奥州糠部 九戸四門~西門の歴史~

岩手県二戸郡の歴史と風景をご紹介します。浄法寺町を支配していた浄法寺氏とその先祖畠山重忠も扱っています。

天台寺のゆるキャラ?

2009年11月15日 | 岩手県
レイクタウンで天台寺のゆるキャラがいました。
いつ出来たのだろうか、知りませんでした。


九戸村のまさざねくんも着ぐるみ化してくれませんか。
まさざねくんの画像

レイクタウンの岩手フェアでは、戸田久の冷麺、志賀煎餅のせんべい、軽米のかりんとう、千秋堂の黒糖栗饅頭等が売ってました。
志賀煎餅の冬季限定商品、飴煎餅は売り切れたのか売ってませんでした、残念。
チョコ煎餅も美味しいけれど飴煎餅に比べると・・・。
巖手屋の南部煎餅も売ってませんでしたが、ガラガラポンでゲット。
(巖手屋の南部煎餅は関東のスーパーでも売ってたりします)

しかし、せんや(奥州市胆沢)のごぼう煎餅は美味いなと改めて認識させられたのでした。

新生姫神、星さんのサイン

盛岡の風景 桜山神社と三ツ石神社

2009年06月24日 | 岩手県
櫻山神社


五穀豊穣、領民安堵


擬宝珠みくじ


烏帽子岩

「烏帽子岩(兜岩)のいわれ」

盛岡城築城時、この地を掘り下げた
ときに、大きさ二丈ばかり突出した
大石が出てきました。
この場所が、城内の祖神さまの神域
にあったため。宝大石とされ、以後
吉凶のシンボルとして広く信仰され
災害や疫病のがった時など。この石
の前で、平安祈願の神事が行われ、
南部藩盛岡の「お守り石」として、
今日まで崇敬されています。

         桜山神社社務所

桜山神社の御祭神

初  代  南部光行公、二十六代 南部信直公
二十七代 南部利直公、三十六代 南部利敬公


三ツ石神社

三ツ石と鬼の手形
伝説によると昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて付近に住民をなやまし旅人をおどしていました。
そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕えてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛りつけました。
鬼は二度と悪さをしないし、又二度とこの地方にはやってこないと誓ったので、約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやりました。


この岩に手形を押したことが「岩手」の起源といわれ、又鬼が再びこないことを誓ったのでこの地方を「<rb>不来方コズカタ」と呼ぶようになったと伝えられています。
鬼の退散を喜んだ住人達は幾日も幾日も踊り、神様に感謝のまごごろを捧げました。この踊りが「さんさ踊り」の起源といわれています。

三ツ石神社由来
「岩手」の呼び名について大和物語によれば、「平城天皇の時代に、みちのくの国から鷹が献上され、帝はこれを岩手と名づけた」とある。
俗説では「三ツ石と鬼の手形」の物語が岩手の地名や、不来方(こずかた)の起源や地名であるといわれている。
伝説によると、むかしこの地方に羅刹という鬼が住んでいて、付近の住民をなやまし、旅人をおどしていた。
そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕まえてもらい、境内にある三ツ石に縛りつけた。
鬼は二度と悪事はしないし、二度とこの地方にはやってこないことを誓ったので、約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやった
ところ、この手形の跡には苔が生えないといわれている。しかし長い年月が経っているので、今は手形を確認する事は出来ません。
この、岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だといわれています。
また鬼が再び来ないことを誓ったことから、この地方を「不来方」と呼ぶようになったと伝えられている。
鬼の退散を喜んだ住民達は、幾日も幾日も踊り神様に感謝の心を捧げた。この踊りが名物「さんさ踊り」の起源だといわれている。

「さんさ踊り」の名まえは、「さしあげ踊り」、つまりお供え物として踊るというのが短くなったとか、
三十三種類の踊りがあるので「さんさ」というのだとか、いろいろの説がある。
三つの石はもとは一個の大きな岩であったが、長い年月の間に三ッに割れて現在の三ツ石になったのである。
昔この地方「愛宕町、名須川町、三ッ割」を三ツ石野と呼んでいた。
神社には小夕彦尊・稲荷大明神を祀っており、増産、医療、縁結びの神として崇敬されている。

慶長四年十月二十四日(一五九九年)南部二十七代利直公が盛岡に城を移したとき、初代光行公のみたま
を三ツ石神社に迎え東顕寺に五十ニ石を寄進されたのである。その文書は今も東顕寺に保存されている。
この大石の碑は三ッ石の割れた一部分が土中に埋もれていたものであるが、社殿新築にあたりこの場に移し由来文を挿入したものである。

