木賣慈教の「和顔愛語」

浄土真宗本願寺派西敬寺(さいきょうじ)
木賣慈教(きうりじきょう)のブログです。

樺太(サハリン)から -海を渡った阿弥陀さま-

2006年07月20日 | 法縁日誌

16日に、上田市の順教寺様にて「夏法座」があり、ご法話のお取次ぎのご縁をいただきました。
順教寺は母の実家にあたり、私の曾祖父田中淳良が開基したお寺になります。
曾祖父は、島根のご法義の篤い商家の三男に生まれ、深いご縁あって源哲勝和上の薫陶を授かり僧侶の道へと進みました。
そして戦前に大阪市の松樹寺へ住職として入寺しました。その後、長男が日支事変により戦死、次男・長女が相次いで病死した為、次女であった私の祖母法子が、長崎の北有馬は真蔵寺にて育った私の祖父信行(旧姓立花)と結婚しました。曾祖父と祖父の努力と地域の方の篤いお志によって松樹寺は本堂が新築されご法義のご相続の拠りどころとなっていました。
ところが昭和20年の大空襲により、松樹寺一帯は絨毯爆撃され、本堂・庫裏は勿論のことお寺を支えて下さった門信徒の家々もことごとく焼き尽くされてしまいました。その時、燃え盛る本堂に「ご本尊様をお救いしなければ」と飛び込もうとした曾祖父を、祖父や祖母が必死で止めたと聞いております。
大阪での寺院再興を願いつつも、生活すらままならない状況に追い込まれた一家は、縁あって長野県松本市にある本願寺松本別院へと疎開し、曾祖父は全国を布教に駆け回り、祖父母夫妻は松本別院の職員として、本願寺松本中央幼稚園の設立に尽力しました。
曾祖父が布教活動をしている中で、長野県丸子町(現上田市)の鐘紡長野工場の方々とのご縁が広がっていきました。当時、長野県内では、紡績業が盛んで鐘紡長野工場には関西出身の方々が多く居を移され、ご勤務されていました。
関西出身の方々には特に熱心な浄土真宗の信者の方々が多かったのですが、丸子町には浄土真宗の寺院が無く、新寺院建立を願う方々が曾祖父に新寺建立の中心となるよう懇願されたそうです。大阪での松樹寺再興を志していた曾祖父でしたが、丸子町の方々の熱意を受け、布教所を設立し新寺建立の意を固めます。そして、本願寺松本中央幼稚園を軌道に乗せた祖父母夫妻も丸子の地へ呼び寄せ、新寺建立に先立ち、町の方々からの強い要請にて幼稚園(丸子中央幼稚園→現西望幼稚園)の設立を果たします。
昭和25年病に倒れた曾祖父は5月16日往生しました。奇しくもその日、丸子町の職員の方々が、宗教法人「順教寺」の設立認可を伝達にお越しになったそうです。
曾祖父は最期の最期に床の中でその慶びを噛み締め、親鸞聖人のお言葉
「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたし。 
                   たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
と、お念仏とともに申しその人生を閉じたそうです。

この順教寺設立に際してお迎えしたご本尊「阿弥陀如来」様は、戦前に樺太(現在のサハリン)の本斗町に建立された本願寺派本誓寺の阿弥陀如来様だそうです。
終戦と同時に樺太では、攻め入ってきたソ連軍による簒奪行為がありました。本堂を焼かれながらも中川一生住職が、命がけで阿弥陀さまをお守りし、海を渡って日本本土へと来られました。
中川一生師は、戦後松本別院に赴任され、そこで私の祖父との間に深い友情を結ばれました。そして、順教寺設立に際し、樺太から命がけでお連れした阿弥陀さまを託してくださったそうです。

島根に生まれた曾祖父は縁あって大阪の寺院へと入寺し、そこで祖母が生まれ、長崎から縁あってそこへ迎え入れられた祖父が、不思議なご縁で共に長野の丸子の地へと移り、そして樺太から極寒の海を越えて、はるばるやってこられた阿弥陀様と出遇い新しいお寺が開かれる機縁が結ばれたのです。

どのお寺にもその設立の艱難辛苦があったはずです。そして今も、新たに寺院を建立しようと大いなる願いの中で命を燃やしている方たちがいらっしゃいます。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたし。
                  たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
(意訳→ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ)

先人のご苦労を偲びつつ、私も住職としてこの親鸞聖人のお言葉を深く深く噛み締めていきたいと思います。


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