趣味がウォーキングと言うこともあって、新聞土曜版の
「みちものがたり」は欠かさず読む。
今日は「八十里越」、新潟から福島へ抜ける峠道である。
司馬遼太郎の「峠」で、会津へ敗走する長岡藩の河井継之助
が詠んだのが、今日のタイトルである。
戊辰戦争で一番の激戦だった北越戦争。進軍する西軍に
対し、小千谷の慧眼寺で、この「官軍」の正当性を糺して
談判したのが長岡藩士の河井継之助。
正当性を説明できなかった西軍との交渉は決裂し戦闘が
始まった。善戦した長岡藩だが所詮は多勢に無勢、継之助
も重傷を負って担架で運ばれて会津へ逃れた。
この八十里越という名の峠道、実際は八里(32Km)。
それにしてもこの峠の長大さは、どうであろう。
樹海は眼下にあり、道は天に連なって行く。
と司馬遼太郎が「峠」で表現するように、十倍にも感じる
険しい峠道ということだろう。
ここに建設中の国道はもう30年も工事中。険しい山中と
豪雪で、年の半分しか工事が出来ず、遅々として進まない
ためだ。でもようやく橋脚が完成したと言う。
さて、中山道ウォーク、本庄宿への2回目。20分近く
滞在した源勝院を出ると東京から80キロの標識。
この近くにあるという「高島秋帆幽囚の地」を探す。
高島秋帆は、故郷信州の佐久間象山とも関係するらしい
砲術家、というので寄ることに決めていた。
国道(中山道)のT字路の角に立つその「入口→」の
石柱から、もう諦めようと思うほど歩いたころにやっと
見つける。茂みを背景にした田んぼの中である。
長崎の町年寄りだった高島秋帆(雅号)は、蘭学を納め、
高島流砲術を完成。幕命により江戸板橋の徳丸ヶ原で実射
の調練を行った。
この徳丸ヶ原が、都営三田線の駅が三つもある高層団地の
高島平である。幕府は江川太郎左衛門など多くの幕臣を秋帆
の元に入門させるが、やがて中傷による冤罪で投獄される。
六年余りをこの地、岡部藩の陣屋の一画に幽閉されたが、
門人たちの赦免活動とペリー来航が相まって赦免され、幕府
の砲術方教授となった。という「幽囚の地」である。
時々見かける寺社の手水所のようなものは井戸である。
このあたり湧水豊富、漬物屋が多いという。
あちこち寄って時速2キロを切っているので、平忠度を
討った岡部六弥太忠澄の墓、入口に「武州榛沢郡岡部」の
石柱が立つ普済(フサイ)寺などはパス。
やがて旧中山道は国道17号から分岐する。大樹が一本立つ
分岐点が、日本橋からちょうど二十里目の「岡部一里塚」と
思ったが、実際は少し先らしい。
右手は眺望が開け赤城連山がしっかり見える。岡部藩は
自領入口の桝形から幅八間(7.2m)の道を設けたという。
ちょうど1時を回り、トイレ休憩と昼食を兼ねて国道17号
沿いのコンビニに向かう。この先はしばらく田舎道となり、
コンビニなどはない区間となる。
スタートから3時間、街道長はわずか5.2キロ。時速1.7キロ
の超スローペース。昼食後は次回。