先日もご紹介した澤井信一郎監督の映画が面白いのは、「映画は言葉、台詞」と言いながら、やはり映像としての可視的な面白さを、丁寧に扱っているからだと思う。
例えば「17才」でも澤井監督らしく、サラリとやってのけている作法としては、「すれ違い」だ。十数年ぶりに日本に戻ってきた実の父をホテルに訪ねる娘は、そのホテルの入り口で、会うべき父親とすれ違っている。お互いに血の繋がりを気付くことができない二人は、見るこちらの気を揉む心とは裏腹に、何の事はなくすれ違ってしまう。
澤井信一郎という監督は、この手法を、様々なバリエーションで丁寧に描く。デビュー作である『野菊の墓』の冒頭では、お互いの存在に気付く主人公が、川を走る船の上で、あっという間にすれ違う。『日本一短い母への手紙』では、娘の存在に気がついている母親と、母親の存在に気がつかない娘をすれ違わせる。
『恋人たちの時刻』では、自分の調査を依頼する女と、依頼主が探す対象だとは気がつかない主人公が絶えずすれ違う。
『恋人たちの時刻』は、原作が小説で、文学的な面白さがベースにあり、文学的に表現可能なのものだが、それ以外の作品では、「すれ違う」ことの強度が、やはり映像である映画である可視的な行為だからこそ、いっそうの面白さを増しているのように感じる。
すれ違う一瞬に、みるこちらも一瞬にして「うっ!」と、気付かないことへの苛立ちやいじらしさ、やっぱりか…とい登場人物二人に対する前のめりな気持ちなど、文学よりも強度が強いように感じる。
澤井信一郎監督の映画というのは、こういったように、その映画の物語のテーマというよりも、映画としての物語の面白さを、可視的に伝える技が冴えている。
のだが…本人は、「映画は言葉、台詞」と言って譲らないところが、頑固で魅力的である。
例えば「17才」でも澤井監督らしく、サラリとやってのけている作法としては、「すれ違い」だ。十数年ぶりに日本に戻ってきた実の父をホテルに訪ねる娘は、そのホテルの入り口で、会うべき父親とすれ違っている。お互いに血の繋がりを気付くことができない二人は、見るこちらの気を揉む心とは裏腹に、何の事はなくすれ違ってしまう。
澤井信一郎という監督は、この手法を、様々なバリエーションで丁寧に描く。デビュー作である『野菊の墓』の冒頭では、お互いの存在に気付く主人公が、川を走る船の上で、あっという間にすれ違う。『日本一短い母への手紙』では、娘の存在に気がついている母親と、母親の存在に気がつかない娘をすれ違わせる。
『恋人たちの時刻』では、自分の調査を依頼する女と、依頼主が探す対象だとは気がつかない主人公が絶えずすれ違う。
『恋人たちの時刻』は、原作が小説で、文学的な面白さがベースにあり、文学的に表現可能なのものだが、それ以外の作品では、「すれ違う」ことの強度が、やはり映像である映画である可視的な行為だからこそ、いっそうの面白さを増しているのように感じる。
すれ違う一瞬に、みるこちらも一瞬にして「うっ!」と、気付かないことへの苛立ちやいじらしさ、やっぱりか…とい登場人物二人に対する前のめりな気持ちなど、文学よりも強度が強いように感じる。
澤井信一郎監督の映画というのは、こういったように、その映画の物語のテーマというよりも、映画としての物語の面白さを、可視的に伝える技が冴えている。
のだが…本人は、「映画は言葉、台詞」と言って譲らないところが、頑固で魅力的である。