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木賣慈教の「和顔愛語」

浄土真宗本願寺派西敬寺(さいきょうじ)
木賣慈教(きうりじきょう)のブログです。

家紋の文化(当院の寺紋について)

2006年11月15日 | 法縁日誌
 例年に比べ、暖かい日々が続いく中、報恩講も三日目を迎えております。
さて、今日の写真は、幔幕によって飾られた当院の式台(玄関)入り口です。幔幕には紋が染め抜かれております。日本では、世界でも珍しく、それぞれの家が紋章=家紋を持たれていますが、お寺にもそれぞれの紋章=寺紋があります。

当院の寺紋は『
雁木輪(がんぎわ)の中に頭合わせ三つ雁金(かりがね)』と申し、独特の意匠のもので、業者の方に発注する際は、下図の『雁木輪』と『頭合わせ三つ雁金』を提示させて頂いています。つまりは、もともとあった紋章を組み合わせて作られたものであることが分かります。しかし、この寺紋を見る度に、ご先祖様は、よくもまぁこんな複雑で派手な寺紋を考案したものだと感心したり、自らの派手好きは、遺伝なのかと(笑)考えたりしております。


          
  
『雁木輪(がんぎわ)』         『頭合わせ三つ雁金(かりがね)』 


家紋の発祥は、平安時代に貴族の乗る牛車が、誰のものか区別するためだったと言われています。その後、鎌倉時代になると武士にも広がりを見せていきました。さらには江戸時代、勝手に苗字を名乗ることを禁じた幕府も紋の使用には、寛大だったようで庶民まで普及していったとされます。現代でも冠婚葬祭には紋付袴が正装とされているくらいですから、家紋は日本の重要な文化と言えます。(そうそう、報恩講にも紋付の羽織をお召しになって御参り下さる方がいらっしゃいます。報恩講が如何に大切な行事なのかを実感する光景です・・・)

日本の家紋の数は1万種類以上と言われ世界の紋章文化の中でも際立った存在だそうです。
ちなみに当院の紋は、遠祖西念房(親鸞聖人二十四輩の一人)が、井上源氏(信濃を拠点とした源氏の一族)の出身で、その井上氏が好んで使用していたのが、雁金紋であったことに由来するようです。そして私は、この雁金紋に雁木輪(がんぎわ)を組み合わせて使用したご先祖が、雁木輪の「雁(がん)」を阿弥陀如来の御本願(ほんがん)の「願(がん)」にかけたのではないかと推理しています。

今となっては、真相は定かではありませんが、何だか歴史の浪漫を感じませんか? 

報恩講は、このような文化にも思いを馳せるきっかけになって下さいます。







報恩講 

2006年11月14日 | 法縁日誌
当院の報恩講(11月13日~16日)が始まりました。

読者の方で、報恩講をご存知で無い方もいらっしゃるかと思いますので、簡単に報恩講についてご説明申し上げます。

●報恩講とは?
「浄土真宗の宗祖 親鸞聖人のご命日(旧暦では11月28日新暦では1月16日)をご縁として、そのお徳に感謝し、私自身が仏さまの教えを聞かせて頂く大切な集まり」で、文字通り「恩に報いる集い(講)」です。
ちなみに、ご本山西本願寺では、毎年ご正忌報恩講と称して1月9日~16日までお勤めになります。当院はご本山より二ヶ月早めてお勤めさせて頂いてていることになります。

●誰の「恩」?
親鸞聖人は、今から744年前、ひたすらに、私の救われる道は何かということを問い続けられました。そして、変わることなく私の人生を支えて下さるのは、阿弥陀如来の「どんなことがあっても、あたなを見捨てません」と呼び続けて下さる「南無阿弥陀仏」のお念仏のみであることを顕かにしてお亡くなりになられました。つまり、報恩講の恩とは、このお念仏のみ教えを 私に届けて下さった 親鸞聖人のご恩であり、いつでも、どこでも、この私を心配し続けて下さる阿弥陀さまのご恩でもあるわけです。

●お勤めする意義は
報恩講とは、別の言い方をすれば、「親鸞さまの法事」です。法事は、「亡き方(の生涯といのち)を通して、この私が 仏法にあうこと」です。報恩講を勤める(恩に報いる)ということは、「本当の自分自身を生き抜いていく」ことを教えてくれる「真実の教え」を私自身が問い聞いていくことでもあります。

