見よ!

映画、テレビ番組、写真、書籍、ちまたの出来事などをリポートします。

優しくされること…ネットカフェ難民、ワーキング・プアにみるフィクションの可能性

2007-06-26 02:08:06 | 
 先週の火曜日、毎週楽しみにしていた日本テレビ系列放映『セクシーボイス アンド ニコ』(佐藤東弥・演出/木皿泉・脚本/制作・日本テレビ/制作協力・トータルコミュニケーション)が終了した。
 荒唐無稽な設定とストーリーの中に、リアルな現代性が描かれていて、原作者、そして脚本の木皿泉さんに脱帽した。

 昨日、卒業生からメルあり。FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『ネットカフェ漂流』(2007年6月25日放映/フジテレビ制作)の手伝いをしたので、見て欲しいとのこと。この日は、NNNドキュメント'07では、『ネットカフェ難民2』(日本テレビ制作)が、放映。この番組は、話題をさらったNNNドキュメント'07『ネットカフェ難民』(2007年1月28日放映)の続編だ。
 『ネットカフェ難民』では、虐待にあって家を出て、1年あまりネットカフェ暮らしを続ける若い女性が取材されていた。『ネットカフェ漂流』のメインキャストは、親に捨てられ、就職した会社では怪我をし、そのままお払い箱となってネットカフェ暮らしだった。

 「優しくされるのって、いいなぁ」「優しくされたこと、忘れないよ」と語ったのは、『セクシーボイス アンド ニコ』の第2回『ゴボ蔵』だ。
 上記ドキュメンタリーで挙げた二人は、一人で頑張っている。『ネットカフェ漂流』のメインキャストは、取材者に支援団体を尋ねるように言われるが、その後、当分の間、取材者と音信を絶つ。意を決して訪れた支援団体では「自分のお金で、なんとか暮らしたい」と語る。
 NHKスペシャル『ワーキング・プア』でも、ある貧困者が「自分の力で生きたい」と、語った。
 
 ドキュメンタリーでは、このように自分の力で生きようとする人々を取材し、ややもすると「なぜ、こんなしっかりした人が、こんな目に…」という語り口を持つ。裏を返そう。しっかりしているから、こんな目に遭うのではないだろうか?
 小説家の村上龍氏が以前、「ノンフィクションが有効に機能しない。フィクションこそが大切だ」と、いったような趣旨を発言していた。まさにその通りではないだろうか?『セクシーボイス アンド ニコ』のほうが、現代における解決策の一端を描いていないだろうか?

 様々な意味で問題を持つ少年・少女を取材している。彼らの人生で足りないものの一つは「優しさ」だと感じることが多い。「優しくされた記憶」、「優しくして裏切られた記憶」…そういった優しさをドキュメンタリーで表現できるのか、色々な意味で難しい局面に直面している。
 フィクションとノンフィクション。何か逆転した寂しさを味わっている。

軽やかな大脇三千代さんの新作

2007-06-16 01:01:02 | テレビ番組
 地方テレビ局のスタッフの名を心にとめる機会は少ない。しかし大脇三千代さんは別だ。名古屋にある中京テレビ報道部に勤める彼女が、ディレクターやプロデューサーを担当する番組ときたら、どれも曲者ぞろい。

 NNNドキュメント'04『見過ごされたシグナル』(2004年6月27日放映)は、トラック事故の取材に端を発したドキュメンタリー。トラック運転手の過労、規制緩和による競争の激化、規制緩和の影響を享受する我々と…増える大事故かするトラック事故の加害者の一人は、我々ひとりひとりかもしれないことを突きつけた。
 そしてもう一つ、この作品で触れなければいけないことは、加害者妻の取材を丹念に行っていることだ。妻の姿を見ていると、彼女も、その夫さえも、被害者なのではないだろうか…という気持ちにさせられた。

 彼女の番組は、どれを見ても軽やか。つまりフットワークが軽い。内容の重さに、腰が引けるのではなく、疑問や執着が湧いたら、サッと飛び回る彼女の姿が目に浮かぶ番組だ。
 そんな彼女の担当する番組が、6月17日(日)深夜、日本テレビ系列『NNNドキュメント'07』で放映される。お時間のある人は、絶対に見て欲しい。

残念な、傑作…澤井信一郎監督『17才 旅立ちのふたり』

2007-06-13 02:13:09 | 映画
 映画が映画を飛び出すような映画。ある人の人生が、たまたま映画になってしまった映画。
 この映画に描かれているのは、生きている人間だ。残念なことに、なかなか見当たらない傑作が、澤井信一郎監督『17才 旅立ちのふたり』だ。

