自由自律(日本国&仙台&東京)・千葉 潤(jchiba)(東京都所属)のきょうのひとこと

「他人事」のようにコメントしていた元総理大臣やマスコミとは別の視点で政治関連の動きをコメント。

「何のため?」(2024/7/29)

2024-07-29 00:45:54 | 政治・時事

きょうは2024/7/29()です。

「何のため?」(2024/7/29)

何のため? 『選挙』で『勝利』 目指すのは? 実績なくて どうなっていく?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」というものは「勝利」しなければならないものなのでしょうか? もちろん「選挙」で「当選」することができなければ自分たちの主張を形にしていくための活動のスタートラインにも立つことができないわけです。しかし、それでもやはり、「選挙」は本当に「勝利」しなければならないものなのでしょうか? むしろ「当選」後に自分たちの主張を実現するためには「選挙」で「勝利」するという発想を捨てた方がいいのではないかと思います。

くどいようですが、このままでは「選挙」で「勝利」することができないから「代表」や「候補者」を交代させるべきなどという声がよく聞こえてきます。しかし、もしも「代表」や「候補者」を交代させただけで「選挙」で「勝利」することができたとしても、「選挙」後にはいったいどうなってしまうのでしょうか? やはり大した実績もないのに「選挙」で「勝利」するためだけに交代させた「代表」や「候補者」の「賞味期限」や「消費期限」はかなり短いものになってしまう可能性が高いのです。そもそも政党や政治勢力が「選挙」で「勝利」することを目指す理由は、現実政治の場で自分たちの主張を形にしていくためではないのでしょうか? 大した実績もないのに「選挙」で「勝利」するためだけに交代させた「代表」や「候補者」は本当に自分たちの主張を実現する能力があるのでしょうか? 大した実績もないのに「選挙」で「勝利」するためだけに交代させた「代表」や「候補者」の下でその政党や政治勢力は本当に結束し続けることができるのでしょうか? 「選挙」というものはとにかく「勝利」をすることができさえすればそれでいいものなのでしょうか? 「当選」後に自分たちの主張を実現していくことを本気で考えるのならば、「選挙」で「勝利」するなどという発想を捨てた方がいいのではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「時間はもうないが…」(2024/7/28)

2024-07-28 00:45:30 | 政治・時事

「時間はもうないが…」(2024/7/28)

『実績』を 上げる時間は もうないが… あえて交代 させてどうなる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」というものは「勝利」しなければならないものなのでしょうか? もちろん「選挙」で「当選」することができなければ自分たちの主張を形にしていくための活動のスタートラインにも立つことができないわけです。しかし、それでもやはり、「選挙」は本当に「勝利」しなければならないものなのでしょうか? むしろ「当選」後に自分たちの主張を実現するためには「選挙」で「勝利」するという発想を捨てた方がいいのではないかと思います。

繰り返しになりますが、このままでは「選挙」で「勝利」することができないから「代表」や「候補者」を交代させるべきなどという声がよく聞こえてきます。しかし、もしも「代表」や「候補者」を交代させただけで「選挙」で「勝利」することができたとしても、大した実績もないのに「選挙」で「勝利」するためだけに交代させた「代表」や「候補者」は、相変わらずまだ大した実績を上げることができたというわけではないということに注意が必要になります。そのことを重く受け止めるのならば、新しい「代表」や「候補者」がそれなりに実績を上げてから選挙に臨むということを考えることになるのではないかと思います。しかし、次の「選挙」までに実績を上げるための十分な時間はもう残されていないはずなのです。しかし、それにもかかわらず、あえて次の「選挙」までに少しでも実績を上げようとするのならば、交代させた「代表」や「候補者」以外の「敗因となる可能性が高いもの」が多くの有権者にも見えるようになってくる可能性も高まっていくのです。次の「選挙」までに実績を上げるための十分な時間はもう残されていない段階であえて新しい「代表」や「候補者」に交代させることに本当に意味はあるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『消費期限』」(2024/7/27)

