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じんべえ時悠帖Ⅱ

昭和38年と言う年

 武田鉄矢が司会する「昭和は輝いていた」というテレビ番組(BS)

がある。主に昭和の歌謡曲を主題とするが、昭和のある年の出来事を

まとめた「青春グラフィティ」シリーズが面白い。

 先日の放送は「昭和38年」。昭和22年から24年までの3年間、毎年

250万人が生まれたいわゆる団塊の世代。その先頭の昭和22年生まれが

中学を卒業した年が昭和38年である。

 下の写真は番組で紹介されたある中学校の朝礼風景である。もちろん

体育館には入り切れない人数である。当時の長野市内でも多い中学校で

一学年十六組という時代であった。

 この年の高校進学率は66.7%だったというから、約1/3は「金の卵」

呼ばれた就職組であった。約70万人とすれば何と今の出生数である。

 この年の主な出来事は、

 2月 熊本大学がチッソ水俣工場の廃液から有機水銀を検出

 3月 吉展ちゃん誘拐事件

 6月 黒部ダム完成

 7月 名神高速道路開通

 11月 三井三池炭鉱爆発事故

 そしてなんと言っても、ケネディ大統領の暗殺が、初の日米テレビ

宇宙中継のニュースとして飛び込んだ(11月)年である。

 高校1年の晩秋の朝、多分休日だったと思うが早起きして初の中継

映像を待っていた。そしてダラスのビル街の通りを進むオープンカー

に起きた、現地と同時に見る悲劇の中継映像に心を震わせた。

 2年前の大統領就任演説にコーラスを付けた「Let Us Bigin Biguine」

が作られたのは翌年、昭和39年(1964)の1月だった。

 「団結し、この地球の隅々にまで、『重荷を取り除き……虐げられて

いる者を解放しよう』とい うイザヤの言葉に留意しようではないか」

 61年前、世界は偉大な指導者を失った。

 

昨日の夜明け前と夕方の散歩から

 

 

 

 


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コメント一覧(10/1 コメント投稿終了予定)

jinbei1947
えめらるど様
高校時代は文系でしたがジャーナリストよりも世界を飛び回る商社マンに
憧れていました。
eme
考えてみれば、長男が生まれた年である。私にとってはただそれだけの事だが、よくまとめて書くなあと感心する。いっそ、ジャーナリストになられたなら、[壊れそうな?]機械を作っておられるよりも、名を上げられた事だろうと思うよ。
jinbei1947
ワイコマ様
貧しくとも明るかった、未来を感じた、希望を感じた、そんな時代でしたね。
その未来をより良くするために「闘った」はずなんですが・・・。
今、「より良く」が混とんとして、若者は闘う相手が見えないのでしょう。
ykoma1949
「昭和は輝いていた」確かに、日本中の殆どの人たちが戦後の
20年を、必死で生きてきました。まさに団塊の世代で常に競争
社会の中で生かされて・・あの世に旅立つまで競争になります
デモ、今振り返ると、多くの仲間に支えられてきた時代でした
おかげで、多方面の多くの仲間が今でも存在してその絆は今も
健在です、自分たちの子供たちの交友する友人と同じくらいか
もしくは、それよりも多い仲間や友人に恵まれています
事件や事故は毎年変わらなくありますが、田舎暮らしの70余年
まんざらでもありませんでした。そしてこれからを生きる若者
たちの将来は・・なんか明るい未来と一言で言えません。
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