●由来は?
現在のような形となったのは 聖人の33回忌に曾孫にあたられる覚如上人が「報恩講式」をあらわされてからといわれています。以来700年以上に渡って、本願寺=各地の寺院=全国のご門徒と、いわば3段階で営々と勤め続けられている、浄土真宗門徒にとって、最大で一番大切な法要です。我が国の仏教界を眺めてみても、これほどの広がりを持った仏教行事はないと言っても過言ではありません。


今年は、50年に渡り当院の報恩講のお世話をして下さった隣寺の来迎寺様の前御住職様がいらっしゃらない報恩講となりました。

写真は、来迎寺様のご子息様が、初めてご出勤頂いたお姿です。そのお姿と声に、お浄土へ往生された前御住職様が重なり、参集された皆様とあらためて、そのご恩を思い出し、ひとしきり涙が溢れました。

迷信・俗信・軽信 -迷者不問路ー

2006年11月12日 | 法縁日誌

長野教区仏教青年会(通称 YBAながの)の一泊研修会へお招き頂きました。

数年前の仏教青年会というと、20代~30代のお寺の子女か、お寺に関係する保育園・幼稚園の先生方が大半でしたが、現在はすっかり様変わして、寺院の関係者が主催しているテニスサークルや野球チームで、知り合った一般の方々も加わっていらっしゃり、中には「初めてお寺(長野別院)に来ました」という方もいらして、新鮮な雰囲気が漂っていました。

一時間のお約束で講演をさせて頂いたのですが、今回は、そもそもお寺に馴染みが薄い方が多いと事前に伺っていましたので、テーマを「宗教入門」 ~どんな宗教もめざすところは同じか? ~ と、させて頂きました。

そして、途中で「迷信・俗信・軽信」について語ろうと言うコーナーを設けました。

「迷信とは、根拠の無いことを、さも根拠があるように思い込ませられ、それを信じる
 ことです。俗信とは、地方によって受け継がれてきた習慣です。軽信とは、当たるも
 八卦、当たらぬも八卦等といいますが、場当たり的に信じて安心を得ようとすること
 で、手相・人相・星占い・まじない・加持祈祷等が該当します。」
と、ごく簡単にお話しさせて頂いた後、参加者の方々に、実際に身の回りにある迷信・俗信・軽信を考えて頂いたのです。

最初は、戸惑っていた皆さんですが、あっちでヒソヒソ、こっちでヒソヒソ、隣同士で「もしかして○○は迷信? 」 「じゃあ○○は俗信? 」等と確認しあうと、出るは出るは、迷信・俗信・軽信の数々!!
その具体例はというと、

「友引にお葬式をしないのは何故? 」

「下駄の鼻緒が切れると縁起が悪いって言うけれど・・・」

「清めの塩って、どんな意味があるの? 」

「ズバリ言うわよのH木さんを信じるのって軽信? 私、今年から大殺界らしい
 んだけど!? 」

「丙午(ひのえうま)生まれの女性は悪女って言わない? 」

等々、結局時間の都合で途中で打ち切りましたが、皆さん共通していたのが「なんとなく人が、言っているので、そんなものかなぁと・・・ 普段は気にしていなくても、いざとなると信じてしまう」とのことでした。

そこで、続けてこんなお話をさせて頂きました。

私たちは、常に迷います。何故なら生・老・病・死の自分ではどうすることも出来ない苦しみ不安を抱えているからです。その苦しみや不安を解消しようと様々な宗教が、絶えることなく出てきます。しかし、その多くは、迷信・俗信・軽信といった場当たり的な教え、言い換えるならば、人の苦しみや不安を一時的に解消するだけで、結果的には、さらに迷わすような教えです。

私たちが、本当の教えに出遇うとは、迷っている自分に気づかせて頂くことではないでしょうか?

