まず訂正から。
昨日までの何回かの水戸街道ウォークのブログで多くを
「安孫子」と打っていた。もちろん「我孫子」が正しい。
ワープロで最初に出て来て「三文字、孫子がある」と見て
油断した。遡って4日分を訂正した。
ついでだから「安孫子」を調べると、地名はなく人名だけ
のようである。人名ランクは全国2,296位、約6,400人。山形
の約600人(67位)を筆頭に北日本に多い苗字である。
さて、今日の本題は、「苦海浄土」に未だ憑かれている
話である。
借出しを延長しても、千ページを越える三部作の最後の
解説を読み残したので、再度借出した。
ついでに、その存在だけは知っていたユージン・スミス
夫妻の写真集「水俣」を併せて借出した。約30センチ角の
大型の本である。巻頭言は石牟礼道子が書いている。
夫人のミドルネーム「M」は美緒子である。日本人の
母とアメリカ人の父を持つ。スタンフォード大学時代に
ユージンの通訳をしたのが縁で見染められ、大学を中退
して助手となり、夫と共に水俣を訪れ三年間住み込んだ。
いわゆる水俣病闘争の最盛期、1971年から1974年で、
日本に来てすぐ、二人は東京で結婚式を挙げた。
手や足、指、首さえもあらぬ方向に捻じ曲がった患者
の姿、それを介護する肉親、チッソとの折衝、抗議など
の様子と共に、石牟礼道子の「苦海浄土」と同様、患者
たちの生活と不知火の海を美しく写している。
チッソの株主総会で巡礼姿の患者たちが奏でた御詠歌
の指導をした師匠の娘、実子(ミノルコ)は胎児性水俣病。
坪谷小町とも言われるほどの十六になる美少女であるが、
生まれてこのかた声を発したことは一度も無い。
色白な顔立ちで、しっとりと怨ずるような、ほほえむ
ようよな眼差しに、初めて訪れたユージン・スミスが、
長い間実子と見つめ合ったまま動かなかった。
「(夫を)とられた!」と妻のアイリーンは思った、
と石牟礼道子が、苦海浄土の第二部第六章「実る子」に
書いている。
第二次認定患者の川本輝行を先頭に、チッソとの直接
交渉派がチッソ東京本社に座り込んだ頃、警備(暴力的
排除)に動員された千葉の工場の労組に抗議に行った時、
面会の約束を反故にされた上、多くの労組員に囲まれて
患者や支援者は暴力を振るわれた。
特に、外人ジャーナリストとして目立ったユージン・
スミスは、殴られ、投げられて頭と背中に重傷を負った。
毀される直前のカメラが捉えた労組員を特定できるが、
ユージンは告訴を見送った。
写真家としての活動のため、裁判、訴訟に割く時間は
なかったのである。第二次世界大戦中、従軍カメラマン
時代に負った怪我と併せ、数年後に亡くなったユージン
の寿命に影響したことは間違いない。
写真集の中身を紹介することはもちろん著作権、版権
に抵触するが、発刊後四十年近く経っていることもあり、
一枚だけ貼らせていただく。
ある時から患者たちの行動の折に掲げられた「怨」の
幟(ノボリ)である。一番初めは、チッソ水俣工場に抗議
に行く患者たちのため、石牟礼道子が二十本誂えたもの
である。子供の頃の葬列がヒントだったという。
黒地に「怨」という不気味な幟、染屋さんは「舞台で
使うのか」と聞いたらしい。
チッソの株式総会の日には、全国の「告発する会」が
掲げたこの幟は七百本にもなったというから、大阪の街
はさぞかし不気味な様相を呈したことだろう。
しかし、この「怨」は単なる怨みの意ではない。韓国
の「恨」とも似て、深い意味があるのである。