goo blog サービス終了のお知らせ 

木賣慈教の「和顔愛語」

浄土真宗本願寺派西敬寺(さいきょうじ)
木賣慈教(きうりじきょう)のブログです。

緊張と弛緩

2007年01月24日 | 法縁日誌
一昨日から、分刻みのスケジュール・・・
ゆとりを失っています。

車のハンドルにアソビがなければ、危険なように、
バイオリンの弦を張りすぎれば切れてしまうように、

人間も適度な緊張と弛緩を意識しないと、壊れてしまいますね。


「あせらず、ゆっくり、怠けずに」

2007年01月21日 | 法縁日誌

20日・21日と日本青年会議所の京都会議に行って参りました。
18日・19日は浄土真宗本願寺派の第一連区の布教使研修会にて、布教実演担当だった為、なかなかPCに向かう事が出来ず、ブログの更新を怠ってしまいました。
ちなみに、携帯電話から更新を試みたのですが、どうも編集の仕方が分からず。悪戦苦闘した挙句、断念致しました・・・ 
そんな中、たまたま、京都会議の会場にて WILLCOMのWS003SHという製品が、無料で購入できるサービス(利用開始は今週末位からですが)があり、思い切って契約して参りました。

これで、随時ブログを更新できる環境が整う訳ですが、小学校3年~6年生まで、担任をして頂いた西澤憲夫先生が、
「『量より質』と言われることが多いけれど、質は量の積み重ねによって向上していくんだよ、あせらず、ゆっくり、怠けずに、継続していきなさい」
と、教えて下さったことが、心に去来しております。

あらためて、日々の積み重ねを素直に書き綴って、あせらず、ゆっくり、でも、怠けることなく自分自身を見つめ直すようにしてまいりたいと思います。


「得難きは時、逢い難きは友」

2007年01月11日 | 法縁日誌
今週は、土曜日に控えた長野青年会議所の1月例会の準備に追われる日々が続いています。
メンバーはそれぞれの仕事を抱え、様々な葛藤の中にありながらも、自分を磨こうと懸命に準備に励み、切磋琢磨しています。そして、例会の運営を任されている委員長である私を励まし、奮い立たせようと協力してくれます。こんな仕合わせに出遇って、ふと、西行法師の、
「得難きは時、逢い難きは友」
と言う言葉が思い出され、本当にその通りであると実感しています。
そうそう、釈尊の随伴者として、もっともその法を聞かれたという阿難尊者がある時、釈尊に、こう問われたそうです。

「師よ、よき友を持つことはこの道(仏道)の半ばであると思うが、
如何であろうか」

釈尊は言われました。

「阿難よ、そう言うべきではない。
よき友を持つことは、この道(仏に成る道)のすべてなのである」


今、長野青年会議所に在籍させて頂き、あらためて得がたき機会に恵まれ、多くの逢い難き、友に出逢えていることに本当に感謝しております。

対治と同治

2007年01月10日 | 法縁日誌
風邪をひいた時、皆さんはどのような治療をされているでしょうか?

大まかに分けると、対治(たいじ)療法と同治(どうじ)療法があろうかと思います。
対治(たいじ)療法とは、熱が出たら氷枕などで冷やしたり、熱さましの薬によって発熱を抑制する。つまり熱が上がっていくのと反対の方向で冷やしたり、それを抑制して治おすことです。反対の「対」をとって「対治」療法と言うそうです。

現代の医療現場では、この対治(たいじ)療法が主流のようですが、なかなか、病院に行く時間の無い私は、日本古来とでも申しましょうか、民間療法とでも言いましょうか、熱が出ましたら、熱いお味噌汁にニンニクと生姜とネギ、そして七味唐辛子を入れたものを飲んで、部屋を暖かくして、厚着をし、布団を被って、とにかく汗をかいて寝てしまいます。これは、熱が上がっていることに抵抗せず。そのまま熱を出し切ってしまうかのように同じ方向に添って治療することから「同治」療法と言われるようです。

