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Jimmy 頁の「なんでやねん」

世の中にある「なんでやねん」に(むりやり)答えを出す

文系と理系

2005年08月08日 03時31分00秒 | Weblog
始めに、私は理系である事を述べておきます。

下記の文章及びその反響を見てまず驚いたのは、理系の方々で反応している人達がいた事でした。
かの文章を読んだ日は悔しくて夜も眠れなかったとか、何という挑発的な文章だとか、アポロ話で、
かなりまともな事を述べられていたBread'n' Butterという人でさえ、「山田宏哉は許せない」等と書いたりしてます。

山田宏哉氏の主張は、大筋、全く当たり前の事だと思います。
ただ、政治に従属するのは「ナチュラルサイエンス」だけではないし、一定の政治的利益追求の為に雇われているのは、「理系技術者」だけではない事は明白です。
逆を言えば、山田氏のかの文章は、別に「ナチュラルサイエンス」や「理系技術者」に対する批判文ではないということです。
従って、かの文章に対する、上記のような反応は全く馬鹿げています。

山田氏は、下記の文章の中で、
>私は、これまで「理系は頭がよく、文系は馬鹿」というような言葉を聞く度、
と言っております。
この「文系は馬鹿」という言葉は、実は私も学生時代良く使いました。
というのも、例えば政治の話でも、経済の話でも、理系の人間は容易に理解する事が出来るのです。
知識として知らない事は多いでしょうが、話を聞いても、本を読んでも、その内容について理解する事は、全く問題なく出来るわけです。
ところが、文系の人間に理科の話をすると、文系の人間は何をどうしても理解できないのです。
あの、副島隆彦のアポロ本に書いてあるようなそういうレベルで、いくら説明してやっても理解できないのです。
これでは、「文系は馬鹿」と思うのは当然ではないでしょうか。

ただ、その後、私も大人になって分かりましたが、馬鹿と利口の区分けは「文系」「理系」とは全く関係なく存在します。

山田宏哉が、言っている
>「私は科学の専門家です。門外漢はだまっとれ」
という態度の理系の人間がいたとしたら、そいつは確かに馬鹿野郎です。
同様に、半端な知識しかないのに、「自分は碩学である」等とほざいている輩は大馬鹿者でしょう。

山田氏の文章は、理系に対する劣等感の表れであろうと思われ、それはつまり、まだ本当の馬鹿と利口の区別も付かない未熟者であるという事に過ぎません。
それに対して、反応してしまっている人達も、自ずと未熟者である事を示してしまっているという事になります。

文系と理系について

2005年08月08日 02時44分25秒 | Weblog
副島「学問道場」の重たい掲示板で、面白い文章を見つけたので、下記に転載します。
文系の人が理系について述べています。
ちょっと長いですが、二つあります。
解説は次に述べます。


[3034] ナチュラル・サイエンスは政治に従属する 投稿者:山田宏哉 投稿日:2003/05/10(Sat) 22:06:59

ナチュラル・サイエンスは政治に従属する
山田宏哉です。

初めに断っておくと、私は1969年7月16日(月面着陸があったとされる日)の真実がどうであったか、現時点ではわからない。考える材料を集めている最中だからである。ただ、人類の月面着陸が実は嘘っぱちの政治的演出だったとしても、政治の性質を考えれば、ことさら不思議なことではない、と思っている。

もっとも、私が興味が持ったのはむしろ副島先生の「月面着陸なかった論」に対する多くの理科系の人たちの激しい反発だった。私はすぐに、理科系の人たちは「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」という大きな事実から目を反らしたいのだ、と気付いた。たしかにそれはそうで、プロ野球の選手が「野球は玉遊びにすぎない」と本当のことを言われて怒るのと同じである。自分の存在を否定されるのと同じだからである。

