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木賣慈教の「和顔愛語」

浄土真宗本願寺派西敬寺(さいきょうじ)
木賣慈教(きうりじきょう)のブログです。

僧侶三人寄れば・・・

2007年05月02日 | 法縁日誌

先月に引き続きまして「おもしろラジオジャパン」というインターネットラジオ(ラジオと言いましても現在は動画での配信です)に出演させて頂きました。

今回は、パーソナリティの明石さんが急遽出張とのことで、番組常連の浄土真宗本願寺派の
善法寺御住職  宇佐美 智行氏
善立寺御住職  長原 真了氏
そして、私の3名が「葬儀について思うこと」をトークセッションさせて頂きました。

ところで、「三人寄れば文殊の智慧」などと言われますが、
「僧侶三人寄れば・・・ 話が長い」となるようです。(笑)
番組の冒頭は、お互い牽制しあっているのですが、やはり話し始めると止まらない・・・ スタッフの方々に、「とても20分では収まりませんね」と・・・ 「でも、あっと言う間の20分でしたよ」ともおっしゃって頂きました。

宇佐美住職・長原住職とは同世代で、邂逅(出遇い)に感謝し、お互いの志しを語り合う「逅志会」という会を結成しています。
現状の寺院の在り方を憂い、またお互いの寺院活動の足元を照らし合い、高い志持って歩んでいこうとする仲間です。私はお二人に感化されっぱなしですが、本当に心強い存在です。

番組の詳細はこちらをクリックして下さい→ おしょうさんの「ちょっといい話」

是非、ご覧下さい。


おもしろラジオジャパン

2007年04月19日 | 法縁日誌

「おもしろラジオジャパン」というインターネットラジオ(ラジオと言いましても現在は動画での配信です)に出演させて頂きました。
こちらをクリックしてください→ おしょうさんの「ちょっといい話」
今回は、迷信・俗信についてパーソナリティの溝口さん(鉄腕ミラクルベービーズのボーカリスト! )と明石さん(明石佛壇社長・社団法人みゆき野JC理事長)とのトークセッションとなっています。

番組とあわせて過去の記事
日の吉凶 -友引とご葬儀の関係-
 お年とり ~厄年を考える~
寺族女性のためのやさしい勉強会
聞法者
をご高覧頂ければ幸いです。


人生案内

2007年04月02日 | 法縁日誌
人生案内―夜明けを待ちながら

角川書店

このアイテムの詳細を見る

五木さんは、休筆中に私の母校でもある龍谷大学にて、親鸞思想、蓮如の伝道姿勢を学ばれた経緯がおありになることから、執筆再開後の作品には、親鸞・蓮如に関するものが多く、勝手に大学の先輩であり、同行の徒であると親しみを抱かせて頂いております。
そんな訳で、出張先でも書店を探し本を購入する習慣がある私は、特に五木さんの新刊に出遇うと(だいたい書店のメインになるような場所で平積みにされている)躊躇なく購入してしまう癖がついてしまっています。
そんな繰り返しの中で「あっ、しまった。これは以前に購入してすでに読了してるものだ・・・ 」と思うことが度々ありました。
それでも以前に読んだ時のことを思い出しながら、あらためて読み進めていくのですが「あれ、確かに読んだはずだが、章立てが違う」と気づいたり、譬え話に、ごく最近の出来事が引き合いに出されたりしていて、私の勘違いだったかなと、帰宅後、本棚に同じものが無いということを確認することが続きました。

この謎は、五木さんの著書を繰り返し読むことと、また五木さんの著書に書かれたある一節を読んだことによって解けました。  

 ぼくはきょうまで何十年も同じことを言い続け、同じエピソードを繰り返し繰り返し語ってきました。ぼくの書いたものを手にとられたことがある読者なら、どれも昔どこかで聞いた歌だ、と感じられるはずです。しかし、ひとつの歌を変わらず歌い続けてきたことを、ぼくはひそかに誇りに思っているのです。 
 同じ歌でも、聞く状況がちがい、年齢がちがい、時代がちがい、立場がちがえば、まったくちがう歌にきこえるはずだと信じているからです。                     
                           
五木寛之著「人生案内」より

この言葉は、裏を返せば、聞く状況がちがい、年齢がちがい、時代がちがい、立場がちがえども、人は迷い悩み、その折々に答えを見出そうと、もがいていることを教えてくれます。
そして、五木さんは、信念をもって自らに言い聞かせるように同じ言葉を繰り返し語ってきていることを感じさせて下さいます。

