「ご法座に行ってみたいけど・・・ どうも正座が苦手で」
と、おっしゃる方々ご安心下さい!!
西敬寺には、本堂用にお作りいただいた椅子席がございます。写真がその椅子ですが、この椅子とても優れものなのです。
実はこの椅子、長野市内の浄土真宗本願寺派西光寺の御住職の山慶昭先生(←クリックしていただきますと、インターネットラジオ「おもしろラジオジャパン」のページにアクセスいたします。おしょうさんの「ちょっといい話」第六回にご出演されていますので、お話しをお聞きになって下さい)が工夫に工夫を重ねてデザインして下さったものなのです。
山先生は、長年「日建設計」にて日本を代表する建築物の設計を担当されてこられた方で、現在は信州大学の講師もされている方です。
シンプルなデザインの椅子ですが、本堂の畳を傷めない工夫や、お子さんやお年寄りでも簡単に持ち運びができるように軽量化し、何よりも本堂の阿弥陀如来様を礼拝するのに、そのお姿がよく見えるように高さが調整されているのです。
長時間座っていても疲れを感じないゆったりとしたデザインでもあります。どうぞ足の痛みや腰の痛みに悩まされている方もご安心していただいて、ご参加下さいませ。
西敬寺「お盆法座」
日時 平成18年8月16日 17:00~18:00
16:30 受付開始 (西敬寺本堂正面からお入り下さい)
17:00~ お勤め
17:20~ 法話(住職 木賣慈教)
18:00 終了予定
場所 西敬寺本堂←クリックすると地図をご覧になれます。
*服装はご自由です。
*参加費も必要ござません。
*お念珠をご持参ください
*お菓子(懐かしの駄菓子)と冷たいお茶をご用意してお待ちしております
以前、当ブログでご紹介しました。広島県安芸太田町の正覚寺の清胤弘英御住職・祐子坊守の「かけられた願い」の最新刊第11集をお盆期間中に、ご参詣の皆様に差し上げております。
16日のお盆法座の折にも、まだお手元に無い方々に差し上げますので、是非お越しくださいませ。
「かけられた願い」 第11集 目次
「なも、なも、なも」
「親子」
「愛・地球博」
「本当の宝」
「紅葉となって」
「心豊かにすごす努力」
「あんパンとごま」
「精進」
「向き合うこと、そして拝むこと」
お二人が、皆さんに優しく語り掛けてくださるようなご本です。文字も大きくとても読みやすく工夫していただいております。是非ご家族でお読み下さい。
*「かけられた願い」は
「はい、こちら正覚寺こころの電話です・・・」で始まるテレホン法話をまとめられたものです。 0826-23-0111にお電話していただくと、清胤先生のお声で直接ご法話をお聞きいただけます。
(毎月1日・11日・21日に、ご法話の内容が更新されます)
写真は当ブログ初登場となりますが、西敬寺の狛犬ことミシェルと申します。
明日のご法座に備えて、皆さんに選り抜いてお持ち帰り頂くお土産にご用意しました駄菓子を守護しております!
ご門徒さんに限らず、どなた様でもご参加いただけますので、是非お誘い合せの上お出かけくださいませ。
西敬寺「お盆法座」
日時 平成18年8月16日 17:00~18:00
16:30 受付開始 (西敬寺本堂正面からお入り下さい)
17:00~ お勤め
17:20~ 法話(住職 木賣慈教)
18:00 終了予定
場所 西敬寺本堂←クリックすると地図をご覧になれます。
*服装はご自由です。
*参加費も必要ござません。
*お念珠をご持参ください
*お菓子(懐かしの駄菓子)と冷たいお茶をご用意してお待ちしております
お勤めの後、ご一緒にジュースを飲みながらよもやま話をしていたところ、私の顔をご覧になりながら若いお二人が何やらヒソヒソ・・・ 思い切ったようにご主人が
「あのぉー 住職さんドン・キホーテでよくお見かけしますよ」
と、おっしゃるのです。
実は、激安の殿堂ドン・キホーテが今年長野のにも進出してきました。都内ではよく見かけますがまだ、長野には一店舗だけのようです。そのことは知ってはいたのですが、まだ行ったことはなかったので
「いや、まだ一度も伺ってませんよ」
と、申し上げたところ
「いや、ドン・キホーテのテレビで住職さんの番組が繰り返し流れてるんです。もう三回も見ちゃいました」
とのこと、どうやら先月出演したインターネット番組「おもしろラジオジャパン」の収録映像が繰り返し流されているようなのです・・・。
思いがけず知ってしまった事実に赤面してしまいました。
しかし、どう考えてもドン・キホーテの店内でお寺の住職のトーク番組が流れているって不思議な感じがしますね・・・
でも、もしかしたらブログへのアクセス数が増え始めたのはドン・キホーテさんのお陰かなと感謝しています。

毎月お伺いしている地域のデイサービス(通所介護事業所)の「ケアネット」さんでしたが、6・7月は私の都合で連続してお休みをしてしまいました。
数日前に職員の方からお電話にて、
「利用者の方から、西敬寺さんはいつ来るのか? と皆さんに催促されているので、お盆前でお忙しいでしょうが、なんとか都合をつけていただきたい」
と、有難いご案内を頂き喜び勇んで伺いました。
重ねて喜ばしいことに「ケアネット」さんに到着するや、皆さん拍手と笑顔でお出迎えして下さるではないですか。ちなみに、毎回午後2時から1時間のお約束でご法話をさせていただくのですが、お昼から利用者の方はお昼寝されているので、いつもですと皆さん寝起きなんです。ところが今日は、私がお伺いする前に寝起きのストレッチを済ませ、準備万端待っていて下さったのです!