対治と同治は身体の治療法に限らず。私たちの心の治療にもあてはまるように思います。

ここに愛する人を亡くして悲しんでいる人がいたとします。
「悲しんでばかりいないで、前向きに頑張れ」と言うのは対治です。励ましであることは間違いないのですが、これで本当に癒されるでしょうか・・・
反対に悲しみをそのまま受けとめ、共に「悲しいね」と涙していくのが、同治です。不思議なもので、人は共に泣いてくれる人がいたら何となく癒され、心和むものです。

「そのままでいいよ」と受け入れてもらえることは、大きな励ましになることがあります。

本当に苦しくなってお伺いする病院の先生と看護師さんは、
「木賣さん、ゆっくり休みましょうね。早く治す必要はないですよ。身体が休みた
 いって言ってるのだから、その身体の声に寄り添っていかなきゃ駄目ですよ」
と、声をかけて下さいます。
おかしな話ですが、薬より何より、この優しい言葉で風邪が治ってしまうような思いすらします。

だから、私も愛する人を失われた方々に、同治の心で共に悲しいねと涙していけるようになりたいと学ばせて頂いております。

追記
お陰様で、全快とまでいきませんが、なんとか法務をこなしております。末筆ながら、お見舞いのメール有難うございました。
それと・・・ 書初めのプレゼントは応募を締め切らせて頂きます。応募期限の告知をしておりませんで、申しわけありませんでした。

3年ぶり・・・

2007年01月09日 | 法縁日誌
3年ぶりに風邪をひいたようです。
うがい・手洗いを励行し、充分自己管理していたつもりなのですが・・・

タイミングの悪いことに、明日、福祉施設での法話会があるのですが、このままでは、かえってご迷惑をかけてしまいかねません。

今晩は、早々に休んで体調を整えようと思います。

乾燥するこの時季、皆様も、風邪にはお気をつけ下さい。


千の風になって

2007年01月08日 | 法縁日誌
千の風になって
新井満, 萩田光雄, Satoshi Yoshida
ポニーキャニオン

このアイテムの詳細を見る

昨年のNHK紅白歌合戦で、テノール歌手、秋川雅史さんが歌った「千の風になって」(作家の新井満氏訳)が話題になっています。

実は、当院の主催の法座では、毎回、仏教讃歌を中心とした音楽講習会を合わせて行っているのですが、昨年から「千の風になって」を、ご門徒さんとご一緒に練習しております。
そんな訳で、ご年始参りをさせて頂く中で、ご門徒さん方から、
「お寺で習った『千の風になって』が、紅白で歌われていたね。本当に心に響く歌ですね、また、お寺で皆さんと歌いたい」
と、ご要望を頂いております。 

私が、この歌に出会ったのは、西本願寺が発行している本願寺新報(平成十六年七月二十日号)に掲載されていた本願寺布教使の西脇顕真先生の「みんなの法話」でした。
西脇先生は「千の風になって」を浄土真宗の御教えと重ね合せてご紹介してくださっています。 皆さんにも、この歌の意味をより深く味わっていただきたいと思い、本願寺のホームページの西脇先生の原稿にリンクさせて頂きました。こちらをクリックして下さい→「千の風」


言葉遊び

2007年01月07日 | 法縁日誌

gooのトレンドランキングにて「ルー語変換」なるHPを発見しました。 変換したいページのURLや文章を入力すると、ルー大柴氏風の英語交じりの文章へと自動変換されます。

ちなみに、私のブログ記事は、
木賣慈教の「和顔愛語」(ルー語変換済み)←クリック
になります。

ところで、横文字交じり(英語交じり)の話し手として思い浮かぶ著名人は、ルー大柴氏の他、長嶋茂雄氏ですが、お二人に共通するのは、何となく感覚で物事を捉えていらっしゃって、いい意味で聞き手を煙に巻く微笑ましさがあることです。
数年前「長嶋語録」を集めた日めくりカレンダーに、
「サバって漢字でどう書くんだっけ? 」
と、言う問いに長嶋氏が、
「魚偏にブルー」
と、答えたと言うやり取りが掲載されていて、可笑しいやら、何もそこまで英語でと、今、流行っているお笑いコンビ、タカ&トシの「欧米か! 」という突っ込みを入れたくなりました。