中国の荘子の言葉に「迷者不問路」(めいじゃふもんろ)=「迷える者は路(みち)を問わず」があります。迷える者とは、迷っていることに気づけない者と言い換えることが出来ます。
譬えるなら、この山道を行けば長野市に早く着く道があったとします。その時に、その道を間違いなく進んでいると自信をもっていた人が、何かの拍子に違う道を進んで、実際には迷っていても、この道が長野市に行くのに便利な道と思い込んでいる限り、迷っていても道を問いません・・・ 途中で、いろいろな人と行き違っても・・・
ところが、ふと立ち止まって、長野に行きたいと思っているが「本当にこの道で正しいのだろうか? 」と、自分の現在地を確認しようとした人は、道行く人に「すみませんが、この道を進んで長野に行けるでしょうか? 」と尋ねるということです。

目的地にたどり着くには、何よりも自分自身の現在地を知らなければならないのです。ところが、自分自身の現在地を知るというのは容易なことではありません。私たちは、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ・・・ 現在地さえ定まらず、迷っていること自体に気づかず彷徨っています。

親鸞聖人は、ご自分の体験から迷いの自己に目覚めていかれ、後に続く私たちに真実へと続く道に、足跡を残して下さいました。その確かな足跡に学んで行くことが、大切ではないでしょうか。


また、皆さんとのご縁を頂いて、ご聖人の歩まれたお念仏の道を聞き開かせて頂ければと思っております。





我他彼此

2006年09月24日 | 法縁日誌

最近は、あまり聞かれなくなりましたが、戸の建てつけが悪くて、その開け閉めがうまくいかない時などに「ガタピシしてる」と言いました。
擬音語として、聞き流してしまいそうなこの言葉ですが、実は、仏教が生んだ日本語なのです。漢字で書くと「我他彼此」と表記されます。
つまり、「我」が生ずることで「他」が生じ、「彼(かれ)」と「此(これ)」もいわば「我」の分別によって区別されるから、物事がうまく噛み合わず、そのために動きがにぶくなって騒々しくなる、そんな様子の全てが、この言葉で表されるのです。 


さて、彼岸とは、浄土の世界を意味しますが、その反対は此岸(しがん)この娑婆の世界を意味します。
此岸の世界で「俺が、俺が」と我を張っている私がいます。しかし、彼岸(お浄土)から阿弥陀如来と共に、そんな私の姿を照らし出して下さる懐かしい方々がいることに感謝させていただきたいと思います。


敬老の日

2006年09月18日 | 法縁日誌

週休2日制が定着し、月曜日を休日とすることによって土曜日・日曜日と合わせた3連休にし、余暇を過ごしてもらおうという趣旨で制定されたハッピーマンデーですが、どうも馴染めずにいます。
ちなみに、この制度が施行されたのは「成人の日」・「体育の日」が平成12年(2000年)からで、「敬老の日」・「海の日」が平成15年(2003年)からですが、皆さんは、どんな風にお感じになられているでしょうか? 
私は、合理的と思う反面、その祝日の持つ意味合いが薄れているようで、残念な気持ちがします。

さて、今日は「敬老の日」をご縁として、ケアハウスあさひ さんにて、ご法話をさせていただきました。
「ケアハウス」とは
厚生省が高齢化社会に対応して、平成11年までの「高齢者保険福祉10ヵ年計画」の中で新たに設けられた福祉制度だそうで、例えば子供はいるが都会に出ていて同居できない、子供がいなくて「後とり」がない、子供はいるが独立して気兼ねなく暮らしたい等、さまざまな事情のある方々が、健康で豊かな老後を送れるようにと考案された施設だそうです。

お取次ぎの後、何人かの方からご相談がありました。
「私には身寄りがいない、私が死んだら、住職さん弔ってくれるかい? 」(つまり、ご葬儀を取り仕切ってもらえるだろうか) 
と言うご相談でした。すぐにはお答え出来ず、宿題とさせていただきましたが、切実な問題として、そのお悩みに寺院が如何に関わっていくのかを今、深く考えています。


 


       
                            


縁起が悪い?

