やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(12)

2007-06-16 14:15:07 | 古代史
<人麻呂、終焉の地(1)>

 古田先生に、前にも紹介しましたが、「人麿の運命」(原書房、1994.3)という著書があります。この中で、p99より始まる「第3章 人麿終焉の地『鴨山』を求めて」が、(不謹慎な言い草をお許しください…)下手な探偵小説を読むよりはるかに面白いのです。
まずはその探求の先達「斉藤茂吉氏」および「梅原猛氏」の到達された結論を、俎上に載せさっさっと三枚におろされ…、いや論破されました。次に返す包丁で刺身をつくり見た目も美しく盛り付ける…、いやご自分の考察の理路を開陳し、そうか!とうなるような結論を導き出されたのです。
先生のご本をお読みの方には蛇足ですから画面を閉じていただいても結構ですが、まだの方にご本を読んでいただく手がかりにでも…と思い投稿します。

 まずその論証の対象となる短歌を示します。万葉集"巻二"にある次の四首です。
例によって元暦校本から示しましょう。

(A)元暦校本:柿本朝臣人麻呂在石見国(時)臨死時自傷作歌一首
     鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有 (223番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  前書:柿本朝臣人麻呂の、石見国(いはみのくに)に在りて(在りし時)死に臨みし時に、自ら傷(いた)みて作りし歌一首
  読み:鴨山(かもやま)の 岩根し巻ける 我をかも
         知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ  (223番歌)
  意味:鴨山の岩を枕に伏している私なのに、それとは知らずに、妻は今も待ち続けていることであろうか。
  解説:人麻呂について数少ない情報を含む重要な題詞であるが、解釈はむつかしい。人麻呂が「石見国」にあった理由は明確ではない。(次の)224題詞に「死時」と、「死」という律令用語(喪葬令)で書かれた彼の身分は、官人としては六位以下であったらしいが、閲歴等一切不明。歌の「鴨山」「石川」などの地も、諸説あるが不明。

 さて、古田先生が参照された岩波万葉は「新」のない大系本のようで、「意味」のところは「この鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を…」と、きちっと「死のうとしている…」と解釈されています。「新」大系本のように、「岩を枕に伏している…」とはなっていません。(旧)大系本のほうがよいと思います。
しかし「解説」で、「鴨山・石川などの地も、諸説あるが不明」とは、斉藤説や梅原説が反映されていないようです。「新新」大系本の時には、斉藤説や梅原説とともに、これから紹介します古田説も反映してもらいたいものですね。
なお元暦校本では、「石見国」のあとに「時」がありますが、趣旨に変わりはありません。

(B)元暦校本:柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作家二首
     旦今日々々々 吾待君者 石水之
         貝尓(一云谷尓)交而 有登不言八方    (224番歌)
     直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲    (225番歌)
通  説:
  前書:柿本朝臣人麻呂の死にし時に、妻の依羅(よさみの)娘子(をとめ)の作りし歌二首
  読み:今日今日と 我が待つ君は 石川の 峡(かひ)に
      (一に云う「谷に」)交じりて ありといはずやも (224番歌)
    :直(ただ)の逢(あ)ひは 逢ひかつましじ 石川に
        雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ      (225番歌)
  意味:今日か今日かと私が待っているあなたは、石川の峡(かひ)に(一に「谷に」という)入っているというではありませんか。 (224番歌)
     直接のお逢いはむつかしいでしょう。石川に雲よ立ちわたれ、それを見てあの方を偲びましょう。   (225番歌)
  解説:(224番)「依羅娘子」は既出(140:依羅娘子は、224・225の題詞に「柿本朝臣人麻呂の死にし時に妻の依羅娘子の作りし歌二首」とあるが、同一人か否かは確実でない。人麻呂の伝また人麻呂の妻の問題は未解決である)。第二句「今日今日と」の原文「且今日々々々」、この表記は1765・2266にも所見。「今か今か」を「且今且今」(2323・2864)と表記した例もある。「且」は助辞。第四句原文「貝尓(一云、谷尓)交而」とあり、「貝」の解釈に大別二説ある。「貝」のまま解するか、「峡(かひ)」の意に解するか。ここに「貝」の字を用いたのは、「一云、谷尓」の「たに」と区別して「かひ」と訓むべきことを示すためであったろう(『私注』)。「上のカヒを文字に即いて、貝のこととし、水中の貝に、死骸ないし遺骨が混交すると考えるのは妄であろう」(同上)と思われる。「まじりて」は、「野山にまじりて竹を取りつつ」(竹取物語)、「いざ今日は春の山辺にまじりてなむ暮れなばなげの花の影かは」(古今集春下)などの「まじる」。
     (225番)初句の訓みは、本居宣長説による(玉の小琴)。「直の逢ひ」の「逢ひ」は名詞。逢うこと。「全註釈」は「ただにあふは」。古典文学全集は「ただにあはば」。「逢いかつましじ」の「ましじ」→94(打消しの推量を示す助動詞「まじ」の古形)。

 まず(224番歌)のはじめの文字は、元暦校本では「旦(あした)」であって「且(かつ)」ではないのです。「今日今日と」と読めないのでは…? 次に、(224番歌)での原文は「石水之」であり(225番歌)では「石川尓」ですが、「読み」ではともに「石川の、石川に」としています。字使いが違えば、読みも違うのではないでしょうか。また「依羅」を「よさみ」と読んでいるが、これは「えら」と読むのではないか、「よさみ」は他の例では「依網」と書かれてある…、これは古田説に賛同される方がいわれたことです。わたしもそう思います。この三つの違いを、古田先生はどのように論証されるのでしょう。

(C)元暦校本:丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首
     荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告   (226番歌)
通  説:
  前書:丹比真人(たじひのまひと。名欠く)の、柿本朝臣人麻呂の意を擬(あてはか)りて(心中を察して)報(こた)へし歌一首
  読み:荒波に 寄り来る玉を 枕に置き
        我ここにありと 誰か告げけむ        (226番歌)
  意味:荒波に打ち寄せられて来る玉を枕辺に置いて私がここに伏せっていると、誰が妻に告げ知らせたのであろうか。
  解説:第三句「枕に置き」は、「荒波にて海より打ち寄せられたる貝や玉やのある所に伏しての意なるを、歌詞としてかくいへるなり」(『講義』)。「ここ」を「此間」と記した例、既出(29)。題詞の原文「擬」の字、名義抄に「アテハカル」と付訓。作者丹比真人は、巻八(1609)の題詞に「丹比真人歌一首名闕」とあり、巻九(1726)の題詞も「丹比真人歌一首」とあるのみで、やはり名を欠く。この歌は明らかに海辺の歌である。作者は、224(番歌)本文の「貝」を誤解して、海辺の景を詠んだのかも知れない(沢潟『註釈』)。

 古田先生のご本では「前書」を、「…意(こころ)に擬(なずら)へて…」とあります。あとは「新・旧」大系本は同じようです。

 斉藤・梅原両氏を含む先達の方々は、この四首(実はあと227番歌があるのですが、このブログでは省略します)から「人麻呂終焉の地」探索を始められたようです。通説では「諸説あれども不明」なのですが、斉藤・梅原両氏は探求の末その地を見つけられたのです。
次回は、両氏の見出された地を紹介しましょう。第3回目は、それに対する古田先生の鋭い包丁捌きを見ていただきます。今回はこの辺で…。

番外編(11)

2007-06-12 16:30:26 | 古代史
 先の「九州王朝衰退への道(6)」で、通説では「壬申の乱」に活躍した「高市皇子(たけちのみこ)」への挽歌…と理解されている"万葉199番歌"を紹介しましたね。確かにその表題には「高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首…」とあります。
しかし古田先生の「歌そのものが第一史料、表題や後書きは第二史料」という命題に従った結果、この"万葉199番歌"は「筑紫と唐・新羅連合軍との"冬の陸戦"を詠んだ歌」ということがわかりました。

 さて今回は、これもまた235番歌や241番歌に勝るとも劣らぬ阿諛追従の歌…と思われる長歌と反歌を紹介しましょう。紹介する順序は、これまでに倣います。
元暦校本:(表題)長皇子遊獦路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首並短歌
   (長歌)八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而
        三獦立流 弱薦乎 獦路乃小野尓 十六社者
        伊波比拝目 鶉己曾 伊波比廻礼 四時自物
        伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等
        仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見
        春草乃 益目頬四寸 吾於富吉美可聞    (万葉239番歌)
   (短歌)久堅乃 天帰月乎 網尓刺 
          吾大王者 盖尓為有          (万葉240番歌)

通説:(表題)長皇子(ながのみこ)の猟路(かりじ)の池に遊びし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌一首並びに短歌
   (長歌)やすみしし わが大君 高光る わが日の皇子の 馬並めて み狩立たせる 若薦(こも)を 猟路の小野に 猪鹿(しし)こそは い這ひ拝(をろが)め 鶉(うずら)こそ い這ひもとほれ 猪鹿じもの い這ひ拝み 鶉なす い這ひもとほり 恐(かしこ)みと 仕へまつりて ひさかたの 天(あめ)見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わが大君かも 
   (意味)(やすみしし)わが大君の、(高光る)わが日の皇子長皇子が、馬を並べて狩に出ておられる、(若薦を)猟路の小野に、鹿や猪は膝を折って、這い拝みもしよう、鶉は這い回りもしよう、その鹿・猪のように、膝を折って拝み、その鶉のように、這い回り謹み畏(かしこ)まってお仕え申し、(ひさかたの)天空を見るように、(まそ鏡)仰ぎ見ているが、(春草の)ますますもってお慕わしい、わが大君よ。
   (解説)歌は、若々しい皇子を賛美する終りの三句に収斂して行く。この時の猟が春の季節の行われたこと、枕詞「春草の」の使用を通じて知りえる。(中略)「しし(猪鹿)」の原文「十六」は九九による表記。(後略)