私は、理科系の副島隆彦の読者の「先生、専門外のことには口を出さないでくれ」という態度が好きではないが、理解はできる。この人たちは、副島隆彦が文科系(私の嫌いな言葉だ)の分野で辛辣なことを書くのは、痛快で大好きだが、「学問の王様は政治学である」みたいな考えで、自分たちの領域に入ってこられては技術者としての自分のアイデンティティが否定される困る、と考えているのだろう。(もっとも「学問の王様は政治学である」というのは私の確信でもある)

だが、私は、学問や知識に関しては妥協を許さないため、以下、意地悪に見えようとも「学問の独立」や「自然科学の中立」といった考え方がいかに理科系の人々の願望にすぎないか、ということを今話題のアポロ計画を辿りながら嫌というほど示そうと思う。

ここに、ロバート・L・パークという物理学者(メリーランド大教授 専門は結晶構造)一般向けに書いた「VOODOO SCIENCE」(邦題「私たちはなぜ科学に騙されるのか」主婦の友社 2001年)という平易な理科本がある。この中で米ソの宇宙開発戦争の実態が活写されている。重要で示唆に富む部分を引用しながら「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」という大きな真実を解説していこうと思う。

なお、ロバート・L・パーク自身は、「実は人類は月に行っていなかった」などとは全く考えていない。

(引用開始)

 ケネディ大統領には、国民が心に秘めている願望を把握する天賦の才があった。ケネディは、有人宇宙飛行が冷戦の象徴として絶大な意味を持っていることをすぐに見抜き、ウィースナ報告書の忠告を無視して、宇宙計画の焦点を「機械」から「血も肉もある人間」へと――「無人」から「有人」へと――移行せよ、と即座にNASAに指示を出した。

パーク前掲書 P152
(引用終了)

山田宏哉です。
アメリカは当初ガガーリンに人類初の宇宙旅行を先にこされ焦っていた。
本書によると、ウィースナMIT(マサチュ―セッツ工科大)教授(当時)が長をつとめる調査団は、「無人宇宙船の方が効率よく低予算で活動できる」という報告書をケネディに提出していた。が、ケネディは政治的理由でこのような「科学的見地」を無視してしまうわけだ。このように米ソの宇宙開発競争はそもそも当初から政治的なものであり、ナチュラル・サイエンス的な色は薄かった。引用を続ける。

(引用開始)

 それから1ヶ月もたたないうちに、ケネディは国民に対して「1960年代のうちに、月に人類を送り、無事、地球にもどすことをお約束する」と明言した。冷戦という状況下で、それは危険な賭けだった。・・・

 宇宙開発競争において、知識の進歩は二の次であり、国家のテクノロジーを誇示する小道具にすぎなかった。・・・取るに足りない調査結果がまぶしいばかりの偉業として宣伝され、スペースシャトルの目的は「科学」ではなく「政治」になった。

パーク前掲書 P152
(引用終了)

山田宏哉です。
パークはここで宇宙開発は政治であったと、あからさまに書いている。つまりは、「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」という私が何度も言っていることだ。(私は自分の考えの正しさを専門家の権威を借りて証明する、という方法は嫌いだが、思考力の足りない人には効果的だと思う)  「1960年代のうちに、月に人類を送り、無事、地球にもどすことをお約束する」というケネディの約束が絶好のタイミングで守られた、という点も注目に値する。

(引用開始)

1969年7月16日、ケネディ大統領の約束ははたされた。信じられないことに、ニール・アームストロングが、地球から約38万キロ離れた月面に立ったのである!アポロ11号をどう表現すればいいだろう? それは技術がなしとげた偉業であり、比類なき大胆不敵な行為であった。アポロ11号の月面着陸は、世界支配をめざす米ソ間の闘争を超越し、人類全体にとっての誇りとなり、さまざまな発想の源となり、人類が到達できる高みの象徴となった。

・・・そのうえアポロ11号は政治的圧勝でもあった。全世界がアメリカの偉業に畏敬の念をおぼえた。

パーク前掲書 P154
(引用終了)