2006年09月12日 | 法縁日誌

本堂をお掃除していると、突然‘ガッシャーン’という音が・・・
住職継職法要の折に撮影した記念写真の額が落ちてきて、ガラスが飛び散ってしまいました。
翌日、本堂でお勤めしていると、住職の補任状が入った額が落ちて来ました(幸いガラスは割れずにすみましたが・・・)

こんな、現象が続くと世間では「縁起が悪い」とされます。
「縁起」とは「すべての存在は無量の因縁によって成立している」という、仏教の基本思想を表す言葉ですが、世間的には、吉凶の前兆として「縁起」という言葉が使われることが多いようです。
何故、そのようになったのかは「縁起絵巻」等と使われるように、寺社の由来・沿革・起源という意味で使われる縁起という言葉と重なって、吉凶の由来・起源と理解されたためと考えられます。しかし、もっと突き詰めれば自分の都合のよい因縁だけを求めている人間の基本的な問題があるように思います。例えば、節分の「鬼は外、福は内」などというのは、その端的なものです。そこには、縁起がよいとか悪いという「縁起を担ぐ」構図が出てきます。
写真や補任状が落ちたという現象は、確かによい気分にはなりませんが、悪いことの前兆と脅える必要はありません。

諸行無常、形あるものは必ず生滅変化するのですから・・・。



初参式(しょさんしき)

2006年08月27日 | 法縁日誌

 

 
           昨年挙行された仏前結婚式

昨年の10月、西敬寺のご仏前にて結婚された内山智博さん・弘枝さんご夫妻の間に、ご長女の智葉(ともは)さんが誕生され、初参式のお勤めをさせていただきました。

初参式? それはお宮参りと違うの? と思われる方が多いことかと思います。それもそのはず、現代の日本人は宗教儀式に寛容と言いましょうか、節操のないのが現実です。
結婚式はキリスト教の教会で、お子さんが生まれたら神道式にお宮で、そしてお葬式は仏教式でと・・・ 信仰に関係無く、何やらその形式美を優先させて儀式を行っていらっしゃるように思います。
それが先入観となって、多くの方々が、子どもを授かったら神社にお宮参りと思われているのではないでしょうか? (そうした門徒さんの先入観を払拭するようなお寺の活動が行き届かないでいることは、住職として反省しなければと思っています・・・)

さて、初参式とは、新しい生命の誕生をよろこび、生きることの意味を教え、真のよりどころとなってくださる阿弥陀如来の前で人生の出発をする式であります。 また、子を思う親の真心の発露の式でもありまし、子を授かりあらためて今まで育てくれた自らの親の願いに目覚めてさせていただく機縁でもあります。

ちなみに西敬寺では次のように初参式を行っています。
1、ご家族ご親族を住職がお出迎え
2、お茶のご接待(この間に初参式の流れについてのご説明)
3、本堂にて初参式開式  
 合掌礼拝  
 三奉請・表白  
 勤行「讃仏偈」(参加者で唱和し、その間に順番にご焼香)  
 仏教讃歌「小さきあこに」(エレクトーンの伴奏で数回練習して、歌詞の意味を味わいます)  
 法話・記念品贈呈  
 合掌礼拝  
 記念撮影
といった流れです。記念品はお子さん用のお念珠、そしてお子さんのお名前にちなんだ言葉を住職が仏典から選んで色紙に書き、そこにお子さんの手形もしくは足形をその場で押したものを差し上げています。
 
上手く手形が押せないの
が悩みです・・・ 

お子さんを授かったその喜びを是非、ご家族と共に阿弥陀様に、ご報告して下さい!そしてその喜びの輪の中に住職も加えて下さい。微力ながらお子さんとご夫妻の心に響く初参式をお勤めさせていただきます。(今年は年末までに3組の初参式が予定されています。興味のある方はお気軽に西敬寺までお問い合わせ下さい)


 初参式の感動と共に記念撮影


真夏の「報恩講」

2006年08月26日 | 法縁日誌

須坂市の真光寺様(業田凌千御住職)にて報恩講のご縁に合わせていただきました。
有難いことに一昨年、昨年と続けて、ご縁をいただき今年で3回目のご縁となりました。例年ですと、11月の下旬もしくは12月の上旬にお勤めになられるのですが、お庫裏の新築工事8月下旬より始まるとのことで、長年風雪に耐え、ご本堂と共に、ご門徒さんの拠りどころとなっていたお庫裏へのお別れも兼ねてのご法要と御住職様がお考えになられたようです。

お庫裏の見納めということもあり、多くのご門徒さんがご聴聞にお集まり下さいました。
ご法話のお取次ぎの最期に、お庫裏新築の志を立てられた皆様に敬意を込めて、与謝野晶子女史の

