歯科医物語

歯科医、現在 休養中、「木偶庵」庵主、メインサイト http://www.jiro-taniguchi-fan.com/

「天才」と呼ばれ、違和感があった 【インタビュー】矢野顕子

2016-12-01 00:41:12 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)

 

 ジャズミュージシャンになるために高校を中退し、10代からレストランやクラブでピアノを奏で、その才能は瞬く間に音楽業界で注目を集めた。矢野顕子さんが青森で過ごした少女時代の思い出から、プロを目指して働いた夜の世界、そしてデビューまでを振り返る。

子どもの頃から指の赴くまま弾いた

――幼いころの音楽の思い出は?

 東京で生まれ、3歳からは医師の父が開業した青森で育ちました。両親とも音楽好き、特に父がハワイの民族音楽や南米のラテンミュージックといった洋楽が好きで、そんなレコードがかかっていましたね。あとはラジオ。NHKのFM放送が始まり、いろんな音楽がラジオから流れてきたことを覚えています。

 最初に買ってもらったレコードは、ウィーン少年合唱団のLP。私が欲しいっておねだりしたんだと思います。あのころウィーン少年合唱団って、少女たちのアイドルだったから(笑)。

――ピアノを始めたのは?

 3歳から音楽教室に通い始めました。おそらく母が、戦争中に自分がやりたくてもできなかったことを娘に託した……んじゃないかな。最初は音楽に合わせて体を動かしたり、その中で初めてピアノに触れました。

 小学校の高学年まではその教室でピアノを習いました。ただ、私は周りのどの子とも違っていた。譜面が読めないし、記憶するのも苦手。曲の最初の部分は覚えているんだけど、楽譜の2ページ目ぐらいから怪しくなってくる。でも「まぁいいや」って指の赴くまま即興で弾き続け、「そろそろかな?」と思ったところで終わる。最初の発表会がそうでした。辻褄(つじつま)を合わせるのがうまいのね。それは今もまったく変わらず、とても役に立ってるけれど(笑)。

 教室は一人ひとりに合わせた指導をしていて、そうするとロマンチックな曲はほかの子に行ってしまい、私にはちょっと変わった曲しか来なくなる。「私はそういうキャラクターなんだな」と、子どもながらになんとなくは感じていましたね。そのうちジャズが好きになって、クラシック音楽をやる意味は自分にはないと思うようになり、教室には行かなくなりました。

 そこからは独学。ラジオで聴いた曲を耳で覚えて弾いてみたり。中学生になると父がジャズ喫茶に連れて行ってくれたので、そこで聴いたレコードをなーんとなく弾いてみる。自分流でね。

中学でジャズ喫茶通い、高校からピアノ弾きの仕事に

――中学生でジャズ喫茶通いとは渋いですね。

 ね(笑)。でも、父は私を置いて別の店に飲みに行っちゃうの。私は一人カウンターに座り、コーラとか飲みながら「次はあれを聴かせてください」なんて言って。喫茶店の人も困った顔してた(笑)。11時ぐらいになると父が迎えに来てくれて、一緒に家に帰る。娘を見ていると、ピアノを弾いたり音楽を聴いたりしていることが一番幸せそうで、それを伸ばしてあげようと思ってくれたのかもしれませんね。

――中学卒業後は、青山学院高校に進学するため上京されます。

 当時、高校で軽音楽部があるのは青山学院だけだったんです。入学式が終わるやいなや音楽室に向かい、入部しました。でもすぐに「違うかも」と。とにかくジャズに関係のあるところに行きたくて、でもその前に高校は出なきゃいけない。だからここに来た。すべてはプロの音楽家になるための手段だったんです。ところが、当たり前だけど軽音部の人たちはそうは思ってないわけで。ロックが台頭してきた時期だったこともあり、先輩たちはみんなロックをやっていた。「毎日ジャズを頑張るんだ!」と勇んでいた私には、なんだか頼りなく見えちゃったんです。

 そんな中、1年生のときに学内で作曲コンクールがあり、ベースとドラムと組んだピアノトリオで自作曲を発表、優勝しました。青学は初等科から上がってきた「内部」の人と、私のように高校受験で入ってきた「外部」がいて、微妙に温度差があってね。外部の、しかも1年の女の子が優勝をかっさらった、っていうのですごく話題になった。「一体、何者だ?」って(笑)。そして、同級生たちが「いい曲だね」とか、私の存在が「励みになる」とか、ものすごく褒めてくれたんです。それまでも褒められたことはありましたが、直接に反応を感じたのは初めてだったし、自分のしたことが誰かの励みになるということがうれしかった。音楽でプロフェッショナルの道を歩む、それが自分にとって天職なんだと確信した出来事でした。

 そんな私を軽音部の先輩の一人がおもしろがってくれて、学校外のジャズのサークルとか大学のサークルとか、いろんなところに連れて行ってくれました。そうこうしているうちに、レストランからピアノを弾く仕事をもらうように。夜遅くまで働くので、次の日は朝7時に起きて学校に行く、ということができなくなって。高校を辞めました。

――ご両親は反対しなかった?