 主人公の一人は、里親に養われ、数年ぶりに実の父に会うのだが、再び里親の下で暮らすことを決意する。いま一人の主人公は、母親が若い男に金を貢ぎ捨てられ、町を出る羽目となる。

 育ててくれた里親に義理立てするわけでもなく、父親に失望するわけでもない。だらしない母親と町を出る少女は、「母親だから、私が支えなければいけない」などという気持ちを持っているわけではない。
 「わけではない」ことで人生を選んだ二人の描かれ方に、最近の映画には珍しく決定的に欠けているのは、ありがちなヒューマニズム。道徳的な感性。切っても切れない血の繋がりや、切っても切れない関係性を大事にする、といった感性である。
 この二人は、自分の人生を、自分の考えで決する。「超個人的な人生を歩む」映画なのだ。

 この映画は、世界を救うわけでなし、社会に警笛を鳴らすわけでもない。テーマを探し出すことは、難しい。
 どんな映画か言えば、監督本人が言うところの「人生の、17才というある時期を描いた映画です」ということが全て。主人公二人の17才の、ひとときが描かれるばかりで、それぞれの超個人的な記録だ。

 この映画を見ずに、他の映画を見れば見るほど、この映画が見たくなる。この映画が稀なことを確信する。
 そして、主人公の二人が、そこいらを歩いているように思う。人ごみの中、そのあたりの家の中、公開から数年が経っているので、子どもを生んで、その子の手を取って遊んでいるかもしれない。

 映画が映画を飛び出すような映画。ある人の人生が、たまたま映画になってしまった映画。
 この映画に描かれているのは、生きている人間だ。残念なことに、なかなか見当たらない傑作が、澤井信一郎監督『17才 旅立ちのふたり』だ。

無知、無神経…

2007-06-11 01:39:33 | テレビ番組
 テレビのワイドショーや、ニュース番組を見ていると、被害者のご自宅の前でに「今のお気持ちは?」と言った質問を目にする。そして「そんなことは聞かなくてもわかるだろう!」というお叱りの声をよく耳にする。
 専門誌の記者やライターの人物から、「(専門家から)よくテレビの取材者は勉強が足りない。話す気にならないよ」と言われたという話を耳にする。

 お叱りを受けるかもしれないが、これらのことをテレビ側に立って弁護する。我々は、聞かなくてもわかりそうなことや、勉強不足と思われるようなことを聞くことが、仕事だ。
 理由を三つ。まず一つ、

●本人に直接語ってもらいた
 
 被害者の方であれば、その声の調子などからその気持ちの深さが表われる。専門家であれば、その話の信憑性が増す。取材者側が知っているからといって、ベラベラ代弁してはいけない。

 それともう一つ、

●意外なことがきけるかもしれない

 我々は、間違ったことを伝えてはならない、と教育されている。そのためにも本人に確認することは大事である。
 また、思い込みは一番良くない。「多分○○だろう」というのは、良くない。「多分」を消し去ることに、一番時間を費やす、と言っても過言ではないし、この過程で新たな発見が生まれ、数々の素晴らしい番組が生まれたことも事実である。

 最後に、

●見るのは視聴者だ

 視聴者に、一番伝わりやすく取材するのが、我々の仕事だ。我々が納得顔で取材をしたところで、視聴者に伝わらなければ意味がない。取材相手の身になり過ぎて、視聴者が聞きたいことを聞かなければ、我々はいらない。
 また、「勉強不足」と言われようとも、専門家相手の番組でなければ、一から順に始めなければいけない。

 無知と言われようが、無神経と言われようが、これがテレビの仕事だ。

山内大輔監督特集

2007-06-10 00:36:58 | 映画
 勤める専門学校で、講師を依頼している山内大輔監督の特集上映が6月8日から始まっている。東京・池袋にある映画館「シネマロマン池袋」で14日までだ。
 山内監督はテレビの情報バラエティ番組の演出も手がけているが、こだわりを持って取り組んでいるのは映画である。劇場公開作品としては、2002年よりピンク映画の世界で活躍している。2006年度のピンク映画大賞で4位に入る作品を手がけるなど、評価・実力ともに備わった監督である。
 
 しかし彼に対する僕の評価は、映画ばかりではない(「評価」なんていうと偉そうだが)。学校での生徒の指導力、そしてその熱意だ。
 すでに何人もの卒業生を映画界、テレビドラマ界に送り込んでいる。どのような学生にも柔軟に対応し、学生諸君の興味をひきだす様は、なかなかのものがある。