山田宏哉です。
このようにパークはアメリカ人として興奮気味に語っているが、案外重要なのは物理学者のパークがうっかり漏らした「信じられないことに」という一言のような気がする。

「そのうえアポロ11号は政治的圧勝でもあった。全世界がアメリカの偉業に畏敬の念をおぼえた。」という部分も見逃せない。確かに、仮にアメリカの月面着陸が捏造だとしたら、このように捏造する「動機」はあったのである。だがこれ以上の詳しい事実は私にはわからない。

だが、アメリカが政治的に決定的勝利を収めた後、せっかくアポロ計画はナチュラル・サイエンス的に見れば最も面白く刺激に満ちた時点にまで来たにもかかわらず、アポロ計画はあえなく終わってしまう。アポロ計画は「はじまりではなく終わり」(前掲書P155)だった。「科学の精神」も何もあったもんじゃない。

もっとも、私が言いたいのは、何度も言っているようにこのようにナチュラル・サイエンスは究極的には政治に従属するものであって、理科系の人たちにはこの問題を見てみぬ振りをすることはできない、ということだ。

この大きな事実を見ずして「私は科学の専門家です。門外漢はだまっとれ」みたいな態度で知識をひけらかさないでほしい、とかねてから思っている。(了)




[3053] そもそも理系技術者は一定の政治的利益追求のために、技術部隊として雇われているのだ 投稿者:山田宏哉 投稿日:2003/05/13(Tue) 03:33:04

そもそも理系技術者は一定の政治的利益追求のために、技術部隊として雇われているのだ
山田宏哉です。

先日、副島先生及び学問道場の方より電話があり、私の書いた重掲[3034]「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」論が問題となって、私のプロフィール(個人情報)が2ちゃんねる等に流出している、と知らせていただきました。私は、見ていないのですが、私の言論が一定の衝撃力を持っていることがわかって嬉しく思いました。「山田宏哉の小論文を読んで口惜しくて眠れなかった」という少々どう反応してよいやら、という感想もいただきました。ただ、自明の当たり前のことを言ったに過ぎないのに、なぜこんなに問題になるのかかえって不思議にも感じます。

この「そもそも理系技術者は一定の政治的利益追求のために、技術部隊として雇われているのだ」論では前稿では舌足らずだったため、十分に言い尽くせなかったことを誤解の余地のないように敷衍(ふえん。付け加えること)している。「自分は理系で頭が良くて、政治的には全くの中立で、真実しか言わない」という態度のうぬぼれた(しかし私の文章でショックを受けた)理系技術者たちにトドメの一撃を加えようと思います。(なお、私は「敵」に攻撃を加える際は、一撃で一気に勝負を付けてしまうたちです。ダラダラとしたおしゃべりのような論争はしないし、つきあわないので悪しからず。)

私は、これまで「理系は頭がよく、文系は馬鹿」というような言葉を聞く度、「この人たちは何もわかっていない」と不愉快な気分になってきた。だから、この文章にはそのような固定観念や常識に対する、ソシアル・サイエンス系の人間からの反論・反撃という意味もこめられている。

まず、私の前稿「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」論の趣旨は、「政治学の研究成果が理系の学問分野にも影響を与えている」といった類の学問の内容に関わる学問談義では断じてない。勘違いしないでほしい。ナチュラル・サイエンスの研究体制や制度そのものが、不可避的に現実政治に翻弄(ほんろう)されるのだ、という意味なのである。

そこで、理科系の技術者に問うが、あなたの膨大な研究開発費や給料は一体どこから出ているのか? あなたはあなたにお金を出している人たちに逆らうことができるのか? 彼らの望まない分野の研究をし、望まない研究成果を発表することはできるのか?