   (短歌)ひさかたの 天行く月を 網に刺し
           わが大君は 蓋(きぬがさ)にせり
   (意味)(ひさかたの)天空を行く月を網に捕えて、わが大君は蓋(きぬがさ)にしている。
   (解説)月下の宴、狩猟という場に合わせて、「網に刺し」の一句を用いたところが作者の技倆である(佐竹『万葉集抜書』)。「蓋」は貴人の頭上に差し掛ける長柄の大傘。その円形を月に見たて、皇子の威光を称えた。第三句「わが大君は」に「大君は神にしいませば」(235など)の意味が込められている。斉藤茂吉は、この歌の大意を「皇子は神にましますから、かの運行し沈んでいく月をも、網を張って運行できないようにして、やがてそれをそのまま、御自らの円蓋にしたまふのである。というくらいの歌である」と、「大君は神にしませば」の意を補足して説明している(「柿本人麿」評釈篇)。

 どうでしょうか。
古田先生による大意としては、まず長歌「わが大王にして高光る日の皇子であられる貴方さま…長皇子は、馬を並べて狩に立たれた。狩の路に当たる小野の猪や鹿それに鶉たちは、あるいは"這いつくばり"あるいは"這い回って"、拝伏しつつ(狩をする貴方さまに)仕え奉った。天を見るように澄み切った鏡で仰ぎ見ると、春草のようにいかにも目立っていらっしゃるわが大王であられることよ」…と。
次に短歌「天を行くあの月を、地上の網で採って、わが大王は自分の「きぬがさ」にしていらっしゃることよ」。

 そしてこういわれます。「後に掲載するように、各専門家の注釈も大異はない。しかし右を読んで、理性ある人はいかに感ずるか。一言でいえば、「馬鹿馬鹿しい」としか言いようがないのではあるまいか。こんなに肝心の獲物まで"這いつくばり、這い回っている"としたら、そんなだらしのない「追従動物」を獲ってみたって面白くもなんともない。動物園に飼われている動物でさえ、これほど「活力」を抜かれているのをわたしは見たことがない。まして、山野を飛び奔る動物だ。「追従きわまれり」というほかはない。もしこれが本当に人麿の作歌としたら、彼はやはり「天下に稀なる、一大阿諛歌人」、すなはち俗物代表というほかはない。しかし、本当にそうか。」…と。

 そして問題点の抽出と、その回答を次のようにされました。
1)短歌で「天行く、天を行く」と読んだ所の原文は、「天帰」だ。「往」であれば「行く」だが、逆の意味を持つ「帰」を「行く」と訓む…とはならないはずだ。これは万葉集にもある「帰依(きえ)や帰化(きげ)」の「き」と訓むのではないか。「天帰」は「あまぎ」、つまり朝倉郡の「甘木」だ。なぜ素直に「甘木」とせず「天帰」としたのだろう…。この歌に詠われた「わが大王」といわれる本来の主人公は、狩の途中不慮の死を遂げたのだ。その「死」を「天に帰る」と表現し、かつ主人公の領地を示そうとしたのだ。これは「挽歌」である。
2)いま死者はひつぎに入り、捕った獲物を後ろに引きずっている葬送の列なのだ。その姿を人麿は「い這い拝(をろが)み、い這い廻(もとほ)れ」と表現し、「貴方さまに仕え奉っているようだ」と「言ってあげて」慰めたのだ。
3)短歌の「甘木の月」の「月」は、この主人公の家柄を示す「紋章」だ。その紋章のある旗が、ひつぎの上にかけられている。この「月の描かれた旗」を、人麿は「きぬがさ」に見立てたのだ。ひつぎの中の無残な主人公に、「貴方はきぬがさを差していらっしゃるようだ」と例えてあげたのだ。決して追従ではない。狩には、きぬがさなどは持って行かない。
4)あの「冬の陸戦」を詠った「万葉199番歌」、そこで「神山」と歌われた朝倉郡の「麻氐良布(まてらふ)山」、そこの「麻氐良布神社」には「明日香皇子」(太宰管内志)とともに「月夜見尊」も祀られているそうだ。この地の「月の紋章」は、この古信仰と関連があるかもしれない。近隣には「秋月」もある。
5)長歌に最初にある「猪鹿(しし)こそは」の原文は、「十六社者」である。「16=4×4」で「十六を"しし"」と読む。「社」は「こそ」だ。でも次の「猪鹿じもの」の原文は「四時自物」だ。どうして最初は「十六社」を使ったのだろう。それは糸島郡雷山村(雷山自体も)や筑紫郡岩戸村などにある「十六天神社」と関係があるのではないか。(祭神は「埴安命」だそうだ)。人麿はこれを知っていて、「十六社」という判じ字を使ったのだろう。
6)ではなぜか。この雷山周辺は、「筑紫王家の墓域」だったのではないか。この主人公のひつぎは、雷山を目指しているのだ。人麿は「猪鹿こそは」に「十六社者」を使うことによって、そのことを暗示・示唆したのだ。
7)先に紹介した「万葉235番歌および241番歌」は、いずれも作歌場所を「雷山」としたとき、阿諛追従の歌と思われていたのが生き生きとした秀歌であることがわかった。この「万葉239番歌および240番歌」は、上記「241番歌」の直前にあるのだ。歌そのものに立ち返ってみると、必然的にこの「239、340番歌」も作歌場所は「雷山」とならざるを得なかったのだ。しかも「241番歌」の表題は「或る本の反歌一首」であり、「239番歌」の反歌でもあったのだから…。げに恐ろしきは、「表題や後書きに従い歌を理解すること…」である。

 人麿の九州王朝の王者たちに対する挽歌("庵らせる"歌、"海鳴り"の歌など)は、秀歌であったが故に、平城京の貴人たちに愛されたのでしょう。しかしそのままでは、「九州王朝の隠滅」という一大プロジェクトは破綻します。それで万葉集編纂時に、その状況にふさわしい(と思われる)人物へと「偽構」し「変修」して、採用・盗用したのです。
「歌そのものが第一史料、表題・後書きは第二史料…」、肝に銘じましょう。

番外編(10)

2007-06-11 09:52:46 | 古代史
 さて番外編(6)で紹介しました「万葉3番歌および4番歌」は、大和の大王(舒明)のお仕えする太宰府の天子「中皇命」とその皇后の仲のいいお姿を詠い、そして大王と内野の大野で狩をされる姿を詠んだものでした。「朝(庭)」を「みかど(には)」の意味とし「夕(庭)」を「きさき(には)」(つまり後宮。邪馬壹国のヒミカは千人の婢にかしづかれ、また多利思北孤の妻「君」は六、七百人の女にかしづかれていた…以来の筑紫伝統の女の館)とする用法は、九州王朝独自の用法のようです。
また番外編(7)で紹介しました「万葉10,11,12および12'番歌」は、同じ中皇命とその后が瀬戸内を通り、(吉備)児島や野島(明石海峡)を見学しながら紀の湯(白浜温泉)を楽しみ、目的地の(伊勢)英虞湾の真珠を取りに行かれる一大遊覧の船旅を詠ったものでした。
これが通説どおり「中皇命は間人皇女か」との立場では、全く支離滅裂の理解しか得られない…ということもわかりました。

 さて、特に番外編(7)の「遊覧の船旅」を裏づけする(と思われる)、貴重な「原注」が万葉集に残されていました。これは「万葉44番歌」の左注の形を取っていますが、短歌となんら関係はなく、恐らく本来は「万葉12'番歌」の後に位置すべき左注だったとしか考えられません。
今回は、古田先生の解説になるこの左中を紹介しましょう。

元暦校本:右日本紀曰、朱鳥六年壬申春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位上於朝重諌曰、「農作之前車駕可以動」。辛未天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午御阿胡行宮。

通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
     右は日本紀に曰く、「朱鳥(あかみとり)六年壬申(じんしん)の春三月丙寅(へいいん)の朔(ついたち)の戊辰(ぼしん)、浄広肆(じょうこうし)広瀬王等を以って留守官(りゅうしゅのかん・るすのつかさ)と為す。ここに於いて、中納言三輪朝臣高市麻呂、その冠位(かんい・かがふり)を脱ぎて朝(みかど)に(ささ)げ上げて、重ねて諌(いさ)めて曰く、『農作(のうさく・なりはひ)の前(まへ・さき)に、車駕(しゃが・きみ)未だ以って動かすべからず』といふ。辛未(しんび)、天皇諌めに従わず、遂に伊勢に幸したまひき。五月乙丑(いつちう)の朔の庚午(かうご)、阿胡(あご)の行宮(かりみや)に御(ぎょ・いでま)したまひき」といふ。
    (注:振り仮名が二つの場合、前が岩波万葉集、後が古田先生)
現代語訳:右は日本書紀に「朱鳥(持統天皇)六年三月三日、浄広肆の広瀬王らを行幸の留守を預かる官人に任命した。中納言三輪朝臣高市麻呂は、冠位を抛って天皇に捧げ、重ねて『農繁期の前に行幸なさるべきではありません』とお諌め申し上げた。六日、天皇は諌めに従わず伊勢国へ行幸なさった。五月六日、阿胡の行宮に行かれた」とある。
解  説:左注に引用の日本書紀には「朱鳥六年壬申春三月」とある(注:日本書紀の同様の文は、のちほど紹介します)。現存日本書紀の持統天皇六年(692年)に当たる。「浄広肆」は天武天皇十四年から大宝令まで続いた諸王以上に与えられた位階制で、十二位の最下位。「中納言」は太政官の次官。従三位相当。三輪朝臣高市麻呂が忠臣であったことは、懐風藻の藤原麻呂の詩、日本霊異記・上二十五にも称えられている。「冠位を脱ぎて」は、臣下が職を賭して天子を諌める態度。漢の薛広徳は、天子が楼船に乗ろうとするのを「乗輿に当たりて冠を免ぎて頓首して」橋を渡るようにと諌めた(漢書・薛広徳伝、初学記・諷諌)。「冠位」、普通は「位冠」という。「重ねて諌めた」ことは、日本書紀持統天皇六年二月十九日に「是の日に、中納言直大弐三輪朝臣高市麻呂、表を上(たてまつ)りて敢直(ただに)言(まう)して、天皇の伊勢に幸さむとして、農事を妨げたまふことを諌(あは)め争(いさ)めまつる」とあるのを受ける。「農作之前」は書紀に「農作之節」とある。農作の折の行幸が望ましくないことは、天子の狩猟に関して「皆農隙に於いて以って事を講ずるなり」(春秋左氏伝・隠公五年)とあるのに通ずる。「車駕」は天子の乗輿。書紀によれば、三月の行幸は二十日に帰京。…

