見よ!

映画、テレビ番組、写真、書籍、ちまたの出来事などをリポートします。

うれしい=いい言葉…『それでもボクはやってない』周防正行・著

2007-07-19 23:26:31 | 書籍
 「最近の邦画は…」みたいなおっさんくさいことを若いスタッフに言うと、「『それでもボクはやってない』のような、社会性が高い映画をまだ作れる環境にあることは、誉めてもいいでしょう」と、諭された。
 その通りだ、と思った。
 この映画のシナリオと、自作解説、「日本の刑事裁判はどうなっているのか」という対談をまとめた本が、『それでもボクはやてない 日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』(周防正行・著/幻冬社)だ。
 よくできた、オモシロイ本だ。

 シナリオは、「決定稿」の段階でカットされた「欠番」、編集作業でカットされた「オミット」など、作業を進めるうちにどのように変化したのかがわかる。さらに、自作解説によって、なぜ変更になたのかが、仔細に述べられている。
 そしてまた、面白いのが対談だ。対談相手は『刑事裁判の心』(法律文化社)の著者で、元裁判官の木谷明さん。周防産さんいわく、著書の中に書かれていた「刑事裁判の最大の使命は、無実の人を罰してはならないということです」という言葉が、なかなかまとまらなかった映画のシナリオをまとめるきっかけになったとのことだ。
 対談の中では、周防さんが映画製作にあたって取材を重ねた上で、裁判に対する疑問点を木谷さんにぶつけたり、そして木谷さんが映画の中で、司法上、これはおかしいと思った点をぶつけるなど、のんびりした対談の雰囲気の中、意外とスリリングなものだった。

 さて、いい言葉だ。木谷さんの著書の言葉も、いい言葉だが、もっとも気に入ったのは、周防さんが木谷さんに無罪判決を言い渡した時の気持ちを聞いたところである。
 「うれしい」という言葉を連発している。無罪の人が「ありがとうございました」と述べたり弁護人や家族が喜んだり…検察側が控訴を断念したり。そんな時「単純にうれしい」のだそうだ。

 以前、障害者を支援する人を取材した際、型どおりの質問をした後に、「なぜこんなに大変な仕事をされるのですか?」と聞いたら、「うれしい」という言葉が返ってきた。「困っている人を助けて感謝されたら、うれしいだろう?」と言われ、次の質問が出てこなかった。
 若い頃、つまらない商品紹介のビデオ制作をした。そのビデオが完成し試写をしたところ、クライアントから「良いものを作ってもらってありがとうございました」と言われた。「つまらないビデオ制作だ」と思って作ってしまった自分を恥じた。そして単純に感謝されたことが、うれしかった。

 「うれしい」という感情を表に出す機会はなかなかない。どちらかといえば、内なるところでボワッと燃える気持ちで、他人から見れば察することも難しいだろう。
 しかし何よりも、人を動かすのは「うれしい」という感情のように思う。「うれしい」という言葉を引き出した周防さんのこの本は、名著だ。そして自分も「うれしい」と言う言葉を拾えるような仕事をしたいと思う。

新潟県中越沖地震からみた、ヘリコプターの威力

2007-07-17 00:57:36 | 
 埼玉県の自宅で朝風呂に入っている際、平成19年新潟県中越沖地震が起きた。地震には全く気が付かなかった。妻の話しによると、風呂やトイレは、他の部屋に比べ狭く四方を覆われているため、ガッチリとしており、地震の影響を受けにくいそうだ。
 地震の報道は、時間が経つにつれ、その被害状況が大きくなる。早くから情報の確認が取れるところの被害は、実はそれほど大きくないケースが多いからだ。甚大な被害を受けているところは、電話が通じない。報道各社は情報を得られないのだ。
 
 伊勢湾台風(1959年)を取材したテレビスタッフの話を聞いたことがある。被害状況がわからない中、彼はヘリコプターをチャーターし飛んだ。もちろん空撮するためだ。
 しかし飛んでビックリ。一面浸水しており、屋根にのぼり救助を求める人の姿があちらこちらに。いちいち地図をチェックして戻り、救助関係者に渡したのだそうだ。この地図に救助関係者もビックリ。ヘリコプターを飛ばしていなかった彼も、これほど被害が大きいとは認識していなかったそうだ。
 