このような問題を考える前に、言っておきたいことがある。たいていの理科系の人たちは「権力闘争」(「出世競争」とおきかえてもよい)や「敵と味方の区別」といった政治(学)の考え方を軽視しすぎている。古来から、あらゆる組織のトップに立つ人間は、たいてい事務系の帝王学を修めたようなタイプの人間であって、細かい技術に精通した人間ではない。例えば現在の東大総長の佐々木毅はなんと「君主たるものは愛されるより怖れられなければならない」と『君主論』で書いたマキャベリが専門である。

そもそも、国立大学や私立大、企業の研究所に理系の研究者なり技術者として雇われるためには、国(大学)や企業が有意義と認めた研究分野を専攻しなければならない。逆に言えば、国(大学)や企業が有意義と認めない研究分野では雇ってもらえず、食べていけない。例えば、ITが国家戦略ともなれば、SEが大量発生し、重厚長大な分野の技術者は打ち捨てられていく。

だから、理系の技術者は自分で自分の好きな分野を選んでいるように見えても、あくまで政治(と経済)が要請する分野の範囲内から選ばねばならず、その枠内から逃れることはできない。このルールに従わないものは、自称UFO研究家や発明家とでもなって、変人扱いされるのが関の山である。

そしてさらに重要なことは、どの研究分野が重要で、どの程度の予算を投入すべきか決定するのは、当の理系の技術者・研究者ではない、という事実である。それを決めるのは、理系の技術者の上に立つ、政治的・経済的な価値判断を下す事務系の支配層に属する人々である。つまりは、理系技術者は、国や企業や大学の一定の政治的(経済的)利益追求のために、技術部隊(もの言わぬ便利な道具・ツール)として雇われている(利用されている)のである。

これを「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」と言わずして何というのか。広い意味での政治があるからこそ、ナチュラル・サイエンスも制度として存在可能なのであって、その逆ではない。この自覚なしに、「自分だけはしがらみのない科学の人」のような立場を取るのはやめてほしい。

だから、当然ながら、理系の技術者は、できるだけ自分の雇用者の望むような研究分野で彼らが望むような研究成果なり開発結果を出さなければならない。特に企業においてはそうだ。逆らうなんてとんでもない。大学においても、「大学の威信」に貢献したり、文部科学省(税金)からたくさん研究費をぶん取ってこれそうな研究が歓迎されるのは言うまでもない。果たしてこれで、「学問の独立」とか「自然科学の中立」とでも言えるのだろうか? 

もちろん、このような政治的な自覚をしている人は滅多にいないだろう。特に平凡な日常が続いているだけに見えるような時代においては。そのような状況では、アポロ計画に関して言えば、根拠もなく何となく感覚だけで、「NASAは絶対に正しい」となってしまうのである。

しかし、NASAもまたアメリカの国益に逆らうことは絶対に出来ないし、国民の「有人宇宙旅行」という願望を表現したケネディ大統領の命令に従うしかなかったのである。たとえそれが、ナチュラルサイエンス的見地を無視したものであっても。(これについては前稿で述べた) 何しろ、国民を敵に回して税金がNASAに回らなくなったら、それこそ彼らにとって死活問題なのである。だからNASAの、「なんとしてでも有人の月旅行をしなければならない」というプレッシャーや責任感・使命感は筆舌に尽くしがたいものだったろう。

どうして、理科系の人々はこういう政治的な見方をする人が極端に少ないのか。(もっともこういう人はもともと文系志望だが) 

だから副島隆彦も言うように「文科系の連中にいいように利用されて終わる」のだ。アインシュタインだって、ひとたび国家が危機に陥れば、ナチスに対抗するためにアメリカの原子爆弾開発に貢献した。よく、「その後、アインシュタインは平和主義者になって原爆開発を後悔した」ということが美談として語られるが、それは戦後ある程度平和な世の中が訪れたからこそ、である。自分の住む国が滅びたり、自分の勤めている大学や企業が倒産してしまったら、そんなことを言っている場合ではない。政治権力の利益のために理系の人々が技術部隊として利用されるのは、構造的な問題であって、個人の性格の問題ではない。

