ち く ま ホーム Ⅲ (いわみ学)

  岩 美 町 の 先 人、文 化、史 跡 を尋 ね て!
   一緒に岩美町を楽しみませんか?

屋台ばやし保存会

2013-01-26 20:08:32 | Weblog
ちくまホームより転載しました。

 浦富屋台囃し保存会は平成7年6月に結成しました。趣旨は浦富屋台祭りの継承、とくに屋台囃しの伝承を目的としています。 昭和40年代まで囃子方が屋台に乗り囃していましたが、しだいに囃す人も少なくなり、今のうちに継承しなければと有志が集まり結成いたしました。 また屋台も平成7年の祭りより各町内で曳き出さなくなり、新に有志を募り屋台を曳き出す会を結成してその屋台に乗り囃す。以後、屋台囃し及び屋台の伝承に力を入れて現在に至っています。(画像はフォトアルバム> 屋台囃し&浦富小唄保存会・浦富祭り) 屋台ばやし保存会 竹間徳治
     
屋台囃しについて
 江戸時代、享保年間(1716~)鳥取藩家老 鵜殿長春公が駟馳山以東の知行地、特に浦富の町屋の活性化、五穀豊饒、無病息災を祈念し御幸祭礼を創設されました。
 榊、屋台、獅子、神輿の御幸行列で賑い、屋台を曳き出す時に囃していた屋台囃し、一番は「諸国諸大名のお上りみれば」で始まる大名行列を唄ったもので、歌詞は鵜殿家中の者が作詞、曲は①貝殻節のように海から伝わった②追分のように陸づたいで伝わった③京都に寺参りをした人達が遊んで覚えた④鵜殿家中の者が、京都伏見に赴任した時覚えた⑤鵜殿長春が京都から芸人を呼んで覚えた、いろいろ説があるが文章としては残っていません。
2番は正月の風景を唄ったものです。

屋台ばやし
 諸国諸大名の お上り見れば
 弓矢鉄砲や 槍なぎなた ワイワイ
 お駕篭六尺 八枚肩 ワイワイ
 奴は鳥毛の お葛籠お馬 ワイワイ
 台笠立て笠 お先にふれる ワイワイ
 だんだん 警護をめしつれ行くなら
 先を急ぐな ひそかに行け ワイワイ
 宿所と見えたら お手ふりあげ ワイワイ
 行列そろえて 本陣に行くなら
 サアサ めでたい千秋楽 ワイワイ

2番 
 初春祝うて 門に 門松
 内にや 三味ひく 小唄の声 ワイワイ
 琴の調べは 太平楽 ワイワイ
 羽根つく 毬つく ひいふうみいよ
 三保も変わらぬ 二葉の松 ワイワイ
 表にや 倭の子の 鼓や太鼓に
 拍子そろえて 笛吹きます ワイワイ
 謡は高砂 尾上の松 ワイワイ
 歳旧る男の子が 太鼓の役
 サアサ めでたい千秋楽 ワイワイ


プロフィール (浦富まつり 屋台囃子 浦富小唄 挿入写真を中心にして)

平成7年 7月  町浦富全体の有志で屋台囃子保存会 & 屋台を出す会を組織して中新町の屋台を借りて曳く
   8年 6月  NHK「ネットワークとっとり」 録画撮りBS2で全国放送
       7月  屋台囃子同好会が20何年ぶりに宵宮に屋台に乗って、屋台囃しを演奏する
       8月  町浦富公民館主催の納涼祭に公民館運営委員が屋台を公民館前に飾り屋台囃を演奏する
   9年 4月  浦富地区敬老会で屋台囃しを披露。
       7月  岩美町農協祭りに参加。
  10年 5月  渚交流館こけら落としで「屋台囃し」「浦富小唄」を初披露。
           渚交流館のこけら落としをきっかけに、浦富小唄保存会のみなさんと行動を共にして
           町浦富の子供達、浦富小唄保存会、屋台囃し保存会とお互いの会が連携をとりあい
           ながら、さまざまなイベントに積極的に参加をして、浦富の文化を多くの人々に知って
           戴こうと努めています。(新聞のコメント)
       7月  鳥取いなば農協まつり(湖山)で「屋台ばやし」「浦富小唄」を披露。
       9月  岩美町老人福祉大会で「屋台ばやし」「浦富小唄」を披露。
      10月  いわみの日 澤田昭夫講演会で「浦富小唄」を披露。
  11年 5月  三洋エクセルで「屋台囃し」「浦富小唄」を披露。
       9月  とっとり県民の日 米子コンベンションセンターに屋台を飾り
           「屋台囃し」「浦富小唄」を披露 子供達も参加 総勢35名。
      11月  岩美町文化祭 芸能発表会 子供達も参加。
  12年 9月  岩美町老人福祉大会に参加。
      11月  岩美町文化祭に参加 子供達も参加。
  13年 1月  日本海テレビ「郷土が見える…」子供達も参加 録画撮り。
       4月  浦富地区敬老会 子供達も参加。
      11月  群馬県沼田市国文祭 子供達も参加。
  14年 9月  NHK生放送「岩美町元気組」渚交流館にて中継放送。子供達も参加。
      10月  鳥取市国文祭 屋台を引出す 町浦富の子供達と参加。 総勢44名。
      11月  倉吉市国文祭 子供達も参加
           岩美町ボランティアフェスティバル 子供達も参加。
  15年10月   山形県村山市 国文祭 浦富小唄保存会として参加。
  16年 4月   浦富地区敬老会 参加。