2024-07-27 00:45:49 | 政治・時事

「『消費期限』」(2024/7/27)

『選挙』前 急きょ交代 させただけ? 『消費期限』は 短くなるが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」というものは「勝利」しなければならないものなのでしょうか? もちろん「選挙」で「当選」することができなければ自分たちの主張を形にしていくための活動のスタートラインにも立つことができないわけです。しかし、それでもやはり、「選挙」は本当に「勝利」しなければならないものなのでしょうか? むしろ「当選」後に自分たちの主張を実現するためには「選挙」で「勝利」するという発想を捨てた方がいいのではないかと思います。

繰り返しになりますが、このままでは「選挙」で「勝利」することができないから「代表」や「候補者」を交代させるべきなどという声はよく聞こえてきます。しかし、本当に「代表」や「候補者」を交代させれば「選挙」で「勝利」することができるのでしょうか? もしも「代表」や「候補者」を交代させただけで「選挙」で「勝利」することができるのだとしても、そんな「代表」や「候補者」の「賞味期限」や「消費期限」はかなり短いものになってしまうのではないかと思います。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「『選挙』で『勝利』することができない『代表』や『候補者』をようやく交代させた後の次の『代表』や『候補者』」は、時間が経過すればするほど、「『選挙』で『勝利』することができない『代表』や『候補者』」にそっくりになっていくのだろうと思います。もしも「『選挙』で『勝利』することができない『代表』や『候補者』」以外にも「選挙」の「敗因」となる可能性が高いものがたくさん存在するのならば、やがて多くの人たちに「『選挙』で『勝利』することができない『代表』や『候補者』」以外の「選挙」の「敗因」となる可能性が高いものが少しずつ見えてくるはずなのです。そのように考えるのならば、多くの人たちの目に「『選挙』で『勝利』することができない『代表』や『候補者』」以外の「選挙」の「敗因」となる可能性が高いものが見えてくる前に、急いで「選挙」をやってしまえば「選挙」で「勝利」することができるなどという発想になるのかもしれないと思います。くどいようですが、「選挙」というものは本当に「勝利」しなければならないものなのでしょうか? 「選挙」で「勝利」することができたとして「勝利」することができたのは「有権者」なのでしょうか? それとも「それ以外の何者」かが「選挙」で「勝利」したことになるのでしょうか? どんなに少なくとも「選挙」というものは「勝利」することができさえすればそれでいいということではないはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『勝利』?」(2024/7/26)

2024-07-26 00:59:56 | 政治・時事

「『勝利』?」(2024/7/26)

『選挙』前 交代させて 『勝利』する? いったい誰が 『勝利』するのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」というものは「勝利」しなければならないものなのでしょうか? もちろん「選挙」で「当選」することができなければ自分たちの主張を形にしていくための活動のスタートラインにも立つことができないわけです。しかし、それでもやはり、「選挙」は本当に「勝利」しなければならないものなのでしょうか? むしろ「当選」後に自分たちの主張を実現するためには「選挙」で「勝利」するという発想を捨てた方がいいのではないかと思います。

あくまでも一般論ですが、このままでは「選挙」で「勝利」することができないから「代表」や「候補者」を交代させるべきなどという声はいつの時代のどこの場所からもよく聞こえてくるようです。しかし、冷静に考えてみて、本当に「代表」や「候補者」を交代させれば「選挙」で「勝利」することができるのでしょうか? あえて言い換えるのならば、「選挙」の「敗因」になる可能性が高いのは「代表」や「候補者」だけなのでしょうか? もしも「代表」や「候補者」以外にも「選挙」の「敗因」となる可能性が高いものがあるのならば、いくら「代表」や「候補者」だけを交代させてみてもやはり「選挙」で「勝利」することができない可能性が高いままのはずなのです。それにもかかわらず、なぜ「代表」や「候補者」を交代させるべきなど声高に叫ぶのでしょうか? 逆に、もしも「代表」や「候補者」以外にも「選挙」の「敗因」となる可能性が高いものがたくさん存在するにもかかわらず、なぜか「代表」や「候補者」だけを交代させただけで「選挙」で「勝利」することができたとしたら、いったい誰が「勝利」することができたことになるのでしょうか? 「選挙」で「勝利」することができたのは「有権者」なのでしょうか? それとも「それ以外の何者」かが「選挙」で「勝利」したことになるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『解雇』できる?」(2024/7/25)