私は何か間違ったことを言っているだろうか。細かい事実誤認はあるにせよ、大筋では当たり前のことを言っているだけだ。ただ、あまりに露骨なため、みなが口にしないだけの話だ。

また、以上のことについては理科系以外の学問についてもほぼ同じことが言えるが、この人たちには自惚れは感じられないので特に触れなかった。私が何を言っているか理解できない人は本稿と前稿を何度も読み返してほしい。「政治に従属するナチュラル・サイエンス」に関して、言うべきことは言ったと思う。このテーマに関しては、ひとまずこれで終わりにする。(了)



親副島の人達からコメントが来ました

2005年07月29日 02時05分37秒 | Weblog
いやあ、来ましたね。親副島派からのコメントが。
(本ブログのコメント欄参照下さい)
2通来ておりますが、どちらも実に典型的なものです。
以下に解説してみましょう。

まず、一通目の無名人という人のコメント、彼は次のように言っています。
>> 出世作の「欠陥 英和辞典の研究」
>って、それ変でしょ。
>すでに絶版扱いになってる本がどうして「出世作」なのよ。

つまり、「出世作」という言葉の意味をご存知ない。
これだけで、既に頭の中身は知れてしまうのですが、
続く文章が、「頭が変」「人間のクズ」「今すぐ死んでもかまわん奴」という具合に人格攻撃のオンパレード。
勿論、私が書いた内容についての反論等は一切なしに。
しかも
>こういう無記名で悪口書いて平気なんて奴は人間のクズだね。
と言ってるこのメールの差出人自身「無名人」という匿名ハンドルでメールを送っているので、自分で自分をクズと言っている始末。

次の、Unknownの方の文章は、「金払う価値があるから払っている」「俺が何読もうが俺の勝手だ」、との言。
私は、別に、金払って読む事が悪いとは言っていませんし、払っている人達は金払う価値があると思っている人である事は、言われるまでもなく当たり前の事だと思っています。
私が言っているのは、どうしてあの様な馬鹿な文章に、金払う価値があると思えるのか不思議だという事です。
それに対して、
>そんなに批判したいなら君も金払って読んでから批判したら?
とか、
>いちまんえんも払えない奴が勝手なことを言うな。
という全く的外れなコメントでありますから、やっぱり頭の中身が知れてしまいます。

上記2通のコメントだけから判断すると、やはり、副島以上の馬鹿が弟子として残っただけ、という結論になってしまうのでしょうか。

それでは、あまりに寂しい。
すごい人からのコメントが来ないものでしょうか。

副島隆彦の弟子たちとは

2005年07月15日 21時11分01秒 | Weblog
理系掲示板にWIREDという人がいます。
彼は最近、理系掲示板で野川という人とやりとりしており、そのやり取りが興味深いので、
そこを分析してみましょう。
このWIREDという人は、原子力関連のエンジニアをしている人であるとの事なので、恐らく
大学の工学部を出ている人でしょう。

そして、間違いなく副島の「月面本」に書かれている、中学生にも馬鹿にされる内容を、馬鹿にされてしかるべきと理解していると思います。
ところが、その事について問いかけられても、一切回答を行いません。
そして、言った言葉が、

「幸か不幸か、私は「科学」や「技術開発」の名の下に、壮大なスケールでの詐欺行為や騙し合いが行われていることを、知ってしまいました。核融合炉開発などはその最たるものです。
「月面問題」への私の認識もその延長上にあるだけです。」
という言葉です。(理掲1269)

つまり、「人類は月面へ行っていない」という事に達する過程の論証はどうでも良い。
「人類は月面へ行っていない」という結論が俺の社会認識に一致している事が重要なのだ、という事なのです。

