<人麻呂、終焉の地(1)>
古田先生に、前にも紹介しましたが、「人麿の運命」(原書房、1994.3)という著書があります。この中で、p99より始まる「第3章 人麿終焉の地『鴨山』を求めて」が、(不謹慎な言い草をお許しください…)下手な探偵小説を読むよりはるかに面白いのです。
まずはその探求の先達「斉藤茂吉氏」および「梅原猛氏」の到達された結論を、俎上に載せさっさっと三枚におろされ…、いや論破されました。次に返す包丁で刺身をつくり見た目も美しく盛り付ける…、いやご自分の考察の理路を開陳し、そうか!とうなるような結論を導き出されたのです。
先生のご本をお読みの方には蛇足ですから画面を閉じていただいても結構ですが、まだの方にご本を読んでいただく手がかりにでも…と思い投稿します。
まずその論証の対象となる短歌を示します。万葉集"巻二"にある次の四首です。
例によって元暦校本から示しましょう。
(A)元暦校本:柿本朝臣人麻呂在石見国(時)臨死時自傷作歌一首
鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有 (223番歌)
通 説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
前書:柿本朝臣人麻呂の、石見国(いはみのくに)に在りて(在りし時)死に臨みし時に、自ら傷(いた)みて作りし歌一首
読み:鴨山(かもやま)の 岩根し巻ける 我をかも
知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ (223番歌)
意味:鴨山の岩を枕に伏している私なのに、それとは知らずに、妻は今も待ち続けていることであろうか。
解説:人麻呂について数少ない情報を含む重要な題詞であるが、解釈はむつかしい。人麻呂が「石見国」にあった理由は明確ではない。(次の)224題詞に「死時」と、「死」という律令用語(喪葬令)で書かれた彼の身分は、官人としては六位以下であったらしいが、閲歴等一切不明。歌の「鴨山」「石川」などの地も、諸説あるが不明。
さて、古田先生が参照された岩波万葉は「新」のない大系本のようで、「意味」のところは「この鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を…」と、きちっと「死のうとしている…」と解釈されています。「新」大系本のように、「岩を枕に伏している…」とはなっていません。(旧)大系本のほうがよいと思います。
しかし「解説」で、「鴨山・石川などの地も、諸説あるが不明」とは、斉藤説や梅原説が反映されていないようです。「新新」大系本の時には、斉藤説や梅原説とともに、これから紹介します古田説も反映してもらいたいものですね。
なお元暦校本では、「石見国」のあとに「時」がありますが、趣旨に変わりはありません。
(B)元暦校本:柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作家二首
旦今日々々々 吾待君者 石水之
貝尓(一云谷尓)交而 有登不言八方 (224番歌)
直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲 (225番歌)
通 説:
前書:柿本朝臣人麻呂の死にし時に、妻の依羅(よさみの)娘子(をとめ)の作りし歌二首
読み:今日今日と 我が待つ君は 石川の 峡(かひ)に
(一に云う「谷に」)交じりて ありといはずやも (224番歌)
:直(ただ)の逢(あ)ひは 逢ひかつましじ 石川に
雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ (225番歌)
意味:今日か今日かと私が待っているあなたは、石川の峡(かひ)に(一に「谷に」という)入っているというではありませんか。 (224番歌)
直接のお逢いはむつかしいでしょう。石川に雲よ立ちわたれ、それを見てあの方を偲びましょう。 (225番歌)
解説:(224番)「依羅娘子」は既出(140:依羅娘子は、224・225の題詞に「柿本朝臣人麻呂の死にし時に妻の依羅娘子の作りし歌二首」とあるが、同一人か否かは確実でない。人麻呂の伝また人麻呂の妻の問題は未解決である)。第二句「今日今日と」の原文「且今日々々々」、この表記は1765・2266にも所見。「今か今か」を「且今且今」(2323・2864)と表記した例もある。「且」は助辞。第四句原文「貝尓(一云、谷尓)交而」とあり、「貝」の解釈に大別二説ある。「貝」のまま解するか、「峡(かひ)」の意に解するか。ここに「貝」の字を用いたのは、「一云、谷尓」の「たに」と区別して「かひ」と訓むべきことを示すためであったろう(『私注』)。「上のカヒを文字に即いて、貝のこととし、水中の貝に、死骸ないし遺骨が混交すると考えるのは妄であろう」(同上)と思われる。「まじりて」は、「野山にまじりて竹を取りつつ」(竹取物語)、「いざ今日は春の山辺にまじりてなむ暮れなばなげの花の影かは」(古今集春下)などの「まじる」。
(225番)初句の訓みは、本居宣長説による(玉の小琴)。「直の逢ひ」の「逢ひ」は名詞。逢うこと。「全註釈」は「ただにあふは」。古典文学全集は「ただにあはば」。「逢いかつましじ」の「ましじ」→94(打消しの推量を示す助動詞「まじ」の古形)。