 今回の地震も、柏崎市の情報がなかなか入ってこなかったことが、震度の割にさほど大きな地震ではないなぁ…と思わせた。
 しかしその後、続々と入ってくるヘリコプター取材の情報で、これは大変な地震だぞ…と、いっぺんさせた。
 現在、ドクターヘリなど、ヘリコプター活躍の場が広がっている。消防庁を取材していたスタッフの話によれば、火災の際もヘリコプターが飛び、上空から状況確認。現場で消火活動を行う消防士に貴重な情報を提供しているのだそうだ。
 
 ただしこのヘリコプターには大きな欠点がある。航続距離が短いこと。そして、どこにでで降りられるわけではないことだ。
 報道各社もヘリを飛ばす場合、その航続距離の短さゆえ、燃料補給などを行うベース作りに苦労していると聞く。ドクターヘリも、離着陸できる場所がなければ使用できない。
 今後の活躍が期待できそうなヘリコプター、その運用の問題点や基盤整備が気になるところである。

取材の壁…

2007-07-15 02:28:07 | テレビ番組
 今週頭まで、テレビ番組ではないのだが、ビデオ制作の企画に関わっていた。人権をテーマにしたもので、差別はやめましょう、イジメはやめましょう、ということをどのように伝えるか、といった作品である。
 結局企画は通らなかったのだが、来るべき壁にぶち当たったように感じている。

 最近は取材倫理の問題がクローズアップされるようになり、ご承知とは思うが、取材される側のプライバシーや権利が、以前より尊重されることが求められている。我々もそこには最大限の注意と努力を払う。今日は、携わっているテレビドキュメンタリーの仮の編集があがり試写を行ったのだが、それにあわせて出演頂いている方々が、どこまで出演をOKしてくれているかのチェックも行われた。
 出演者の方々に出演することの意義を理解して頂き、我々もその意義に沿って作品作りを進めることは、以前よりもきちんとしてきていると感じる。
 そういった取り組みもあって、そして社会も変質してきて、テレビやビデオに出演することの意義、特にテレビに関しては「パブリシティ」と呼ばれ、出演することで出演する側の主張が、宣伝とは違った意味で訴えられることから、出演に前向きな方々が増えている。
 以前、精神障害者や知的障害者の方々を取材させて頂いた際も、老練なプロデューサーが、「以前に比べて障害を持った人達は、障害を隠したり恥かしいものと考えなくなって、出て頂けるようになったことは嬉しいことだ」と語っていた。
 実際、取材をしてみると、障害は恥ずかしいことでもなく、健常者の方よりも活き活きとしている方々が多く、変な言い方だが、取材はスムーズに進んだ。

 しかし今回は違った。差別という問題に取り組んだことが原因だと感じている。差別には根深い問題が潜んでいる。
 何百年かかっても理解が得られない差別もある。それを我々取材者が、いまさら取り上げたからといって、瞬時に差別がなくなるわけではない。そういったことへの、取材される側の諦めは、仕方のないことだ。
 これは、社会に暮らす者が、差別にきちんと対処してこなかった証でもあり、メディアが万能ではなく、力不足な面を持っていることの証である。時としてインパクトで伝える映像は、インパクトだけを視聴者の印象的に残して、その問題の本質を伝えきれていなかったと反省する面がある。
 また長年に渡る差別に対して、それを何とかしようと努力されてきた支援団体の方々は、その方法論が確立されており、我々の手法に共感頂けないということもある。こちらの筋書きでは動いて頂けないのだ。これに対しても、我々がきちんと成果を納められなかったことに対する、厳しいジャッジメントなのだと反省するばかりである。
 そういった意味では若い方々、それから新たな取り組みを失敗しながらもされている方々には、感謝している。我々の手法に賛同して頂き、なにより希望を描いて頂いている。我々もそれに対して、覚悟してかからねばと、身が引き締まる想いだ。

 今回の企画の不成立は、当たり前の壁に、遅くにぶちあたったような気分である。どこまで自分が、こういったことに対応できるのか、問われた結果だと考えている。
 希望を抱いて頂いている方々と、希望を失った方々の狭間で、我々は生きている。両者の期待に違いはない。それは傲慢な気持ちではなく、我々メディアの影響力である。

 取材の壁は、我々が作り出した壁である。壁を乗り越えるのは、誰でもなく我々なのだと、改めて感じた企画取材であった。

金魚と平和…江戸川区金魚祭り

2007-07-10 01:05:54 | 
 最近、あちこち取材しているのですが、別件での取材が故に、このブログでの好評の許可が後回しに…近々一機に許可を得る予定ですので、取材ものを期待されている方は、少々お待ち下さい。