五木さんのこうした姿勢の背景には、蓮如上人が、

ひとつのことを聞きて、いつもめずらしく初めたるように、信のうへにはあるべ きなり。ただ珍しきことをききたく思うなり。ひとつのことをいくたび聴聞もう すとも、めづらしく初めたるようにあるべきなり。                      
                           『蓮如上人御一代聞書』より

現代語訳↓
 信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように思うべきである。人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない。

と 、語られたことがあるのではとも思いました。

私は、ついつい同じ話を聞いたり読んだりしますと「また、同じ話か・・・ 覚えているぞ」と、相手を小ばかにしたり、自分の記憶を誇ってみたくなるのですが、しかし、よくよく考えてみると、覚えているのでは無く、思い出させて頂いていることに気づきます・・・。
人の心ほど変化が激しいものはなく、そんな心が覚えているなどと言うことは、如何に曖昧で不確かなものか・・・。そして五木さんがおっしゃるように、人は聞く状況がちがい、年齢がちがい、時代がちがい、立場がちがえば、受け止め方が違います。

私の父が、「繰り返し繰り返し語られることは、大切なことと思いなさい、大切なことは、歌のようにして覚えて繰り返し歌いなさい」と教えてくれたことを思い出します。

そういえば、お経をどれほど繰り返し読み聞かせて頂いたことでしょう。

私たちの先人は、揺れ動き迷惑し続ける人生に、普遍的な言葉を繰り返し繰り返し与え続け、人生案内をしようとして下さっているように思います。


寒椿

2007年02月26日 | 法縁日誌

お寺の垣根に咲いた「寒椿」です。

椿の花言葉の一つに「謙譲の美徳」があるとお聞きしたことがあります。

この頃つとに「俺が俺が」と我を張る自分を気づかせてくれた、小さくも可憐な姿に心が癒されました。


変わらなければならないのは自分自身

2007年02月20日 | 法縁日誌

浄土真宗では、
「宗門は同信の喜びに結ばれた人々の同朋教団であって、信者はつねに言行をつつしみ、人道世法を守り力を合わせて、ひろく世の中にまことのみ法をひろめるように努める。また、深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や、まじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない。 」
(浄土真宗の教章より)
を、宗風として掲げています。
しかし、「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や、まじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない。」ということを現実に共有することは、非常に難しい問題です。
先日、迷信・俗信に関してお互いに確認し合おうというご法座がありました。
身近にある様々な、迷信・俗信が確認されましたが、中でも世間では六曜の「友引」に、ご葬儀を避けるが、これは迷信であって、浄土真宗のみ教えを頂く者は、こういった日の吉凶に振り回される必要は無いと話し合われました。
しかし、迷信と理解はしているが、
「世間との付き合いと言うものがある」
「こうした仲間では共有出来るが、世間には通用しないよ」
「無理に世間に逆らうことは無い、上手に付き合っていけばいいんじゃないか」
「観念的には理解していても、いざとなったら避けるだろうなぁ」
「世間の認識を変えるのは並大抵なことじゃない、下手に衝突するより、世渡り上手という言葉があるが、世間の流れに身を任せるという知恵も必要じゃないか」
と、言った意見が続きました。

世間という概念は恐ろしいものです。根拠のないつかみ所の無い雰囲気を持っています・・・
だからこそ、皆、都合のいい時に「世間」という言葉を使います。
「世間ではこう言われている」根拠がないのに、さも根拠があるように聞こえる便利な言葉なのかもしれません。現在も残る差別、男女差別も世間と言う見えざる手によって私たちの心が縛られているからではないでしょうか・・・。

世間の認識を変えることは、確かに並大抵のことではありません。その中で衝突していくことは避けたいものです。しかし世間
を変える前に、み教えを聞かせて頂いて変わらなければならないのは、自分自身です。

昨年、長野青年会議所のセミナーで、

何の束縛もない若かりし頃、想像は果てしなく広がり、私は世界を変えることを夢見ていた。ところが、年を重ね賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。そこで、目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から始めることにした。

だが、自分の国も変わらなかった。

老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。そして、自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。


だが、悲しいことに、これすらままならなかった。

今、私は死の床についている。なんと、今になって初めて分かったのだ。変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。自分が変われば、家族も変わっただろう。


そして、家族に励まされ支えられることで、国をよくすることもできただろうし、やがては世界を変えることすらできたかもしれなかったのだ。

作者不明(ウェストミンスター寺院の地下室の碑文より)


