土と暮らす

どこかで土や水や空と繋がっていないと、自分を見失うよなぁ

ルート181

2006年04月25日 | 映画お知らせ
「ルート181」が広島で上映されます。
こんな所に告知して何がどうなろうか、とも思いますが
誰かが検索したときに引っ掛かればと思うので、のせときます。
以下「第九条の会ヒロシマ」会報49号より


 ドキュメンターリー映画『ルート181』
 (パレスチナとイスラエルの国境沿いを走る道路を行く)

 場所:横川シネマ
 主催:ルート181広島上映実行委員会
 日時:6月11日(日) 開場:13:00、上映13:30~
    3部に分けて上映、終了は午後6時20分頃の予定。
 入場料:前売り1300円、当日1500円、
    高校生以下1000円(前売り、当日問わず)


です。
観たい人(そんな人このブログ見よる人の中におるんか?)は
前売りを買った方が無難なんじゃないかと思います。
何せ長い映画なんで立ち見は避けたいところです。
早く行って席を確保したいと思っとります。

人形販売第一弾!

2006年04月13日 | 立体シリーズ
同僚に
「人形作ったら
 買うよ」と言われ
調子こいて
作ってみました。

写真上2枚は制作中の
ものです。

3つで一セットの
作品を作りました。

題して
「また逢う日まで」。

一つ目はプレゼント渡し。

二つ目は記念写真。

三つ目は涙で握手。

この3つを見せたところ
同僚:「うわ~~かわい~~
    買う買う。」
自転車:「なんぼで買います?」

同僚:「一つ500円で、
    三つで1500円で
    良いよ」
自転車:「ええーっ
     そりゃ高すぎますよ
     1000円ぐらいに
     してくださいよ」
同僚:「それでいいの?じゃ
    1000円で」
自転車:「はいはい、まいどあり~」

材料は軽量紙粘土、着色はポスターカラー
土台はコルク、あと他に瞬間接着剤を
少し使ってます。
材料費だけだったら、結構安いんですけど
何せ時間が掛かってます。

紙粘土の乾燥があるので
最低でも2日に渡ってじゃないと
作れませんが
実労働時間は3体(正確には6体)で
6,7時間ぐらいかなぁ。
構想の時間も含めると
もうちょっと掛かるかなぁ。

大きさは、高さが4センチ
ぐらいかなぁ。
土台のコルクが4.5センチ角
になってます。

なにはともあれ
人生初のお客さんでした。
ありがとうございました~。

大御馳走!

2006年04月11日 | はたけnews

 じゃ~~~ん!
 ついに出来ました
 大御馳走!

 おはぎ
 こんにゃく(これもこの日造ったのよ)
 豆腐
 白あえ
 ぬた
 カレー
 たくあん(今年の冬に漬けたやつ)
 つくしの天ぷら

 はたけばんざい!
 土ばんざい!

 微生物よありがとう
 作物よありがとう
 お日様・風・雨よありがとう
 
 作物が育つということは
 かくもありがたいこと
 なのであります。
 うれしくて泣けてくるど。

どこへ

2006年04月09日 | 自転車操業
夜の電車
窓に映る顔を眺めながら
家路に思う

今更自分で命を絶つような事を
考えることはもう無いけど
生を
いつまで続けるのか
足が重い

思い出せない
やり残したこと
今回の目標が
何であったのか

ならばいっそ
爆発するほど走るなら
進むべきは
右か
左か
他か
全然分からない
闇はないのに

流れ落ちる時間が
掌に溜まらず
こぼれ落ちてゆく

他人が皆
黒い巨人に見える

お願いだから
否定しないで
僕はもうここにいるから
これ以上語ることを
許されないの

豆腐制作中

2006年04月08日 | はたけnews
 同時進行で豆腐も造りました。
 豆腐を造ったことがある人は
 知っていると思いますが
 おからが大量に出るのです。
 実に勿体ない。
 実に贅沢。