 そこで今日、ご紹介するのは、本日、学生と取材に行く約束をした江戸川区の「金魚祭り」。7月21日(土)と22日(日)に開催されます。場所は、江戸川区入船公園。
 入船公園をご存知ですか?入船公園は、有名な北海道旭川市の動物園よりも、魅力的な動物園を併設している、行った人ぞ知る動物園があります。
 僕が娘を連れて行った際には、動物園の職員の方がペンギンを抱っこ。私たちにもペンギンを触らせてくれた上、ペンギンも我々に馴れ馴れしくチョコンチョコンと、触れてくれる。
 小さな動物園なのだけど、大きな楽しみがある公園だ。

 さて、金魚の話に戻りましょう。
 金魚は平和の証です。
 これは数年前に当校に在籍し、「私の住む街」という台本課題を出してくれた江戸川在住の学生が提出してくれたものです。江戸川区は、全国有数金魚の名産地。養殖数が半端じゃありません。
 しかしこの金魚の養殖名産地も、暗い過去があります。戦時中は「金魚は贅沢品」とのことで、養殖禁止。人間が食することのできる、鯉などの養殖に切り替えました。そして戦後、再び金魚の養殖に切り替えたのです。
 このネタを調査してくれた学生いわく「金魚は、平和の証です]。

 私はそれ以来、娘が夏祭りの金魚すくいの金魚(ペットショップに安く売っている「小赤」という奴です)を、大切に飼っています。水を替え、餌をやりすぎなければ、経験上、3年は生きます(短いかなぁ…平均年齢は2歳前後だそうです)。
 どうでしょう?この夏は、金魚すくいをしながら、平和をかみ締めてみては。ちなみのこの金魚祭りでは、小学生以下、金魚すくい無料。さらに高級金魚の金魚すくいが、一回500円。なんと数万円もする品種がすくえます。

 金魚は、江戸時代から、庶民の観賞用として、楽しまれてきました。
 詠が好きな人も、金魚を忘れたら、それは「エセ映画通」。第二次世界大戦で戦死した名監督・山中貞夫の作品で残る三本の一本『丹下左膳・百万両の壷』(1935年)は、その百万両の壷を、価値も知らない屑物屋が、恵まれない子に金魚入れとしてくれてやることから、話が大きく展開します。
 室生犀星の異色の小説『蜜のあわれ』は、金魚と老人の恋物語という不思議な話です。また、今をときめく漫才師・爆笑問題も若かりし頃、帰宅したときに金魚が喋りだしたらどうなるか…というネタを披露しています。
 なにはともあれ、金魚は、日本人にとって、身近な存在。そして夏の風物詩。そして日本の夏には欠かせない、平和の証。

 金魚祭りで、日本の夏を色々感じ、もし子どもさんが入る方は「金魚すくいが出きるなんて、平和の証なんだよな…」と、チラッと教えてあげてはいかがでしょう。
 夏の新しい、楽しみ方です。
 

身につまされる魅力?TBS『肩越しの恋人』

2007-07-08 15:11:50 | テレビ番組
 生徒の一人がTBS系の技術会社に就職する。ドラマ班に廻る予定だそうで、こういったドラマも担当するかもしれないなぁ~と、クレジットを見ると、その会社の名もあった。番組の良し悪しは別にして、卒業生がこういった大きなドラマの一員で活躍できることは、心の底から嬉しい。

 米倉涼子、高岡早紀と、メインキャストが30代の女性というのは、こちらも30代半ばを過ぎているので、なんとなく見ていて好感が持てるのは事実だ。米倉涼子の上司役で、若村麻由美が出ていることもホッとする。
 ある出版記念パーティーで、若村さんを見たことがあるが、とても華のある人で、楽しい人だった。
 「華」というのは、見た目の美しさとは違う。
 ある演奏会を聞きに行った際、幕間で、今は亡くなられた作曲家の武満徹さんがヒョコヒョコと歩いていると、そこにじわじわと人だかりができた。偉大な作曲家だから、と言えばそれまでだが、若村さんと同じで楽しい人だった印象が強い。
 「華」とは、うまく言えないが、なんだか引き寄せられる魅力みたいなものだろうと思う。