を、初めてお聞きしました。
宗教は違えども、信仰の中に生かされた方の真摯な姿勢が顕されていて、たいへん感銘を受けました。

先ず、自分自身が変わること。それは、現世祈祷や、まじないを行わず、占いなどの迷信にたよらないと思いつつも、いざとなると迷ってしまう自分自身がいることに気づいていくことであり、そして世間という根拠のない枠組み、差別を生み出す仕組みに目覚めていくことではないかと思います。



イラスト(似顔絵)を頂きました

2007年02月07日 | 法縁日誌


公私ともにお世話になっている明石佛壇店の明石社長のご厚意で、上記のイラストをプレゼントして頂きました。
隣の写真は、イラストの元となったポートレートです。
如何でしょう?
だいぶスリムに美化して頂いたかなぁと・・・ 

しかし、自慢の(笑)くっきり二重と切れ長の目尻の特徴を掴んで下さっていて、とても嬉しくて、早速ブログにUPすることにしました。
今後、ブログ上はもとより、名刺や原稿依頼があった時の自己紹介欄などに、早速利用させて頂きたいと思います。

ただ、少し減量しないと、イラストと実物が、
つりあわなかなぁとの不安はありますが・・・


お斎(とき)

2007年02月04日 | 法縁日誌

ご法要の後、参列者で会食をすることを「お斎(とき)」と申します。その語源は、インドで、時食と非時食という言葉があり、時食は僧侶が食事をする時間であり、非時食は僧侶が食事をしてはいけない時間を指しました。これが日本にも伝わり、僧侶が食事をする時刻「時食」(とき)が斎(とき)という言葉に変わり、またその意味あいも。法要の施主が、僧侶や参列者に食事を振舞うことになっていったようです。

お斎には、亡き人をお偲び申し上げ、そのお導きによって仏法を聞かせて頂いたことに感謝し、お食事を共にしながら、お互いに生かされていることをよろこび合う意味があろうかと思うのですが、最近は形式化してしまうと同時に、お互いにお酒を酌み交わし、世間話に終始してしまう傾向があるように思います。

当院では、お斎もご法事の一部であり、単なる食事ではないということを、皆さんと共有する為に、司会者(住職が兼ねることが多いのですが)を立て、参列者の皆さんお一人おひとりに、四十九日法要の際は、亡き人との想い出を中心に、年回忌法要では、お互いに、その亡き人の願いに応える生き方をしているかということを近況報告という形で、お話し頂いております。また、仏事に関する質問、法話に関するご感想等もお受けしております。
皆さん、最初は非常に戸惑われることが多く、
「話すのが苦手だから」
とか、
「堅苦しいこと抜きにお酒を飲もうよ」
と、抵抗感がおありになったようなのですが、回を重ねるごとに、逆に参列者の皆様が楽しみにして下さり、非常に和やかな雰囲気となってきました。
と、言いますのも、実際にご経験されると、お孫さんが、亡くなったお祖父さんお祖母さんのことを想って、感極まって涙を流されたり、さらには、その姿にご両親が、想いを重ねて涙され、お互いに普段の生活では、面と向かっては、なかなか語られない想いに気づかれることがあるのではないかと思われます。また、参列者の方々からは、ご家族が知らなかったエピソードがこぼれて、思わず悲しみの中にも笑顔がこぼれたりします。先日などは、お亡くなりになられた方が、病床で口ずさんでいた歌を一緒に歌おうというご提案があり「故郷」や「信濃の国」を皆さんで、合唱したりしました。そういった悲喜こもごもを体験しながら、本当にお互いが仏さまを通して、尊い時間を共有しているのだなぁと実感されるからではと思っております。

(そして何よりも、住職として参加させて頂いている私が、非常に感銘を受けることが多く、本当に有難いご縁を頂いていると感謝いたしております。)

最近は、皆さん時間を忘れてゆっくり語り合って頂きたいという思いから、写真の様に椅子席でも対応出きる様に工夫しております。
どんなご馳走やお酒を並べるよりも、皆さんが亡き人を通して語り合い、そして一人ひとりが、仏法に出遇っていかれることが、本当のご供養であると私は思います。