昭和47年八月二十七日 社殿落成日 三ッ石神社奉賛会


白龍(じゃじゃ麺元祖)

じゃじゃ麺(500円)


南部凧絵(義経と弁慶)

盛岡の風景 浄土宗大泉寺「おかんの墓」

2009年05月11日 | 岩手県
盛岡市本町に浄土宗のお寺、大泉寺があります。
元々は三戸にあったお寺で、盛岡城築城と同時にこの地に移転してきました。
三戸大泉寺の跡地には末寺の長栄寺が建立され、南部氏26代当主南部信直の次女「檜山御前」の五輪塔が残されています。
檜山御前の檜山は檜山城主秋田実季の弟英季に嫁いでいたことが由来です。






おかんの墓

おかんの顕彰碑


おかんの父であるこの畠山重勝、恐らくは浄法寺氏の一族であると思われますが、詳しいことは何もわかっておりません。
浄法寺氏は政実と信直が争った際、当初日和見をしておりました。
後に修理重安は信直に付くことになりますが、浄法寺氏の家中は一枚岩ではなかったらしく、修理重安弟やその臣「主膳」、浄法寺氏庶流の一部が九戸氏の味方に付きました。

以前、検索サイトで「浄法寺城」を検索した際、大谷吉継が天正十九年(1591) の六月に浄法寺城を攻め落とすとの記載を発見しました。
九戸一揆蜂起に対処するための出陣でありますので、この浄法寺城は現在の岩手県二戸市浄法寺町の浄法寺城の事だと思われます。
この浄法寺城を攻め落とされた当時、修理重安は既に信直に付いておりますので、一戸城が上方の軍勢に落とされた際、修理の弟や主膳等の九戸氏に味方する浄法寺氏の一族はこの浄法寺城に逃げ、篭っていたのでしょう。

浄法寺城が落ちた際、残った浄法寺一族は九戸城に入場したと思われます。
九戸城に入場した者の記録に浄法寺氏の一族であろうと思われる人物が他にもおります。
私は畠山重勝はその一人だろうと考えています。

尚、浄法寺氏の記録に浄法寺城が攻め落とされたとする記載はありません。
修理重安にすれば、一戸城を弟やその臣の主膳に欺かれて追い出されただけではなく、本拠地である浄法寺城を奪われ、上方の軍勢に落とされたという事は恥辱であり、修理の弟が系図上から消された事と同様に記録に残されておりません。











盛岡の風景 盛岡八幡宮

2009年05月10日 | 岩手県
「どんと晴れ」の舞台地になった盛岡市の八幡町に盛岡総鎮守、盛岡八幡宮があります。
この盛岡八幡宮は康平5年(1062)の前九年の役の際、源頼義・義家父子が戦勝を祈願し、京都の石清水八幡を勧請したのが始まりとされています。
当初は鳩森八幡宮と称していましたが、後に盛岡八幡宮と呼ばれるようになったようです。
鎌倉の八幡さまで知られる鶴岡八幡宮は翌年の康平6年に、同じく源頼義が前九年の役の戦勝を祈願したのが始まりですから、それより古い古社ということになります。

鶴岡八幡宮の授与品に鶴岡八幡宮限定の「キティ健康守」がありますが、こちらにもキティお守りがありました。盛岡八幡宮限定の授与品ではないでしょうが。
盛岡市内ですと他に盛岡城址の桜山神社にもありました。東京の神田明神にもありますし、どこにでもあるんですね(鶴岡八幡宮のはオリジナルですが)

初穂料 800円也




盛岡八幡宮の公式サイトはしゃれてますね。ショッピングセンターのサイトみたいです。
盛岡八幡宮の総面積は2万坪とのことで広いです。
境内に護国神社(青森県ですと弘前城にあります)や岩手県神社庁があります。

撮影当時、デジカメのメモリカードの調子が悪く、何度も撮り直ししているうちにバッテリーが尽きそうになり、騙し々々で何とか撮ってきました。

本殿

大黒・恵比寿の由来

巨大な狛犬(この写真お気に入りです)




一代守護神社


盛岡天神社


坂上田村麻呂公が由来の神明社(サムネイルで表示される写真は問題ないんですが・・・)


笠森稲荷神社



木槌


護国神社



八幡町で見かけた狸さん(私は狸を見ると平成狸合戦ぽんぽこを観たくなる)
この狸について詳しく知りたい方は「盛岡 八幡狸」で検索してみてください。