 豆腐は贅沢品です。


 写真は体重を掛けて
 水分を絞っているところです。
 絞りすぎると小さくなりすぎて
 寂しいけど
 絞らなすぎると水気が多すぎて
 とても豆腐とは呼べない
 ボロボロのものが出来上がります。
 その頃合いの調節が
 難しいのです。

 これももちろん畑で採れた
 大豆を使って造りました。
 無農薬・無化学肥料・非遺伝子組み替えの
 大変美味しい豆で造ったので
 大変美味しい豆腐が出来上がりましたよ。

 この豆腐を使ってさらに
 白和えを造りました。
 具と豆腐の味が混ざって
 うま~~い
 ぜいたく~~。

名前は?

2006年04月07日 | 自転車操業
 行きつけの
 わらびの群生地が
 あるのですが(笑)、
 その一角、
 大きな木の陰に
 毎年きれいな花が
 咲くのです。

 春に咲きます。
 でも誰も気付かん
 のです。僕以外は。

 今年も咲いてました。
 (クリックで拡大)

 でもね、名前が
 分からんのです。
 本格的に調べたら
 分かるんで
 しょうか。

 わし、花の名前とか
 苦手なんよね。
 アウトドア系人間の
 くせに。

 だれか
 この花の名前
 知りませんか?

 携帯で撮った割には
 きれいに撮れて
 満足満足。

 大きさは
 花の直径が3~4センチ
 ぐらい。
 背の高さは
 15センチか20センチ
 いうところですかねぇ。
 まっすぐに伸ばして
 測ってみたら
 もうちょっと長いかな。


 ほんまきれいな花ですよ。

おはぎ制作中

2006年04月07日 | はたけnews
 みんなでおはぎを作っている
 ところです。

 おはぎに使っているあんこは
 もちろん去年うちの畑で採れた
 小豆で作ったものです。

 ほぼ全滅というところまで
 鹿に食べられたと思ったのに
 収穫・脱穀してみれば
 あんこにして
 みんなでおいしく食べるぐらいは
 量があったのです。
 でも、今回だけで全部使い切って
 しまうぐらいの量でもあります。
 (奥のタッパーがあんこ。
  手前左の白いのは餅米。)

 餅米は残念ながら買ってきた
 ものです。
 砂糖ときな粉も買ってきました。
 きな粉は大豆があったから
 作ろうと思えば作れたけど
 買ってきました。

 砂糖はさすがに無理ですね。
 かつて砂糖が貴重品だったということが
 よく分かります。
 砂糖を作ってくれてる人、
 ありがとう。

 食糧危機が来たら
 甘いものなんて食べられなく
 なるかもなぁ。
 食糧危機いやじゃぁ~~
 (こればっか)

ぬた

2006年04月06日 | はたけnews
 ぬたです。 

 真ん中と右が、カンゾウとあさりのぬた。
 左の奥が、せりとあさりのぬたです。

 みんなで採ってきたら、こんな
 山盛りになりました。

 それにしてもカンゾウはぬたにすると
 旨いですね。
 なまじ野菜でぬた作るよりも
 旨いんじゃないでしょうかね。

 今日の昼過ぎに
 隣町の堤防にぶらっと桜見に行ったら
 堤防の斜面にカンゾウらしき草が
 群生しているのを発見!

 まさか、こんなに生えとったら
 誰かが食べるんじゃない?と
 斜面をつつつと降りていって
 一つちぎってかじると、あま~い
 あらーほんまにカンゾウじゃわ。
 誰も採らんのでやんの。
 
 みんなー
 そんなことでは
 食糧危機を乗り切れんぞぅー
 って親切に教えたりは
 しないのじゃ。

 明日もう一回行って
 いっぱい採ってこようかな。

 