聞法者

2007年02月02日 | 法縁日誌

私たちは、常に迷います。何故なら生・老・病・死の自分ではどうすることも出来ない苦しみ不安を抱えているからです。その苦しみや不安を解消しようと様々な宗教が、絶えることなく出てきます。
しかし、その多くは、迷信・俗信・軽信といった場当たり的な教え、言い換えるならば、人の苦しみや不安を一時的に解消するだけで、結果的には、さらに迷わすような教えです。
実は、そういった迷信・俗信・軽信は、私たちの日常生活の中で、風習や・ことわざとして定着しているものがあります。

先日、寺族女性のためのやさしい勉強会にて、それらを見直してみようという試みをしました。最初に以下アンケートを用意し、その後、お互いの見解を話し合うという設えをしてみましたので、もしよろしかったら、皆さんもお考え下さい。

以下の風習やことわざをどう思うかお考え下さい。 下記の(  )内に、
そう思う、納得する、次代に伝えて行きたい場合は○印。
そうは思わない、次代に伝えるべきではない、なくなるべきだという場合は×印。
どちらともいえない、よく分からない場合は△印をつけてみてください。

①お葬式から帰ったら「清めの塩」を使う (   )
②下駄の鼻緒が切れると縁起が悪い (   )
③丙午(ひのえうま)生まれの女性は悪女 (   )
④情けは人のためならず (   )
⑤結婚式や建前など、おめでたいことは大安の日にしたほうが良い(   )
⑥不浄のもの立ち入るべからず (   )
⑦女三界に家なし (   )
⑧老いては子に従え (   )
⑨遠くの親戚より近くの他人 (   )
⑩我が身をつねって人の痛さを知れ (   )
⑪他力本願では駄目だ (   )
⑫不幸が続いたら家相や墓相をしっかり調べる必要がある(   )
⑬厄年の厄払いは必要  (   )
⑭門徒物忌(ものいみ)知らず  (   )
⑮13日の金曜日は不吉 (   )

如何だったでしょうか?
勉強会に参加された方々は、浄土真宗のお寺の関係者ですから、その見解の多くは、
「よくわからないけれども浄土真宗(お寺の中)では×よね」
「浄土真宗では、否定されることよね」
または、
「浄土真宗では○ね」
でした。

この見解「浄土真宗」を「世間」に置き換えても通用してしまうのです。

そこに「私は」という主体性が欠けていることに、お互い気づきあっていきたいものです。
生活の中で私たちは様々な迷信・俗信・軽信といったものに振り回されていますが、何故、振り回されるのかと突き詰めれば、いずれも自分の生き方を、本当に信ずべき教えに問うていないと言えるのではないでしょうか?

ところで、洗脳とは、洗脳する相手から思考力を奪うことから始まるそうです。逆に言えば、問い聞くという思考する姿勢が無い人が、如何に洗脳されやすいかということを裏付けています。

「何故、どうして」という疑問を持たないまま、「世間で言われているから」「どうも浄土真宗では、否定されているらしいよ」で、済ませ「私にとって」という主体性に欠けることは、極めて危険な状況にあると言わねばなりません。

「どの宗教も行き着くところは同じでは? 」と問われる方がいらっしゃいますが、それは、主体性を持たず、第三者的に遠く宗教を眺めているからです。実際に教えを聞いて、その教えが示している目標に向かって進んで行こうと考えていないのです。
私たちは、誰もが人生の実践者であって、第三者的に眺めて暮らしている評論家ではないのです。

本当に次代へと遺していくべきものか? その答えは、私たち自身が、実践者として、自ら考え、み教えに問い、聞くという聞法者としての在り方にあるのではと思います。


「脳死・臓器移植」

2007年02月01日 | 法縁日誌

外科医の友人から、仏教徒として「脳死・臓器移植」をどう捉えているかと、真剣に訊ねられました。
答えとして、非常に不足しているとは思いますが、以前、寺院の研修会の為に、まとめた資料がありましたので、ブログの記事として転載したいと思います。

はじめに
 「脳死・臓器移植」は、広範な情報と知識の蓄積が求められる内容かと思われます。しかし、これらの問題は、私たちにとって、切実な問題として迫っております。誰しもがいつ何時、突きつけられるやもしれない問題なのです。
 この問題を考える糸口として、仏教の無常観・生命観・人間観に学ぶ必要があるかと思います。以下私なりに総論してみました。