                                 浦富 屋台囃し保存会 (ちくまホームより)

浦富祭り

2013-01-25 20:46:32 | Weblog
ちくまホームより転載しました。
 
平成7年6月号より町浦富公民館だよりへ投稿した文章を載せます。 
(画像はフォトアルバム 浦富まつり・屋台ばやし&浦富小唄保存会)

屋台囃しに思いを寄せて
 屋台にたずさわっていたら、いろいろと屋台にかかわる昔の出来事とか、昔の町浦富のすがたとか、読むにつれ、聞くにつれ、知るにつれて面白く、話としてみんなが知っていたら面白いと思い投稿します。温故知新、古きをたずねて新しきを知る。そこは違うとか、自分達はこのようにしたとか、いろいろ聞かせてもらえたら楽しいのではないかなと思います。 熊野神社の会見宮司、上町 中新町朋友台帳、町浦富のお年寄りの話、岩美町誌を自分なりに咀嚼して書いてみました。これを読まれての意見をお聞かせください。          屋台を出す会 竹間徳治


熊野神社
 創立は承和年間(834~)以前の事でさだかではない。国常立命一神(クニトコノタチノコト)を祀り、社号を若一王子権現と称した。のち南紀熊野宮から伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)、の子供である速玉男命(ハヤタマオノミコト)事詳男命(コトワキオノミコト)の四神を歓請して合祀された。
 寛政12年(1800)坂根屋の大火といわれる火災があった。この火事は牧谷の坂根屋から出火し新町(新道?)横町からかけて浦富の繁華街を総なめにし向山(尊谷から下町、中町の西側)の山麓にあった熊野神社も延焼したという。文化10年(1813)5月に火災。 社殿その他記録等焼失したが同年今の社地(寺山、照山、寺屋敷?)に再建された。
 天保14年(1843)発行の「浦富名所古跡独案内」の中に尊谷(奥行き一丁半余りにして秀の木谷と云う谷合に古き大木有 或る時此の木の上にして燈明見ゆる事いとも尊し。 時の人怪しみて夜な夜な例してみるに9月21日の夜(祭礼の日に関係あるのか?)に村長を初めに老若男女群集して彼の古木乃木に行てよくよく尋ね奉るに尊くも金躰の神像忽然としてあららわれ給う諸人難有思いて神人に御神体を問けば熊野大権現宮の尊体なりと云う。
 人々大いに悦び五穀成就の神なり今の社地清らかなるを以ていよいよ宮柱ふとく建立して崇め奉る所也 (後略)熊野神社の御神体の出現された谷という意味であり、往昔社地があったかも知れぬと思われる。
 文久3年(1863)鵜殿大隅(長道)によって鳥取藩主池田慶徳の学館に祀られていた。武甕槌命(タケミカズチノミコト)を勧請して一緒に祀った。
 明治4年(1871)熊野宮と改めたがその後更に熊野神社と改めた。次いで村社に列せられた。明治40年(1907) 神饌幣帛料供進神社に指定された。 神饌幣帛料供進神社とは例祭日に地方団体(県)から神に対してお供え物が供進される神社。
 熊野神社は、文化10年(1813)に今の社地に再建され現在に至っているが、この地は寺山寺屋敷、もと定善寺。本庄地区高山にあったが、元和元年(1615)西誉助給が今の熊野神社のある丘に移転。創立~処が寛文3年(1663)と寛延年中(1748~1750)と両度の火災で宝暦元年四月(1751)今の中新町に移再建現在に至っている。その名残で岩本寄りの谷を坊谷と言っている。
 神饌幣帛料共進神社に指定されたのは明治40年と岩美町誌に書いてあるが、実際には明治7~8年頃から神饌幣帛料共進神社としての待遇を受けていたようです。


祭礼と町浦富
 鵜殿家は垣屋時代より崇敬されて来た熊野神社を氏神として寛永年中にして鵜殿家の御祈願所となって、享保年間鵜殿長春が神幸祭礼を創設。旧6月13~15日、旧9月20~21日(明治38年頃7月21日に変わった秋祭りは今も同じ日。詳しくは後で)
 祭具及び祭杞料として田地7反歩社領として6石を寄進している。中新町の屋台田1反7畆。今の米代で例えれば一反で8表取れるとして14表24~5万円半分として12~3万円。中新町の若者の総ごととして米を作り屋台を引き出していた。
 鵜殿家の信仰を物語るものとして奉納品に武具が多いいが、とりわけ定紋入りの大鎧、火繩銃、刀剣類、そして社殿の造営など、年とともに浦富の熊野神社の祭礼は充実され、近郷にまれな大祭となった。

