
11日の建国記念日,道の駅南相馬で8J7YACが開局されました.
8J7YACは,「南相馬を無線通信の聖地にする会」通称MMSの活動意義の一つとしてアマチュア無線の体験局の特別コールサイン.
ちなみに,体験局とは無線の資格を持っていなくても、アマチュア無線体験局のアマチュア無線有資格者の監督(指揮・立会い)により、アマチュア無線の操作が体験出来る制度.

話は一月ほど遡ります.
MMSの由来を確認していたら,今から102年前(1921年),現在の南相馬市に「原町無線塔」と呼ばれる高さ約200mを有するコンクリート製の電波塔が建設されていた事を知ったんです.
それが1982年,老朽化で解体され,現在はその歴史を後世に伝えるべく1/10スケールの「憶原町無線塔」が建設されている事を知ったのもその時でした.
そんなわけで,せっかくだから体験局とはどんな様子で行うのか,そして,「憶原町無線塔」を見に行って,一緒に以前から気になっていた4基の風力発電設備を間近で見るぞと,南相馬市へバモスを走らせました.
朝の8時半頃,自宅をスタートしてR6を北上,プライベートで浜通りを北へ向かうのは,宮城県栗原市へ単身赴任中だった頃以来,思えば実に5年振りで,そんなに経ったのかとちょっと驚いた次第.
ちょくちょく,アマ無線の講習会で出かけていたので,知らない道のりではないのですけどね.
前日の雪が残るR6で「道の駅南相馬まで2km」の標識が目に入ったのは,10時過ぎでした.
最初の目的は,8J7YACとのQSO,朝の10時頃からQRVする予定になっているのでスタンバイしていると,RS59+のCQがID-4100から聞こえて来ました.
すかさず,コールしてQSOが始まり,体験者ともQSOが終了したのは道の駅の駐車場でした.

体験局会場で,数名の関係者や知合いの局と挨拶をして,8J7YACの体験局を見学しながら,憶原町無線塔を確認して驚いたんですよ.
それは,道の駅の交差点の対面の左側に,高さ20mの白色の塔が建っているんです.
朝から晴れた青空と白色のコントラストが非常に映えてました↓

石碑に刻まれた文字から抜粋してお伝えします.(名称は当時のまま)
-・・・-

磐城無線電信局原町送信所は,対米通信網確立のため,大正八年三月着工して大正十年七月一日に開所,昭和八年七月まで使用され,その間,大正十二年九月一日の関東大震災の際に災害の状況をいち早くアメリカに報道して全世界から注目された施設である.(抜粋)
・・・-・
原町無線塔の形状は,φ17.7m(底面)×φ1.81m(先端)×200m(高さ)の鉄筋コンクリート製でした.
原町無線塔は,関東大震災の被災情報を一早く世界へ伝える事が出来た無線塔であり,我が国の無線通信技術の高さを世界に知らしめた無線塔だと判断します.
しかし,当時の無線通信は長波から短波への過渡期であって,西暦1921年~1933年の12年たらずでその役目を終えたのが残念でなりません.
それと,県内に我が国の無線界で記念すべき歴史を持つ街があった事を知り,アマチュア無線を趣味としている一人として意味も無く誇らしいです.
ラジオ少年がゲルマニウムラジオを作って,初めてラジオ放送をキャッチした時の感覚を久々に思い出してしまった次第.
詳細はネットなどで検索されてみて下さい.

ところで,憶原町無線塔の右隣はR6の下り車線,栗原赴任時代にここを何度も通過したわけで,全く気付いていなかった自分が実に悔しくて,情けないですよ.
それとですね,前フレのR6を通る際,海岸方向に見える風力発電設備のプロペラが気になっていまして,久しぶりに南相馬まで来たので見に行って来ました.

青森へ出張していた時は,巨大なプロペラが回転しているのを見ながら近くを通勤していましたからね.
山の麓や海岸沿いに巨大プロペラが鎮座している事への賛否はあるでしょうが,それもまた,一つの風景になっていますから個人的には悪くない感ありです.
そんなわけで,全ての予定を終わらせてR6を南下したのは,12時過ぎ.
途中,楢葉町のコンビニでパンとコーヒーの遅い昼食で,自宅へ着いたのは14時を回った頃でした.
残雪で泥だらけになったバモス,明日は洗車だなと思いながら,7MHzの空へ.
15時が8J7YACのQRT時刻,その30分程前にQSO,アマ無線漬けの一日がこれで終了でした.