2024-07-25 00:45:03 | 政治・時事

きょうは2024/7/25()です。

「『解雇』できる?」(2024/7/25)

『雇用』して 業績悪く なったとき すぐに迷わず 『解雇』ができる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも「寄付」や「支援」は誰に対してどれだけ役に立っているのでしょうか? もちろん「寄付」や「支援」にはそれなりに効果があることは確かです。しかし「寄付」や「支援」などというものに関する「幻想」や「根拠のない強い思い込み」をそろそろ捨て去る必要があるのではないかと思います。

あえて想像してみてください。「経営者」というものは業績が良くなればすぐに「従業員」を「雇用」し、逆に業績が悪くなればすぐに「従業員」を「解雇」するものなのでしょうか? 少なくとも日本社会では社会慣習としても法制度としても「解雇」というものはそれほど簡単にできることではないのだろうと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、「従業員」を「雇用」するということは「将来に渡って毎月給料を支払い続ける」ということを「約束」することを意味しているわけです。もしも「経営者」がその「約束」を簡単に破ることはできないと考えるのならば「約束」をするかどうかを判断するときに非常に慎重になったとしても少しも不思議ではないと思います。言うまでもなく「寄付」や「支援」などをする側にとっても「寄付」や「支援」などを受ける側にとっても「定収入」があるということは非常にありがたいことなのだろうと思います。しかし、「毎月一定額」の「寄付」や「支援」が持つ意味を一歩踏み込んで考えてみる必要があると思います。例えば、もしも「毎月一定額」の「寄付」や「支援」をする「約束」をした後に、自分自身の生まれ故郷で未曽有の大規模な自然災害が発生するなどし、「約束」した「寄付」や「支援」よりも優先するべきだと考える「寄付」や「支援」の対象ができた場合にはいったいどうするのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「毎月一定額」の「寄付」や「支援」をするように「約束」してもらうということは、「寄付」や「支援」が別の対象に流れないようにあらかじめ確保しておくという「青田買い」のようなことをすることをも意味しているのです。繰り返しになりますが、確かに「寄付」や「支援」などをする側にとっても「寄付」や「支援」などを受ける側にとっても「定収入」があるということは非常にありがたいことなのだろうと思います。しかし、「毎月一定額」の「寄付」や「支援」が持つ意味を一歩踏み込んで考えてみる必要があるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「支援し続けられる?」(2024/7/24)

2024-07-24 00:45:21 | 政治・時事

「支援し続けられる?」(2024/7/24)

将来も 支援し続け られるかは 分からないのが 多数なのでは?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも「寄付」や「支援」は誰に対してどれだけ役に立っているのでしょうか? もちろん「寄付」や「支援」にはそれなりに効果があることは確かです。しかし、そろそろ「寄付」や「支援」などというものに関する「幻想」や「根拠のない強い思い込み」を捨て去る必要があるのではないかと思います。