 鵜殿家以前の領主、天正9年(1581)垣屋播磨守光成(宗管)以来慶長5年(1600)池田加賀守正虎、元和3年(1617)池田備中守長吉、長幸(1600~1632年頃の事はよくわからない) 寛永9年(1632)池田光仲が鳥取藩主になった時、家老の鵜殿長次を配し垣屋時代の館のあった所に陣屋をおいた。
 垣屋時代の城下町(殿町、上町、下町)と町屋、陣屋を中心にしての町作り地場産業、地域活性化に力をいれ、上町角から中新町、立町を通って今のカドヤの角まで、今でいう産業道路の建設で、商人、職人も集まり順次にぎやかになってきた。
 但馬往来もかあげを通っていたのがこの産業道路に変更。かあげの通りは旧道になってしまった。中新町、立町、境町、三本松はこの頃新しく出来た市街地である。町自体半農半商で、始めの頃は農家の次男、三男がざるふり商売(小商い、ざる一杯いくら)をしていたが農業を奨励して商いは禁止になったが、町浦富の活性化の為には暇な時にはお構いなしになった。(後でいろいろ規制された)さらに伝馬5頭のおかれていた宿場町であったことによって発展したのであろう。

 鵜殿長春が神幸祭礼を創設したのは享保年間(1716~)浦富歳の市もこの時代に出来た。鵜殿長春の町屋作りにかける意気込みが感じられる。しかし、なんと言っても庶民の印象に深いものには京都の祇園祭りを取り入れた屋台祭りがある。これは参勤交代に上る諸大名の行列をうたった歌詞や囃しが有名である。「諸国諸大名の‥‥」独特の笛の音三味線の響きと共に、かっての鵜殿宰邑時代にうまれた祭礼が今日に続き遠い時代をしのばせる(歌詞は鵜殿家中の人が作り出したのではないか、曲は①貝殻節のように外の地から流れ伝わった追い分けとか、しげさ節と同じように民謡のルーツと同じ北前船で ②京都に寺まいりをした庄屋の人達浦富の人達が遊んで覚えて帰って来た ③鵜殿家中の人が京都伏見に役人で赴任していた時遊びで覚え替え歌で屋台囃しにした ④鵜殿長春が京都から芸人を呼んで覚えた)いろいろ説があるが文章としては残っていない。

 鵜殿代々の治所、鵜殿の自分手によって生まれ得たものであると認識したい。 岩美町誌に書いてあるが、自分手になったのは天保14年(1843)自分手というのはこの知行地の政治の一部を領主から委任された政治形態。鳥取藩での統制を受けつつも比較的自由な政治を行うことが出来た。自分手政治としての特筆すべきことは、天保14年鵜殿長発が町全体を無年貢にしたことである。今でいえば産業振興の事実的な助成策でもあったのだろう。
 この時、町浦富と称するようになる。鍵形になった道筋と共に小さいながらも自分手としての経営が行われていた。当時、127軒、人口2170人?(軒数と人数が合わない)天保14年の村落表には町浦富(鵜殿氏、自分手政治の地、同家陣屋、船番所、御札場、享保年間馬次、立市12月26日)とある。このように数々の要地になったので繁盛する要素を備えていた。
 なにはともあれ寛永9年(1632)以来鵜殿家12代。明治維新まで238年浦富における鵜殿の比重は大きすぎて計り知る事が出来ない。日本の歴史の中の徳川時代と同じように浦富における鵜殿時代、まことに大きいと云わなければならない。


御幸行列
今、目をつむって想像してみる。近郷近在の見物客のざわめきの中で、さきぶれの榊が威勢よく、ちょいさっ、ちょいさっ。ちはや(白い作務衣に似た衣装)を身につけ足元は白たびにわらじがけ、ふるまい酒の赤ら顔、なかにはねじりはちまきの者もいて、合いの手よろしくちょいさっちょいさっ、榊の木に真っ白い弊がゆれて、さんよれえードスーンと榊をおとし清めてまわる。幟(武者行列)は鎧兜を身につけて背中に日参の旗のような幟をつけ、右手に青竹を持ち地面を打ち付けながらドスンドスンと歩いている。この人達をヤッコと言っていた。その後を10人ぐらいの人に引かれた大太鼓の屋台が通る。直径一間はゆうにある大太鼓には烏帽子をかぶった人が一人乗っていて、ドーン ドーン自信たっぷりで打ち鳴らしている。鉾は長柄の先に両刃の剣をつけ、三日月型をした鎌のような鍔をつけた飾槍の肩の辺から旗(たんざく?親しみをこめてそう呼ぶ人もいた)がヒラヒラして、この鉾を屋台に乗せてほこらしげに引き出している。
 やがて若者、子供達に引かれた家台?が囃しをかなでながら、唄いながら一台また一台と、通り過ぎる。どの家台にも囃し方が乗っていて、その囃しにあわせて唄いやすいところだけ『弓矢鉄砲や、やりなぎなたワイワイ』子供達も大きな声で『ワイワイ』と調子を合わせている。後ろ見の幕の、赤や白のどんすに刺しゅうされた鷲や虎の上で真っ白い弊とちょうちんがゆれている。