8J7YACは,「南相馬を無線通信の聖地にする会」通称MMSの活動意義の一つとしてアマチュア無線の体験局の特別コールサイン.
ちなみに,体験局とは無線の資格を持っていなくても、アマチュア無線体験局のアマチュア無線有資格者の監督(指揮・立会い)により、アマチュア無線の操作が体験出来る制度.

話は一月ほど遡ります.
MMSの由来を確認していたら,今から102年前(1921年),現在の南相馬市に「原町無線塔」と呼ばれる高さ約200mを有するコンクリート製の電波塔が建設されていた事を知ったんです.
それが1982年,老朽化で解体され,現在はその歴史を後世に伝えるべく1/10スケールの「憶原町無線塔」が建設されている事を知ったのもその時でした.
そんなわけで,せっかくだから体験局とはどんな様子で行うのか,そして,「憶原町無線塔」を見に行って,一緒に以前から気になっていた4基の風力発電設備を間近で見るぞと,南相馬市へバモスを走らせました.
朝の8時半頃,自宅をスタートしてR6を北上,プライベートで浜通りを北へ向かうのは,宮城県栗原市へ単身赴任中だった頃以来,思えば実に5年振りで,そんなに経ったのかとちょっと驚いた次第.

ちょくちょく,アマ無線の講習会で出かけていたので,知らない道のりではないのですけどね.
前日の雪が残るR6で「道の駅南相馬まで2km」の標識が目に入ったのは,10時過ぎでした.
最初の目的は,8J7YACとのQSO,朝の10時頃からQRVする予定になっているのでスタンバイしていると,RS59+のCQがID-4100から聞こえて来ました.
すかさず,コールしてQSOが始まり,体験者ともQSOが終了したのは道の駅の駐車場でした.

体験局会場で,数名の関係者や知合いの局と挨拶をして,8J7YACの体験局を見学しながら,憶原町無線塔を確認して驚いたんですよ.
それは,道の駅の交差点の対面の左側に,高さ20mの白色の塔が建っているんです.
朝から晴れた青空と白色のコントラストが非常に映えてました↓

石碑に刻まれた文字から抜粋してお伝えします.(名称は当時のまま)
-・・・-

磐城無線電信局原町送信所は,対米通信網確立のため,大正八年三月着工して大正十年七月一日に開所,昭和八年七月まで使用され,その間,大正十二年九月一日の関東大震災の際に災害の状況をいち早くアメリカに報道して全世界から注目された施設である.(抜粋)
・・・-・
原町無線塔の形状は,φ17.7m(底面)×φ1.81m(先端)×200m(高さ)の鉄筋コンクリート製でした.
原町無線塔は,関東大震災の被災情報を一早く世界へ伝える事が出来た無線塔であり,我が国の無線通信技術の高さを世界に知らしめた無線塔だと判断します.
しかし,当時の無線通信は長波から短波への過渡期であって,西暦1921年~1933年の12年たらずでその役目を終えたのが残念でなりません.
それと,県内に我が国の無線界で記念すべき歴史を持つ街があった事を知り,アマチュア無線を趣味としている一人として意味も無く誇らしいです.

ラジオ少年がゲルマニウムラジオを作って,初めてラジオ放送をキャッチした時の感覚を久々に思い出してしまった次第.
詳細はネットなどで検索されてみて下さい.

ところで,憶原町無線塔の右隣はR6の下り車線,栗原赴任時代にここを何度も通過したわけで,全く気付いていなかった自分が実に悔しくて,情けないですよ.

それとですね,前フレのR6を通る際,海岸方向に見える風力発電設備のプロペラが気になっていまして,久しぶりに南相馬まで来たので見に行って来ました.

青森へ出張していた時は,巨大なプロペラが回転しているのを見ながら近くを通勤していましたからね.
山の麓や海岸沿いに巨大プロペラが鎮座している事への賛否はあるでしょうが,それもまた,一つの風景になっていますから個人的には悪くない感ありです.
そんなわけで,全ての予定を終わらせてR6を南下したのは,12時過ぎ.
途中,楢葉町のコンビニでパンとコーヒーの遅い昼食で,自宅へ着いたのは14時を回った頃でした.
残雪で泥だらけになったバモス,明日は洗車だなと思いながら,7MHzの空へ.
15時が8J7YACのQRT時刻,その30分程前にQSO,アマ無線漬けの一日がこれで終了でした.

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