 二人とも意外とあっさりしていました。父は「しょうがないんじゃないの?」という感じで。さらに、私は当時杉並に住んでいて、夜までレストランで弾いていると帰りが遅くなってしまう。若い女の子がそれでは心配だと、父が知り合いの安部譲二さんに頼み、当時赤坂にあった安部さんのご自宅に居候させてもらうことになりました。

 そのころ、安部さんご夫妻が青山でジャズクラブ「ロブロイ」をやっていました。私はあちこちのレストランやクラブでピアノを弾き、その仕事が終わるとロブロイに立ち寄って安部さんたちと一緒に帰るんです。そして、やがてロブロイでも弾くようになりました。

――周りは大人ばかりの中、10代で働き始めた。どんなことを感じ、学びましたか?

 私はバンドマンの狭い世界しか知らなかったけれど、音楽だけでなく、社会人として大切なことや礼儀、女性としての振る舞いは、ホステスさんや下働きのお兄さん、安部さんのお店など、夜の世界が教えてくれたように思います。子どもだったからすべてを理解していたわけじゃないけれど、「そうだったんだ」と思うことは後になってたくさんありました。世間的に見れば健全ではなかったかもしれないけど、私にとってはとても健全な世界だった。何よりいろんな音楽を聴いて、いろんな人とセッションし、本当に音楽に囲まれて生活していた。音楽を仕事にしたかった私にとって、それは幸せな時間でした。

アルバム「JAPANESE GIRL」でデビュー

――プロとしてデビューすることへのビジョンやプランはあったのですか?

 ありませんでしたね。ロブロイでは演奏しながら歌ってはいたけれど、自分はあくまでもピアニストで、歌手とは言えないと思っていた。そもそも、レコードを出したり、自分が表舞台に立ったりということは邪道だ、と。作曲やピアノの伴奏こそが私のやるべきことなんだ、という、バンドマンの誇りみたいなものがあったのです。

 でも、いろんな場所で弾くうちにスタジオミュージシャンとして声がかかり、作曲家の筒美京平さんが私のことをすごく気に入ってくださって、ご自身のセッションによく呼んでくれるように。そこで人脈が広がり、当時フィリップスレコードでディレクターだった三浦光紀さんが私のレコードを作りたいと言ってくれて。そして76年、アルバム「JAPANESE GIRL」でデビューしました。

――表舞台には出たくないという心境に変化があったのですか?

 実はその2年ぐらい前に、自分のバンドでシングル盤のレコードを出したことがありました。そのときはいやだった。歌うことにもレコードを出すことにも興味がなかったし、「私の音楽はこうです」と言えない形で世に出るのは間違っている、無意味だと思っていたんです。でも、それからいろいろ考えて、自分が「こういうものを作りたい」という明確なビジョンがある作品ならば、それは世に出したいと思うようになっていったのです。

 これまで聞いたことのない音楽をやりたい、じゃあどんなものが作れるだろう? そう考えたとき、自分が日本人であることはとても大きなファクターとして使えるな、と。自分の中で比較的身近だった日本の音楽が民謡だったので、青森の民謡や邦楽の楽器について勉強して。「JAPANESE GIRL」はそうした生まれたのです。

――自分が作りたいものを作る、その手応えはありましたか?

 もちろん! 今でも素晴らしいレコードだと思っています。バックバンドに、A面はアメリカのリトル・フィートが、B面は細野晴臣さんや林立夫さんといったティン・パン・アレー、あがた森魚さん、ムーンライダーズのメンバーが参加してくれて、純粋に楽しかった。

 世の中からも作品を認めてもらって、それはうれしかったけれど、一方で「天才」と言われることがたくさんあって。とても違和感がありました。自分が秀でているなんて気持ちはまったくなかった。これが私だから――。ただそれだけでしたね。

 二人とも意外とあっさりしていました。父は「しょうがないんじゃないの?」という感じで。さらに、私は当時杉並に住んでいて、夜までレストランで弾いていると帰りが遅くなってしまう。若い女の子がそれでは心配だと、父が知り合いの安部譲二さんに頼み、当時赤坂にあった安部さんのご自宅に居候させてもらうことになりました。

 そのころ、安部さんご夫妻が青山でジャズクラブ「ロブロイ」をやっていました。私はあちこちのレストランやクラブでピアノを弾き、その仕事が終わるとロブロイに立ち寄って安部さんたちと一緒に帰るんです。そして、やがてロブロイでも弾くようになりました。

――周りは大人ばかりの中、10代で働き始めた。どんなことを感じ、学びましたか?

 私はバンドマンの狭い世界しか知らなかったけれど、音楽だけでなく、社会人として大切なことや礼儀、女性としての振る舞いは、ホステスさんや下働きのお兄さん、安部さんのお店など、夜の世界が教えてくれたように思います。子どもだったからすべてを理解していたわけじゃないけれど、「そうだったんだ」と思うことは後になってたくさんありました。世間的に見れば健全ではなかったかもしれないけど、私にとってはとても健全な世界だった。何よりいろんな音楽を聴いて、いろんな人とセッションし、本当に音楽に囲まれて生活していた。音楽を仕事にしたかった私にとって、それは幸せな時間でした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161130-00010003-asahit-ent&p=2

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