あえて想像してみてください。今現在の地球上で、毎月とか毎年、一定額の「寄付」や「支援」をし続けられるという人たちはいったいどのくらいいるのでしょうか? もしかすると自分自身は今現在も将来もずっと安全な場所で健康に生活し続けることができてそこで安定した収入が得られたり多くの資産を持ち続けることができていたりするから毎月とか毎年、一定額の「寄付」や「支援」を約束することができるという人たちもいるのかもしれないとは思います。しかし、今現在は生活にそれなりに余裕があるから「寄付」や「支援」をすることはできるが、将来は自分自身もどうなるか分からないと思っている人たちは少なくないのだろうと思います。自然災害なのかその他の何かなのかはよく分からないけれども、もしかすると将来は自分自身も「寄付」や「支援」を受ける側になるかもしれないという漠然とした不安が「寄付」や「支援」をする動機の1つになっているという人たちも少なくはないのだろうと思います。もしかすると自分自身も「寄付」や「支援」を受ける側になるかもしれないと思っているからこそ、比較的余裕のある今は「寄付」や「支援」をしておきたいと思う人たちも少なくないのではないかと思います。繰り返しになりますが、今現在の地球上で、毎月とか毎年、一定額の「寄付」や「支援」をし続けられるという人たちはいったいどのくらいいるのでしょうか? 平和で豊かな社会にいる人たちから支援が必要などこか遠い場所にいる人たちに「寄付」や「支援」をするなどという考え方で本当に良いのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「何買える?」(2024/7/23)

2024-07-23 00:45:57 | 政治・時事

「何買える?」(2024/7/23)

何買える? 『1日100円』 あったなら… 『食費』になるか? 『家』は買えるか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも「寄付」や「支援」は誰に対してどれだけ役に立っているのでしょうか? もちろん「寄付」や「支援」にはそれなりに効果があることは確かです。しかし、そろそろ「寄付」や「支援」などというものに関する「幻想」や「根拠のない強い思い込み」を捨て去る必要があるのではないかと思います。

想像してみてください。今現在の日本では「1日100円」でいったい何が買えるのでしょうか? どんなに少なくとも今現在の日本では「1日100円」ではおにぎりやパンが1個買えるかどうかという金額です。ですからたとえ何日か「1日100円」ずつ貯めたとしてもなかなか1日分の十分な「食費」にはならないのです。また当たり前と言えば当たり前の話ですが、今現在の日本では「1日100円」では「家」が買えるわけがないのです。たとえ気が遠くなるような長期間に渡って「1日100円」ずつ貯金したとしてもなかなか「家」を買うことはできないのだろうと思います。ちなみに「寄付」や「支援」を受ける側の人たちにとっての「1日100円」の価値は今現在の日本の「1日100円」の価値とほぼ同じなのでしょうか? それとも今現在の日本とは「1日100円」の価値が大きく違っているのでしょうか? あえて言い換えるのならば、「1日100円」でいったい何人の人たちを救うことができるのでしょうか? わずか「1日100円」であっても「寄付」や「支援」によって何百人や何千人の命を救うことができるのでしょうか? 少なくとも今の時代には「1日100円」で多くの人たちを救うことができるなどという話はほとんど「幻想」に近いものではないかと思います。多少の誤解と批判を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、今の時代の「寄付」や「支援」は自分がこれから食べようと思っているおにぎりやパンを半分にして困っている人たちと分け合うというようなイメージに近くなっているのではないかと思います。くどいようですが、「1日100円」でいったい何が買えるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『溝』」(2024/7/22)

2024-07-22 23:57:37 | 政治・時事

「『溝』」(2024/7/22)

状況が 刻々変わる 危うさも 『分断』の『溝』 広くて深い…」-

米国のバイデン大統領が7/21(日本時間7/22未明)に11月の大統領選挙での再選を断念して選挙戦から撤退する考えを表明したことで大きな波紋が広がっています(→6/27のトランプ氏とのテレビ討論会で精彩を欠いていたとして民主党内から撤退を求める声が相次いでいた。ハリス副大統領が最有力の後継候補に?)。ちなみに7/13にペンシルベニア州で行われた選挙集会で演説中に銃撃を受けて右耳を負傷したトランプ前大統領は米共和党の大統領候補に指名されています(→トランプ氏は7/18の指名受諾演説では米国の半分ではなく全体の大統領になるために立候補したなどとも述べていた)。