まず(224番歌)のはじめの文字は、元暦校本では「旦(あした)」であって「且(かつ)」ではないのです。「今日今日と」と読めないのでは…? 次に、(224番歌)での原文は「石水之」であり(225番歌)では「石川尓」ですが、「読み」ではともに「石川の、石川に」としています。字使いが違えば、読みも違うのではないでしょうか。また「依羅」を「よさみ」と読んでいるが、これは「えら」と読むのではないか、「よさみ」は他の例では「依網」と書かれてある…、これは古田説に賛同される方がいわれたことです。わたしもそう思います。この三つの違いを、古田先生はどのように論証されるのでしょう。
(C)元暦校本:丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首
荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告 (226番歌)
通 説:
前書:丹比真人(たじひのまひと。名欠く)の、柿本朝臣人麻呂の意を擬(あてはか)りて(心中を察して)報(こた)へし歌一首
読み:荒波に 寄り来る玉を 枕に置き
我ここにありと 誰か告げけむ (226番歌)
意味:荒波に打ち寄せられて来る玉を枕辺に置いて私がここに伏せっていると、誰が妻に告げ知らせたのであろうか。
解説:第三句「枕に置き」は、「荒波にて海より打ち寄せられたる貝や玉やのある所に伏しての意なるを、歌詞としてかくいへるなり」(『講義』)。「ここ」を「此間」と記した例、既出(29)。題詞の原文「擬」の字、名義抄に「アテハカル」と付訓。作者丹比真人は、巻八(1609)の題詞に「丹比真人歌一首名闕」とあり、巻九(1726)の題詞も「丹比真人歌一首」とあるのみで、やはり名を欠く。この歌は明らかに海辺の歌である。作者は、224(番歌)本文の「貝」を誤解して、海辺の景を詠んだのかも知れない(沢潟『註釈』)。
古田先生のご本では「前書」を、「…意(こころ)に擬(なずら)へて…」とあります。あとは「新・旧」大系本は同じようです。
斉藤・梅原両氏を含む先達の方々は、この四首(実はあと227番歌があるのですが、このブログでは省略します)から「人麻呂終焉の地」探索を始められたようです。通説では「諸説あれども不明」なのですが、斉藤・梅原両氏は探求の末その地を見つけられたのです。
次回は、両氏の見出された地を紹介しましょう。第3回目は、それに対する古田先生の鋭い包丁捌きを見ていただきます。今回はこの辺で…。
古田先生に、前にも紹介しましたが、「人麿の運命」(原書房、1994.3)という著書があります。この中で、p99より始まる「第3章 人麿終焉の地『鴨山』を求めて」が、(不謹慎な言い草をお許しください…)下手な探偵小説を読むよりはるかに面白いのです。
まずはその探求の先達「斉藤茂吉氏」および「梅原猛氏」の到達された結論を、俎上に載せさっさっと三枚におろされ…、いや論破されました。次に返す包丁で刺身をつくり見た目も美しく盛り付ける…、いやご自分の考察の理路を開陳し、そうか!とうなるような結論を導き出されたのです。
先生のご本をお読みの方には蛇足ですから画面を閉じていただいても結構ですが、まだの方にご本を読んでいただく手がかりにでも…と思い投稿します。
まずその論証の対象となる短歌を示します。万葉集"巻二"にある次の四首です。
例によって元暦校本から示しましょう。
(A)元暦校本:柿本朝臣人麻呂在石見国(時)臨死時自傷作歌一首
鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有 (223番歌)
通 説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
前書:柿本朝臣人麻呂の、石見国(いはみのくに)に在りて(在りし時)死に臨みし時に、自ら傷(いた)みて作りし歌一首
読み:鴨山(かもやま)の 岩根し巻ける 我をかも
知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ (223番歌)
意味:鴨山の岩を枕に伏している私なのに、それとは知らずに、妻は今も待ち続けていることであろうか。
解説:人麻呂について数少ない情報を含む重要な題詞であるが、解釈はむつかしい。人麻呂が「石見国」にあった理由は明確ではない。(次の)224題詞に「死時」と、「死」という律令用語(喪葬令)で書かれた彼の身分は、官人としては六位以下であったらしいが、閲歴等一切不明。歌の「鴨山」「石川」などの地も、諸説あるが不明。
さて、古田先生が参照された岩波万葉は「新」のない大系本のようで、「意味」のところは「この鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を…」と、きちっと「死のうとしている…」と解釈されています。「新」大系本のように、「岩を枕に伏している…」とはなっていません。(旧)大系本のほうがよいと思います。
