歯科医物語

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金原明善 「天竜川の治水を行った」

2020-12-04 04:18:21 | ☆エッセイ・コラム
天竜川の治水
1868年(慶応4年)5月、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。天竜川は1850年(嘉永3年)から1868年(慶応4年)にかけて5回の大規模な決壊を記録しており、特に嘉永3年、明善19歳の時に遭遇した洪水は一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生忘れられない災害であった。天竜川沿岸に住んでいる人達の苦しむ様に途方に暮れていた時に、明治維新をむかえる。そんな新政府の「政体」の布達が明善に希望をあたえた。



早速、京都に上がり天竜川の治水策を民生局へ建白した。だが明善の必死の訴えも届かなかった。しかし、8月に新政府は急に水害復旧工事に着手した。明治天皇東京行幸の道筋になる東海道の補修が目的であった。当時の明善は、その事を知らずに堤防の復旧工事を行う。明善の優れた運営手腕により、8月下旬に開始した工事は10月上旬に大略が終了。その功績が認められ、明治天皇東幸において浜松行在所の時に苗字帯刀を許される名誉を得た。



翌1869年(明治2年)に明善は静岡藩から水下各村の総代・又卸蔵番格に申付けられた。そして明治5年に浜松県から堤防附属を申付けられ、戸長役・天竜川卸普請専務に任命された。1874年(明治7年)には天竜川通堤防会社を設立。


1877年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の百姓が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。そして、近代的な治水事業が始まり、主に堤防の補強・改修をはじめ以下の5点を実施した。これらは後年の天竜川における治水計画の基礎となった。


  1. 天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量
  2. 鹿島村から諏訪湖に至る高低測量
  3. 天竜川河口から二俣村に至る実測量
  4. 駒場村以下21箇所の測量標建設
  5. 自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行う。


しかし、流域の住民の利害争いが原因で1883年(明治16年)天竜川通堤防会社は、幕を閉じた。以後、明善の計画を雛形にして国・県が天竜川の治水事業を引き継いで行っていった。そのスタッフには、天竜川通堤防会社や自宅で開校した水利学校の人材も多数残った。



天竜川流域の植林事業


明善は、下流域での堤防による治水が軌道にのると、次に天竜川流域の山間部の植林事業にのりだした。当時、天竜川の山間部は荒れていて大雨が降ると大量の水と土砂が一気に川に流れてしまう状態であった。明善は植林による治水を考えていた。 1885年(明治18年)より植林を始める。天竜川上流の官有地759haに292万本のスギ、ヒノキの苗木を自らの費用で献植。次いで1200haの植栽を行った。これが、後に天竜杉となり浜松市天竜区(旧天竜市・龍山町・水窪町・佐久間町)の林業発展のきっかけとなった。




 


 


 

 
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