じんべえ時悠帖Ⅱ

長野市穂保、長沼城の歴史

 台風19号で広く冠水した長野市の長沼地区は、過去にも

度々洪水被害にあっている。

 今回決壊箇所近くの「妙笑寺」の境内に大洪水水位標

あること、ここの千曲川の土手が、この妙笑寺を避けるように

微妙にカーブしていることを先日紹介した。

 4年前にこの土手道を歩いた時、ちょうどこのあたりで

撮った「長沼城」の説明板を改めて見た。右端の妙笑寺の

位置から推定する決壊箇所を赤い×で示す。

 これを見ると長沼城の城郭(土塁)は、現在の千曲川の

土手からハミ出していたことが分かる。説明板の文言から、

この長沼城の歴史を簡単に紹介しよう。


 鎌倉時代の地頭の館が元であり、武田信玄の信濃侵攻で

島津氏が撤退した後を信玄が平城として築城した。その後、

この千曲川沿いは、上杉謙信との攻防(川中島合戦)の地と

なり、信玄、謙信が交互に手を入れて整備した。

 武田滅亡後は、上杉、豊臣、松平が納め、江戸の初めに

初代佐久間勝之を藩主とする長沼藩として独立した。

 しかし、約七十年後の元禄元年、四代目藩主勝茲の時に

「故あって」廃藩改易となり廃城となった、とな。


 長沼歴史研究会によるこの説明板の作成日付はないが、

このあたりの堤防3.2Kmを、長沼桜づつみとして「強化」

した記念と書かかれている。

 結果として、もう少し、いや、もっと強化すべきだった、

と言わざるを得ないが、それ以上に強烈な千曲川の流れ

だったとも言えよう。

 

 この長沼地区は、昔から度々の洪水被害を受けていると

冒頭に書いた。そのため日頃から、誰がどのお年寄りの足

なって避難させるかを決めていたという。

 残念ながら「いざとなったら長男を呼ぶよ」と言って

残ったお年寄りなど、2名の犠牲者が出た。しかし、

これだけの冠水としては、少ない犠牲者とも言える。

改めて、この近くに住む知人から戴いた航空写真を貼る。

 




 

 

 

 

 

 

 


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コメント一覧

jinbei1947
こちらこそ葛山族、立岩族などを知ることが出来ました。
ありがとうございます。
長野市の県庁前に住んでいいたため、長沼や豊野方面は
千曲川を歩いて、この歳になって訪れたところでした。
是非、ご一族で再訪して下さい。
葛山族九州末裔
「居酒屋」を見せて戴きました。掲載写真は私が訪れたまさにその地です。
残留する「長沼城」の石碑は私が訪れたのちに設置された物と思います。祠は12年前と同じです。来歴説明版、小林一茶作とは認識できませんでしたが、「信濃路の千曲の川のさざれ名月 カジカ鳴くなり長沼の里」(私の浅学な解釈)の味わいある石歌碑は流れ去ったようです。
ご指導有難うございました。
いずれ、息子夫婦、孫を連れて先祖を偲び再度訪れたいと考えています。
jinbei1947
葛山族九州末裔様

大事なことを忘れていました。
知人によれば、あの辺り須らく流されたようです。
大きな石碑ですからいずれ見つかることでしょう。
その知人が主宰する掲示板「居酒屋Love&Peace」も
覗いてみて下さい。
https://9218.teacup.com/love_peace/bbs?
jinbei1947
葛山族九州末裔様