ルー大柴氏や長嶋氏のように、芸能人、スポーツ選手また評論家として、感覚的に横文字を使われるのは、微笑ましいですし、聞き手も感覚的に受け流していると思うのですが、最近違和感を覚えるのが、政治家の方々のコメントに余りにも横文字(英語)が多いことです。

顕著なのは、塩崎官房長官です。(前長野県知事田中康夫氏もすごかったですが)
先日も、北朝鮮や米国との関係についての記者会見にて、
「非常にintelligenceでsensitiveなものがあり、6国間協議におけるkick off speakerとして」云々・・・
と、発言されていたのですが、皆さんこの意味お分かりになりますか?
私は、なんとも煙に巻かれたような気分になり、内閣の報道官(氏によるとspokesman)として、国民への責任を果たしているのだろうかと疑問を持たざる得ませんでした。
案の定、取材している記者の方が「sensitive」とはと問うと、上手く日本語に出来ない有様で、政治を司る人物が、感覚的に発言しているのではと不安を感じました。
ちなみに、上記の
「非常にintelligenceでsensitiveなものがあり、6国間協議におけるkick off speakerとして」を私なりに翻訳してみますと、
「非常に知的(政治用語では機密情報? )で微妙(きわめて繊細な事情? )なものがあり、6国間協議における冒頭発言者として」
ではないかと思います。こうしてみると、何も横文字(英語)を使わずとも良いのではと思います。

塩崎官房長官に限らず、公の場では、いわゆるテレビやハンバーガーといった一般名詞以外は、ことさらに外来語を使う必要はないのではないかと思います。どうも横文字を多用することによって、物事の本質をあやふやにしているように思うのです。

「人の振り見て我が振り直せ」と言われますが、話し手として自分はどうだろうかということも、充分反省しつつ・・・


贅沢な悩み

2007年01月06日 | 法縁日誌

年末から年始にかけて、私の体重は増加の一途を辿ります・・・

この時期は、様々な忘・新年会の他に、ご門徒さんのお宅にて、お食事をご馳走になる機会が、非常に多いからです。

本当に有難いことなのですが、それぞれのご門徒さんのお宅では、腕によりを掛けて、ご馳走をご用意して下さいます。お心のこもったお料理ですから、一品一品に感謝の言葉を添えて、残さず頂くことを心がけています。

しかし、大きな問題が・・・
本当に贅沢な悩みなのですが、以前、あるご門徒さんから、
「お好きな食べ物は何ですか? 」
と訊ねられ、迂闊にも
「海老が大好物です」
と、お答えしてしまい、どう広まっていったのか、お伺いするお宅にて、ことごとく海老料理をご用意頂くようになってしまったのです。
いくら大好物と申しましても、毎日のように昼食・夕食に頂いておりますと、海老が仇のように見えてまいります。
しかも、コレステロールが高い!!
このままでは、痛風まっしぐらです。かといって、私の大好物と知ってわざわざ、ご用意して下さっているご門徒さんに、なんと申し開きをしたらよいやら・・・

過去に遡って、呑気に「海老が大好物です」と調子に乗って答えた自分自身を懲らしめてやりたいくらいです。







年始廻り 

2007年01月04日 | 法縁日誌

毎年1月4日は、お朝仕(おあさじ=勤行)の後、近隣のお宅へお年始廻りをさせて頂いております。
当院は、自然災害等で寺基を移転している歴史があり、当地に移転したのは、元禄14年、今から約300年程前になります。
当時は、徳川幕府によって、寺檀制度が確立されており、布教活動の拠点として当地を選んだというより、幕藩体制下の松代藩(真田十万石)の誘致により落ち着いたようです。
そんな背景から近隣のお宅は、当院所属のご門徒さんではないのですが、皆さん地域のお寺ということで、大事にしてくださり、3ヶ日は、ご年始の挨拶にお越しくださいます。(ちなみに、当院のご門徒さんは、移転前の地域に多く、車で5~20分の範囲に集中しております。)

