歯科医物語

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昭和の大女優・原節子、田中絹代、岡田嘉子…若き日の美容法などお宝記事

2021-07-02 22:53:28 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
昭和の大女優・原節子、田中絹代、岡田嘉子…若き日の美容法などお宝記事
7/2(金) 21:00配信
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原節子
小津安二郎監督の手による、いわゆる「小津映画」女優の象徴ともいえる、昭和の大女優、原節子。昭和11年、デビュー間もない、まだ16歳の彼女が『婦人画報』の美容アンケートに答えていました。

幼さが残る、大女優・田中絹代の10代の姿

婦人画報
日本映画史を代表する大女優の一人、田中絹代。昭和52(1977)年に亡くなるまで、260本以上の映画に出演した彼女の映画デビューは、なんと大正13(1924)年のことでした。やがて、トップスターの座に駆け上がった彼女のポートレイトを、『婦人画報』は昭和3(1928)年にいちはやく紹介しています。 丸まげを結った田中絹代はこの時19歳。まだ、あどけなさが残っています。記事は、「松竹蒲田の明星、田中絹代さんです。小鳥のように可愛い、忘れな草のように可憐な、燕のように軽快な彼女の生新(ママ)な持味はちょっと特異なもの」と大絶賛。 このポートレイトの他にも、「花形女優の耳出し髪」と題するヘアスタイル記事や、「女優結婚破綻史 田中絹代が清水監督と別れるまで」のようなゴシップ記事まで、若き日の大女優は戦前の『婦人画報』を幾度となく飾ってくれました。(昭和3年9月号)

ソビエトへ亡命。「雪の樺太・恋の逃避行」で知られる岡田嘉子

婦人画報
昭和初期の大女優でありながら、昭和13(1938)年、恋人とソビエトへ亡命し、「雪の樺太・恋の逃避行」と当時の新聞雑誌を熱狂させたのが岡田嘉子。亡命後、昭和47(1972)年に35年振りの帰国を果たし、『男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け』に出演したものの、再びソビエトへ戻り、以来終生日本には戻らなかったという、波乱万丈の、ある意味では意思を貫徹した女性として知られています。 そんな彼女が、『婦人画報』に美しい姿を残していました。昭和6(1931)年に掲載されたこの写真は、毛皮のショールをまとった、いわばファッション撮影。その可憐な美貌は、「日本中が熱中した」との逸話を雄弁に物語っています。 ちなみに、NHKの朝ドラ「おちょやん」で、井川遥さんが演じた女優の高城百合子は、岡田嘉子がモデルであるといわれています。

原節子が残した美容アンケートのコメントとは?
婦人画報

小津安二郎監督が手掛けた、いわゆる「小津映画」女優の代名詞ともいわれる原節子。『東京物語』『晩春』をはじめ、数々の小津映画で名演技を見せた彼女が、デビュー間もない頃、美容アンケートにコメントを残していました。 「あなたの洗顔法は?」という問いに対し、「特別に洗顔法、お化粧法はございません。ただ、顔面にできる雑物などの予防としてリンゴ汁を毎朝いただいています」との回答が。 「あなたの行きつけの美容院は?」という問いに対し、他の回答者が「時折吉行あぐりさんのところへ」「伊東屋の美容院に参ります」と具体的に答えているのに対し、彼女は「仕事が忙しく美容院にいく間がありません」との素っ気ない回答を寄せています。 この記事が掲載された昭和11(1936)年は、まさにデビュー直後。初の日独合作映画『新しき土』に抜擢されたころです。そんな忙しい最中に答えてくれた葉書アンケートは、当時まだ16歳になったばかりの彼女が、『婦人画報』に残した、ささやかな足跡といえるでしょう
(昭和6年11月号)


  

 




 


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