 いま彼は、新たな分野にチャレンジしようとしている。全くの異分野で、映画で培った力と学生に接したその包容力をミックスしたような力を発揮しようとしている。これに関しては、また近いうちに話を伺って、この場でアップしたいと思う。

 他分野でも活躍する彼。その原点である映画を、お時間のある人は、ぜひ見に行って下さい。
 

仕込む、仕向ける、のせる…

2007-06-03 08:55:00 | テレビ番組
 「やらせ」という言葉に似て非なるものとして「仕込む」「仕向ける」「のせる」という言葉を、僕らは使う。テレビ番組などの取材中、あまりに物事が淡々としている時や、何か物足りない時など、「仕込んでみるか…」という気になる。

 例えば、こんな具合である。
 配送業者が、そのルート上で販売活動を始めた。徐々に売上も挙げ、すでにある営業範囲でいかに収益をあげていくか、という取材としてはここまででOKだった。ところが取材中、取材先の社長が、もっと収益をあげて地元の人達の雇用を伸ばしたい、という発言をした。これに僕は惹かれた。社長は、ただ儲けたいだけではない。社会的な目標を持って儲けたいのだ。
 しかしこの社長の目標を伝えるのに、ルート上の販売を始めただけでは、番組としては、ちと弱い。できれば「目標のためにさらなる行動に出た」というところで終わったほうが、視聴者に伝わる。僕は販売地域を拡大するための取り組みがあれば…と感じた。
 番組にも問題があった。風光明媚な地方を取材しているにも関わらず、彼らの営業区域は、そういった場所から外れていた…

 「販売地域を配送ルート以外にも広げてみてはいかがですか?例えば(風光明媚な場所を指し)あの辺りまでなら販売コストもかからないように思うのですが…」事前に風光明媚な場所の中から販売が見込めそうな場所、そして距離的にも無理なく販売できそうな場所を探しておいた。
 「やってみて、反応を見るのは悪くないですね」と、社長ものってきて検討を始めた。

 「やらせ」は、テレビ的、映像的な表現のみに寄与するが、「仕込み」はあくまで取材の延長線上で、取材先にある何らかの感情を汲み取って行われる。大げさに言えば、取材先と一緒に考え、一緒に行動し、喜びや悲しみも共にする。
 尊敬するディレクターが言った。「“やらせ”は慣れてしまえば簡単だが、“仕込み”は何度やっても慣れることはない」と。

再現…

2007-06-01 02:11:53 | テレビ番組
 「やらせ」という言葉に似て非なるものとして「再現」という言葉を、僕らは使う。テレビ番組などの取材中、取材しているときには起こらないが、以前そのようなことがあった、または普段はこういうことがよく起こる、といったものを、取材先の人たちに行ってもらうのである。
 「やらせですか…?」と、取材先の人に聞き返されることも度々。そういう場合は、きちんと「再現」について説明し、納得してもらえた場合のみ行う。

 このようなややこしい事態が起きるのは、日本らしいのかもしれない。元NHK職員・河村雅隆さんの著書『ドキュメンタリーとは何か テレビ・ディレクターの仕事』(ブロンズ新社)によると、欧米のドキュメンタリーのほとんどは、「再現」によって構成されているとのこと。取材人が、カメラを実際に廻す前に、粘って粘って取材し、その中であった出来事を「再現」、つまり再度行ってもらうのだとか。
 日本の場合、カメラを廻す前の取材が、予算の関係で欧米ほど粘れないため、取材先の話を元に、「再現」は行われる。
 ここが日本のドキュメンタリーの「幸か不幸か」という部分。
 「再現」以外は、目の前で起こった出来事をリアルに撮影。それを元に、今後どのようになっていくのかを、毎晩毎晩再構成し直していく。
 つまり欧米のドキュメンタリーより日本のほうが、リアリティでは勝っている、と言える。

 いま「再現」が注目されている。先日、知り合いのディレクターと話をした。彼が担当した特番の中で、視聴率が良かったところは「再現映像」の部分だったとのこと。放映した某テレビ局では、前々から再現部分の視聴率に目をつけており、今後も力を入れていきたいとのことだった。

 実は今晩、その某テレビ局で、取材中の番組の打ち合わせがある。担当者は、再現を快く思うのだろうか…?取材不足で彼の情報がないため、不安である。