ここ1、2カ月の間の米大統領選挙をめぐる目まぐるしい動きを見ているとどこかの国の「政界の一寸先は闇」などという言葉を思い出してしまいます。刻々と変化する状況にはやや危うさも感じますが…。あくまでも一般論ですが、やはり「撤退」を「決断」したタイミングとそれを「発表」したタイミングが違うことは多いのだろうと思います。たとえ「撤退」を実際に「決断」したのはかなり前であったとしても、「撤退」を「発表」するのは政治的な効果が最大になるタイミングを選ぶことになるのだろうと思います。やはり「撤退」の「発表」のタイミングを選ぶことができるのならば、後継候補に対する期待感が最大限に高まり、かつ、対立候補に与える打撃が最も大きくなるタイミングを選ぶことになるのだろうと思います。その上で、さらに付け加えるのならば、たとえ誰がバイデン大統領の後継候補になったとしても、米国における「分断」とその「溝」の大きさや深さにはほとんど変化はないのだろうと思います。やはりトランプ前大統領に投票するという人たちはトランプ前大統領に投票し続けるのでしょうし、トランプ前大統領には投票しないという人たちはトランプ前大統領には投票しないままなのだろうと思います。あえて言い換えれば、米国における「分断」とその「溝」の大きさや深さに「失望」している人たちの中のどれだけの人たちが再び「希望」を抱いて投票するようになるのかどうかによって選挙結果は決まることになるのだろうと思います。米国に「希望」はあるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「受け入れられる?」(2024/7/21)

2024-07-21 00:45:40 | 政治・時事

きょうは2024/7/21()です。

「受け入れられる?」(2024/7/21)

『ある人』が 大好きなもの 『他の人』が 大嫌いでも 受け入れられる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には実に様々な個性を持った人たちがいます。そうした様々な個性を持った人たちがいる社会を「社会」として維持していくためにはいったい何が必要になるのでしょうか?

繰り返しになりますが、自由で民主的な社会における「自由」には、「他者の自由」を奪い取るような「自由」は含まれていないのです。逆の言い方をすれば、他人が自分自身の「自由」を不当に侵害することも認められないということになるわけです。自分は他人の「自由」を侵害せず、他人も自分の「自由」を侵害しない…。例えば、たとえ「ある人」が大好きなものを「他の人」が大嫌いであったとしても、「ある人」は「他の人」の「大嫌いでいる自由」を認めることができるのでしょうか? あるいは、いくら「ある人」が「別の人」のことが大好きであったとしても、「別の人」は「ある人」のことが大嫌いであるという「現実」を受け入れることができるのでしょうか? 自由で民主的な社会においてはどんなに少なくとも何が好きで何が嫌いかということは間違いなくそれぞれの人たちの「自由」なのです。繰り返しになりますが、自由で民主的な社会における「自由」には、「他者の自由」を奪い取るような「自由」は含まれていないのです。様々な個性を持った人たちがいる社会を「社会」として維持していくためにはそれぞれの個人が「他者の自由」を尊重するということが必要不可欠なのです。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『自由』には…」(2024/7/20)

2024-07-20 00:45:15 | 政治・時事

「『自由』には…」(2024/7/20)

『自由』には 『他者の自由』を 奪い取る 『自由』は含ま れないはずだが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には実に様々な個性を持った人たちがいます。そうした様々な個性を持った人たちがいる社会を「社会」として維持していくためにはいったい何が必要になるのでしょうか?