ノビルカレー

2006年04月05日 | はたけnews
  はたけで
  みんなで
  草を取ったり
  収穫したものを加工して
  食べました。

  まず一つ目は
  僕の作ったノビルカレー。
  具はノビルのみ。
  使用カレーは
  S&B食品のケララカレー。

  カレー粉さえ有れば大丈夫!と
  侍魂の「傭兵の真実」に書いて
  あったのです。

  ノビルカレー、噛みしめた
  ノビルが苦いのが難です。
  ってゆーか9割方カレーの
  味しかせんし。
  ノビルで作る意味はないです。
  とりあえず食べられるものが出来上がる
  という程度のものです。

  でもやっぱり、食べることができる
  ということは、とっても
  ありがたいことなのです。
 
  食糧危機がやってきても
  カレー粉と畑が有れば
  乗り切れるぞぅ。

いのちの鎖

2006年04月04日 | 土と暮らす
絶対に揺るがない、そういうことが
世の中にはどのくらい有るでしょうか。

形のある物は皆いずれ壊れてしまうし
金や価値は政治が変われば変わってしまうし
思想だって変化し続けてきました。


自分が何かに偏ってしまっていないかどうか、
流されてしまっていないかどうか、
僕はいつも不安なのです。

自信満々に「いや、それはちがう」と言い切る人を見るたびに
実に羨ましく思います。
一体どうしたらそんな自信たっぷりに話すことができるのか、
なにか僕には想像もつかないようなものすごい体験をしていたり
何年間もそのことについてずっとずっと考え続けていたり
そういった、何者にも一言の言葉をも挟ませないだけの背景を
その人は持っているのでしょうか。
揺るぎない根拠と、それに基づいた論理的帰結によって
断言をしているのでしょうか。

もしそうでないとしたら、断言したり、限定したり、決定したり、
出来ないのではないですか。
一つの決定が、知らない誰かを傷つけてしまうかも知れない。
その人の人生に、大きな負の影を落としてしまうかも知れない。
何よりも、直接話しかけているあなたに対して
小さないのちに対して
取り返しのつかないことを、
経験しなくてもよかった経験を、
させてしまっているかも知れない。
そうではないですか。

僕が知っている事というのは森羅万象の中の極々一部で、
世の中には自分が考えたこともないような人生を送っている人がいる。
それをやっと言えるような場所から、
そんな針の先のような場所から、
一体何についてどう語ることができるというのでしょうか。



長いこと考え続けていて、やっと最近
どんな人にも共通するものが何か
僕にも分かってきました。
それは、

生きている、ということ。
そしてどの人にも、遺伝学上の父と母がいるということ。

気が付いてみれば、誰でも知ってる
当たり前のことでした。
そんな当たり前のことに気付くのに、ずいぶん時間が掛かりました。
ここからもまだ長いんでしょうね。


誰かが、
いま生きているということ。かつて生きていたということ。
これから生きていくということ。
過去の人にも、未来の人にも、もちろん現在の人にも共通していること。
生きているということ。

なぜ生きているのか。
それは、生まれてきたから。
生まれてくるためには、父となる人と母となる人がいなければならない。
それが喜ばしいことであったのか、あるいは望まれない妊娠であったのか、
また、親として育ててくれた人間が自分の生みの親ではなかったとか、
精子、あるいは卵子の提供者がどこの誰だか分からないとか、
そういった様々な事情とは一切関わりなく、
単純に、
極めて単純に、
自分がこの世に生まれてきているということは、
そこに二人の人間が関わっていたということです。
自分が持っている遺伝情報は
二人の人間から分けてもらったものからだけで
構成されているのです。

たとえヒトクローンが可能になったとしても、元となった人間は
やはり父と母があって生まれてきたのでしょうから
出自を辿れば、ある二人の人間に辿り着きます。



果汁100パーセントのジュースというのがありますが
自分というのは自分の親100パーセントなのです。
混じりっ気無しの100パーセント。
このことが、世界中全ての人に、歴史上全ての人に言えるのです。
右の人にも左の人にも、上の人にも下の人にも言える。
そしてもちろん、僕の親父とお袋にも。