 この「解説」によれば、原文「日本紀」をあくまで「日本書紀」とみなした上で、鸕野姫(うの。天武の妃。持統と諡)の伊勢行幸…と理解しているようです。
しかし古田先生は、次のようにいわれます。
1)この「日本紀」は、私たちの知っている「日本書紀」ではない。その成立の前の、日本書紀の「初稿本」とも呼ぶべきものだ。なぜなら、現行書紀には「朱鳥」という年号は「一年」しかない。「朱鳥元年」は、天武十五年(丙戌。686年)だ。だから書紀には「朱鳥六年」などは無いのだが、上記解説ではそれをうまく説明できないで「持統六年」などと言い換えている。しかしわれわれは、「九州年号」に「686年(丙戌)より九年間続く朱鳥」年号があるのを知っている。初稿本「日本紀」には「朱鳥六年壬申(692年)」とあり、従って元年は「丁亥、687年」となる。一年のずれがあり、明らかに現行書紀とは「別本」なのだ。この初稿本「日本紀」は、現行書紀より後にできた…とは考えられない。後であれば、後でできた方が残るはずだからだ。また初稿本「日本紀」では、年代を九州年号で表そうとした気配がある(引用は一年ずれているが…)。だから捨てられた…!! しかし「万葉集」には、初稿本「日本紀」を引用した箇所が残った…。
2)大和の飛鳥を出発点とした場合、伊勢の阿胡の行宮(英虞の海)に着くまで「3月6日~5月6日」と二ヶ月もかかるのは解せない。ゆっくり行っても、十日もあれば十分だろう。いや同じ持統紀六年三月条には、「6日に発った一行は20日には帰京した」ように書いてある。往復14日…。だから「日本書紀」は、この「日本紀」の伊勢行幸は、「書紀における三月の行幸とは別」…としたいのだ。
3)忠臣三輪朝臣高市麻呂が「官位を捨て」てまで諌言しているが、「大和―伊勢」間の行幸には少し大げさすぎないか。鸕野姫には、有名な三十一回にも及ぶ「吉野行幸」がある。一月―三回、二月―三回、三月―二回そして四月―四回と行っているが、格別「農作の前に、車駕未だ以って動くべからず」と反対あるいは諌言されてはいない。また秋の収穫期の七月―三回、八月―四回についても同じことだ。なぜ、たった14日の留守に「諌言」するのだ?

 これらの疑問や矛盾は、行幸の主人を「九州王朝の天子(中皇命)とその后(きさき)」とすればどうなるか…。先生は言われます。
1)「二ヶ月間」の船旅は、「那の津(博多港)から伊勢の英虞の海まで」とすれば、決して長すぎはしない。ことにその間、小島(吉備の児島)に立ち寄り吉備の太宰に会い、野島(明石海峡)の風景を后とともに鑑賞し、紀の湯(白浜温泉)で遊幸を楽しみ、さらにその先の阿胡根(英虞の海)を目指す大航海旅行であるから、きわめてふさわしい旅行日程であろう。
2)この旅行の時間帯は、決して持統(在位686-697年)の時代ではありえない。あの「白村江の戦い(旧唐書年で662年)」の前…だ。敗戦の後で、このようなのんびりとした航海など出来るはずはないからだ。
3)この航海の目的は、ただの観光旅行ではない。「わが欲りし小島は見しを…」とあるように、吉備の太宰に会うことが目的であった…と示唆している。せっかくの忠臣の諌言を振り切って航海に出た…、それは唐との避けられぬ戦の前に吉備の太宰に援助を依頼するという、政治的あるいは軍事的なものであった可能性は大きい。とともに、嵐の前の静けさ…を利用して后を慰安した…。

 確かに主人公を「筑紫の天子とその后」とすれば、万葉10、11、12および12'番歌との整合が取れ、歌そのものも生き生きとしてきましたね。
では現行「日本書紀」では、この初稿本「日本紀」の記事をどのように引用および改変しているのでしょうか。
<三月の丙寅の朔戊辰(三日)に、浄広肆広瀬王・直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張らを以って、留守官とす。ここに、中納言大三輪朝臣高市麻呂、その冠位を脱ぎて、朝(みかど)に上(ささ)げて、重ねて諌めて曰(まう)さく、「農作の節、車駕(きみ)、未だ以って動(い)きたまふべからず」とまうす。辛未(六日)に、天皇、諌(あはめ)に従いたまはず、遂に伊勢に幸(いでま)す。…(四行ほど後に)乙酉(二十日)に、車駕(すめらみこと)、宮(飛鳥の浄御原宮)に還りたまふ。>(持統紀六年条、692年)

 先の初稿本「日本紀」と比較すると、相当に出入りがあるそうです。
1)「持統紀」には、「阿胡の行宮」到着記事が「カット」されている。「日本紀」の「二ヶ月」という(飛鳥からであれば)"かかり過ぎ"が指摘され、削除したものだろう。これで"3月6日に出発した"だけになるから、一応矛盾は回避されたのだ。そして初稿本「日本紀」を準用したにもかかわらず、積極的に"3月20日帰京"を挿入したのだろう。「万葉集」に初稿本「日本紀」が残っていなかったら、すべての人の目を欺けたのに…。
2)「日本紀」では留守官は広瀬王が代表者であったのが、持統紀では三人が明記してある。けれど「日程」が減って(持統紀によれば、往復14日)、留守官が増えている。大げさすぎるようにも感じるが、「間違いなく、持統天皇の行幸だ」と太鼓判を押すためプラスされたのであろう。
3)初稿本「日本紀」は、九州王朝の史料(歴史書や起居注など)が引用され本文化されているようだ。しかし初稿本「日本紀」においても「朱鳥六年」と時代を大幅に下げる改変をし、それを利用した現行「日本書紀」は「持統紀六年条」に挿入した。もし初稿本「日本紀」が九州王朝の史書を利用したとすれば、本来の史料には「白雉六年(657年)」とあったのかもしれない。「白雉元年」は「壬子(652年)」であり、これも九年続いている。「白雉六年(657年)」といえば、白村江の戦(662、または663年)の五、六年前である。まだ后と阿胡の海に行く余裕はあった??

 さて、持統紀六年条の五月の記事に、面白いものがあるようです。
<五月の乙丑の朔庚午(六日)に、阿胡行宮に御(おはしま)しし時に、贄(おほにえ)進(たてまつ)りし者紀伊国の牟婁郡の人阿古志海部(あこしのあまの)河瀬麻呂ら、兄弟三戸に、十年の調役(えつき)・雑(くさぐさの)徭(みゆき)服(ゆる)す。復(また)、挟杪(かじとり)八人に、今年の調役を免(ゆる)す。>(持統紀六年条)

1)先にカットされた「阿胡行宮、行幸」が、ここでは換骨奪胎されて利用されている。しかし初稿本「日本紀」では「五月六日到着」であったものが、ここでは「五月六日の賞美」に切り変えられている。つまりいったん「3月20日に帰京」して後、改めて「五月に賞美」とされている。
2)そのため、新たな矛盾が露呈した。飛鳥から伊勢への行幸があったとすれば、当然それは"陸路"だ(船を使った形跡が無い)。しかし「賞美」の対象者は、河瀬麻呂や挟杪八人も紀伊国牟婁郡の人々だ。陸路での行幸と何の関わりがある?
3)もしこれが「中皇命とその后」の「筑紫―伊勢阿胡根」への船旅とすれば、往路では黒潮に乗って伊勢まで行けたものが、復路はその黒潮に逆らうことになる。しかし黒潮に慣れた紀伊の人々であれば、そこは培った技と土地鑑(海路鑑)で中皇命らを還せたであろう。だから漁師集団の長(阿古志の海部)である河瀬麻呂らや挟杪八人を「賞美」するのは、まことに理に適っている…と古田先生はいわれる。恐らく筑紫の原史料には、阿胡根よりの帰りのこととして、(歴史小説にならないようにすべきだが)例えば六月ころの記事として書かれてあったのではなかろうか。それを書紀は、記事を改変して持統紀に挿入した…。

 日本の古代史料(記紀や万葉集など)を紐解く場合には、先行した「九州王朝の存在」を前提にしなければ理解できない…。このように、古田先生はおっしゃっています。本当にそうですね。

番外編(9)

2007-06-06 15:59:30 | 古代史
 さて前回の「すめろきは 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも」よりもいっそうひどい阿諛追従の柿本人麻呂の歌がある…とのことです。さっそく、それを見てみましょう。

元暦校本:或本反歌一首
     皇者 神尓之坐者 真木乃立
       荒山中尓 海成可聞         (万葉241番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  表題:ある本の反歌一首
  短歌:大君は 神にしいませば 真木の立つ
       荒山中に 海をなすかも       (万葉241番歌)
  意味:わが大君は神でいらっしゃるので、大きな木の立ち茂る人けもない山の中にも、海をお作りになることよ。
  解説:235番歌と同じく「大君」讃歌。「真木」は木の美称。そそり立つ大木の印象。「海」は広大な水面。ここでは猟路の池を指す。香具山の麓の池を「海原」(2番歌)、富士山のそばの湖を「石花の海」(319番歌)と言った例がある。

 どうです、大君は神だから天雲の雷の上に行宮をお作りになったり、山の中に海をお作りになる…と。あるいはチンケな池を、これは大君のお作りになった海です…と。すざまじいおべっか…ですよね、普通の感覚では…。
これは長皇子(ながのみこ)といわれる人のために作ったといわれる長歌(239番歌)の反歌ですから、天皇でもない人にも「大君」とおべっかを使った…態の歌となっています。あの人麻呂が…?