そもそも自由で民主的な社会における「自由」とはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか? 「自由」は無制限なものなのでしょうか? もちろんそんなことはないのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、自由で民主的な社会における「自由」は、無制限なものではなく、どんなに少なくとも法律などのルールによって制限されることになるわけです。それに加えて、自由で民主的な社会における「自由」は、「法律などのルール以外のもの」によってもさらに制限されることになるのです。そして「法律などのルール以外のもの」の中で最も重視されるのが「他者の自由」ということになるのだろうと思います。あえて別の言い方をするのならば、自由で民主的な社会における「自由」には、「他者の自由」を奪い取るような「自由」は含まれていないということになるのです。「他者の自由」を奪い取るような「自由」が認められないということは、逆の言い方をすれば、他人が自分自身の「自由」を不当に侵害することも認められないということになるわけです。自分は他人の「自由」を侵害せず、他人も自分の「自由」を侵害しない…。そのことが様々な個性を持った人たちがいる社会を「社会」として維持していくために必要不可欠なものの1つになるのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「『分極化』」(2024/7/19)

2024-07-19 00:59:24 | 政治・時事

「『分極化』」(2024/7/19)

ある社会 自由で民主 的ならば 『分極化』する 傾向あるが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には実に様々な個性を持った人たちがいます。そうした様々な個性を持った人たちがいる社会を「社会」として維持していくためにはいったい何が必要になるのでしょうか?

あえて個別具体的な事例や固有名詞を取り上げることは避けますが、あまりにもバラエティーに富んだ個性豊かな人たちの集まりである「どこかの超大国」では数年前から社会の「分断」が大きな問題になっています。そもそもなぜ社会は「分断」してしまうのでしょうか? 社会の「分断」という言葉をもっと現実に即した形で言い換えるのならば、社会の「分極化」ということになるのではないかと思います。どんなに少なくとも最近の「どこかの超大国」は、「どこかの超大国第一主義」などという「極」と、国際協調主義などと呼ぶべき「極」の2つに「分極化」していると見ることができるのではないかと思います。言うまでもなく自由で民主的な社会においては、様々な価値観や考え方が許されなければならないのです。あえて言い換えれば、自由で民主的な社会は「分極化」する傾向があると見ることもできるのです。そんな「分極化」する傾向がある自由で民主的な社会を「社会」として維持していくためにはいったい何が必要になるのでしょうか? きょうのところはあえてそんな素朴な疑問を投げかけるだけにとどめることにしておきます。

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「空っぽ? 中身がない?」(2024/7/18)

2024-07-18 00:45:58 | 政治・時事

きょうは2024/7/18()です。

「空っぽ? 中身がない?」(2024/7/18)

空っぽで 中身がないと 思われる! 自分のことを 語らないなら」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこの社会でも「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」がいるものです。そしてどうやら最近はその「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちが地球上のあちこちで騒動を引き起こしているようなのです。

自分にとって不都合なことを問われたときにはその質問を「愚問」と呼んで突っぱね、自分が相手に言わせたいことを相手が答えない場合には「質問に答えていない」などと罵り出すような「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちとまともな議論をするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 1つの方法としては、「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」に他人のことではなく自分自身のことを積極的に語らなければならない状況をあえて作り出せばいいのだろうと思います。例えば、いくら「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」が「また同じことを言わせるつもりか」とか「政策はホームページに載せてあるからそれを読め」などと叫び続けたとしても、今現在この議論を聞いている人たちにそれなりに分かりやすく簡潔に説明することもできないのならば、彼・彼女は「中身のないただの空っぽな人間」であると客観的には判断されることになると教えてやればいいのではないかと思います。もしも彼・彼女が「中身のないただの空っぽな人間」ではないのならば、何度同じことを聞かれたとしても説明の仕方を少しずつ変えながら何度でも説明することができるはずなのです。何にしても最近はどうやら地球上のあちこちで「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちが騒動を引き起こしているようなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「互いに相手のことは…」(2024/7/17)

2024-07-17 00:45:06 | 政治・時事

「互いに相手のことは…」(2024/7/17)

お互いに 相手のことは よく見える! 第三者には 『エンタメ』になる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこの社会でも「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」がいるものです。そしてどうやら最近はその「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちが地球上のあちこちで騒動を引き起こしているようなのです。