猩々が獅子が笛と鉦に酔いながら、一軒一軒厄払い、繁栄と五穀豊饒を願って舞う池田光仲が慶安3年(1650)中国の猩々伝説と麒麟伝説を合体させて、新たな麒麟獅子舞を創造し確立させた。猩々舞を舞おうようって原型は酔拳だったりして、そばで神輿のさきぶれの太鼓の音が聞こえる。やがておごそかに荘厳に神輿の出番だ、神様が年に一度神輿に乗って町内を巡行する。担ぎ手も榊と同じいでたちで、気合をいれて、ちょいさっちょいさっ、シャラシャラジャラジャラ鈴の音や金属の触れ合う音がその掛け声と共に小気味よく聞こえる。

従者の持った大きな日傘の中、神主が正装である公家の装束で身を包み、神輿のそばをおごそかに歩いている、神輿の上にある鳳凰が夏の日差しにキラキラと映える。(先月号で榊、神輿を担ぐ人の衣装を、ちはや、と書いたが、はくちょう、ともいうと聞いた。「白丁」読み方を変えればハクテイ。白い衣装を着て榊、神輿を担ぐ人、そのような意味ではないかな?) 最後に氏子総代を始とする各町内の年行事の人達が紋付き袴で、今年も無事祭りができました、ありがとうございますって、しめてまわる。鉾も昭和初期頃まで引き出していた。とても背が高く今だったら電線がじゃまをして出せないかもしれない。幟、鉾屋台、大太鼓屋台は近郷から雇い毎年同じ人が出ていたようだ。 屋台の囃し方も同じことで笛、三味線は浜、牧谷の人が毎年同じ屋台に乗っていた。笛3人三味線2人太鼓1人、笛も三味線も太鼓も町内の人も乗っていた。

猩々伝説(庭訓往来の市町之興行)より抜粋。
唐土金山の麓、揚子の里に高風という親孝行の息子あり、高風の淳朴なるに感じ夢のなかに猩々が現れて町に出て酒を売れば富貴の家にならんとおつげあり、日本の養老ノ滝と同じような話。無尽蔵な酒を与え、酒を愛する猩々が酔って舞を舞う。今でも普請の時祝いの席で猩々をよく謡う。
 能楽では元和9年(1623)尾張中納言義直邸にて初公開、その席に池田光仲公も同席していたのかな。このように想像していたらワクワクして楽しくなる。 辞書には猩々(想像上の獣、長髪赤顔酒が好きで言葉ができる類人猿の一種 麒麟(想像上の神秘な仁獣麒は雄で麟は雌。聖人が世に出、王道が行われる時生まれると伝えられる。生物を食わず生草を踏まぬという。一夜に千里を走るといわれる霊獣、瑞獣ともいう)両方共、約2600年前、中国の伝説で生まれた動物。

 宵宮の日の午前中に家の前に盛り土(悪魔、悪病が入ってこないように)をして、二本の棒に紅白の布を巻いた上に松の小枝(神棚に供えるような)をつけて門口に立て、荒縄を張り、弊や提灯を吊るし祭りの準備をする。中新も昔は紅白の棒ではなく笹竹で、竹と竹に荒縄をはって弊をつけその間をくぐる事によって、災厄、病を祓い清め、暑い夏を無事すごせるようにとの願いがあった。 祭りが終わると盛り土は道になるしていた。中新町が紅白の棒になったのは昭和21年頃、盛り土も道が舗装(昭和28~29年頃)になってなくなった。
 宵宮にぶらぶら散歩すると、丸橋さんの表通りに面した座敷に獅子が飾ってあり、新田さんの座敷となべや今はないが広谷さん(いずれも中新町)本杉村さん(中町)には金屏風の前に大鎧が飾ってあり、ローソクの灯なのか、はだか電球の明かりなのか、薄明かりの座敷で、かすかな風のゆらぎの中で獅子が大鎧が、おそろしいまでに幽玄美の世界にいざなう。

 皇紀2600年(昭和15年)まで荒砂の浜まで家台様を出御なされ給うと(最後の大祭となった)と岩美町誌に書いてあるが、戦後もしばらくは22~3年ぐらいまで?と浦富海岸が国定公園に指定された時、浜まで出ていた。各町内家族中が弁当を作ったりにぎりめしをこしらえ、屋台に積み込んだりして浜の宿にもって行きて(各町内の屋台宿、神輿宿、榊宿、獅子宿があった)荒砂神社の前の浜で4町の朋友が一緒になって屋台を一台ずつ海辺までもっていきていた。榊も神輿も腰の辺まで海水につかりながら揉み合う、もちろん榊も屋台も浜辺の御殿小屋の中に安置されている神輿の前に据えて、神主の祝詞、獅子が舞い儀式が終わると大休止。 それぞれの浜の宿に行き、町内、家族中が一緒に食べて飲んで楽しんでいた、浜の人達も自分たちの祭りのように祭りを楽しんでお客をよんで祭り気分で騒いでいた。