 しかしこの歌の解明に一条の光を投げ込まれたのは、古田説に共鳴される会所属の福永氏ご夫妻だったそうです。
「原文の『海成』は、"海鳴り"ではないでしょうか』…と。
古田先生は子供のころ、おじいさんから「海鳴りがしたら、津波が来る」と繰り返し聞かされておられたそうです。非常に恐ろしい、印象深い言葉だ…と。
「海鳴り」とは講談社「日本語大辞典」によれば、「遠雷に似て、海から聞こえる断続した響き。砕ける波に巻き込まれた空気が、隙間から逃げるときに発する。台風や低気圧の接近を告げるもの」ということです。

 先生が各地の気象台などに尋ねられたら、次がわかった…と。
1)海鳴りの原因は、波が海岸で空気を巻き込み、これが沖合いで音響を発する因となっている。
2)その音響が天空の厚い雲の層に衝突して反響し、その高度や角度によって、かなり遠方の内陸部にまで達することがある。
3)福岡県の雷山は、三方(唐津湾、玄界灘、博多湾)に囲まれているため、この種の音響(海鳴り)は十分に到達しえる。
4)雷山には、玄界灘からすさまじい風音を"運ぶ"と信じられた「風穴」説話がある。…
その結果先生は、先の235番歌と同じ先頭句「すめろぎは神にしませば…」より考えて、この歌の作歌場所は筑紫の「雷山」であると確信を得た…といわれます。

 ではどのような意味になるのでしょうか。
「代々の王者(すめろぎ)らは、いまはすでに死者となられ神として祀られていますから、この真木(樹木の美称)のそそり立つ荒山の中に『海鳴り』として、その死者の声をとどろかせておられます。そしてその声は、確かにわたし(人麻呂)の耳へと伝わっています。」
現代人には単なる物理現象でしかない『海鳴り』の音も、人麻呂には「死者が、生あるわれわれに予告する声」として聞こえたのだ…と。ではその予告…とは?
それは「王朝滅亡の予告」だったのだ…と。
ニニギの命以来続いてきた九州王朝も、いま異郷の白村江の地で戦い滅亡寸前にある…。いまもおびただしい将兵が、血を長し倒れていっている…。王朝は滅亡する…、代々の王者であった死者の声でのその予告だ…と。

 どうでしょうか。作歌場所を大和内としてきた従来の解釈、薄っぺらなおべっかの歌と解釈してきた通説…。
いったん筑紫の雷山に作歌場所を移せば、「全万葉集中、これほど深い歌、人間の底の魂の歌をわたしは知らない。おそらく、全人類の産み出した詩歌の中にも、類い稀なのではあるまいか。」といわれます。
やはり柿本朝臣人麻呂は、疑いなき「歌聖」ですね。

番外編(8)

2007-06-05 15:43:49 | 古代史
 柿本人麻呂といえば、万葉集の歌人の中でも最高の歌人ですね。通説に従えば、その人麻呂にして歯の浮くような阿諛追従(相手に気に入られようと媚びへつらうこと、おべっかを使うこと)の歌を…と、辟易するような歌があるそうです。かの人麻呂にして…、本当にそうでしょうか。
通例に従い、まずは元暦校本を示し、次に通説を岩波「万葉集」に見てみます。最後に古田先生の解説です。

元暦校本:天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
     皇者 神二四座者 天雲之
       雷上尓 廬為流鴨            (万葉235番歌)
      右或本云献忍壁皇子也 其歌曰
      王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座    (235'番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  表題:天皇の雷岳(いかづちのをか)に御遊(あそ)びたまひし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌一首
  短歌:大君は 神にしいませば 天雲(あまくも)の
       雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも  (235番歌)
      右は或本に曰く、「忍壁皇子に献りしものなり」といふ。其の歌に曰く、「大君は 神にしいませば 雲隠る 雷山(いかづちやま)に 宮敷きいます」といふ。     (235'番歌)
  意味:わが大君は神でいらせられるので、天雲の雷の上に仮の庵を作って宮としている。
      右は或本に「忍壁皇子に献じた歌」だという。その歌は、「わが大君は神でいらせられるので、雲隠る雷山に宮を作っておられます」
  解説:天皇は天武・持統・文武の説があるが、いまは持統の説に従う。山名の「雷」を実際の「雷」にとりなした天皇讃歌である。「大君は神にしいませば」の句は、万葉集にほかに四例(205、241、4260、4261)。…「雲隠る」は「雷」の修飾語。その雷山に行宮(かりみや)をたてて占めて居られる、の意。

 古田先生は、歌の中身それ自身が第一史料・直接史料であり、表題や後書きは第二資料でしかなく、編集者がそれを付け加えた背景を知る程度の役目しかない…といわれます。では上記235番歌・235'番歌はどうでしょうか。どこに追従の歌…と見られるものがあるのでしょうか。
1)表題にある「雷岳」は、奈良県明日香村にある「雷丘(いかづちのおか)」を指すそうだ。しかも高さは10メートルほどの、本当に小さい「丘」だ。それを仰々しくも「雷岳」とは…。「岳」のつく山であれば、2,3000メートル級の山のはずだが…?まず第一の追従…!
2)次に、その丘に登って「遊ばれる・休まれる」姿を「廬らせるかも」と表現するのも、なんとも大げさだ…と。それにも増して冒頭の「大君の神にしませば」という言い方、この歌を奉られた天皇はお尻がむずむずするのではなかろうか…と。「こんな小丘で小休止を楽しんでいる自分に対して、『貴方さまは生き神さまであらせられますから…』とは。おい、おべんちゃらも対外にしてくれ」と。
3)「天雲の雷の上に」というのも、たかだか10メートルの「丘」の形容としてはなんともはや…。いずれもおべんちゃら、大仰…。
4)この歌を肯定的に捉えたのは、江戸時代の賀茂真淵(1697~1769年)だったそうだ。「天皇は顕(うつ)しかみにます故に、雲の中の雷の上にみやゐさせますとなり。岳の名によりてただに天皇のはかりがたき御いきほひを申せりける。さまはただ此人のはじめてするわざなり。(新採百首解)」…と。この姿勢を受け継いだのが、山田孝雄(1875~1958年)や斉藤茂吉(1882~1953年)だそうだ。賀茂真淵らの説をベースに、大日本帝国憲法(明治二十二年(1889年)に公布)が伊藤博文などにより作られた。「第三条 天皇は神聖にして侵すへからす」とあり、その証拠としてこの一首が挙げられてあるそうだ。

 さて柿本人麻呂は、本当におべんちゃらの歌を作ったのでしょうか。明日香村の実際の雷丘の情景と全く合わないこの歌は、他で作られたのではないでしょうか。「歌を第一史料とする…」古田流で論証すれば…。
1)従来の万葉読解では、「王」も「大王」も「皇」もすべて「おほきみ」と読んできた。しかしやはり漢字表記を尊重し、訓み分けすべきだ。つまり順に「きみ」「おほきみ」「すめろぎ」…だ。本歌では「皇」であるから「すめろぎ」であり、"代々の王者"や"皇統の中の各王者"を意味する。付歌の「王」は「きみ」であり、同じ意味となろう(位取りは下)。
2)次は「神」の概念だ。一般には、亡くなった人が祀られて「神」となる…。あなたの係累のように…。「現人神(あらひとがみ)」とは、この歌の解釈の上に立った(賀茂真淵以来の)新しい概念なのである。こう考えれば、この「皇(すめろぎ)」や「王(きみ)」とは「死せる王者」であり、それ故いまは「神」として祀られている…ことがわかる。
3)次に「雷岳」だ。表題の表記が(結果的に)正しかった。なぜならそれは、福岡県と佐賀県の境をなす、背振山地にそびえる前原市の「雷山」だからだ。標高955メートル、「岳」と称するにふさわしく、玄界灘の風を受け頂上はほとんど雲に覆われている…という。
4)当山には「雷社」があり、往時は上・中・下宮があったそうだ。その中宮に位置する所に、二世紀にインドから仏教が伝えられたという伝承を持つ「千如寺」もある。その上宮は「天の宮」と、中宮は「雲の宮」と呼ばれていたという。連日「天雲」に覆われている姿にふさわしい。この上宮には三社が配祀されていて、中央が「ニニギの命」で左右は「天神七柱」と「地神五柱」だそうだ。またこの雷山の頂上には三列石があり、旧石器・縄文以来の信仰の山だったことがわかる。