あくまでも一般論ですが、もしも「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」と、別の「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」が「議論」をした場合には、いったいどのような「議論」になるのでしょうか? 互いに自分にとって不都合なことを問われたときにはその質問を「愚問」と呼んで突っぱね、互いに自分が相手に言わせたいことを相手が答えない場合には「質問に答えていない」などと罵り出す…。おそらく驚くほど見事に「議論」が全くかみ合わない状況が続くことになるのだろうと思います。そして「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」は互いに相手のことは比較的よく見えているけれどもどちらも自分自身のことについてはほとんど見えていないわけです。「議論」を聞かされている第三者にとっては「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちが互いに相手のことを批判している部分についてだけはそれなりに説得力を感じるという状況はある意味での「エンターテインメント」になるのだろうと思います。その上で、あえて素朴な疑問を投げかけるのならば、本物の「議論」の場に本当に「エンターテインメント」は必要なのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『愚問』」(2024/7/16)

2024-07-16 00:55:44 | 政治・時事

「『愚問』」(2024/7/16)

不都合な ことは『愚問』と 突っぱねて 望む答えが ないと答えず?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこの社会でも「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」がいるものです。そしてどうやら最近はその「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちが地球上のあちこちで騒動を引き起こしているようなのです。

もしもあなたが「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」と「議論」をした場合にはいったいどのような「議論」になるのか想像することができるでしょうか? あくまでも一般論ですが、おそらく世の中には「政治屋」がたくさんあふれているのだろうと思います。しかし、そもそも「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」が言う「政治屋」の「定義」とはいったい何なのでしょうか? さすがに「(前略)…選挙に立候補する者(自分以外)」などという明確な形での「定義」にはなっていないのだろうと思います。そしてこれもあくまでも一般論ですが、確かにマスメディアには「愚問」があふれているのだろうと思います。しかし、その「愚問」と呼ばれているものはいったいどのような理由から「愚問」と呼ばれているのでしょうか? そもそも「愚問」であるかどうかを決めているのはいったい誰なのでしょうか? さすがに「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」が「愚問」と呼んでいるものが「愚問」になるということではないのだろうと思います。さらに言えば、これもあくまでも一般論ですが、「質問に答える」とか「質問に答えていない」などということの「定義」はいったい何なのでしょうか? そして「質問に答える」とか「質問に答えていない」などということを決めることができるのはいったい誰なのでしょうか? 自分にとって不都合なことを問われたときにはその質問を「愚問」と呼んで突っぱね、自分が相手に言わせたいことを相手が答えない場合には「質問に答えていない」などと罵り出す…。あえて想像してみてください。本当にこんな状況で議論が成立するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「あの人は…」(2024/7/15)

2024-07-15 23:58:14 | 政治・時事

「あの人は…」(2024/7/15)

あの人は 『自分以外の 物事』は 比較的よく 見えているけど…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこの社会でも「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」がいるものです。そしてどうやら最近はその「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちが地球上のあちこちで騒動を引き起こしているようなのです。

本物の「民主主義国家」においては「民主主義」や「選挙」を「暴力」で破壊するようなことは許されないことです。自由で民主的な社会においては、特に「民主主義」や「選挙」に対する「暴力」はあってはならないことなのです。個別具体的な事例や固有名詞を取り上げることは避けますが、言うまでもなく自由で民主的な社会においては、選挙で演説中の候補者や選挙の応援のために駆け付けた有名人などを銃撃するなどということは断じて許されることではないのです。さらに言えば、自由で民主的な社会においては、「何者」かによって扇動された「群衆」が「議会」を襲撃して占拠するなどということも断じて許されることではないのです。その上で、あえて念のために付け加えるのならば、「民主主義を守るために戦え!」などという「スローガン」などは、民主主義を守るためだけではなく、民主主義を破壊するためにも使われることもあるのです。もしもどこかの場所に「民主主義を守るために戦え!」などという「スローガン」などを声高に唱えている人間たちがいる場合には、彼・彼女たちの「足元」をよくよく注意してみる必要があるのです。彼・彼女たちは「自分のこと以外の物事については比較的よく見えている人間」たちではないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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