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1999年32歳で乳がん発覚、2007年に再発した女のぶっちゃけトーク

出家

2007-11-28 17:42:01 | 初発時の経緯
初発時の経緯 7

 最初の抗がん剤治療から5日で退院した。さすがに二日酔いのような気持ち悪さがあったり、吐き気止めの副作用で(デカドロン)眠れなくなったりしたが、食事も普通に取れるし、副作用は思ったより軽く、拍子抜けしたほどだった。
 注射を打ってから二週間後位から毛髪が抜け出すという。そして三週間後くらいには白血球が下がる時期があるので、生ものとかを食べないように、そして風邪を引かないようにということだった。体調を崩すとスケジュールが狂ってしまうのである。
 
 家に帰って、普通の生活をしていたが、それほど調子は悪くない。髪の毛も一向に抜け落ちる気配さえもないので、100%脱毛するといわれたが、自分は大丈夫なんじゃないかとさえ思えてくる。バカみたいに楽観的で強気な思い込みだった。二週間が過ぎて、だんだんパラパラと抜け始めた。テレビドラマで見るように、ごっそりというほどではなかった。しかし、風呂に入ってシャンプーしようと液をつけて洗い出したとたん、髪が固まりになって動かなくなった。初めての感触で、一瞬何が起こったかわからなかった。見ると、ごっそりと固まりになって髪が抜けた。手指からとって、また残った髪を触ると、それも抜けた。一度にかなりの量が抜けてしまった。台所から、ビニール袋を持ってきてつめる。ロングヘアーだったのだが、抜けるといわれて短く切っておいたのだが、それでもすごい量だ。風呂を上がって見ると、無残な姿が鏡に映っていた。サザエさんの波平お父さんのように、下の部分が残っていたが、あまりに見苦しいので、全部剃った。

 高校時代に出家したいと思ったことがあったが、そのときは絶対剃髪にするつもりだった。頭だけは念願かなって、坊主あたまになった。

 尼になるならともかく、自分の意志ではこのスタイルはなかなか踏み切れない。そう思うと、最初は新鮮であちらこちらの角度から、見たりして楽しんだ。しかし、それもつかの間、見飽きてしまう。
 その時期は冬だったので、とにかく寒い。頭もそうだが首周りが冷えて、困る。そのマンマでは到底眠れないので、毛糸の帽子をかぶって寝ていた。

 そういえばスキンヘッドの友人のベッドわきにも、同じような毛糸の帽子があったよなぁ。ハゲになったら、剃った方がいいとか、無責任に言ってきたけど、髪の毛ってやっぱり暖かいし、あるとぶつかった時にも痛くないのだ。
 この時、ハゲ男の悲しさが寒さ、寂しさを真実に理解できた。

昔はハゲの男は勘弁、と思っていたが、このときの経験から今は広い心を持ってハゲ男を受け入れることができる。



臨床試験のための入院

2007-11-22 18:55:53 | 初発時の経緯
初発時の経緯  6

1999年12月半ばから、臨床試験のための入院が始まった。当時4歳だった娘を新幹線にひとり乗せて、実家の仙台に帰した。実家の母は病弱で、私の96歳の祖母もまだ寝たきりで健在だったため、誰も東京に来て手伝ってくれる人は居なかったのだ。

 指定席の隣は親子連れだったので、仙台に着いたら降りるように促してもらうように頼む。親子連れの母親は私を責めるかのように、冷たく視線を送ってきた。仙台のホームで私の父親が待っててくれるとはいえ、二時間、四歳の子をひとりで乗せたのは大胆な選択だった。だけど私にはそうするほかなかった。

 下の一歳の娘は児童施設のような所に一時預かりをお願いした。私の夫は早朝にでてしまうので、保育園に預けて迎えに行くような事はできなかったのだ。
 
 全て準備を整えて、いざ入院。臨床試験だったせいか、個室入院になった。部屋にシャワーもトイレもついているし、病院は新しくなったばかりだったので、非常に居心地よかった。他の入院患者もいないので、音楽もスピーカーから流すことができる。外は夜景もきれいだった。
 
 初めて注射する日、看護士が最初の一時間くらいを共にして話し相手になってくれたので、かなり気が紛れた。もちろんそうやって看護士は様子を観察していたのだろうけど、心強かった。

 今時は副作用止めの薬が色々とあって、それほど辛くないと聞かされていた。単純な私はそういうものなのかと信じていたので、実際に大した副作用は起こらず、確かに気持ちよいものではなかったけれど、吐き気も起こらず急性のアレルギー反応のようなものはでなかった。
やれやれ、一安心だ。

モルモット

2007-11-19 10:44:39 | 初発時の経緯
初発時の経緯 5

 臨床試験を受けるかどうか、悩みに悩んだ。抗がん剤というのは博打のような治療だ。投与したら、誰でも効くのかというとそうではなくて、およそ三分の一の人たちにしか効かないと当時言われていた。残りの人たちの中には悪化する人もいるのである。