 さて『肩越しの恋人』だが、30代の人にとっては、身につまされる話が満載なのではないかと感じた。主人公が「ど真ん中の女性をやってられない…」といった台詞や、「辞める勇気もなく会社にズルズルいる」といった台詞、「(結婚すると)目標がなくなる」といった台詞は、同じ状況に関わらず、女に関わらず、なんとなく感じることだ。
 またクレーム処理を担当する主人公が、クレームの原因を作った年下の社員に注意をすると、その社員は「(クレーム処理をすることで)私たちより良い給料をもらっているんだから」と反逆されることも、30代というのが微妙な仕事を任されていることを象徴しているようにも思う。

 「身につまされるドラマ」と書いたが、身につまされるからこそ、見るこちら側も、登場人物たちと成長していく気持ちになれるか、嫌だな…世の中、と思ってしまうか、これからの展開がちょいと楽しみなドラマだ。
 

可視的な作法…すれ違うこと

2007-07-06 00:49:28 | 映画
 先日もご紹介した澤井信一郎監督の映画が面白いのは、「映画は言葉、台詞」と言いながら、やはり映像としての可視的な面白さを、丁寧に扱っているからだと思う。
 例えば「17才」でも澤井監督らしく、サラリとやってのけている作法としては、「すれ違い」だ。十数年ぶりに日本に戻ってきた実の父をホテルに訪ねる娘は、そのホテルの入り口で、会うべき父親とすれ違っている。お互いに血の繋がりを気付くことができない二人は、見るこちらの気を揉む心とは裏腹に、何の事はなくすれ違ってしまう。

 澤井信一郎という監督は、この手法を、様々なバリエーションで丁寧に描く。デビュー作である『野菊の墓』の冒頭では、お互いの存在に気付く主人公が、川を走る船の上で、あっという間にすれ違う。『日本一短い母への手紙』では、娘の存在に気がついている母親と、母親の存在に気がつかない娘をすれ違わせる。
 『恋人たちの時刻』では、自分の調査を依頼する女と、依頼主が探す対象だとは気がつかない主人公が絶えずすれ違う。

 『恋人たちの時刻』は、原作が小説で、文学的な面白さがベースにあり、文学的に表現可能なのものだが、それ以外の作品では、「すれ違う」ことの強度が、やはり映像である映画である可視的な行為だからこそ、いっそうの面白さを増しているのように感じる。
 すれ違う一瞬に、みるこちらも一瞬にして「うっ!」と、気付かないことへの苛立ちやいじらしさ、やっぱりか…とい登場人物二人に対する前のめりな気持ちなど、文学よりも強度が強いように感じる。

 澤井信一郎監督の映画というのは、こういったように、その映画の物語のテーマというよりも、映画としての物語の面白さを、可視的に伝える技が冴えている。
 のだが…本人は、「映画は言葉、台詞」と言って譲らないところが、頑固で魅力的である。
 

盲目の写真家・・・

2007-07-04 00:45:14 | 
 とても気になった記事があるので、紹介させて頂く。2007年7月2日付け東京新聞TOKYO発『見えなくても 音で肌で…感じるシャッター』だ。 インターネットでは全文が読めないことが残念だが、写真指導した菅洋志氏のホームページで、その折々のドキュメントを見ることができる。『子どもは天才』という写真展の項目だ。

 記事を読んだ時、電車の中でうっかり涙を流してしまった。悲しいとか、目の見えない人たちが写真を撮るいじらしさとか、情に流されたのでは決してない。良い映画や、良いカットを見たときに流れる「感動の涙」という奴だ。
 目が見えないからといって、ただ興味の向くまま、シャッターを押したとは考えられない。目の見えない人の、研ぎ澄まされた耳が、その方向へ正確にカメラを向けさせたのかもしれない。見えないけれども、何かを感じる、例えば空気、風、匂いなどが、カメラをそちらに向けさせたのかもしれない。
 実際、新聞に載った写真の数枚は、見た者を喚起させる何かが潜んだ写真に見えた。電車が好きな子どもが、踏み切りでシャッターを押した写真は、正確に踏み切りを通過する電車が収められている。鳥の声にシャッターを押した写真は、夕暮れ時、電線に並ぶ鳥たちの姿がバッチリ納められている。大好きな弟を撮った写真は、可愛らしい寝顔が、その寝顔を知っているかのように可愛らしく納められている。

 あるはずのその場所に、きちんと全てが納められている写真。見たはずの、見そこねた風景が納められた写真。
 写真を志す者なら誰でも知っている、パリの写真家・ウジェーヌ・アッジェ(1857-1927)の写真を何か思い出させるような気分になった。
 盲目の写真家の撮った写真展、日本新聞博物館にて8月26日まで開催されている。ちょっと訪れてみませんか?