仏教の無常観  
 仏教では、存在とは条件の集合であるといいます。それを仏陀(お釈迦様)は、「縁起」とおっしゃいました。宇宙も、地球も、命も、心も、いろいろな出来事も全ては条件の集合であるとされました。またそれらは、条件によって常に変化しています。つまり、いかなる現象(諸行)も永遠なることが無い、それを「無常」とおっしゃいました。 
  縁起し、変化しつつある事を「仮和合」と言います。存在とは、仮に調和して現象となっていると言う意味です。「仮」で確かでないものだから、いい加減なものかと言うと、今このように現象して動いている事だけが事実だから、そこが尊く大切であり、そこで全力投球するしかないという事です。 そして、縁起・無常・仮和合であるものは、自分の都合通り行きません。その生命体の中に不変な「実体」というものがあるわけでもありません。それを「無我」と言いました。そのように縁起・無常・無我なる私は「あるようでないものであり、ないようであるものであり、こだわり様がないもの」です。それを「空」といます。

仏教の生命観 
 縁起を生命の上で言うと、「堅い性質、水分の性質、体温の性質、呼吸・成長等の性質の縁起」(地大、水大、火大、風大の「四大縁起」)が生命活動として「自立(仮和合)」しているのが生命ということになります。
 また、「命根」と言う考え方もあります。「根」というのは「それを成立させる能力」と言う意味です。生命を成立させる能力には三つの機能があると古い仏教学では言います。それは「寿・煖・識」だと言います。 
 「寿」(アーユス)と言うのは「同じ状態を維持する力」と言う意味です。爪がはがれたら、髪の毛が生えないで爪が生えてきます。犬からは猫が生まれません。つまり今の遺伝子に該当する力です。「煖」は、体温の力ですから、消化、心拍、循環などです。「識」は、意識ですから基本的には神経細胞の連結で脳細胞の機能も含まれるでしょう。この「寿・煖・識」の成立(縁起・自立)が生命だというのです。

仏教の人間観  
 上記の生命の縁起という無常観・生命観は、真理であり、自然の摂理です。人間は「真理・自然の摂理」を生きているわけです。ところが現実の人間はそれに背くかのように、煩悩・自我に汚れて、迷いの生き方をしています。 仏教の人間観は、『人間とは、煩悩よって常に迷う存在』といえるのではないかと思われます。

 さて、 以下に、脳死・臓器移植を他人事では無く、自身に切迫した問題として考えていただく為に、1~4の設問を用意しました。 併せて、日本臓器移植ネットワークが定義している。脳死の定義・提供できる臓器・移植の権利を添付いたしましたので、ご高覧頂き、是非、ご自身でお考え下さい。  

1、脳死を人間の死として   
 ア、認める   イ、認めない   ウ、わからない


「脳死の定義」
 世界のほとんどの国で『脳死は人の死』とされ、脳死下での心臓、肝臓、肺、腎臓などの移植が日常の医療として確立されています。しかし、日本の臓器移植法では、臓器を提供する意思がある場合に限って『脳死を人の死』としています。脳死とは、呼吸・循環機能の調節や意識の伝達など、生きていくために必要な働きを司る脳幹を含む、脳全体の機能が失われた状態です。事故や脳卒中などが原因で脳幹が機能しなくなると、二度と元に戻りません。薬剤や人工呼吸器などによってしばらくは心臓を動かし続けることもできますが、やがて(多くは数日以内)心臓も停止してしまいます。植物状態は、脳幹の機能が残っていて、自ら呼吸できる場合が多く、回復する可能性もあります。脳死と植物状態は、根本的に全く違うものなのです。


2、臓器移植が必要と診断されました
ア、移植を求める  イ、拒否する   ウ、わからない


「移植の権利」
 移植に関しては、どなたにも4つの権利があります。死後に臓器を「あげたい」「あげたくない」、あるいは移植のための臓器を「もらいたい」「もらいたくない」という権利であり、どの考え方も尊重されなければいけません。
 現在の臓器移植法の下では、脳死を人の死としてとらえるかとらえないかは、個人で判断し選択できますし、死後の臓器提供も自分で決定できる権利があります。ただし、最終的には必ず家族の承諾が必要となるので、大切な家族と各々の意思について相談し、伝えておくことが重要です。