 しかし、もともとチャレンジャー的性格があり、新しいものに目がない私には、この新しい効果のありそうな治療は魅力だった。どうせ効くか効かないか分からないのなら、この試験をすることによって、後の人たちに結果を残すことで人に貢献したいという思いもあった。どうせ博打を打つのなら、セコイ博打は打ちたくない。


 私はそのとき、クリスチャンの信仰をもっていなかった。神が居ることは信じていたが、それがどれか特定の宗教の神といわれると、ぴんと来なかった。当時の夫がイスラム教の神を信じており、選択に困ったときに占いのようなものがあるという。どうにも決めかねて、それをやてもらう。

 アラビア語で何か書かれた文字の周りに妙な図形を描き、ボウ線を沢山。なにか数を数えていた。何がなんだか分からないけど、結果は臨床試験を受ける方になった。まぁ私も受けてみたい気持ちの方が強かったし、アラーの神様のお墨付きを得たので、W医師に試験を受けると診察時申し出る。W医師は意外、という表情を浮かべたが、向こうにしてみれば試験が進むのだからよい知らせ、上機嫌であった。

臨床試験

2007-11-14 18:34:24 | 初発時の経緯
初発時の経緯 4

このブログは初発時の状況と、再発時の状況を交互に書き進めています。カテゴリ

ーに分けてありますので、続けて読む方はそちらでおねがいします。



 さぁ、この病気で三人目の医師である、腫瘍内科医の登場だ。

医師というのはつくづく個性的な人たちだと思う。それぞれインパクトがある。

 W医師は、診察室の小さなイスに後ろに倒れるのではないかと思うほどふんぞり

返って座り、大きな身体をイスからはみ出さんばかりだった。この人は権威的な圧

力を与えるタイプの医師で、とにかく「できる男」的アピールがすごい。その辺の

ヘボい医師とは一緒にされたくない、というオーラを出しまくっている。

 治療の説明の段になって、意外な提案が出された。術前化学療法というのは変わ

らないのだが、私のような病態の人を対象にした臨床試験があて、それをしてみな

いか、といわれた。何でも、薬自体は認可されているものであって、乳がんの治療

に使用されているのだが、それを術前でやった場合どうなるかということと、薬剤

の組み合わせが新しいらしく、従来の方法と比べてどうなのか試験するものだっ

た。それによる副作用についても調べるらしい。

 詳しい方法が書いてあるものを書面で渡された。今度の診察まで、どうするか考

えてきて欲しいといわれた。
 
 臨床試験・・。私はその頃、知人から薦められて、慶応大学病院の近藤 誠医師

の書いた本を読んだ。それには抗ガン剤なんか、効かないし臨床試験なんて、もっ

てのほか、というようなことが書かれていた。う~ん。どうしよう。W医師は非常

に効果が期待できるし、それで腫瘍が全くなくなった人もおり、その状態で二年間

キープしているというのだ。

 まぁ、W医師はもちろん参加して欲しいのだろうから、いい事を言うに決まって

いる。そんな効くか効かないか分からない治療に命を賭けていいものだろうか?マ

ウスみたいに、実験されるなんて。

 小さい頃みた、「白い巨塔」という医学ドラマが頭によぎる。
 
 

