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死について語ることは不可能なのではないか?今生きている自分が使っている言語が死そのものを語るときも通用すると、どうしてわかるのか?
「私が私である根拠」を考えたとして、それを考えている「私」の根拠はどこにあるのか?「私」について考えれば、そのたびに「考える私」と「考えられる私」に分裂して、無限に遡及するだろう。
この疑惑に決定的な裁断を下したのが、道元禅師の正法眼蔵の、一節だったのである。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。
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超越と実存
南直哉著
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読んでて楽しです。自身が子供時分から
頭にもたげていた事に似ている。
苦笑しながら読んでます。
仏教に限らずなにか、自分の中の肚におとせるものが見つかるといいですね。
大阪は、ようやく晴れ間が見えてまいりました。
感謝いたします。
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逆のものさし講サイコー
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御恩に感謝いたします。