 では人麻呂が歌を詠んだ場所をこの「雷山」だとすると、この歌はどのような意味を持ってくるのでしょうか。
1)まず短歌は…、
     すめろぎは 神にしいませば 天雲の
       雷の上に 廬(いほ)らせるかも       (235番歌)
     王(きみ)は 神にしいませば 雲隠る
       雷山に 宮敷きいます            (235'番歌)
2)さて「すめろぎは 神にしいませば」また「きみは 神にしいませば」とは、「(九州王朝代々の)王者は(かつては生ある王者であったが)、いまでは死者となって「神」になっていらっしゃるので」という意味になる。「天雲の 雷の上に 廬らせるかも」また「雲隠る 雷山に 宮敷きいます」とは、「連日天雲に覆われる雷山の、上宮や中宮に祀られていらっしゃる」となる。
3)重要なこと…、それはこの歌が詠われた時期だ。「王者が死者となり神となって祀られる」状態は…、そうだ、「白村江の戦いの後」だ。そのとき戦って死んだ九州王朝の王者に対する鎮魂歌、挽歌だったのだ。
4)そしてもう一つ、面には出ていないがこの歌で本当に詠みたかったこと…、それは「すめろぎは亡くなって廬らせて・宮敷いて(神社に祀られて)いらっしゃいます。しかし残された民の生活は・民の廬は荒れ果てています」ということだった…と。人麻呂のすごいところは、「歌の表面に現れていない、背後に真の主題が隠されている…」という作歌法がある・駆使できる…というにある…と。

 だからこの歌は、「天皇を現人神とあがめるのは、雲の上に宮を作って廬とされているから…」などというおべんちゃらの歌では決してない。九州王朝の王者に対し、「貴方は亡くなられて、雲の上にある宮に祀られています。しかし残された民の廬は荒れ果てていますよ。どうして無謀な戦をされたのですか…」という悲痛の叫びの歌なのです。
そして付歌(235'番歌)は、人麻呂が筑紫の雷山で九州王朝の王者の死に際して作った歌を、大和に仕えるようになった後、忍壁皇子の死のとき献上したもの…ということです。決して「忍壁皇子のために作った歌」ではないのです。

 いかがでしたか。作歌場所を筑紫の雷山とすれば、奥深い味わいのある歌となり、「さすが人麻呂」というほどの秀歌であることは確かですね。
歌は歌そのもので鑑賞するもの…。決して表題(前書き)や後書きに惑わされてはだめなのです。では、次回もお楽しみに…。

番外編(7)

2007-05-28 15:52:36 | 古代史
 万葉集にある、通説では間人皇女(はしひとのひめみこ。舒明と皇極の娘、孝徳の妃)あるいは斉明天皇(舒明の死後は皇極、孝徳の死後の重祚)に擬せられています「中皇命(なかつすめらみこと)」の作である短歌を紹介しましょう。一般には大和から大阪湾経由で、「紀の湯」に行かれた時の歌だそうです。

元暦校本:中皇命往于紀温泉之時御歌
   君之歯母 吾代毛所知哉 盤代乃 岡之草根乎 去来結手名  (10番歌)
   吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核     (11番歌)
   吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾   (12番歌)
     或頭云  吾欲 子嶋羽見遠             (12'番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  表題:中皇命の、紀の温泉に往きたまひし時の御歌
 短歌(10番歌):君が代も わが代も知るや 岩代の
           岡の草根を いざ結びてな
    (意味):君の御命もわたしの命も司る岩代の岡の草を、さあ結んで祈りましょう。
     ・この「君」とは、中皇命が間人皇女であれば、夫の天皇たる孝徳になる。斉明であれば不明。誰か恋人でもいたか。
     ・「岩代」の地は、和歌山県日高郡南部町岩代…とする。熊野街道の要衝の地で、旅の平安を祈る場所であった…と。
     ・「歯」は、春秋左氏伝に「歯、年也」とある…と。
   (11番歌):わが背子は 仮廬(かりいほ)作らす 草(かや)なくは
           小松が下の 草を刈らさね
    (意味):わが背子は、仮小屋をお作りになるカヤ(萱)がなかったら、松の木下の草をお刈りなさいな。
     ・「背子」は、「夫や恋人をさす語」(大辞泉)とある。
   (12番歌):わが欲(ほ)りし 野嶋は見せつ 底深き
           阿胡根(あごね)の浦の 珠そ拾はぬ
    (意味):わたしが見たいと思っていた野嶋は、あなたは確かに見せてくれました。しかし水底の深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていません。
     ・「野嶋」の地は、和歌山県御坊市名田町野島…に比定。「阿胡根浦」は、「未詳。同上野島付近か」とする。あるいは本居宣長は「野島阿胡根ノ浦は、紀州日高郡塩屋浦の南に野島ノ里あり、その海辺をあこねの浦といひて…」とする。いずれにせよ、いずれも「紀州」である。
     ・「わが欲し野島は身せつ…」を、「…野島はあなたは確かに見せてくれました」と意味を取っている。見た主体は「あなた」で"見せられた"のだ。
   (12'番歌):或いは頭にいう、「わが欲りし 小島は見しを」
    (意味):或いは、「わたしが見たいと思っていた小島は見たけれども」
     ・本歌12番と微妙に違う。「…小島は"わたしは"見たけれども…」と見た主体は"わたし"…だ。「見せてもらった…」のではない…。 
     ・通説では「小島は未詳」…と。

 さて通説の如く「中皇命」を「間人皇女、あるいは斉明天皇」とすると、次のような不思議が生ずるそうです。つづいて、古田先生の論証を見てみましょう。
1)(10番歌)で「君(作歌者の夫、恋人。間人皇女の場合は孝徳天皇、斉明天皇の場合は不明)」に関しては単純に"寿命"を示す「歯」を使い、自分(女性、妻あるいは恋人)には"治世"を意味する「代」を使っている。これはおかしい…と。「間人」の場合は自分が統治しているようになり、使用法が「孝徳」に対し「失礼」になるだろうし(特に当時の感覚として)、斉明・皇極の場合は肝心の「夫」たる舒明天皇は亡くなっているのだから、共に旅は出来ないはずだ。
2)歌を読んでもらえれば分かるように、(11番歌)だけに"敬語"が使われ、(10,12番歌)には使われていない。(11番歌)が確かに間人の「わが背子つまり孝徳」に対する歌とすれば、これに"敬語"が使われているのは当然…と思われる。しかし、(10番歌及び12番歌)は?…とするとき、この不思議はますます大きくなる。

 これら一連の歌は、「中皇命が、旅の最終目的地である阿胡根の浦といわれるところへ行く途中、『わたしも見たいと思っていた野島(或いは小島)へ行きお前にも見てもらって肩の荷を降ろし、さていよいよ阿胡根の浦の真珠を拾おうか』と言っている」のではないでしょうか。
この理解は、通説の(12番歌)の意味が「…あなたは確かに見せてくれました。しかし水底の深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾ってはいません」と解釈されていることからも、そう違ってはいないでしょう。ただ、それぞれ野島(小島)、阿胡根の浦などの所在地の理解を除いては…。

 この理解は、番外編(6)の万葉(3番歌)と関連があります。
1)「中皇命」とはその半端ではない称号から、「九州王朝の天子」であった。
2)隋書「俀国伝」によれば、天子たる多利思北孤は「吾輩雞彌(わが君)」と呼ばれ、「王妻号雞彌(王の妻は雞彌(君)と号す)」とあった。中皇命が「矛の太子であった上塔の利」とすれば、隋書の記事はほんの三十年ほど前のことを言っていることになる。そしていまも「天子の皇后を「君」と言っている」とすれば、太宰府から紀の温泉への「中皇命の皇后を伴なっての大船旅」…ということになる。
3)(10番歌):君が歯(よ)も わが代も知るや 盤代(いはしろ)の 
         岡の草根を いざ結びてな
   意味:貴方の寿命もわたしの統治も、いつまで続くと誰が知ろう。この盤代(いはしろ)の名にふさわしく、いつまでも続くことを祈って、さあ岡の草結びをしよう。
   ・「君の歯」は皇后の"寿命"を表し「わが代」は中皇命の"統治"を表すことと、なんら矛盾なく不思議ではない。
   ・「盤代」の「盤」は"広大なさま"を表し、よって「万代」の意に通ずる。その「名」にかけた願いである。「盤」は「磐」とも通づるから、日高郡南部町「岩代」でもいいのかもしれないが…。
   ・"草結び"とは、"願いをこめる"ための庶民の所作である。
4)(11番歌):わが背子は 仮廬(かりほ)作らす 草(カヤ)なくば
         小松が下の 草を刈らさね
   意味:わたしの夫(中皇命)が、カヤで仮廬(かりほ)を作らせていらっしゃる。もし草が足りないなら、(いまわたしのいる)小松の下の草をお刈りくださいな。
   ・この場所は特定できない。
   ・10番と12番歌は中皇命のそして11番歌は皇后作の、問答歌である。よって11番歌にのみ"敬語"が使われていること、何の不思議もない。
5)(12番歌):わが欲(ほ)りし 野島は見せつ(小島は見しを) 底深き
         阿胡根の浦の 珠ぞ拾はぬ
   意味:わたしが貴方に見せたいと思ってきた(淡路北端の)野島は(つまり明石海峡は)、もう見せた(or 私自身が行きたいと願っていた(吉備の)児島は、もう見た)。だけどあの底の深い(伊勢の)英虞(あご)湾の真珠は、まだ拾ってない。これからの楽しみだよ。
   ・太宰府から瀬戸内を船旅するとき、野島の面する明石海峡は皇后に見せたい所だったのだ(吉備の児島は自身が立ち寄りたい所だったのだ)。(因みに、野島は十年ほど前の阪神淡路大震災時の震源地である。)
   ・最終目的地の「阿胡根の浦」とは、昔より真珠の獲れる伊勢の「英虞湾」である。宿泊地の紀の湯(白浜温泉という)より足を延ばし、伊勢まで真珠を拾いに行くのだ。通説に立つ学者は、何故思いつかなかったのか。それはあくまで「大和から大阪湾経由で、南部町の野島などを見学して白浜へ行った」との固定観念のなせる業…といわれる。げに、固定観念とは恐ろしきもの…である。それにしても、何の変哲もない南部町野島が、それほど見せたかった所なのだろうか。そのあたりを、学者の方々は検証されたのだろうか。