皆さん、本当に待ちかねていてくださったんだと胸が熱くなり、自然といつも以上に熱が入ったお取次ぎとなりました。
実は、西敬寺の法座にお越しいただいている善立寺御住職で本願寺布教使の長原真了先生が、4年前の永代経法要の際に、
「ある能楽師の方が、舞台は演じ手が作り上げると思われるかもしれませんが、本
当の舞台と言うのは、よき観客に恵まれてこそ成立するのです。よき観客が演じ手
を育ててくださるのですとおっしゃっていました」
と、お話くださり続けて、
「ご法座も同じですね。話し手と聞き手の一体感が育まれていくところに素晴らしさがあるのではないでしょうか? 聞き手の方々が話し手を育ててくださるのです」
と、お話してくださいました。
最近、ご法座へお招きいただくご縁に恵まれ長原先生のお話がより一層身に沁みてきます。話し手として皆さんにお育ていただいていることに、感謝することは勿論ですが、私のような者の話を喜んで聞いてくださる方々の姿勢に、聞き手としての大切な心得を教えていただいているように思います。
「よき聞き手となる」これは「よき話し手」になることより難しいことでは無いでしょうか? その証拠に先人は、「話し上手は聞き上手」と言う格言を残して下さっていますものね。
「お前はすごいよ、よく耐えてここまでになったんだから」
と、目を潤ませて励ましてくれました。
父が亡くなり、自分の意思とは裏腹に歩み始めていた私は、敷かれたレールの上をただ歩いているようで、どうにも惨めで情けなく悶々としていました。その思いを察するかのように彼は力強く励ましてくれたのです。
彼は、一言で言い表すならば、生命力の塊! 道無き道を自ら切り開いていくブルトーザー!! 「オペラ歌手になるんだ」と言って単身イタリアに渡りフィレンツェの音楽学校に進みました。そんな彼を、常に私は眩しく、羨ましく思っていました。
彼は、現在もフィレンツェで声楽を学びながら、なんとイタリア初のラーメン店を経営しています。そして同じくフィレンツェで声楽を学んでいる女性と結婚しました。
今日はその披露パーティーが故郷長野で開かれたのです。
オペラの本場でプロとして舞台に立つという夢と、イタリア料理という確立された分野に日本のラーメン文化を伝えるという大きな夢を着実に育てている彼は、新婦と共により一層輝いて見えました。
ふと、彼の姿を見つめながら、共に過ごした中学校時代に恩師たちから贈られた一遍の詩を思い出していました。
「念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった」
(「念ずれば花ひらく」 坂村真民)
今日の晴れやかな彼の姿は、今あらためてこの詩を私に思い出させてくれました。どんな困難な境遇におかれても夢(願い)を持ち続けることの大切さを・・・
あの時、彼が「お前はすごいよ、よく耐えてここまでになったんだから」と、励ましてくれた言葉が今こんな風に聴こえてきます。
「不思議な縁(えにし)で根づいたならば
そこにしっかり根を張りめぐらせ
どんなに風や雨が吹こうとも
陽を遮られようとも
耐え抜こう
問われているのは
何処に咲くかではなく
どんな花を咲かせるのかなのだから」
君にはいつも励まされ、勇気づけられる!
「有難う! あっ君!!
そして本当に本当におめでとう!!