親父は、親父の両親つまり僕の祖父母100パーセントです。
お袋もやっぱり、お袋の両親100パーセント。
果たして僕が親父から譲ってもらった遺伝情報が
祖父50パーセント祖母50パーセントかどうかは分かりません。
祖父と祖母の遺伝情報が親父の体の中で均一に混ざっているのかどうか
分からないし、遺伝子の転位や置換が起こるということも
高校の時に生物で習いました。
だけど、はっきり言えることは、親父が二人の人間100パーセントで
できているということです。

同じ事が母についても言えます。

何が言いたいかというと、
僕は父母100パーセントであるけども、同時に
祖父母4人100パーセントでもあるということです。
親父とお袋をちょっとずつ取ってきて、ぐりぐりっと混ぜて
僕は出来ているのだけども、
同じように祖父母4人からちょっとずつ取ってきて
ぐりぐり混ぜてこね上げて人間の形にしても、
やっぱり僕が出来上がるのです。

曾祖父母8人からでも僕を作ることは出来ます。
もう1世代前の16人からでも
その前の32人からでも
さらにその前の64人からでも、
やはり、僕を作ることが出来ます。
僕は直接に、その人達の血を引いているのです。

ならば。




16
32
64
128
256
512
1,024
2,048
4,096
8,192
16,384
32,768
65,536
131,072
262,144
524,288
1,048,576
2,097,152
4,194,304
8,388,608
16,777,216
33,554,432
67,108,864
134,217,728

計算したければ、どこまでも計算してみるといいでしょう。
2倍、2倍、極めて単純な計算です。
1世代遡るごとに、僕の直接の祖先の数は2倍に増えていきます。
27世代遡ったところで1億を越えました。
この、1億3千万人からちょっとずつ分けてもらって
混ぜ合わせてもやっぱり、
やっぱり、僕を作ることが出来るのですよ。

僕は、これだけたくさんの人々が
いのちを繋いできてくれたおかげで、今ここで生きています。
その中には、ぎりぎりの生活をしながら子どもを育ててくれた人や
命からがら戦乱の世を生き延びた人、
出産と同時に亡くなった人や、
周囲の人から非難され、逃げ隠れしながら
やっとのことでいのちを繋いだ人もいたでしょう。

それらの累々たる人々のいのちの鎖の果てに、僕がいる。
この膨大な数の僕に繋がる人々の誰か一人でも
次にいのちを繋ぐことなく他界していたなら、
鎖はそこで途切れて僕まで繋がらなかったはずだし、
誰か一人でも、そこにいるのがその人ではなく
誰か別の人であったなら、
今ここにいるのはこの僕ではなく、
僕によく似た、別の誰かであったはずです。

僕が僕として今ここにいるのは
必然だったのではないですか。
その人たちが、その順番で並んでいてくれたからこそ、
この僕が、ここに生まれてきたのではないですか。


そうやって繋げてきてくれたいのちは、
僕に託されたいのちは、
本当に僕だけのいのちなのですか。

僕は、2の累乗で表されやがて辿るほどに合流し収束する、
大きな大きな鎖の繋がりの、
一番先頭の
他と何ら変わらぬ、
しかし唯一無二の、

ひとつ
小さな環ひとつ

なのではないですか。

僕の存在には
僕まで繋げてきてくれた人々の
未来への希望が掛かっているのではないですか。


今ここに僕がいるということは、
僕まで繋がってきたことの結果。
ならば僕が今日も生きているということ自体が、
命からがら繋げてきてくれた人々の想いに
報いていることに
なるのではないですか。






僕が、今日生きているということ。
あなたが、今日生きているということ。


明日も生きよう、僕のために。
明日も生きよう、僕まで繋げてきてくれた人のために。
明日も生きよう、僕から繋がる人のために。

ありがとう
愛する人々よ
生きていてくれて、ありがとう。



生きているということ。
生まれてくるということ。
死んでゆくということ。


少しずつ、分かってきたのかな。
道は長そうです。

               2006年4月4日