 いかがでしたか、この万葉三歌(四歌)の解釈は…。
「訓みが主、漢字は借物」という本居宣長の説はある意味では正しいのですが、どうして同じ短歌の中で「歯」と「代」を使い分けたのか…、それを究明することも万葉学の一つと思いますね。例え意味するところは「代、よ」であっても…ね。

番外編(6)

2007-05-24 12:15:45 | 古代史
 再び万葉集に戻りましょう。
はじめの方に舒明天皇時代の歌として、少し不思議な歌があるそうです。

元暦校本:天皇遊獦内野之時中皇命使間人連老献歌
 (長歌):八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之
      御執乃 梓弓乃 奈加弭乃 音為奈利
      朝獦尓 今立須良思 暮獦尓 今他田渚良之
      御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里      (万葉3番歌)
 (反歌):玉剋春 内乃大野尓 馬数而
      朝布麻須等六 其草深野            (万葉4番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  表題:(舒明)天皇の内野に(または、宇智の野に)遊猟(みかり)したまひし時に、中皇命(なかつすめらみこと)の、間人連老(はしひとの(orたいざの)むらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめし歌
  読み:やすみしし わが大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕べには
      い寄り立たしし みとらしの 梓の弓の なか弭(はず)の
      音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし
      みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり   (万葉3番歌)
     たまきはる 宇智の大野に 馬並(な)めて 
      朝踏ますらむ その草深野           (万葉4番歌)
  意味:(やすみしし)わが大君が、朝には手に取って撫でいつくしまれ、夕べにはそのそばに寄り立たれた、ご愛用の梓の弓の、中弭の音が聞こえる。朝狩にいまお発ちになるらしい、夕狩にいまお発ちになるらしい。ご愛用の梓の弓の、中弭の音が聞こえる。                     (万葉3番歌)
     (たまきはる)宇智の大野に馬を並べて、朝の野をお踏みになっているであろう、その深草野よ。                 (万葉4番歌)

 この歌は、さわやかな"狩への出で立ち"を扱った名歌だそうです。何も不思議はないではないか…、歌の作者も間人連老とわかっているし…と思われたのではないでしょうか。でも古田先生は、次の不思議があるといわれます。
1)この歌ほど万葉の研究家を"悩まして"きた歌もない。それは「中皇命」の"正体"だ。この人名は、記紀には現れていない。だからこそ、舒明前後の時代にいる誰に当たるか…、みながその謎解きに腐心してきた。岩波万葉では、舒明の皇女で孝徳の妃である「間人皇女か」としている。いまだ定説がないのである。
2)「やすみしし(八方の地の支配者である) わが大王」は問題ない。しかし「朝庭」の意味だ。万葉2番歌で「山常庭」を「山根には」と読んだ。だからここでも「あしたには」と読むことは問題ない、時間帯としての「朝夕の朝」である、が…。しかしここでは原文を用いて「大王の朝廷(庭)」とも取れる。そうすれば中国での用法、「天子―朝廷」と齟齬が出る。なぜならば、「大王とは、天子の大勢の臣(大王など)の中の一人」だからだ。つまり、決して「大王―朝廷」とはならないのだ。また「朝」一字で「ちょうてい」または「みかど」と読み、「朝庭」を「みかどには」と読むことも出来る。
3)次は、対句の意味だ。「朝には…(弓を)取り撫でたまひ」、「夕べには…(弓に)い寄り立たしし」だ。前者は「弓」を目的語とした「男性的」しぐさ、後者は万葉の他例からすれば「弓」を補語とした「女性的」しぐさなのである。それを男性たる「わが大王(大君)」一人のしぐさとすることはおかしい。
4)次は「奈加弭…なか弭」だ。「弭」とは「弓の両端の弦をかけるところ」だから、その中間…握り部である「中弭」という概念、また本当にそう呼ぶのかが不明なのだ。岩波万葉によれば、「なか弭は未詳。長(なが)弭あるいは金(かな)弭とする説もある」といっているが、これはどの古写本も「奈加弭」だからうなずけない…といわれる。
5)再び表題にかえり、「中皇命」の"正体"と共に、この歌の中での"役割"も不明なのだ。「舒明」は「大王」として(この七世紀中ころ、まだ「天皇」の自称および他称はない)、「間人連」は「作歌者」として役割がある。しかし「中皇命」の役割は…?
6)次は地名。表題の「内野」と反歌4番歌の「内の大野」、岩波万葉では「内大野(うちのおおの):大和国宇智郡。現在の奈良県五條市大野町一帯の山野。(後略)」とある。本当にそうか?

 私たちは日本古代史における古田説…、「近畿天皇家に先立って、大陸の歴代王朝や半島の国々から列島の主権者として認められていたのは、700年までは筑紫倭国引いては九州王朝であった」ことを知っています。
では古田説を適用すれば、上記の不思議は解けるのでしょうか。
1)まず「中皇命」の正体。これは称号からわかる…と。「皇命」という他称は半端じゃない…といわれる。至高の統一中心者を意味する…と。すなわち「九州王朝の天子」その人だ…と。このころであれば、天子「足りし矛」の太子であった「上塔の利」であろうか(「上塔」はいまの九州大学あたり)。いま福岡市内に「那珂川」があり、繁華街になっている「中洲」がある。そこが母の出身地であり、誕生し育った地だったのではなかろうか。だから「中皇命」と呼ばれたのだ。
2)「わが大王の 朝庭(時間帯を表すものではなく、これを「みかどには」と五字に読み、かつ男性たる「中皇命」その人の意ともなる)…」というフレーズは、「大王がお仕えする"みかど"(帝)におかれては…」という意味であって、所有格の「の」ではない。それで「中皇命―朝廷」となって、中国の用法と矛盾しない。
3)またその対句としての「夕庭(夕べには)」は時間帯表現ではなく、やはり「きさき(后)には」と女性に読むべきであろう。そうすると、「みかど―弓矢を愛し、いつも自分の弓を愛撫している」のであり、「きさき―夫の"みかど"を敬愛し、夫の持つ弓の側にいつも寄り添って立っている」という意味になる。これで、男性に女性のしぐさをやらせる不思議もない。
4)次は「なか弭」だ。これは「中皇命」の育った地「那珂(中)風の、あるいは中特産の弭」という意味だろう。「信州そば、京人形、灘の生一本」の類だ。
5)では「中皇命」の役割は? 「狩好きの王者・天子」であって、この歌は「中皇命の男らしさ、その后の女らしさを称える歌」だったのだ。それを中皇命の命を受け、間人連が詠んだのだ。大王(舒明)は臣の間人連を伴ない大和よりこの太宰府の地へ来たり、天子のお供をして朝な夕なの狩に行ったのであろう。だから間人連にとって、舒明は「わが大王」だったのだ。
6)表題の「内野」に対し「宇智の野」と読み、奈良県宇智郡の地を当ててきた。しかし大宰府の奥(後背地、東側)には、まさに「内野」の地名がある。筑豊本線の駅名でもある。しかも更にその奥の西北(篠栗線の沿線)には「大野」がある。反歌に詠われた「内の大野」だ。このあたりは、その昔は「狩場」として適所であったろう…と。「大野城」のある「大野」と区別するため、「内の大野」といったものだろう…と。

 さて古田先生の解釈はどうでしょうか。
(長歌):(やすみしし)わが大王の(お仕えになっている)その天子さま(中皇命)は、弓を愛し取り撫でていらっしゃる。その皇后(きさき)さまは、天子さまに寄り添って立っていらっしゃる。その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弭を持つ弓の音がするよ。朝の狩にいま立たれるらしい、夕の狩にいま立たれるらしい。その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。   (万葉3番歌)
(反歌):この内野の(中の)大野に、馬を並べ朝の足踏みをされていることだろう、その(春の)草深い野よ。    (万葉4番歌)

 因みに反歌の中の「玉剋春」は、最後の句「其草深野」とともに「季節は春」を示したものか…と、岩波万葉も注記しています。

番外編(5)

2007-05-21 12:50:10 | 古代史
 戦後の歴史学において、津田左右吉博士の「記紀において、神話や(宋書に現れる「倭の五王」に比定される諸天皇以前の)説話は、机上で考えられた造作である」という説が一般化され、(博士の文化勲章受賞などを経て)学界に公認されるようになりました。
ですから「記紀の神話などに頻繁に現れる天の香具山」と「万葉集の天の香具山」を別物と考える、いや同じものとするのは学者にあらず…という風潮が生まれているのだそうです。
しかし古田先生はいわれます。記紀及び万葉集というのは、同じ王朝の胎内で・同じ都の平城京において・同じ人々の手になるものだ。それを鑑みれば、「文献処理の厳密性」という点で、二つの「天の香具山」を別物とするのには一点の疑惑がある…と。

 そのような目で、次の古事記を見た場合どうなるのでしょうか。小碓命(おうすのみこと。倭建命・やまとたけるのみこと)が吾妻から科野を経て、尾張の美夜受比売(みやずひめ)の元へ帰って来た時のことです。
岩波古事記より引用しましょう(p217)。
 <ここに美夜受比売、それ意須比(おすい。着衣の上に重ねて着る衣装)のすそに、月経(つきのさはり)つきたりき。故、この月経を見て御歌よみたまひしく、
    ひさかたの 天の香具山 利鎌(とかま)に
      さ渡る鵠(くひ) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやかいな)を
     枕(ま)かむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど
      汝が著(け)せる 襲(おすい)のすそに 月立ちにけり
とうたひたまひき。ここに美夜受比売、御歌に答えていひしく、
    高光る 日の御子(みこ) やすみしし 我が大君 あらたまの
      年が来経(ふ)れば あらたまの 月は来経(へ)往(ゆ)く
     諾(うべ)な諾な諾な 君待ち難(がた)に 我が著せる
      襲のすそに 月立たなむよ
といひき。>
一般的に言えば、女性の生理という日常の生活の中の経験が、男女の問答歌という形で生き生きと詠われている…と(古田先生を含め)理解されていたようです。
しかし本当にそうなのでしょうか。

