まずは桜の便りから。昨日、マイ標本木が一気に五分咲き
となった。団地の桜並木は、全体的には二分から三分咲きと
いうところか。その花弁はまだ、恐る恐るコロナウィルスを
窺うかのようだ。
さて、中山道は倉賀野宿の歴史探訪の最終回。
倉賀野河岸から烏川沿いを進むと「井戸八幡宮」に出る。
倉賀野城の三の廓跡から一夜にして井戸が出現したのが起源
という神社である。
鳥居の手前、神輿倉かと思ったら中に井戸があるという。
烏川とその奥の上信県境の山並みを眺めながら進むと、
川沿いの細い公園に「倉賀野城址」の大きな石碑が建つ。
脇の口碑を読むと、関東武士軍団である武州児玉党の流れ
を汲む一族が倉賀野氏を名のり、その子孫が十四世紀の末に
築城したとある。
以降、上杉、武田、北条などの狭間で翻弄された後、秀吉
の小田原攻めの時に陥落、廃城となった。
ネットからその配置図を探すと、「比較的小さな城だった」
との説明に違って、朝方寄って来た倉賀野駅近くの九品寺や、
これから行く倉賀野神社も含む大きな城郭である。
烏川沿いから旧中山道近くに戻り、倉賀野神社へ向かう。
倉賀野中学校前の大きな赤い鳥居、ここが正面と思ったら
脇鳥居だった。今日も正面から出ることになる。
本殿の前に赤い幟で目立つ冠稲荷を参拝。三光寺稲荷と
いわれ宿場の旅籠屋や飯盛女に慕われた神社だったが、
寺社統合によって、ここに合祀された。
昭和に入って、町民の願いにより元の位置に再建された
ことは昨日紹介した通り。
さて、大きくはない拝殿は、深い向拝を持った重厚な造り。
江戸末期に九年の歳月をかけて造営されたという。
また、越後の宮大工建部から信州鬼無里村に入婿し信越で
活躍したた北村喜代松の彫刻でも知られると言う。善光寺の
仁王門復元の後、この倉賀野に移ったと言う。長男四海、
孫の正信と三代にわたる彫刻家一家という。
鷹と梟という本殿の彫刻は見逃したが、拝殿南側の彫刻を
紹介しておこう。これは獅子であろうか。
石の太鼓橋に寄進したと言う倉賀野宿の飯盛女(遊女)
たちの名が刻まれると言う常夜灯を探す。意外にも拝殿前
の玉垣の中である。
ここには「三國屋つね」と彫られるらしい。その他にも
金沢屋りつ、ぎん、など多くの飯盛女の名があると言う。「
北向き道祖神など境内の石像類を回って正面から出る。
倉賀野神社には30分もいたことになるが、まだ10時半。
旧中山道に戻り高崎宿を目指す。
中山道、倉賀野宿(終)