 荒砂神社の下の橋「宮島橋」は通称「屋台橋」といっていた。夕暮れ時、屋台の提灯にローソクが灯ると朋友が一人屋台の二階に上がっていて、ゆれて燃えかけた提灯をはたき落としたり、消えた提灯に灯をともしたりしていた。 
 戦後23~4年頃、提灯の灯は電球に変わり田後、網代の漁業会に船のバッテリーを借りたりしていた。 自分たちの記憶にある中新での大休止は戦後、屋台が浜まで行かなくなってから、大休止の後、殿町の浜戸さんあたりまでで引きかえし札場(上町の広谷さん)の前(今、かまや旅館の隣の国道178号線の交差点海側にあった。
昭和36~7年頃までは三差路)まで帰って来ると4町の屋台が上町に入ったのを見て、お宮に向かって据付け横一列に並ぶ(整列順は後で) 神輿が屋台のそばまで帰ってくると四町の朋友が一緒になって、屋台の前に神輿を据え付けようと、神輿の連中と揉み合う、神輿の足(据え台)を持って逃げる朋友、取り返そうと追いかける白丁、神輿は地におろしてはいけないのでひっしだ。神輿の連中も融通の横の小道を通って足を先にお宮に持って帰ったりしていた。なにはともあれ無事神輿がお宮入りをして解散。
 屋台はそれぞれの町内の宿に帰る。昭和42~3年まで続いた。 四町の屋台が巡行したのはこの年が最後、榊→屋台4台→大太鼓→獅子→神輿→総代及び年行事、の御幸行列もこの年で最後になった。この頃から高度成長のあおり?で若者が少なくなり、屋台を引き出さない町や、屋台を組立てても各町内単独行動になった。中新町でも屋台を引き出すのが精一杯で、囃し方も屋台に乗らなくなり以前吹き込んだテープを使うようになった。


屋台
 14才になると一人前の大人として親の監督管理外において、朋友とのつきあいをする事で社会人としての自覚、役割を身につけさせようとしていた事は、祭りの維持伝承に、また町内を形成していくうえで重要な意義をもっていたのではないだろうか? 又、新しく町内の付き合いをする人(婿で来た人、引っ越して来た人、等)は歳に関係なく3年間は朋友の付き合い。大割の時くじをひいて榊、神輿をひいたとしても役としては屋台の役が優先でその役(榊、輿)は他の人に変わってもらって本人は屋台に出る。27歳で朋友を抜ける。但し父の亡い人は26歳まで。 町内の朋友を抜けた人を、中老(町内の役)として屋台引きにお願いし屋台にたずさわってもらう。今年の町内としての屋台祭りを若者頭(取締)を中心として朋友で話し合い決める。
 屋台を町内に返してからは、朋友の気持ちを汲んでくれる町内の人に朋友長になってもらい屋台祭りを運営する。また大割の席で朋友を代表して若者頭が、屋台を出させてほしいと、お願いをする。

 大割の夜、各町内の年行事(お宮に関する各町内のまとめ役又は世話役)が、町内の人に集まってもらい、お宮に関する報告及び、祭典費を集める。また今年の祭礼の各町内の役として榊、神輿、獅子に携わる人を決めていた。 その席で朋友を代表して若者頭が屋台を出させてほしい、また、中老に誰々をと町内にお願いする。
 町内は壁となるが町内は朋友をたたきのめしたり(からめとったり、ないがしろにしたり)はしない。 なぜなら、町内には、今までの祭りの熱い血がかよっているから。というよりも、無意識の中から生まれ、代々受け継がれて来た屋台だから、なんとか若い連中に継いでほしいと思う反面、若い連中の個人的なわがままを町内が通してはならない、という気持ち。また、朋友も干渉されたくないと思う。町内と朋友の無意識のうちのお互いの甘え。朋友も一見反対、壁となっている町内の存在を認容し反発するエネルギーを前向きに祭りにむけていたのではないかな。
 朋友が町内の力を、町内が朋友の力を正面から受けてこそ、屋台とは祭りとは何かって理解できるのではないかと思う。ただ町内は無分別に越えようとするものを拒否するだけだと思う。町内と、朋友、お互いの中での無意識のうちの甘え、じっくりと考えてみたい。
 今は朋友という言葉はつかわれなくなったみたいだが。各町の若者頭が決まったら四町の若者頭が集まって、今年の全体としての屋台祭りを相談。 四町会長(四町の屋台のまとめ役、順番にしたり談合でしたり、その年によってまちまち)を決めて全体の屋台を仕切っていた。

 宿の家は道に面した客間を提供、屋台の後見の幕は、むしぼしをかねて部屋に張り、その中で毎晩遅くまで若者の声がしてさぞうるさかった事と思うが、前に書いたように子供の頃から屋台にたずさわり何代も続いている祭りだから、家を屋台宿に提供する事があたりまえの事としていた。宿の人も宵宮から本祭は朋友と一緒になってまかないをして、朋友は屋台に携わってくれる人をその席にまねく。 朋友長、中老、囃子方、朋友、等20~30人ぐらい。