 まず、女性が男性に向かって呼びかけているところをみましょう。
    高光る 日の御子
岩波古事記では「高光る」を「日の枕詞」とし、「日の御子」を「太陽のように輝く皇子の意」としています。しかし古田先生は、「"太陽信仰の祭祀者を受け継ぐ者"、"神聖な太陽の光を受け継ぐ者"に対する美称で、皇子などにはふさわしいとはいえない。少なくとも、第一権力者にこそふさわしい」といわれます。かつ、
    やすみしし(八隅知し) 我が大君
同じく岩波古事記では、「やすみしし」を「我が大君の枕詞。語義未詳。万葉には、八隅知之、安見知之などの訓字が用いられている」とし、当然「我が大君」とは「小碓命」を指すとしています。しかし古田先生は、「"国の隅々までを、あるいは安らかに統治されている我が大君"とは、当然その地の第一権力者、天子や大王である。諸の皇子の呼び名ではない」とされました。そして、
    高光る 日の御子
    八隅知し 我が大君
と並び称された場合は、第二皇子(兄に大碓命がいる)としての小碓命(倭建命)には妥当し得ない…ともいわれます。確かに小碓命に対する呼びかけとしては余りにも重々しく、そうであればお尻がこそばゆくなるようなおべんちゃらにしか聞こえません。

 そして歌そのものより見れば(古事記の説話は歌の前書きと見て、いまは忘れて)、この歌は小碓命に関するものではないようです。
また私たちは「天の香具山」は大和のそれではなく、豊国別府の「鶴見岳」であることを知っています。ですからこの男性は、恐らくは九州王朝の天子、または豊の安万(海部)の大王なのです。そして女性は、その地の教養ある遊女…。
天子(大王)はこの地で、長く遊女と遊んでいます。月が明け年が変わり…、天子はそろそろ帰ろうと腰を上げようとしています。
しかし遊女は、「高光る…」と持ち上げて見せた上で、
    あらたまの 年が来経れば
    あらたまの 月は来経往く
「時が過ぎて新しい年や新しい月が来るなんて、分かりきったこと…」とさらりと言い返します。ですから「月」は、決して「月経」ではありません。
この「あらたまの」を岩波古事記は「年や月にかかる枕詞。語義未詳」としていますが、上の例からいえば古田先生は「年や月が改まって経過する」という意味だろうとされました。
男性歌の最後「月立ちにけり」の原文は「都紀多知邇祁理」ですが、これを「月経ちにけり」としても何も女性の生理「月経」ではなく、あくまで「月が経っていく」ということでしょう。「朔(つきたち)、一日」のことです。
「汝が著せる 襲のすそに 月立ちにけり」とは、「あなたと夜を共にし添い寝し続けているうちに、もう「昨月」は終わり新しい「月」が始まった」という意味とされました。
女性歌の「襲のすそに 月立たなむよ」は、「わたしの着ているおすいの側で、月が変わっても(今月も)過してほしいわ」と"駄々をこねている"、コケティッシュな媚態を見せているといわれます。
古事記の大安万侶は、九州王朝の歌を盗用し、天子と遊女の問答歌を小碓命と美夜受比売との問答歌に換骨奪胎したようです。そして誤解して、古事記本文に「その月経を見て御歌よみたまひしく」などとしたのです。あくまで「月が経つ」という状況を、「月経」に変えてしまうとは…。

 では現代語訳では…、
(天子):天の香具山(鶴見岳)を、鋭い鎌のような形をして"くび"(雁の一種か)が渡っていく。お前のか弱くて細い、しなやかな腕を枕にしようとは、わたしはしているのだけど、一緒に寝ようとは、わたしは願っているのだけど、お前が着ている"おすい"のすそで、もう月が経ってしまった(新しい月が始まった)。
(遊女):高光る日の御子、八方の領土を支配されている我が大君、あなたは最高の身分のお方。新しい年がやって来れば、新しい月が来往くのは、知れたこと。わかってますよ、わかってますよ、ええわかっていますとも。(いったんあなたが帰ってしまわれると)また来られるまで待ち焦がれている、このわたし。わたしの着ている"おすい"のすそで、新しい月が経ってほしい(来月になってもいてほしい)。
なかなか艶めいた歌でした。

番外編(4)

2007-05-19 13:40:44 | 古代史
 前回の万葉2番歌についてはいかがでしたか。歌の内容と表題とは、全く関係がありませんでした。歌の内容こそが第一の史料…、古田先生の主張がよくわかります。この歌は九州王朝の天子か安万(海部)の大王が作った歌を、時代的に同じとして舒明天皇(在位629-641年)の歌としたのでしょうね。つまり九州内部(別府湾と天の香具山つまり鶴見岳)で作られた歌を大和での歌と理解したことから、低い丘のような飛鳥の香具山を「群山あれどとりよろふ…」と無理な解釈をしたり、狭い埴安の池を「海原はカモメ立ち立つ…」というとチンケなこじ付けをしたり…、通説では決して理解できない歌でした。

 さて「天の香具山」とは別府湾の後ろにそびえる鶴見岳とわかったいま、次の歌はやはり通説どおりの解釈でいいのでしょうか。学校でも習う有名な歌です。
元暦校本:藤原宮御宇天皇代 (持統天皇を指す)
       天皇御製歌
    春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香具山     :万葉28番歌
通 説:春過ぎて 夏来るらし 白たえの 衣干したり 天の香具山
 <春が過ぎて、夏が来たらしい。真っ白な衣が干してあるよ、天の香具山に>

 この歌は、持統天皇が藤原宮(大和の飛鳥の地にある)にあって作られた歌…と解説されています。つまり「藤原宮から東の方、香具山を望み見て詠まれた歌であろう」と、岩波万葉に解説してあるとおりです。あるいは、「『私注』は、この歌が藤原宮造営のときよりも前に位置しているので、清御原宮(夫で前代の天武天皇の宮)での作と見るべきであろうという。その場合、香具山は北方に見える」ともしています。
藤原宮にいて香具山を望んで作った場合、約1キロメートル先になる香具山の白い衣が見えるか…、これはほとんどの人の疑問だそうです。
古田先生は地元の人の協力を得て実験されたところ、十分には見えなかったのだそうです。実験…という先入意識があって始めて、「あっ、あそこに…」と分かる程度だったそうです。同じように万葉学者の森淳司さんもNHKと共に実験されたそうですが、やはり同じ結論しかえられなかったのだそうです。

 いままで、多くの人が次のような「仮説」を以って解釈しようとされました。
1)「衣が干してあった」のは、100メートルほどにある民家であり、その背景に香具山が見えた。
しかし古田先生は、「この歌の内容そのものからは、このような解釈は出てこないはずだ。現地の地理関係を知った後で、いわば後知恵としての解釈ではなかろうか」といわれます。もし仮説どおりであれば、「この秀でた詠み手は『眼前に衣が干してあり、背景に香具山がそびえている』くらいの情景をうまく詠めるはずだ」とも…。
2)持統天皇が香具山のほとり(埴安の池など)に散歩し、(近くの家に)衣が干してある光景に接した。
しかしこの仮説も、上記と同じ後知恵だろうといわれます。またそうであれば、「散歩していたら、干された衣を見て、もう夏か…と感じた」くらいの情景を読めるはずだともいわれます。
3)各家が、一面に白くなるように衣を干していた。
しかし「いっせいに衣を干した情景」は、「春と思っていたらいつの間にか夏…」という季節感ではなく、初夏のさなかの情景ではないか…といわれます。
いずれの仮説も、この歌の内容から導かれた解釈ではなく、後知恵のような無理を重ねた解釈のようです。
 もう一つ、「衣を干す」という作業は「人がいてこそ出来る」のですが、飛鳥の香具山にはその頂に小さな祠が二つあるだけだそうです。つまり、人のいる気配がない…。ですから、上記のような仮説が生まれたのでしょうが…。

 では、古田先生はどのようにされたのでしょうか。
まず、表題を切り離し、歌そのものを味わうことです。次に、「天の香具山」とは別府湾の後ろにそびえる「鶴見岳」ではないかとすることです。

 六国史の中の「三代実録」(平安時代の史書。901年に成立。清和(858~)・陽成・光孝(~887年)三代三十年の歴史書)に、次のような記録があるそうです。
<太宰府いう。従五位上、火男神。従五位下、火女神。二社は豊後国速見郡鶴見山嶺にあり。山頂に三池あり。一池は泥水色青し。一池は黒し。一池は赤し。去る正月二十日、池振動す。その声、雷の如し。俄(には)かにして臰(しゅう)すること(その臭いは)、硫黄の如し。国内に遍満す(広くいきわたる)。盤石飛乱す。上下、无数(無数)。石、大なるは方丈(約3メートル四方)。小なるは甕の如し。昼は黒雲蒸し、夜は炎火さかんなり。沙泥、雪散し、数里に積もる。池中、元温泉を出だす。泉水沸騰し、自ずから河流をなす。山脚の道路、往還通ぜず。温泉の水、衆流に入る。魚、酔死するもの千万数。その振動の声、三日を経歴す。>(清和天皇、貞観九年(867年)二月条)