心からおめでとう! 」
追記
彼こと「あっ君」(小嶋 彰君)とそのパートナー麻美さんのイタリア発(初)のラーメン店は、フィレンツェの中央駅から歩いて約15分ビア・デイ・バンキ通りに面しています。お店の名前は通りの名前をもじって「番気」(本人曰く、番長の「番」に気合の「気」という漢字を当てたらしいです・・・ )
セリエAの人気チーム「フィオレンティーナ」選手がよく顔を出してくれるそうです。ちなみに中田英寿選手も在籍中は、本格的なラーメンを求めてよく通っていたとか・・・
なんと、ラーメンだけではなく、餃子やチャーハンもあるそうです!!
フィレンツェに旅行をされる際は、是非足を伸ばしてみて下さいね

西敬寺「お盆法座」
日時 平成18年8月16日 17:00~18:00
16:30 受付開始
17:00~ お勤め
17:20~ 法話(住職 木賣慈教)
18:00 終了予定
場所 西敬寺本堂←クリックすると地図をご覧になれます。
お菓子(懐かしの駄菓子)と冷たいお茶をご用意してお待ちしております。
先週は、大阪の吹田市の大光寺様(清岡隆文御住職)と茨木市の称名寺様(本多隆朗御住職)の「夏期法座」にご縁を頂き、長野を離れておりました。
ブログの更新を携帯電話にて試みたのですが・・・ 親指を酷使して打ち込んだ文章が消えてしまうというアクシデントがあり、挫折いたしました
7月の下旬は、お盆のスケジュール調整に追われはしますが、西敬寺の法務自体は比較的余裕があり、数年前より大阪・京都・広島等関西方面のご寺院に、ご縁を頂きご法話をお取り次させていただいております。
ところで、浄土真宗の僧侶の間では「浄土真宗、特に西本願寺派は西高東低だ」と囁かれます。要するに会社で例えるならば、本社(西本願寺)が京都にあり、支店(本願寺別院)も西日本に圧倒的に多く営業所(一般寺院)の数も関西や中国、九州地方に多く展開しているということです。このように具体的な数字に表れるせいか、西日本の方が熱心な信者の方が多いと理解されているのです。
殊に広島は、江戸時代に傑出した学僧の方や伝道者を育んだ地域で、特に尊敬を込めて信者の方々を「安芸門徒」とお呼びし、ご法義(信仰)の篤い地域であると僧侶の間では羨望を集めています。
そのせいか「広島や大阪のご法座にお伺いすることになった」等と長野の諸先輩にお話しすると「そりゃ大したものだが、怖いもの知らずとも言う」等と重圧を掛けられます。これは、どんなご法座にお伺いする時にも心がけなければならないことですが「俄仕込みの若僧がお伺いしても恥をかくぞ、誠意を持ってしっかり先方の信者の方々からお育てを頂く謙虚な気持ちで伺いなさい」と暗に諭して下さっているのです。
今回お世話になった大光寺の清岡隆文御住職からは以前、
「ご法話をお取次ぎするものは、自らが聴聞者であることを自覚しなければならない」
と、ご忠告を頂いたことがあります。
私は、このお言葉を「もったいなくも皆様のお時間を頂戴し、お話をさせていただくものは、お聞きくださる方々より率先してご聖教に法を聞く(読む)ことは勿論、率先して聞き手としもご法座のご縁をいただき、法を問う聞法の姿勢が大事であり、独りよがりの勝手な解釈やその場の思いつき等、曖昧で根拠の無いお話をしてはならない」と常に肝に銘じています。
そうそう、お経の多くは「如是我聞(にょぜがもん)」とはじまります。つまり「私は次のようにお釈迦様より聞かせていただきました」とはじまる訳です。ご法話も、お釈迦様をはじめ親鸞聖人のお言葉をお聞きしてそれをお預かりしお取り次すると言えます。
そういった意味合いから、ご法話をさせていただく者を「布教使」と申します。「師」では無く「使」とするところに深い意味があります。つまり阿弥陀様のお使いですから、阿弥陀様の「教え」をお預かりしお届けすることは勿論、皆様から頂いた阿弥陀様への「問い」をお預かりしていくことも大切なことと思っております。「問い」に対して知ったかぶりをして曖昧なお答えをするのでは無く、素直に解らなければあらためて皆さんと一緒に、阿弥陀様にお聞きしていく姿勢が大切であると日々思っております。
ついつい、知ったかぶりをする自分が居ることに大いに反省しながら・・・
16日に、上田市の順教寺様にて「夏法座」があり、ご法話のお取次ぎのご縁をいただきました。
順教寺は母の実家にあたり、私の曾祖父田中淳良が開基したお寺になります。