しかし「解説」で、「鴨山・石川などの地も、諸説あるが不明」とは、斉藤説や梅原説が反映されていないようです。「新新」大系本の時には、斉藤説や梅原説とともに、これから紹介します古田説も反映してもらいたいものですね。
なお元暦校本では、「石見国」のあとに「時」がありますが、趣旨に変わりはありません。
(B)元暦校本:柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作家二首
旦今日々々々 吾待君者 石水之
貝尓(一云谷尓)交而 有登不言八方 (224番歌)
直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲 (225番歌)
通 説:
前書:柿本朝臣人麻呂の死にし時に、妻の依羅(よさみの)娘子(をとめ)の作りし歌二首
読み:今日今日と 我が待つ君は 石川の 峡(かひ)に
(一に云う「谷に」)交じりて ありといはずやも (224番歌)
:直(ただ)の逢(あ)ひは 逢ひかつましじ 石川に
雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ (225番歌)
意味:今日か今日かと私が待っているあなたは、石川の峡(かひ)に(一に「谷に」という)入っているというではありませんか。 (224番歌)
直接のお逢いはむつかしいでしょう。石川に雲よ立ちわたれ、それを見てあの方を偲びましょう。 (225番歌)
解説:(224番)「依羅娘子」は既出(140:依羅娘子は、224・225の題詞に「柿本朝臣人麻呂の死にし時に妻の依羅娘子の作りし歌二首」とあるが、同一人か否かは確実でない。人麻呂の伝また人麻呂の妻の問題は未解決である)。第二句「今日今日と」の原文「且今日々々々」、この表記は1765・2266にも所見。「今か今か」を「且今且今」(2323・2864)と表記した例もある。「且」は助辞。第四句原文「貝尓(一云、谷尓)交而」とあり、「貝」の解釈に大別二説ある。「貝」のまま解するか、「峡(かひ)」の意に解するか。ここに「貝」の字を用いたのは、「一云、谷尓」の「たに」と区別して「かひ」と訓むべきことを示すためであったろう(『私注』)。「上のカヒを文字に即いて、貝のこととし、水中の貝に、死骸ないし遺骨が混交すると考えるのは妄であろう」(同上)と思われる。「まじりて」は、「野山にまじりて竹を取りつつ」(竹取物語)、「いざ今日は春の山辺にまじりてなむ暮れなばなげの花の影かは」(古今集春下)などの「まじる」。
(225番)初句の訓みは、本居宣長説による(玉の小琴)。「直の逢ひ」の「逢ひ」は名詞。逢うこと。「全註釈」は「ただにあふは」。古典文学全集は「ただにあはば」。「逢いかつましじ」の「ましじ」→94(打消しの推量を示す助動詞「まじ」の古形)。
まず(224番歌)のはじめの文字は、元暦校本では「旦(あした)」であって「且(かつ)」ではないのです。「今日今日と」と読めないのでは…? 次に、(224番歌)での原文は「石水之」であり(225番歌)では「石川尓」ですが、「読み」ではともに「石川の、石川に」としています。字使いが違えば、読みも違うのではないでしょうか。また「依羅」を「よさみ」と読んでいるが、これは「えら」と読むのではないか、「よさみ」は他の例では「依網」と書かれてある…、これは古田説に賛同される方がいわれたことです。わたしもそう思います。この三つの違いを、古田先生はどのように論証されるのでしょう。
(C)元暦校本:丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首
荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告 (226番歌)
通 説:
前書:丹比真人(たじひのまひと。名欠く)の、柿本朝臣人麻呂の意を擬(あてはか)りて(心中を察して)報(こた)へし歌一首
読み:荒波に 寄り来る玉を 枕に置き
我ここにありと 誰か告げけむ (226番歌)
意味:荒波に打ち寄せられて来る玉を枕辺に置いて私がここに伏せっていると、誰が妻に告げ知らせたのであろうか。
解説:第三句「枕に置き」は、「荒波にて海より打ち寄せられたる貝や玉やのある所に伏しての意なるを、歌詞としてかくいへるなり」(『講義』)。「ここ」を「此間」と記した例、既出(29)。題詞の原文「擬」の字、名義抄に「アテハカル」と付訓。作者丹比真人は、巻八(1609)の題詞に「丹比真人歌一首名闕」とあり、巻九(1726)の題詞も「丹比真人歌一首」とあるのみで、やはり名を欠く。この歌は明らかに海辺の歌である。作者は、224(番歌)本文の「貝」を誤解して、海辺の景を詠んだのかも知れない(沢潟『註釈』)。
古田先生のご本では「前書」を、「…意(こころ)に擬(なずら)へて…」とあります。あとは「新・旧」大系本は同じようです。
斉藤・梅原両氏を含む先達の方々は、この四首(実はあと227番歌があるのですが、このブログでは省略します)から「人麻呂終焉の地」探索を始められたようです。通説では「諸説あれども不明」なのですが、斉藤・梅原両氏は探求の末その地を見つけられたのです。
次回は、両氏の見出された地を紹介しましょう。第3回目は、それに対する古田先生の鋭い包丁捌きを見ていただきます。今回はこの辺で…。