普段、地域内を歩くことが、少なくなっておりまして、年始廻りで地域内(半径500メートル程ですが)を歩くと様々な発見があります。
ここ数年は、郊外型の大型スーパー等の出店が相次いでいるせいか、宅地化が進み、新しい住民の方が増えております。
幼い頃、よく遊んだ空き地も無くなり、よく声を掛けて下さった方々も次々とお亡くなりになり、世代が入れ替わるとともに、同じ地域に居ながら、人の繋がり、温かさが薄れているように感じます。

1月17日は阪神・淡路大震災から12年となります。
その教訓としてお聞きするのが、ご近所付き合いの大切さです。
あの悲惨な状況で、最も頼りになり、救いとなったのは、行政やボランティアの方々よりも、先ずご近所同士であったそうです。
それは、普段(不断)の信頼関係があったればこそだと推察します。
「遠い親戚より 近くの他人」と、揶揄されることもありますが、こんな時代だからこそ、地域の絆のあり方を今一度、問い直していきたいと思います。

そして、お寺が地域の安らぎの場となり、地縁=寺縁という可能性を模索していきたいと考えております。


夕べには白骨となれる身なり

2007年01月03日 | 法縁日誌
お正月の三ヶ日は、ご年始のご挨拶においで下さるご門徒さんの対応に追われて、食事も、ままならない有様です。 (贅沢な悩みですが・・・)

ところで、ご門徒さんからは、ご年始のご挨拶とともに、年内のご法事のご相談を頂きます。一周忌・三回忌等の年回忌法要の他、新築法要や各地域で行われる報恩講(おとり越し)また、近年は福祉施設にお勤めのご門徒さんからご法話のご依頼があります。

手帳と、にらめっこをしながら、日程を組んでいくのですが、なかなかご希望通りにお受けできず、心苦しいばかりです・・・。

そして毎年、予定の詰まった日程を確認しながら、ふと、
「お約束したはいいが、本当に果たせるだろうか? 」
と、切ない気持ちになります。
と、言いますのも、私の父は16年前、クモ膜下出血が縁となり、48歳にして急逝しています。 (よろしければ、当ブログの「心のアンテナ」を合わせてご覧下さい)
父は、沢山の約束を果たせないまま逝きました・・・
未だに、あるご門徒さんは涙ながらに、「残念だった・・・ 寂しいね・・・」と、おっしゃって下さいます。

人間のいのちは、自動車や電化製品と違って保証書がついていません。また、誰しも自分のいのちの限界を知りません・・・

世間は、お正月のめでたさの中にありますが、だからこそ、尚更にでしょうか、不思議と本願寺第八代宗主の蓮如上人の

「されば朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」
          
という、言葉が胸に突き刺さります。  

そういえば、蓮如上人と交流があったと言われる一休禅師(とんちで有名な一休さん)は、正月を祝う洛中を、竹ざおに髑髏を掲げて、
「あぁ~めでたい、
 爺死に、婆死に、 
 父死に、母死に、
 子死ぬ
 あぁ~めでたい 」
と、歌って練り歩いたそうです。
その様子を見ていた人々は、一休さんの奇行に、口々に
「正月早々なんと不吉な」
と、罵ったそうです。
しかし、一休禅師は、
「何を言う、こんなめでたいことは、他にあるまい
 人が死ぬのに順番はないのだ
 仮に、年の順で逝けたならこれほど、めでたいことはないではないか」
と、おっしゃったそうです。
当時は、今では考えられないほど、多くの幼い、いのちが、失われていました。我が子を失った親が数え切れない程いたのです。皆、一休禅師の真意を知り、涙を流し、この世の無常をあらためて、噛み締めたそうです。

このことは、医療が発達し平均寿命が延びた今の時代も、本質的には、変わりません。若くして逝く者も多く、老いた者が久しくとどまっていられないのが、この世のあり方です。

当たり前のように約束している私たちですが、約束を果たせることは、様々な奇跡が積み重なっているのです。

だから、約束を果たせたならば、
「また、遇えましたね」
と、生かされていることをお互いに、喜び感謝申し上げたいと思います。