 朋友は接待役でおちおち飲んでいられない。お金がなかったせいでもあるが酒の肴は、いか、シイラの刺し身、煮付け、ちくわ、ひややっこ、キューリといかの足の酢の物、とまとの輪切りなどが主で、酒がはいってくると屋台談義にはながさき、囃子方が演奏を始めみんなが唄いだす。屋台のお立ちの時間になると若者頭が『そろそろお宮に』って腰をあげる。町内がひとかたまりになってお宮にむかう。下町まで来ると、昼間装飾された屋台が見えてくる。
 子供達のざわめきと提灯の灯のあかりに真っ白い弊と赤い後ろ見の幕の鷲の刺繍が気持ちをたかぶらせる、早く来ている他町の屋台から囃しの音合わせをしているのか笛と三味線の音が聞こえて来る。屋台のそばに、明日の出番を待つ大太鼓の屋台が飾ってあり、大人が子供がその屋台に乗って打ち鳴らしているドーンドーン腹に響き、ワクワクさせる。
 参拝しようの言葉にさそわれて、石段をのぼり鳥居をくぐる。いつもは恐ろしいぐらい静かな参道が今日は賑やかだ。宝物蔵の前の灯に照らされて榊が興奮をおしころすように静かにその勇姿を見せている。両側にしいの木の生い茂る参道を行き、裏参道と合流している所の随神門を通りぬけると石畳みの参道になる。子供の頃この門のお参りは帰りがけにするものだと教えられ、意味はわからないが、今だにそのとうりにしている。お宮に向かって右側には老人を左側には若者をまつってあり、随神(身)さんとしたしまれていた。 
 本殿の前に各町内の提灯がかけてあり、本殿では、神主の祝詞、氏子総代を始として各町内の年行事が座り、おごそかに神事が行われている。本殿の横には薄明かりの中、神輿が据えてある、なにか威厳を感じさせるる。

 お立ちの時間になると4台の屋台が次々と方向転換して町の中へ向かう。屋台の縄の先には町名の入った弓張り提灯を手にした朋友が、そのあと子供達が縄にさばり朋友が所々に入って屋台囃しを唄いながら屋台を引いている。子供達も『わいわい』と調子を合わせている。酔っぱらったおっつあんが替え歌で『ちくしょううとみえたらおてふりあげワイワイ』そのうち前の方で言い争いの声が聞こえる。縄が前の屋台に触れた、いや触れないと騒いでいる。両町の若者頭が話をしてやがて何もなかったように夜の町へ溶け込んで行く。 札場の前で解散(順路は後で)

 屋台が宿に帰ると座敷に上がって、たずさわってくれた人をもてなす。朋友も屋台の後始末をしてから席につく。 饗が乗って来ると替え歌を唄いだす。屋台が動かなくなった時、威勢をつけて『めでたあもあるしそれがあぁからつやのえんのしたワッサイワッサイ』はなかじの所にあった(姥懐)浦富焼の窯元の縁の下に、やまきずのついた売り物にならない陶器がごろごろしていたのを唄ったではないか、この話はよく聞く。

 寛政7年(1795)の因幡誌に浦富焼のことがのっていて、はなかじの辺の山側をからつ山といっていた。浦富焼は主に日常使用する雑器、飯茶碗、湯飲茶碗、小皿、銚子、油壷、火鉢花器、等で 鵜殿の家中の床の置物等、特別なものをも造っていたが、幕末に至ってすいびした。
 
 『ここいら~の、べっぴんさんは、すけべ~でござるワッサイワッサイ』から始まって、ここに書けないようなエッチな替え歌を唄い騒ぐ。最後は調子をあげて 『なんでもかんでも、まさしげよう、なんでもかんでもまさしげよう』(屋台が走る時の唄というよりかけごえ) まさしげ、楠正成しか思い浮かばないが浦富とむすびつかなくて、本祭りの夜、屋台が浜まで出ていた頃、帰りの道中唄っていたのかな。

 一番屋台の囃し方の太鼓が調子を上げてテテン、テン笛も三味線も合わせてこの唄になり、屋台が走りだす。あとの屋台も遅れを取るなと走る。札場の前に帰り四番屋台が上町に入ったのを見てから屋台をお宮に向かって据え付ける。 神輿の宮入をまって、それぞれの宿に帰る。浜まで行かなくなってからは、送り屋台をして宿に帰る時に走っていた。
 飲んでいるうちに、酔いにまかせてまどろむ、その夢の中で、朋友の顔をみる、お互いに目と目を合わせ、しばらくして装飾をはずしたからの屋台が走る。縄をたぐり寄せ屋台の座敷につんで、後ろで押す者、横の格子をもって押す者、ねどりをする者、調子を上げてつぶれるまで走る。朋友の、若者の感じるつらさ、低迷している自分に対してのいらだち、苦しさの反動、その時代、時代の朋友が感じるいろいろな不安、不満、価値観のちがいを、どうしょうもない感情を、屋台を走らせくやしさをぶっつける。なぜ、まさしげ、なのかわからないまま大声で唄い走る。ねどりの棒が肩にくいこむ、頭の奥のほうで、だんだんと調子が上がってくる三味線の音、かんだかい笛の音、リズミカルな太鼓の音が聞こえ、夜の町をなにも飾っていない屋台が走る。雪駄が脱げる、朋友が何か言っているが、人の声がザワザワしていて聞き取りにくい。朋友の声でまどろみから覚める。
 