ひょっとしてと思いましたが、やはりYahooの記事は貴方様でしたか。
戦国の世に流れ流れた実に数奇な運命の一族の歴史、勉強になりました。
ありがとうございます。
葛山族九州末裔
先のコメントで、武田に葛山族が信玄に下ったのは1570年です。
葛山族の尊称を与えたのは武田信玄でした。時間に追われれて誤記をしました。お許しください。
私も12年前、葛山山頂に上り感無量であった事を思い出します。
葛山族九州末裔
ヤフーブログは、私が薩摩・立岩族(葛山族の一員)を求めて10年間掲載していた物です。私の生来の無精のせいで、
その目的を果たせず先日抹消されました。
*葛山族について。
善光寺奥の葛山城は弘治3年(1557年)2月、上杉軍が雪に阻まれ越後依りの援軍叶わぬ中、武田の大群に攻められ城主・落合備中守憤死、上野、櫻、鑪、立岩の各族は敗散し落城しました。今でも山頂に長野市教育委員会の往時を伝える来歴書が山頂にあると思います。その後、地域は武田の支配になり周辺各土豪がその配下に下る中、上記の4族は善光寺奥山中に逃れ最後まで抵抗をしましたが、1557年遂に武田に恭順・長沼城所属となり、その所有地も安堵されました。この時謙信は彼らの頑強さを讃えこの4族(上野、櫻、鑪、立岩)に葛山族の尊称を冠しました。今でも歴史家は桂山族と伝えている事を聞いています。城主落合と立岩は信濃川支流依田川沿いに、上野、櫻、鑪は葛山周辺の地名に由来します。天正10年一連の激変後、長沼城は上杉配下・島津淡路守の治める所となり、葛山族も属しました。ところがすぐに島津氏と葛山族所有地(吉村)の諍いがおこり、葛山族は直江兼続の仲介に従い春日山城下に移りました。
*その後の葛山族(立岩族)
文禄の役(1992年)の時、立岩(屋)喜兵衛が上杉軍内・軍籍は島津淡路守所属ですが、直江兼続の直接指示の下、千石船7艘を使い伊万里~朝鮮海域で海商・海運に活躍しました。(文献:「中世のいくさ・祭り・外国との交わり」井原今朝男著・校倉書房)
役後、立岩族は上杉藩・上越~米沢と生き延び維新には立岩一郎が安積開拓の責任者として活躍します。
しかし我が薩摩の立岩族は本家島津に従い、鹿児島に下りました。上記ブログは鹿児島に下った立岩族の他の家族の存在を調べる物でした。
jinbei1947
葛山族九州末裔様
長野市の葛山でいいでしょうか。
高校卒業まで長野市内で過ごしましたので葛山には登っています。
籠城して水を絶たれ白米を落として水に見せた、と小学校の授業で聞き、
早速登ってみると、焼けた米がありましたね。
立岩族をネットで探すと、昨年末にサービス終了したYahooブログに
いくつかありましたが、もう見ることは出来ません。
信濃島津家など、長沼城に関わることは目いましたが、立岩族や
葛山族についてはわかりません。
いろいろレクチャーしていただくとありがたいです。
葛山族九州末裔
早速の御応答ありがとうございます。
わが家系発祥は千曲川支流依田川沿いの立岩地区です。
千曲川沿いに歴史を刻み、葛山城の戦いで信玄に敗れ、その後配下に下り信玄より葛山族と言う名称を貰いました。信玄とその後の島津淡路守の時長沼城配属になりました。その後立岩族は直江兼続配下となり名護屋城~米沢と変遷しますが、わが家系だけは分離して薩摩に下り九州人と成りました。
12年前当地を訪れた時は往時を彷彿させる千曲川堤防下の史跡でした。
多分流失している事でしょうが、何時か復旧して頂きたい物です。
jinbei1947
葛山族の九州末裔様
決壊箇所に近いので、多分流されたかも知れませんね。
この比較的近くに住まわれている知人に聞いてみましょう。
この方は新潟長岡の出身ながら、信州が気に入って家を建て、
隣接するこの被災地にもボランティアで入っておられます。
何かわかりましたらここに書き込みます。
「店主様」、これをご覧でしたら教えてください。
葛山族の九州末裔
12年前、先祖の地である長沼城跡を訪れました。
堤防下に立派な石板の歌碑、長野市歴史家による来歴書、祠がありました。昨年の洪水で破壊されたのではないかと心配しています。今はどうなったのかご存知でしたら教えて下さい。
jinbei1947
昨日は最高と最低気温が2度しか違わない寒い日でした。
今朝は久々快晴の日の出ですが、蒲団の中にいました。
千曲川下流、信濃川となった新潟、長岡でも浸水があった
ようですね。
更に下流の燕三条あたりは昔から洪水のメッカで、明治に
入ってやっと大河津分水が出来て落ち着きました。
海から遠い信州では分水のしようもないので、堤防を強化
するしかないですね。
ykoma1949
昨夜からまた雨が降り出して、今も降り続いて
います、そして今日一日雨が降る予報です
被災地の皆さんは寒く冷たい雨を恨んでいる
ことでしょう、健康に配慮してあげたい。
微妙にこの千曲川の堤防がこの部分だけが
湾曲しているんですよね。この千曲川の河川
改良時の原設計から今日に至るまでの経過に
いろんな物語が隠されていそうですね・・
ただこれをまた1000年に一度の災害として
片付けると また更に大きな災害となるでしょう
今度の水害で川床が数拾センチ上がっているはず
抜本的に栄村、飯山、中野小布施と出口の整備
からしっかり整備しないと・・そして都市計画
そのものも見直す必要があるでしょうね
長沼城から今日までの歴史に興味津々ですね
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