これは非常に重要な事を示唆しています。
養老孟が「ばかの壁」で、オウムにあれだけ優秀と思しき若者が何故参加してしまったのか、の理由について、
身体というものを、きちんと動かした経験がない者は、いくら知識を持っていたとしても、身体の反応等について理解する事は出来ない。
身体の反応は、身体を動かす事によってのみ体得できる。頭でっかちの若者達は、身体をまともに動かした事が無い為、自らでは全く理解できない身体の反応を、麻原は極めて正確に描写・指摘する事が出来たが為に、麻原に心酔するに至ったのであろう、という事を書かれています。

この事に非常に似た現象であると思うのです。
つまり、このWIREDという人彼自身の認識である、「日本はアメリカにしてやられている」という認識を副島隆彦がズバリと言い当てたが為に、それだけで心酔してしまったという事になるのでしょう。

ネット上における、掲示板やメールという、書き言葉のやり取りだけで、その様な境地に達せられるのかという疑問はあります。
しかし、副島学問道場には、会費(1万円)を払ってでも副島先生の言葉を聞きたいという人間が現実に集まっておるのです。

副島隆彦の弟子たちとは一体?

2005年07月13日 03時33分40秒 | Weblog
副島隆彦は、出世作の「欠陥 英和辞典の研究」から既に、浅はかな知識だけに頼って文章を書き、周りをこき下ろすというスタイルであり、それは、月面本を経て、更に現在に至っても全く変わってはいない。
例えば、最新の「ぼやき」において、次のようなことを言っている。
1)9.11同時多発テロはやらせ
2)ニューズウィークは、週間CIA
3)ニュートン力学もアインシュタイン相対性理論も否定
等々、どれについても全く根拠無く、言い放っている。

普通の頭を持った人間であれば、上記だけでも呆れ果てて「ばーか」という以外ないはずだと思うのだが、それに反し、「弟子(会員)」と称する人間が幾人も、副島隆彦「学問道場」にいるのだ。
それも、年間1万円!も払って、わざわざ会員をやっている。
一体これはどういう事なのであろうか。

まず、当然彼らは副島以上の馬鹿なのであろうと推測するのであるが、掲示板等で見る彼らの文章を読んでみると、それほど馬鹿ではなさそうな気もするのだ。
一体何故この様な事が起こるのであろうか。

今はよく分かりません。

もう少し考えてから、書き込んでみたいと思います。

副島隆彦は何故あのような馬鹿な本を出したのか-仮説その三

2005年07月08日 15時23分57秒 | Weblog
何故副島隆彦は、あれほど馬鹿にされると分かっていた本をそのまま出版したのか。
先に挙げた二つの仮説は、実はあまり信憑性はありません。
何故なら、両仮説共に、優秀な読者や弟子は皆去って行くという結果を生み、馬鹿やカスばかりが最後に残ってしまうからです。
それでは、今後恒常的に作品を売り続ける事は難しいでしょう。
(今後、トンデモ作家として生きていくのなら話は別ですが)
馬鹿やカスばかりが残る事を最初から意図して本を出した、それが説明されなくてはなりません。
その説明が、この第三の仮説です。

馬鹿やカスばかりが残る事のメリットは何でしょう。
それは、「言う事を忠実に聞く兵隊」の養成が可能になる事です。
そこで、思い出すのは、あのオウムです。
信者をあれだけ集め、あれだけの組織を作り上げました。
最後にテロに至ってしまったのは、恐らくオウム真理教という宗教の教義が、何らかの形で迷走を生み出した事に拠るのだろうと私は思っていますが、もし仮にその一歩手前で踏みとどまる事が出来ていたなら、教祖は、組織の頂点としてやりたい放題をし続けることが出来ていたと思います。
勿論、お金は「お布施」やら、テレパシー受信機のようなものを売りつけたりで、がっぽがっぽです。
副島も、同じ路線を狙っているのではないでしょうか。
あのトンデモ本を踏み絵にして、副島教の布教を企ているのではないかという事です。
副島隆彦「学問道場」にある掲示板を見るに付け、実際に今でもあの場に残っている人達からは、一種狂信的な雰囲気を感じられますので、副島教布教は、実際に効果的に動いているように見受けられます。