 まわりは酔った人の話し声でいっぱいだが、何か頭の中はスカッとしてさわやかだ。 年配の人の話し声が聞こえる。昔、朋友だった頃の苦労話、自慢話、そばで朋友が合いずちをうっている。何年か先、朋友をぬけその子供達が朋友になった時、昔はこうだった、ああだったと言うだろう。そして子供達(朋友)は、また始まったと思いながら話の相手をする。昔からくりかえし伝えられている、無意識の中でのいいつたえ。 または、自分を意識しての話の中での申し送り。屋台というわくの中での、町内を氏子中を単位としたある意味での家族。おじいさんから親へ親から子供へ代々うけつがれていく伝統文化の伝承。そのありようは、その時代、時代で変わっていくがその本質はなかなか変わるものではないと思う。『なんでもかんても、まさしげよ』単純な節の繰り返しで宿は盛り上がり、なんだかんだしているうちに、宵宮は更けてゆく。本祭り当日、朋友長は羽織りを着て屋台に付く。
 
 戦前まで屋台引きは男だけだったが、戦後になって女の子も参加するようになった。踊りは戦後、屋台が浜までいかないようになってから始まった。中新町のやくざ踊り、下町の笠踊りは、語り草になっている。 リヤカーを装飾して電蓄を積み、踊りをする場所の近くの家から電源を取り踊っていた、昭和42年頃までリヤカーが活躍していたが電蓄に変わるカセットデッキの台頭で姿は消えた。

昭和42年以降は参考欄へ


参考
諸入用帳(上町)
安政6年6月、初寄合 連中 酒方〇〇〇、肴方〇〇〇ほか10名  
       それぞれの役を決めていた。
元治 元年 子年 初寄合 連中 〇〇〇ほか12名
      苗字はなく名前だけで書いてある。
明治8年亥年5月 上町若連中惣代 初會合 〇〇〇〇ほか13名
       苗字で書いてある。
最新中新町屋台朋友台帳は明治10何年、代満から始まっている。
明治1?年 連人〇〇〇〇ほか11人 一人前42銭 半人前21銭。
明治18年、旧5月21日より、連中〇〇〇〇ほか11人半。
明治28年旧45月(閏)25日 朋友人名〇〇〇〇ほか11名の名前 
      が書いてあり半人役〇〇〇〇ほか5名の名前合計13人半
      この年初めて朋友の名称が書き記されている、それまでは
      連人何人、連中何人、又は若連中何人。
明治37年9月6日  遼陽占領祝賀会で屋台引き出す。
明治38年度 この年始めて旧5月何日代満の日ではなく明治38年度 
      この年以後何年度になっている。この年に旧6月13~15日を
      今の7月20~21日に変更したのか、他の町内の朋友台帳とて
      らし合わせてみたら、面白いと思う。
明治43年6月10日 岩美駅開通祝賀会で屋台を引き出す。
明治43年度 本年度挂幕 上龍下龍 地質 羅紗新調の際拾貮円五拾銭を要する。
明治44年度、朋友長〇〇〇〇、朋友〇〇〇〇ほか11名。
       この年から朋友長の名前が書き記されている。
大正3年7月22日付け屋台整列及び順路  宵宮、宮前岩本村に向かいて
      右側 1234の順序に据え付け、お立ちは逆にて4321に
      て辻西を通り上町融通会社迄其処で引き返し1234にて中新
      立町を通り境町竹内仙蔵前迄、其れより引き返し4321にて
      今町を通り横町羽田兵四朗前の橋迄。 其れより引き返し東町
      送り屋台は4番となり他は123の順にて横町より立町を通り
      中新町屋台は其の宿舎にて別れ、東町屋台は上町札場前迄送り
      て解散。 本文中、上町境町横町、にて屋台の詰方は屋台の縄
      限りとす。
      本祭、宮前整列は宵祭に同じ、お立ちは1234の順序にて裏町
      (かあげ)を通り左に曲がりて今町を通り小田秀蔵角を曲り新道
      に入る、横町を通り広谷薬局角を曲がり立町、中新、上町を通り
      浜迄、据付けは1は東2は西、3は1の東、4は2の西に据付け
      て屋台宿にて休む、お立ちは1234の順序にて札場前迄引き返
      す据付けは1は東、2は西、3は1の東、4は2の西、本文中札
      場前の据付けは1番は各町屋台、上町道筋に視れたるを見て据付
      けなすものとする。神輿のお宮入りを待ちて解散。
        右決議
       大正3年7月22日
大正4年11月10日 大典祝賀会(大正天皇即位式)に屋台を引き出す。
大正6年  地利米配当金一町につき金5円70銭。
大正9年7月23日 四町朋友の管理せる田地収益金、本年以降当町配当額の
      二分の一は必ず銀行預金となし積み立てるものとす。
      万一該金貴を賞消せんとする時は必ず右事項を決議せる左記
      諸氏の承諾得ざれば少額なりとも賞消する事を得ず。
        右決議      
       大正九年七月二十三日、
大正11年度 本年は例年の徹り祭典挙行に当たりて宵祭より四町共義の上
       鳥取市楠座舞枝、3人舞枝2人囃子方男女庸い屋台芸を催す。
       本祭り21日午前10時頃より神社前を発して今町木屋の辻に
       懸る際東町屋台を先頭たりしに依りて中新町屋台を以て舞台本
       陣に当て芸題を行う。 以下略
昭和13年度 昨年7月7日北支瀘溝橋に端を発したる日支事変は遂に一周年
       を迎え更に戦火は擴大、銃後の護りは一層重且つ大となれり。 
       此処に於いて四町朋友相計り経費の節約意を以て本年は屋台の
       お供取止と決議せり 全朋友は勿論町民擧げて戦線勇士の武運
       長久を祈願せり。 以下略
昭和14年度 日支事変に因り昨年のような如く御幸祭礼を中止し皇軍勇士の
       武運長久を熱烈に祈願する。以下略
昭和21年度  四町の屋台御幸祭礼のお供に参加。
昭和30年度 人的支障をきたし中新、上町共参加を辞す、東町、辻西は屋台
       だけ出し町内区域にて引っ張る。
昭和40年度 四町の屋台、御幸行列に参加。
昭和44年度 屋台は各町単独行動となり中新町の屋台も囃しはテープになる
       以後、屋台は御幸祭礼とは別に単独行動となる。
 (昭和51年より榊は従来より小さくし役としての人数は23人から17人
       になった、神輿も台車に乗せて巡行するようになった)
昭和59年、 町浦富公民館、育友会、子供会が一緒になって子供達に夢を与え
        てやろうと各団体共催、町浦富自治会及び中新町朋友の協力の
        もと町浦富公民館事業として中新町の屋台を借り引き出す。
        総括責任者公民館長、外25名 子供達約80名盛大であった。
昭和60年  中新町、単町で年齢に関係なく町内区域にて引き出す。
昭和61年  祭礼は7月21日以後の土曜日を宵宮とし日曜日を本祭りとする
       事となり、今年は7月26、27日
昭和62年  中新町及び上町の屋台老朽部分の修理。 
       宵宮、辻西、上町、中新町の屋台をお宮の前に据え付ける。