3、家族が臓器移植を必要と診断されました
ア、移植を求める  イ、拒否する  ウ、わからない



4、臓器提供の依頼がありました。臓器提供に 
  (脳死状態で無い場合を想定しての質問になります)
ア、協力する    イ、協力しない  ウ、わからない


「提供できる臓器」
 日本では、昭和54年から心臓停止後の腎臓の移植が行われていましたが、心臓や肝臓、肺などの臓器が重度の病気になられた患者さんは、移植を希望しながらも日本で亡くなられていました。あるいは、海外で外国人枠の恩恵に授かり、移植を受けてこられる方がわずかにいるのが現状でした。 
 しかし、1997年10月16日「臓器移植法」が施行されたことにより、心臓停止後の腎臓と角膜の移植に加え、脳死からの心臓、肝臓、肺、腎臓、膵臓、小腸などの移植が法律上可能になりました。 脳死での臓器提供には、本人の書面による生前の意思表示と家族の承諾が必要です。また、この意思表示は15歳以上に限定されているため、特にからだの小さな子供に適するサイズの心臓の提供が難しく、子供の心移植に大きな課題を残しています。


まとめ  
 仏教的にいえば、生と死とは分離された別なものではなく両者をもって「生命」であると受け止めています。その生命あるものを仏陀は、生・老・病・死の思うにまかせない存在であると自問自答したとされています。注意すべきは生・老・病・死全体で人間を見ていることです。
 この仏陀の教えからは、「生」のみに執着する考え方、他人の生き死にかかわってまでも「長生きしたい」という世俗的欲望を絶対的に肯定する考え方は、導き出されません。 
 同様に「寿・煖・識」の成立(縁起・自立)の総合体として人間存在を理解する仏教では、人間を部品化し、パーツとしてとらえる考えはありません。また臓器移植を前提に脳死を「人の死」とすること自体、受け入れがたいものがあります。 
 また、無常・無我の思想からすれば、生命は誰のものでもありません。誰のものでもない生命が不思議にも今ここなる私に届いているのです。その生命を私物化(自分のものと)し、やりとりすることは認めがたいものがあります。 
 ところで「臓器の提供」は捨身を説く(ジャータカ)仏教の慈悲に適うとの意見がありますが、これは誤った解釈だと私は思います。捨身の話は、それが解脱もしくは救済に直結して意味を持つと考えるからです。  
 しかし、現に脳死による臓器提供者と臓器希望者がいることは事実です。この脳死による臓器移植は「三輪清浄」(三輪空寂ともいい、布施においては、与える者、受け取る者、布施される物のいずれも(三輪)が清浄でなければならない、ということ。与える者が見返りを期待したり、受け取る者が欲望にとらわれていたりするようなら、それは商取引であって布施ではない。布施は、人の欲の心や執着心を離れなければならない)にして初めて可能と思われますが、それは仏教の人間観を踏まえるならば、極めて困難なことであると言わざるえません。


寺族女性のためのやさしい勉強会

2007年01月26日 | 法縁日誌

唐突ですが、以下の文章をご覧下さい。

父親とその幼いお子さんが、交通事故に遭い、病院に搬送されました。
担当の外科医は、搬送されて来たお子さんの方を見るや、
悲鳴と共に、その子の名前を叫び、
「この子は、私の子です」
と、取り乱してしまったそうです。


如何ですか? どこか違和感を感じられたかもしれません。
おそらく、何故、父親と一緒に搬送された子が、どうして外科医の子供なの? この子には父親が二人存在するの? と感じられたのではないでしょうか・・・

お気づきの方もいらっしゃることと思いますが、外科医がキーワードです。
実は、外科医は、事故に遭ったお子さんの母親なのです。
外科医=男性という固定観念が、この文章には、整合性が無いように思わせ違和感を与えるのです。

歴史的・社会的に、特定の職業を男性が占有しているように思われているものが、少なくありません。
お寺の住職も男性であるという固定観念が、なかなか払拭されていないのが現状ですが、浄土真宗(本願寺教団)では女性が住職として、ご活躍されいます。

ところで、住職を補佐する立場を坊守(ぼうもり)と言いますが、数年前まで、教団内では、一般的に住職の妻や母を坊守(ぼうもり)と呼称していました。つまり、住職は男性、坊守はその妻や母という固定的・差別的な枠組みを作っていたのです。

タイトルの「寺族女性のやさしい勉強会」は、そんな固定的・差別的な在り方に気づき、男女共同参画という教団の大切な歩みの中から発生しました。
講師を承って早5年が過ぎますが、参加者の皆さんから、様々なことを学ばせて頂いております。

ただ、もう「寺族女性」という枠も取っても・・・ という思いはあるのですが。

「あら、女性だけだから気さくに話せることもあるのよ
 夫への愚痴も含めてね! 」
と、返されてしまいます。

いやはや、歴史的・社会的なものが、生んだ男女の溝より、意外と身近な男女関係から生まれる溝が深いようです・・・。