「劫初(こうしょ)より つくりいとなむ 殿堂に われも黄金の 釘一つ打つ」

を、ご紹介させていただきました。

遠い昔より、私たちのご先祖が心血を注いで心の拠りどころ文化の殿堂として本堂をつくり庫裏をつくり、次代へと託していかれました。脈々と伝わってきた歴史の中で私たち一人一人は小さな存在かもしれません。それは大きな建物の小さな釘一つのような存在かもしれません。しかし、どんなに小さくてもきらりと光る証を次代へと託して行きたいものです。

与謝野さんの詠はそんな私たちへの励ましに聞こえます。


「お陰さま」

2006年08月19日 | 法縁日誌

お盆法座にお越しくださった方の最高齢は91歳の方、今年の五月に長年連れ添われた奥様を亡くされました。その方がわざわざタクシーをご利用されて駆けつけてくださいました。
酷暑の中お運びいただいたことに感激して「ようこそ御参りです」と握手をさせていただくと、優しく微笑まれて「お陰さまで参らせてもらったよ」と、ご挨拶してくださいました。

西敬寺のご門徒さんは「お陰さま」という言葉をご挨拶代わりによくお使いになります。
このご挨拶を頂くたびに、お互いへの感謝と共に、その方が常に感じている「見えない力に感謝しております」という告白に受け取れます。傲慢に「生きる」のではなく感謝の中に「生かされている」自覚が含まれている言葉に感じるのです。
陰のように寄り添う何かが存在し、悲しみの時も、喜びの時もそっと寄り添ってくれているのだと感じることはないでしょうか。いや寄り添うのでは無く、私の内側に入って来てくて、私を私として呼び覚ませくれるのではないかと思うのです。

地元の少年野球の子供達が集いお寺で夏合宿が行われた折、本堂で一緒にお勤めをした後、「見えない力」と言うテーマでご法話をさせていただいたことがあります。

「本堂の中心にいらっしゃる阿弥陀様は、本当は姿形がありません。でも、いつも
 みなさん一人一人のかたわらに寄り添ってくださいます。みなさんは見えないも
 のは信じませんか? 
 そうだ、みんなの心ってどこにありますか? 
 心があると思うところをさわってみて下さい」

すると子ども達の多くは、胸や頭をさわり、中にはふざけてお尻をさわる子もいました。そこで、
「そうか胸にあるのか
 君はお尻にあるの? 
 君は頭か
 それじゃあ、隣同士で、その心を見せ合って下さい」
と、提案しました。すると、隣同士向き合ってはみたものの困惑した様子・・・
ついに一人の子が、
「そんなの無理だよー だって心は身体の中にあるもん! 」
と答えてくれました。

そこで、私は次のようなお話を始めました。
「あれ~みんな心があるって言ったのに、誰も見せられないね~ちょっと意地悪な
 質問だったかな? 
 でも、みんなが持っていて、だけど見えない心って一体なんなんだろう? 

 心とはいったいなんなのか? こんなお話があります。
 はるか昔、日本語が生まれた頃のお話です。
 中国から漢字が日本にやって来ました。その中に『心』(しん)という言葉があ
 りました。僕らの先輩はそれを
 『こころ』と読みました。何故『こころ』と決めたのか? 
 コロコロと変わるものだからかな? 
 『こころ』とは『こりこり』がだんだんと変化して『こころ』になったそうで
 す。もともと『こりこり』というのは固いものを表現する単純な言葉でした。
 
 実は心というのは人間の持っているものの中で一番固いものという意味があるの
 です。
 見えないはずの心が何故固いのか? 触ることの出来ない心が、何故固いものと されたのでしょうか? 

 ひょっとしたら手掛かりになるかなぁと思うことがあります。
 心という字の上に草冠をつけると『芯』(しん)という言葉になります。

 果物、そうだなぁ~ りんごを思い浮かべて下さい。
 皮があって果肉があって真ん中に芯がありますね。
 みんなは、りんごを食べる時、芯は捨てちゃうよね。固くて酸っぱいものね。
 でもね、りんごがりんごであるために、一番大切なのは芯の部分なんだよ。
 芯には種がついているでしょ。
 そこには長い間かかって、病気にならないように、雨や風に負けないようにと、
 伝えられてきた、りんご一族の秘密の智慧が詰まっているんだよ