副島教布教そのものの目的は何でしょうか。
それは、良く分かりません。
上記の様に、一線さえ踏み外さなければ、お山の大将で、組織内ではやりたい放題が可能ですのでそのあたりの「ささやかな幸せ」を目指しているのかもしれません。
或は、政界進出を目論んでいるかもしれません。

少なくとも、今後あのトンデモ本を境にして、まともな政治・経済関係の本はもう売れないでしょうし、政治・経済評論家として生きていく事自体がもう難しいと思われますので、今後はどの様な姿に変わっていくのか注目したいと思います。

副島隆彦は何故あのような馬鹿な本を出したのかー仮説その二

2005年07月08日 03時12分54秒 | Weblog
何故副島隆彦は、あれほど馬鹿にされると分かっていた本をそのまま出版したのか。
次に考えられる理由は、「実験」です。

小林よしのりがゴーマニズムで成功している事に、副島は注目します。
何故、この漫画が支持を受けるのか、副島は考えました。

そうして、副島は思います。
成功の原因は、あの極端なデフォルメと恫喝にあるのではないかと。
そして、これを漫画ではなく文章に応用しても同じ事が出来るのではないか、そう副島は考えました。

それでは、実験的に、小林よしのり的に、デフォルメ的文章及び恫喝に彩らせて、とてつもなく馬鹿な内容を書いてみよう。
これだけ馬鹿な事を書いても、まだだまされて付いて来る人間がたくさん出るようであれば、この手法は有効であると判断できるであろう、そう副島氏は考えた。

まず、「ぼやき」でちょっと試してみるか、とやってみたら、予想以上に付いて来る馬鹿が出て来るではないか。
しかも、「理科系掲示板」と称して、理科系が集まっている場所でさえも半々位で付いて来る馬鹿が出て来ている。
「よーし、これなら行けそうだ」という事で、一年後に満を持して出版する事となったというわけです。

これが仮説その二です。
(この仮説はちょっといまいちかな)

副島隆彦は何故あのような馬鹿な本を出したのかー仮説その一

2005年07月08日 02時28分54秒 | Weblog
何故副島隆彦は、あれほど馬鹿にされると分かっていた本をそのまま出版したのか。
まず第一に考えられる理由は、「金儲け」でしょう。
つまり、本は売れれば良い、という考えです。

まず、自らのホームページにその内容を載せます。
当然「中学生にも馬鹿にされるレベル」ですから、たくさんの人間から批判文が寄せられます。
どうも、人間というのは間違いを指摘する事に、非常に快感を覚えるもののようです。
また、間違いが簡単であればあるほどたくさんの人間が気付く事となります。

こうして、自らのホームページに限らず、色々な所で、「ばーか」の大合唱が始まります。
ところが、世の中おかしなもので、「いや、副島先生の言っている事は正しい」と言い出す、馬鹿以上の馬鹿が現れだし、掲示板は諸所で活況を呈する事となります。

副島はそれを見てほくそ笑みます。
「ほっほっほ。もっとやれ、もっとやれ」

こうして、一年間、方々で散々の議論をさせた後に、満を持して本の出版です。
本を出した後も色々な所から突っ込んで貰える様に、内容を修正したりはしません。
内容は、ひどければひどいほど良いのです。
そうして、出版した後は、またしても議論の始まりです。
議論といっても、内容のひどさを分かっている人間が優越感からこき下ろし、内容のひどさを理解できない馬鹿どもがそれに対抗して生き恥をさらすという構図でしかないのですが。

