考えます。もちろんシンドラーの工場跡も行きました。ここは今は博物館になっていて、実に興味深い展示の仕方で、見て歩くのにとても時間がかかります。この博物館に行った後、私はポーランドの歴史について自分がほとんど知らなかったという事実に愕然としました。

 そしてアウシュビッツ。不思議なことに私はずっしりと心にのしかかるものを経験しませんでした。ポーランド人の英語のガイドの男性について見学するのですが、その人が史実をできるだけ客観的に、強すぎる感情移入などをしないで説明してくれたのが一因かと思います。また展示物の中にも、福島のアウシュビッツ平和博物館で見たような、目撃者によるなまなましい描写などがなかったのも一因かもしれません。ともかく私は結構冷静に自分の見たものを目に焼き付けることができました。以下写真と簡単な説明です。


ユダヤ人共同墓地。この一角にはラビたちが集まって御墓参りをしていました。


ユダヤ人共同墓地に面した小さなシナゴーグの中。


別のシナゴーグの中。ユダヤ人は自分たちがいつまでその地にとどまれるかわからないため、シナゴーグの内部はシンプルに作ったそうです。



シナゴーグの博物館内で。今回はいよいよ私の画像までお披露目です。ベンチの横の美しいダビデの星を写したかったのですが。


シンドラーの工場後。現在は博物館になっています。


シンドラーの博物館


シンドラーによって救われたユダヤ人たちの写真(ここにはごく一部だけ)


ユダヤ人ゲットーの中にあった薬局。ポーランド人の所有者が多くのユダヤ人を匿った。現在は小さな博物館。


ユダヤ人の老人ホームだったところ


老人ホームの住人と館長は全員射殺されたと書かれている


ユダヤ人地区の中にある、アリエルというレストラン。シンドラーのリストを製作中のスピルバーグ監督も立ち寄ったというところ。ここでは夫までご披露です。


有名なアウシュビッツへの入り口。


アウシュビッツの建物群


アウシュビッツの犠牲者はユダヤ人だけではありません。ポーランド人もジプシーも、ロシア人捕虜もたくさん犠牲になっています。


ビルケナウ収容所。アウシュビッツが一杯になった為に建設された収容所。ユダヤ人は鉄道でここまで連れてこられました。


ユダヤ人が運ばれた貨車







NーOGとの出会い

2017-07-22 15:09:02 | ネットワーク
 前回の投稿で、私が所属しているスウェーデン医療従事者の会に、医療従事者である協力隊OGがいることをお知らせしました。そのNさんと7月1日に会ってランチを一緒に取ることにし、実現することができました。私は協力隊から帰ってからWAAというOG会で活動していたり、協力隊に行く前も後もずっとJICA関係の仕事をしていたので、先輩隊員と仕事上出会うことも多く、自分より古い隊次の人たちに会うのには慣れていたのですが、自分より若い隊員、特にものすごく若くて隊次がずっと後というOVと会ったのは初めてです。

 Nさんは小さい子供さんがいて、本来1年間の母親休暇が取れるスウェーデンですが、理学療法士としての仕事が大好きで面白いし、ご主人と助け合って子育てができるので、1年も経たないうちに職場復帰するのだそうです。とにかく1日でも長く休みたいスウェーデン人にとっては信じられないことでしょうが、私にはその気持ちわかるような気がします。そして私の予想通りNさんは私よりずっと後の隊次でした。同じ中国派遣といっても、もちろんお互いに全く知りませんでした。私自身が日本にいないので、中国派遣だった協力隊員のOV会が催されているのかどうか知らないのですが、結局帰国しても連絡を取るのは同期くらいなので、自分が参加した後の隊次のことはほとんど知りません。私は前述の通りバヌアツが派遣希望先で、中国は全く希望していませんでしたし、自分が中国に派遣になるとは夢にも思いませんでした。と言うのも、中国は経験豊かな人材を求めているので職歴の長い人が派遣される傾向にあり、自然と派遣隊員の平均年齢も高いと聞いていたからです。実は私は協力隊の受験をした時点で20代後半だったので決して若い方ではなかったのですが、日本語教師の養成講座を修了したばかりで教えた経験はゼロだったのです。それを根拠に、絶対に中国には派遣にならないだろうと固く信じていました。ですから通知が来た時には一瞬ショックを受けたのですが、まあとりあえず行ってみようという気持ちで参加したのでした。もう1人のOGのFはアフリカが任地でしたが、帰国すると同期のアフリカ組で集まったりすると言っていました。

 Nさんも中国は派遣希望先ではなかったそうですが、派遣先は初めての協力隊が入った職場だったそうです。私は同期と2人で同じ職場に派遣になったのですが、私たちも新規でした。Nさんとも話したのですが、新規の職場は大変なこともあるにはあるけれど、前例に縛られずに自由に色々開拓できるのでそういう楽しみもあるという点で一致しました。彼女の派遣時代の話を聞いたり、派遣中に出会ったというご主人のことや、協力隊を終えてからの経歴など色々話して、気がついたらあっという間に3時間以上が過ぎていました。まさかスウェーデンで同じ中国派遣の協力隊仲間と会えるとはお互い夢にも思っていなかったので、驚きもし、嬉しい気持ちにもなります。

 話は訓練所時代に遡りますが、訓練所で歌っていた協力隊の歌の歌詞の中に、”赤道直下新天地”というくだりがありました。今でも同じ歌が歌われているのかどうか知りませんが、当時はこの歌を訓練中に何度か歌った記憶があります。しかし中国は”赤道直下”とか熱帯の気候などとは縁遠かったので、”どうせ私たちは中国隊だから”などとちょっと拗ねて時々言っていました。蓋を開けてみると、私の同期(私たちは8人)には新卒が2人もいて、経験年数の多い隊員という噂の根源はなんだったのだろうと思った記憶があります。私は新卒でこそなかったけれど、日本語教授経験ゼロ。バヌアツに派遣になった私の同期のYさんは、確か私と同い年だったし日本語教師としての経験もある人だったので、彼女が中国に派遣になって、私がバヌアツに派遣になった方がよほど良かったのに、といつまでもぐずぐず考えていました。それにしても今考えると、”赤道直下”という言葉がぴったり来ない国は他にもあり、例えば中国よりずっと長い派遣歴があるネパールなんかも、あまりこれにぴったり来ないし、その後派遣が始まったブータンなどもやはりこれとはかけ離れた感じですね。

 さて、まだまだ見つかるでしょうか、スウェーデン在住のOV?
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JOCV in Sweden

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