 前回紹介しておけばよかったですね。これで、鶴見岳は火山であったことがお分かりでしょう。いまでこそ山頂の三池は吹っ飛んでありませんが、しかし別府温泉といえば色のついた「~地獄」というのが有名ですね。
上記は九世紀後半の爆発です。そして伊予と阿波の風土記によれば、「倭に天加具山があり、二つに分かれてこの地に天降った」とあり、前者は「天山」となり後者は「アマノモト山」となったのだそうです。いずれも「天、アマ」を名乗っていますね。実態は筑紫や豊から、この地に入植したことを示しているのでしょう。当然ここでいう「倭」とは、筑紫王朝のことであって決して大和ではないのです。大和には、火山などありませんから…。そして「加具山」とは、「鶴見岳」を指すことは言を俟ちませんね。
そして三代実録によれば、従五位上あるいは従五位下をいただいている神社があった…と。叙爵は後代でしょうが、与えるほど由緒ある神社だった…ことが伺われますね。ですから七世紀後半に、神職の人や巫女さんらがいたことは十分考えられます。そして衣を干すことも…。

 わたしは学校で、新古今和歌集に本歌取りした<<春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の加具山>>に比べ、男性的で躍動感に溢れる歌だ…と習った記憶があります。
しかしこの28番歌は、単純にして明快なるが故に現地の実状と合わず、諸大家をして悩ませてきたのだそうです。
1)まず作歌場所。藤原宮、浄御原宮、浄御原宮から埴安の池に出遊…など。しかし先ほどの森淳司氏は、「NHKの行った実験では、香具山の山腹に少々の衣を干したくらいでは、藤原宮からぜんぜん見えない。ましてやもっと隔たった浄御原宮からは…。すると『衣干したり』という確信に満ちたこの表現は、一体どう解すればいいのか」といわれたそうです。
2)政治的意義。これは伊予などの風土記を元に、「天から降ってきた天の香具山を、高天の原に直結するとした」とか、「新都に集中した民家を背景とした支配者の眺望」などの解釈がされているそうです。
3)「衣」の意味。衣更えの習俗があった…、田植えの早乙女の資格を得るために山ごもりして潔斎した乙女らの衣…、天の香具山を斎祀る人々の衣…。これほど頭を悩まされているのですね。
4)背景。中国的暦法知識の一般化、あるいは我が国古来の連続的季節感…と。あるいは、季節の推移を認めるのは早すぎ、香具山の雪を白い布に見立てて戯れ遊んだ一首…とも。この「虚構説」のさきがけが、新古今和歌集の編者であった…と。しかしこの28番歌は、そんなに薄っぺらな歌でしょうか。

 この歌の作者は、鶴見岳の神社へお参りするために歩いていた。晩春とて、まだ肌寒い。境内に入りふと顔を上げると、そこには巫女たちの白い衣が干してあった。まだまだ春だと思っていたが、衣を干す初夏になっていたのだなあ。
<もう春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣が干してあるよ、この鶴見岳(天の香具山)の山中には…>

 いかがでしたか。作歌場所は鶴見岳(天の香具山)山中。政治的意義は特に無し。「衣」は神社の巫女さんの衣。背景は、実際目の当たりにしたひそやかな季節の移ろいに対する感動…。
飛鳥の藤原宮で持統天皇が作られた歌…とすれば、大家でさえも悩ましい秀歌…。なんともやりくりしなければ、実際と合わない歌…。しかし鶴見岳山中での作歌…とすれば、何の奇異もなくすんなりと感動が伝わってくる秀歌になったではありませんか。
やはりこの歌も、内容と表題は乖離していました。

番外編(3)

2007-05-17 19:10:18 | 古代史
 古田先生の面目躍如たる所…。
皆さんは「天の香具山」ってご存知ですよね。「知ってるよ。大和三山の一つだろ。後は畝傍山と耳成山だったよね」とおっしゃるでしょう。古代史大好きな方なら、「ああ、アマテラスが天の石屋戸に隠れたとき、これは大変だと八百万の神が天の安川に集いて、鉄を取って刀をつくり、銅を取って鏡をつくり、占うために鹿を捕り、玉など飾るために榊を取った、あの天の香山(かぐやま)のことだ」とされるでしょうね。
その「天の香具山」が詠われているという万葉の歌があります。これを紹介し、本当に「天の香具山」は大和の山か、先生の論証を辿りましょう。

元暦校本:(舒明)天皇登香具山望国之時御製歌
     <舒明天皇の、香具山に登りて国を望みたまひし時の御製の歌>
     山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰立
       国見乎為者 国原波 煙立龍 海原波
      加万目立多都 怜可(忄偏)国曾 蜻嶋 八間跡能国者 (2番歌)
通  説:大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
       国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は
      かもめ立ち立つ うまし国ぞ あきづしま 大和の国は
 <大和の国には多くの山々があるが、最も近い天の香具山、そこに登り立って国見をすると、広い平野には炊煙があちこちから立ち昇っている。海原には、白いカモメの群れがしきりに飛び立っている。素晴らしい国であるよ、(あきづしま)大和の国は>

 古田先生は、次のような疑問があるといわれています。
1)この大和の天の香具山に登ると、海が見えるのか、そこに遊ぶカモメが見えるのか…と。通説では、「香具山の北西麓には埴安池(はにやすのいけ)、西北には耳成池…があった。淡水でも「うみ」と呼ばれた。琵琶湖も「近江の海」であった」としている。しかし埴安池など、狭い池だ。最も肝心なこと、それは万葉集で「海原」とはあくまで「海」のことで、「池」を歌った例は(この2番歌を除いて?)無い。また「かまめ=カモメ」についても、「ユリカモメは遡上して来る」とのことだが、これも本当の海のカモメしか歌われていない…。
2)「よりとろふ」については昔から諸説があり、上記のように「都に近い意」としたり、「とりわけ立派に装っている」とか「素晴らしい形の山」とかある。しかし「よろふ」に「都に近い」という意味があるのか、海抜152m(大和の海抜を差し引けば50mほど)の山がそれほど立派なのか…、ましてや「大和には群山あれど」という枕に当てはまるのか。詩人の空想力…といったところで、白々しいばかりではないか。
3)「大和」を表すとした言葉に、「山常」と「八間跡」がある。同じ歌の中で、二通りの書き分けの必要があるのか。別の言葉ではないのか。

 もつれた糸をほぐすきっかけは、「蜻嶋(あきづしま)」でした。
古事記の国生み神話「次に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別といふ」を(「盗まれた神話」という著書で)論証されたとき、「この「豊」は豊国(いまの大分県)、「秋」は安岐(国東半島の東南端)、「津」はいまの別府湾全体を指す。また「嶋」は国のことだ」と結論を得ておられました。ですからこの歌の作られた場所は、大和ではなくこの豊の地ではないか…と考えられました。
実は、神武紀三十一年条に「…よりて腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのをか)に登りまして、国の状(かたち)を廻らし望みて曰く、「あなにや、国を獲つること。内木綿(ゆふ)の真迮(まさ)き国といえども(狭い国だが)、蜻蛉(あきづ)のとなめ(交尾)の如くにあるかな」とのたまふ。これによりて、始めて秋津洲(あきづしま)の号あり。」とありますが、「これは豊の由布岳・鶴見岳近辺のことだ」と論証されています。
この三つの交点には、そうです「蜻嶋=蜻蛉(嶋)=秋津洲=豊の安岐」をドンと据えることが出来るのです。すなわち「別府」、「別府湾」…。

 では、もっと傍証を集めましょう。
1)ここが別府なら、目の前はまさに「海原」であり、カモメが飛び交っているのを見ることができる。
2)ここが別府なら、「国原は煙立ち立つ」とは、温泉の湯けむりだ。
3)豊の古名は「安万」であることはよく知られている。「海部」ともかく。よってこの地の山が、「アマの何々」と呼ばれることに何の不思議もない。
4)最初の「山常」は、「ヤマネ=山根」と読むべきではないか。「山根には群山あれど」とは、「この地には多くの山々があるが…とりわけ立派なのは…」との意ではないか。「よりとろふ」とはやはり、「群山の中で一番目立ち勝れているのは」という意味になるのでは…。別府には高い秀嶺があるか。
5)ある。別府の後ろに聳え立つ「鶴見岳」だ。海抜1375m。その後ろに「由布岳(海抜1584m)」もあるが、そこからは鶴見岳が邪魔で別府湾は見えない。
6)鶴見岳の頂上からも、海はあまりに遠すぎて見えない。カモメの姿などもってのほかである。では、その麓では見えるか。
7)見える。別府市内の浜脇区に「登り立」という字(あざ)がいま二つある。また別府には、「浜~」とか「~浜」という地名がいまに残っている。上記「浜脇区」もそうだ。よって「八間跡」は、「はまと」であって「大和」ではない可能性が高い。だから「浜都(?)」という広い地域(つまり国)の高いところにあるどれかの「登り立」で、東を向いて海を見、また湯けむりを見たのだ。
8)鶴見岳には「火男火女(ほのおほのめ)神社」がある。祭神は「火迦具土(ほのかぐつちの)命」である。「土(つち)」は本来、「津の神(あしなづちやおほなむちと同じ古い神名の「ち」)であるから、根源は「かぐ」である。また鶴見岳の西南隅に「神楽女(かぐらめ)湖」がある。この共通する語幹「かぐ」こそ、この鶴見岳の古名であった可能性は高い。「あまのかぐやま」である。
9)神話などから、天の香具山は「火山でありかつ鉱山」でなければならない。別府温泉の「~地獄」といわれる色のついた湯は、まさに(古い)火山であり鉱山である証しであろう。上記神社名や祭神からも、どうも「火」に強く関係した山であることが分かる。
10)よって「天の香具山」とは大和にあらず、豊(別府)の後ろにそびえる「鶴見岳」であることが分かった。

<山根(山すそ)には多くの山々があるが、とりわけ立派なのは天の香具山(鶴見岳)だ。その麓にある「登り立」に登って東を見れば、陸には湯けむりが立ち、海にはカモメが遊んでいる。何というよき国だ、この浜都という所は…>
どうです。すんなりと理解できますね。

 これより以降、「天の香具山」が出てきた場合、少し立ち止まって「待てよ、別府の鶴見岳では…」と考えましょう。では…。