曾祖父は、島根のご法義の篤い商家の三男に生まれ、深いご縁あって源哲勝和上の薫陶を授かり僧侶の道へと進みました。
そして戦前に大阪市の松樹寺へ住職として入寺しました。その後、長男が日支事変により戦死、次男・長女が相次いで病死した為、次女であった私の祖母法子が、長崎の北有馬は真蔵寺にて育った私の祖父信行(旧姓立花)と結婚しました。曾祖父と祖父の努力と地域の方の篤いお志によって松樹寺は本堂が新築されご法義のご相続の拠りどころとなっていました。
ところが昭和20年の大空襲により、松樹寺一帯は絨毯爆撃され、本堂・庫裏は勿論のことお寺を支えて下さった門信徒の家々もことごとく焼き尽くされてしまいました。その時、燃え盛る本堂に「ご本尊様をお救いしなければ」と飛び込もうとした曾祖父を、祖父や祖母が必死で止めたと聞いております。
大阪での寺院再興を願いつつも、生活すらままならない状況に追い込まれた一家は、縁あって長野県松本市にある本願寺松本別院へと疎開し、曾祖父は全国を布教に駆け回り、祖父母夫妻は松本別院の職員として、本願寺松本中央幼稚園の設立に尽力しました。
曾祖父が布教活動をしている中で、長野県丸子町(現上田市)の鐘紡長野工場の方々とのご縁が広がっていきました。当時、長野県内では、紡績業が盛んで鐘紡長野工場には関西出身の方々が多く居を移され、ご勤務されていました。
関西出身の方々には特に熱心な浄土真宗の信者の方々が多かったのですが、丸子町には浄土真宗の寺院が無く、新寺院建立を願う方々が曾祖父に新寺建立の中心となるよう懇願されたそうです。大阪での松樹寺再興を志していた曾祖父でしたが、丸子町の方々の熱意を受け、布教所を設立し新寺建立の意を固めます。そして、本願寺松本中央幼稚園を軌道に乗せた祖父母夫妻も丸子の地へ呼び寄せ、新寺建立に先立ち、町の方々からの強い要請にて幼稚園(丸子中央幼稚園→現西望幼稚園)の設立を果たします。
昭和25年病に倒れた曾祖父は5月16日往生しました。奇しくもその日、丸子町の職員の方々が、宗教法人「順教寺」の設立認可を伝達にお越しになったそうです。
曾祖父は最期の最期に床の中でその慶びを噛み締め、親鸞聖人のお言葉
「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
と、お念仏とともに申しその人生を閉じたそうです。
この順教寺設立に際してお迎えしたご本尊「阿弥陀如来」様は、戦前に樺太(現在のサハリン)の本斗町に建立された本願寺派本誓寺の阿弥陀如来様だそうです。
終戦と同時に樺太では、攻め入ってきたソ連軍による簒奪行為がありました。本堂を焼かれながらも中川一生住職が、命がけで阿弥陀さまをお守りし、海を渡って日本本土へと来られました。
中川一生師は、戦後松本別院に赴任され、そこで私の祖父との間に深い友情を結ばれました。そして、順教寺設立に際し、樺太から命がけでお連れした阿弥陀さまを託してくださったそうです。
島根に生まれた曾祖父は縁あって大阪の寺院へと入寺し、そこで祖母が生まれ、長崎から縁あってそこへ迎え入れられた祖父が、不思議なご縁で共に長野の丸子の地へと移り、そして樺太から極寒の海を越えて、はるばるやってこられた阿弥陀様と出遇い新しいお寺が開かれる機縁が結ばれたのです。
どのお寺にもその設立の艱難辛苦があったはずです。そして今も、新たに寺院を建立しようと大いなる願いの中で命を燃やしている方たちがいらっしゃいます。
「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
(意訳→ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ)
先人のご苦労を偲びつつ、私も住職としてこの親鸞聖人のお言葉を深く深く噛み締めていきたいと思います。
日々「阿弥陀様への御恩感謝」を口癖にされ御自坊はもとより、お寺が裏表に位置する御縁から、常に西敬寺の本堂・境内にも気を配ってくださり、未熟な私に御荘厳の作法から、境内の庭木の手入れまで父親のようにご指導いただきました。
西敬寺の傷んだ打敷をご心配くださり、自ら針を持って直してくださったり、冬の寒さで私がうっかり凍らせてしまった華瓶を直してくださったこともありました。
黙々としながらも、住職の責務とは何たるかを背中で教えてくださる尊い方でした。今は、そのご恩に唯々感謝申し上げ涙するばかりです。