 人間の心も果物の芯と同じだと思うんだ
 みんながお父さん、お母さんやお爺ちゃん、お婆ちゃん、そして周りの人から沢
 山の大切なことを教えてもらうことや、生活の中で自然と受け継がれてきたと、
 そして、みんながそれぞれ、色んなことを経験して失敗したり、成功したことを
 心に貯えていく、それは、見えるものではないけど、確かに自分が自分であるた
 めに支えになるものじゃないかな? 
 簡単に壊れるものじゃないね、だから固いと思われたんだろうね

 心そのものはみんなの身体の中、奥深く、固い、固い存在としてあるんだと思う
 んだ 
 だから誰もそれを見ることは出来ない、だけどみんなは常に心を観じているよ
 ね

 お母さんが優しく抱きしめてくれる
 お父さんが真剣に叱ってくれる
 そこに、お父さんや、お母さんの心が見えてくるよね
 みんなが『ありがとう』と言う時、そこには見えない心が見えてくる素敵で不思
 議な力があると思うな

 最初にお話した、阿弥陀様には、本当は姿形がないということを思い出して下さ
 い。本当は姿形がないと言ったのに、阿弥陀様は本堂にはいらっしゃるね
 じゃぁこの阿弥陀様は嘘の姿なのか?

 決して嘘やまやかしのお姿ではないんだよ
 このお姿は阿弥陀様がお心をそのまま顕されたものなんだよ
 『あなたは決して独りではないよ、いつも私がそばにいますよ』というお誓いを
 示してくださっているのす

 みんなが学校に行っている時、お母さん、お父さんは、みんなが元気にしている
 かなといつも気にしてくれています。みんなは自然にそれを感じ取るよね。だか
 ら離れていてもお父さん、お母さんの心は、みんなに寄り添っています

 みんなが喜びの心、感謝の心、反省の心様々な心を色々な形であらわすことは出
 来るよね。 言葉で時には涙や笑顔で・・・

 見えない心が見えてくる・・・・
 しっかりと心の見える人になりたいね
 心を見せられる人になろうよ

 私たちの先輩は『形を見たらその心を問いなさい、心を聞いたら形にあらわして
 感謝しなさい』とおっしゃっています
 本堂の阿弥陀様のお姿ににそのお心を問えば『みんなが元気で健やかにという願
 いとなって、いつもそばにいるよ』とお答えになってくださります
 そのお心をしっかり受け止めて私たちも感謝の心を形にあらわしていきましょう
 では、その一歩! 皆で合掌してお念仏を称えましょう!! 」

本堂にいつもより大きな「南無阿弥陀仏」が響きました。

称えない私が、称えずにはおられなくなるのが「南無阿弥陀仏」ですね・・・
先立って往かれた方がそのお姿が見えなくなろうとも心を残していってくださり、その見えない力によって私たちを導いてくださるのです。

91歳のご門徒さんは帰りのタクシーを待ちながら「ばあちゃんのお陰でいいご縁だったよ」と繰り返しお念仏をされていました。

「お陰さま」素敵な言葉ですね。


形式ばってしまったようで・・・

2006年08月18日 | 法縁日誌
お陰様でお盆法座も無事終了しました
「ブログを見て」という方はお二人・・・ でしたが、ご家族やご夫婦で仲良く参加して下さったご門徒さんがいらっしゃり、気温がなかなか下がらず汗だくになりながらも、和やかにお勤めすることができました。

ご法話の途中、何人かの方が本堂を覗かれていかれたのですが、ご遠慮がちに立ち去られてしまい申し訳なかったなぁと反省しています・・・ 入り口に立て看板でお気軽に入堂下さいと書いたものの、ちょっと形式ばっていて、かえって皆さん畏まってしまったのかなと・・・ 次回への反省です。

しかし、御参りに来ていただくというのは、なかなか難しいですね・・・
布教使として、ご用意されたご法座にお伺いし、当たり前のようにご門徒さんいらっしゃると錯覚してしまいますが、縁の下の力持ちとなって準備される御住職やご寺族、各種教化団体の役員の皆様の陰のご尽力をしっかり受け止めてお取次ぎしなければと強く心に刻んだ次第です。

明日は、須坂市の真光寺様の「報恩講」(お庫裏の改築にともなって例年より早いお勤めになるそうです)そして21日は長野別院の仏教婦人会の「太子講」にお声を掛けていただいております。ご準備くださる方々の「お陰」をしっかり頂いていきたいと思います。