二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

四句分別

2023-08-14 23:30:00 | 日記
以下は龍樹という仏教学者が著した『中論』という本からの、ものごとを解釈する四種の論理形式。

四句分別

 存在に関する四種の考察で、有と無についていえば、
①有り
②無し
③有りかつ無し
④有るに非ず無しに非ず
の四種となります。



①コップに水が半分ある。
②コップに水が半分ない。
③コップに水が半分あり、かつ半分ない。
④コップに水が半分なく、半分ある。

形式的論理では排中律によって、この「半分」という中間概念が排除されます。半分というようなあいまいな概念は真偽の対象にはならないからです。したがってコップに水が「ある」か「ない」かのどちらかの判断だけになります。


主観的と客観的

 この半分というのは主観的なものであり、「半分」という存在自体はないのです。これは比較による思考の内にだけある存在なのです。だから、形式的論理は客観的であろうとしてこの主観的判断を排除します。しかし現実は主観•客観的なものなので客観的なものの見方だけでは片目で見るようなもので現実の半分しか見ていないことになります。

上下、左右、遠近、大小、前後、美醜、憎愛、善悪、敵味方、去る来る、同じと異なる、速い遅い、等々。

 これらはすべてその中心に個人の存在があり、その主観を離れては意味のない概念(言葉)です。主観が上下左右、前後遠近、善悪美醜を決めるわけであり客観的にその基準があるわけではないから
です。



四句分別はその論理に中間概念を含めています。つまり論理の中に主観を含めているわけです。中論にはつぎのように書かれています。

18章•10  いかなるものでも縁によって生じるものはそれと同一ではない。しかし全く別でもない。それゆえに断絶でもなく常住でもない。

 これに関して面白い記事があります。「心の哲学まとめ」wikiからの引用です。

 感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。事物が別のものに変わるということ、たとえば青いつぼみが赤い花に変化する時などは、青いつぼみが「ないもの」になり、赤い花が「あるもの」になる。しかし「青いつぼみ」のどこを探しても「赤い花」は無い。すなわちゼロをいくら足しても乗じてもゼロであるゆえに、変化とは論理的に不可能だと主張することができる。また変化とは矛盾であるともいえる。丸いものが四角いものに変化したという場合、両者に同一性があるとするならば、どこかの時点で、これは丸いものでもあり、かつ別のものでもある、ということが許されていなければならない。しかしこれは矛盾律(Aは非Aではない)に反する。どれほど似ていようと、どれかの時点についていう限り、そのものは丸いか、そうでないかのどちらかしかない。つまりどの時点においても特定の一つの形しかもっていない。そして一つの形だけでは変化とはいわない。さらに変化のない形をすべて集めても変化とはいわない。結局変化とは、ある時点での特定の形と、別の時点での特定の形に、人が因果関係を見出すことによって生じる「概念」としての存在であり、変化そのものが実在しているとはいえない。



 □△○の同一性はそれが一本の線によって囲まれた図形という点にあります。この一本の線が丸くもなり四角にもなり三角にも五角形にも変化します。形はそれぞれ違っていてもただ一本の線でつくられているのにはかわりありません。線に注目した場合は「一」、図形に注目した場合は「多」、両者に注目した場合は「一即多」になります。

 廣松渉は、「変化」とは本質的に矛盾した存在様態であるという。別々のものの状態をいくら並べても変化とはいわない。変化とは或る一定のものの変化であって、或る同じものが一貫して存在しなければ変化という概念がそもそも成立しない。しかし同じものがあり続けるのなら無変化である。したがって同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を変化というものは孕んでいると指摘し、変化というものは不思議であると述べる。
(パルメニデス)より

「変化」と「同一性」は相反する概念である。物事が変化したなら別の物事になり同一ではない。しかし異なる時点において別の物事が並んでいるだけなら変化とは言わない。時点1ではFであり、時点2ではGであるとするなら、「FはFである」「GはGである」と言うべきである。FがGに「なる」と言う場合、それは人の推理を表しているのであって、変化は世界の事実とは言えない。このような厳密な同一律を根拠に変化の実在を否定したのが紀元前の哲学者パルメニデスであった。廣松渉は、変化とは同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を持っていると指摘している。
   (人格の同一性)より

自己同一律
いかなるものでも縁によって生じるものはそれと同一ではない。しかし全く別でもない。それゆえに断絶でもなく常住でもない。
     中論18章•10  

 龍樹のこの論理はまさに変化と同一性の論理といえそうです。これを西洋的に「自己同一律」と呼んではどうかというのが私の主張。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