と学会などは、大喜びでこき下ろし、トンデモ本大賞などを与えます。
副島はそれを見てほくそ笑みます。
「ほっほっほ。もっともっと俺の本を宣伝してくれ」

こうして、「話題の」本は、皆様の宣伝のおかげをもって売れ続け、印税ががっぽがっぽと副島氏の懐に転がり込み続けるというわけです。

これが、仮説その一です。

実際、この本が何部売れたのか良く分かりませんが、興味深く思います。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお教え頂きたく。

副島隆彦の月面本について―はじめに

2005年07月08日 01時38分09秒 | Weblog
まず、副島隆彦が、あの本を著すまでの経緯について簡単に説明致します。

副島は「学問道場」と称するホームページ(http://soejima.to/)を主催しており、その中で「今日のぼやき」と題して、文章を不定期に掲示しています。
この「ぼやき(430)」にて、人類の月面着陸はなかったろう、とする文章が2003年4月29日に掲載されたようです。
ただ、この「ぼやき」を参照できるのは、会費を払っている会員だけです。
私は、会員ではありませんので、この「ぼやき」を見る事は出来ないのですが、このホームページで開設されている「副島系・理科系掲示板」という掲示板の過去ログから推察するに、ほぼ出版されている本の内容通りの事がまずこの「ぼやき」に書かれた模様です。

この「ぼやき」掲載の直後から、副島のホームページの掲示板上で、喧喧諤諤の議論が始まったのが伺われます。
また、その他の掲示板(2ch等)においても、色々と議論が交わされたようです。
そして「人類の月面着陸はなかったろう論」と題する本が2004年の6月に出版されました。

その後も、色々なホームページ、掲示板等で、この本が取り上げられて来ているようです。
2005年6月には、2005年度の「トンデモ本大賞」を受賞しました。

この本の内容については、推して知るべしで、ずさん極まりないものです。
と学会の山本弘が
http://homepage3.nifty.com/hirorin/tondemotaisho2005taroron.htmで書いていますので、参照ください。

書いてある内容そのものについては、私は触れるつもりはありません。
もう、色々な所で、数限りなく議論されているようですから。

私が問題にしたいのは、この様な、言わば「中学生にも馬鹿にされるような」内容を、2003年に一度発表しておいて、その一年後の出版において、その内容を殆どいじっていない事です。

ホームページでの発表以来掲示板では、相当な議論がなされており、当然の事ながら、きちんと誤りを指摘している物も多くあるのです。
また想像ではありますが、身近の人間からも色々なアドバイスや忠告があったと考えられます。
(何と言っても中学生に馬鹿にされるような内容ですから)
そのどれをも顧みる事なく、内容に訂正を加えず、「中学生にも馬鹿にされるような」内容そのままで出版を行なっている、これは尋常な事ではありません。

何故でしょうか。
理由は、下記二つに大別できます。

1)著者が大馬鹿であるから
2)著者は馬鹿ではなく、別の理由で、全て承知の上で敢えて出版した

恐らく、正解は1)でしょう。
何故なら、彼の出世作である「欠陥英和辞典の研究」という本で(1990年)、やはり相当にずさんな事を書き、研究社に訴えられ敗訴するという経歴を彼は持っており、つまり、よく調べもせずに浅はかな知識で批判本を書くというのは、もう彼の常套手段であると思われるからです。

ただ、それでは面白くないので、万が一にも彼が馬鹿ではなかった場合を想定して、つまり上記2)、馬鹿にされる事は分かっていたのに、全て承知の上で出版した、それは何故かについて、考察していこうと思います。

また、それに関連して、彼の弟子達がまた興味深い反応を示しておりますので、それも合わせて考えていこうと思います。

副島隆彦の「人類の月面着陸は無かったろう論」について

2005年07月07日 03時11分09秒 | Weblog
第14回トンデモ本大賞を受賞した本です。

内容は中学生でも「アホか」と思うようなものです。

何ゆえにこの様な本が出版されたのか。また、副島隆彦の弟子たちは、この本について
どの様な反応を示しているのか。

とても興味深く思っております。
以下に私の考察を延べて行きます。