セカンドオピニオン

2007-11-12 10:56:45 | 初発時の経緯
初発時の経緯 3

手術の話になって急にイキイキし始めたり、温存かどうか手術中に決めるという医

師の話に不信感をもち、二回目の診察時に、セカンドオピニオンということでガン

専門病院に紹介状を書いてもらう。

 その話を持ち出すと、急に事務的になった。同席した母が「そちらでお話伺った

後に、やはり先生に診てもらうために戻るということはできるでしょうか。」と聞

くと、「いいですよ。でも手術後というのでは困りますね。」と迷惑そうに答え

た。私としてもこの医師に見てもらうつもりはなかった。二度の診察で直感的にダ

メだと思った。
 
 ガン専門病院の外科医師との最初の面談。外科の医師は私とほぼ同年代の女医だ

った。表情や態度が堅い。リラックスした雰囲気はまったくない。患者と医者。こ

のキッチリとした構図の中で、少しもはみ出すことが許されないような緊張感。そ

の頃の私は、突然振って湧いたこの不幸のなかで、かなりナーバスになっていたこ

ともあってこの血の通わぬ関係性のなかで、全くの慰めを受けられない相手に身を

ゆだねなければならないことが不安だった。
 
 ここでは、前医と違った治療方針を告げられた。「今すぐに切るのではなく、お

薬で小さくしてから手術しましょう。」というのだ。


大きくなった乳がんには、術前化学療法とういう方法が用いられる。一般的に術後

にリンパ節の転移をみて抗がん剤をするかしないか決めるのだが、私のように腫瘍

が大きくある程度進行した状態で見つかり、リンパ節にも超音波の画像で転移らし

い陰があるとき、手術時リンパの転移を組織検査するまでもなく、抗がん剤の使用

はマストとなるのだ。腫瘍がある状態で、抗がん剤を投与することによって、その

薬が効いているかどうかの判定もできる。腫瘍が小さくなれば、乳房温存も可能に

なる。

私は乳房を温存したかったので、それについては願っても居ないチャンスと感じ

た。ついては薬の専門の医師がいるということで、バトンタッチすることになり腫

瘍内科医の診察室に回された。



「私、死ぬんですか?」

2007-11-09 10:11:46 | 初発時の経緯
初発時の経緯 2

検査室から診察室に戻ると、マンモグラフィの画像を見ながら、

医師はがっくりと肩を落とした。

診察台の上で横たわっているこちらからでも、はっきりと解るほどだった。

超音波の検査では乳房だけでなく、脇の下の部分までにいたって、

ゴリゴリと長時間スキャンされた。

検査技師は「何で早くこなかったの?」といっていた。

その様子から、自分がガンであるだろう事は検査後再び診察室に戻って

医師から診断を聞く前に充分予測できた。

医師は器用にマンモグラフィの画像を元にボールペンで

図に書き直してくれて、どのような状態か説明してくれた。

乳首に近い部分に腫瘍があり、そこから乳管を

通って、その先にも腫瘍がある。乳管の中にもガンが詰まっていて、

周りには石灰化の後がある。

「98パーセントガンでしょう。」

組織検査をしていないから微妙な数字をいったようだが、

押しも押されぬガンに間違いないようだ。

なんだかドラマの中の出来事のように、リアリティがない。

「これって腫瘍が一個ではないってことですよね。大分進んでいる

ってことですよね。私、死ぬんですか?」と聞くと、

医師は「ガンだからっていって、皆死ぬってわけじゃないよ。」と

冷静に返した。

そうだ、私が聞きたいのはそんなことじゃない、どうやったら生き

残れるかってことだ。

それにもうすぐ5時だ。保育園の迎えに行かなければならない。

仕事はどうしよう・・。

今後のことを考えると頭が一杯になった。

次の瞬間出た言葉、それは

「私、子供を保育園に迎えに行かないといけないのです。

今後のスケジュールはどうなりますか?」とあまりに現実的な

質問だった。

私は実母が乳がんに罹患したことがあるので、多少知識があった。

これからの検査、術式のこと、手術の日程などを聞く。

結構バタバタなスケジュールで、術式も手術時に開いてから

組織検査をして、乳房温存できるか決めるという。

何よりも、手術の話をする先生の目の輝きようったらなかった。

とってもイキイキしてる。

久々に切るんだろうか?切るのがうれしんだろうか?

そう思うと、なんだかこの男がマンモグラフィの画像の前で

肩を落としていた姿さえ芝居に見えてくる。

「時間もないし、今日何もかも話しても解らないでしょうから、

後日改めて御家族と来て下さい。」といわれ診察室をでる。

どうやって会計を済ましたかもわからない。

まるで映画でも見てるみたいだった。

病院の外に出て、やっと自分に起こったことのスケールの

大きさ、そしてそれを取り消すことのできないのだという

事が責めるように押し寄せてきた。

私はすれ違う人を気にする余裕もなく、声を上げて泣きながら

歩いていた。









乳がんがみつかった頃のこと

2007-11-07 13:51:06 | 初発時の経緯
初発時の経緯 1

病気のことをつづるために、ブログをやろうなんて思っても見ませんでした。

自分で手記を書こうと思っていてもついつい日々の生活に流されて、

記録する間もなく記憶も薄れていってしまう。やっぱりオンタイムで

書いて行かないと、ダメだって思いました。発病したのは1999年なの

でもう8年前になりますね。娘の授乳中にしこりと乳首の変形が。当時

通っていた母乳マッサージの助産婦に相談、すぐにそこの産婦人科にみ

てもらったのですが、「はっきりわからない、とにかく授乳中はわかり

にくいので。」といわれ、大したこととは思わず乳腺炎かもしれないと

のことで、抗生物質をだされました。それから3カ月くらいそのまま授乳

を続けていましたが、娘が一歳になったのをきっかけに断乳すると、小

さくなったおっぱいにしこりの部分が膨れているのがはっきりわかり、乳

首も変形して直らないまま。それでも一ヶ月くらいは忙しくて病院にいけ

ず、やっと乳腺外来に受診し、当日に即刻乳がんであることを告げられま

した。そのときは既に結構な大きさになっていたのです。