「『愚問』」(2024/7/16)
「不都合な ことは『愚問』と 突っぱねて 望む答えが ないと答えず?」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこの社会でも「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」がいるものです。そしてどうやら最近はその「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちが地球上のあちこちで騒動を引き起こしているようなのです。
もしもあなたが「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」と「議論」をした場合にはいったいどのような「議論」になるのか想像することができるでしょうか? あくまでも一般論ですが、おそらく世の中には「政治屋」がたくさんあふれているのだろうと思います。しかし、そもそも「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」が言う「政治屋」の「定義」とはいったい何なのでしょうか? さすがに「(前略)…選挙に立候補する者(自分以外)」などという明確な形での「定義」にはなっていないのだろうと思います。そしてこれもあくまでも一般論ですが、確かにマスメディアには「愚問」があふれているのだろうと思います。しかし、その「愚問」と呼ばれているものはいったいどのような理由から「愚問」と呼ばれているのでしょうか? そもそも「愚問」であるかどうかを決めているのはいったい誰なのでしょうか? さすがに「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」が「愚問」と呼んでいるものが「愚問」になるということではないのだろうと思います。さらに言えば、これもあくまでも一般論ですが、「質問に答える」とか「質問に答えていない」などということの「定義」はいったい何なのでしょうか? そして「質問に答える」とか「質問に答えていない」などということを決めることができるのはいったい誰なのでしょうか? 自分にとって不都合なことを問われたときにはその質問を「愚問」と呼んで突っぱね、自分が相手に言わせたいことを相手が答えない場合には「質問に答えていない」などと罵り出す…。あえて想像してみてください。本当にこんな状況で議論が成立するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。