(上町諸入用帳 中新町朋友台帳より抜粋)


 長い間、読んでもらってありがとうございました。何年か前に、ある事業所に《『本気』本気ですれば、何事も出来る、本気ですれば、面白い、本気ですれば、誰かが助けてくれる》それを読むたびに勇気づけられ、元気づけられ、やる気をおこしてくれる。何をするにしても、まず自分が本気でする事が、面白く楽しく感じとることが大切ではないか、自分はどうしたいのか、そのためには何をすべきなのか、その辺をしっかりと把握していないと、腰くだけになってしまう、自分自身の目的がはっきりした時に、楽しく、面白い前向きな考えが行動となって表現されてくるのではないか、屋台にたずさわりながら、この文章を書きながら、自分自身を探していたのかもしれません。

 いろいろな価値観のなかで、こだわりを捨て、理屈ぬきで280年続いている浦富祭りを屋台祭りを伝えていくためには、今の有形無形?のあってないような屋台を出す会、祭りが近づくと声をかけて集まり、屋台を町内から借りて引き出す、もっと違う方法がないでしょうか。 各町内会、公民館、子供会、屋台を出す会、囃し同好会、そして町浦富全体が、ひとつになって新しく「屋台祭り保存会」または屋台祭り振興会的な会を発足させ、お互い協力しながら、おしつけではなく、面白く楽しい屋台祭りができたらよいな、屋台祭りは過去のものではなく、今一度町浦富のみんなが認識して、知恵を出し合って、その力を結集できないでしょうか。
 上町、中新の屋台はもちろんの事、何年か先、東町の屋台も借り受けて修理し、三台の屋台で祭りを町をにぎやかくする。夢ではないような気もするのですが。子供達の心の中によい思いでとして残り、その子供達が大人になり、他の地方の祭りを見たときに子供の頃の浦富の祭りを思いだし、比較ができたらよいと思う。規模は小さいが、他に例のない屋台祭りだから、屋台囃しだから、誇れる浦富祭りだから、町浦富の換金できない財産だから、子供達が青年になった時、夏がちかづくと屋台を思い出して、屋台を引き出そうって、そうなってくれたらいいなって思っています。祭り文化、ある意味での人間形成の役割のひとつになっているような気がするのですが、いろいろ教えてくれた町の皆様、ありがとうございました。
                                           平成9年(1997年)10月号 完


屋台を出す会

平成7年 6月  中新町単町では無理になり、急遽、町浦富全体の有志で
          屋台を出す会を組織し、中新町の屋台を借りて引き出す。
  8年 6月  NHK「ネットワークとっとり」録画撮り BS2で全国放送。
     7月  屋台囃子同好会が20何年ぶりに宵宮に屋台に乗って
          屋台囃しを奏でる。
     8月   町浦富公民館主催の納涼祭に公民館運営委員が屋台を 
          公民館前の広場に飾り、屋台囃し同好会が演奏する。
  9年 4月  浦富地区敬老会で屋台囃しを披露。
     7月  上町の屋台を借りて引き出す。~現在に至る。 
 11年 9月  とっとり県民の日 米子コンベンションセンターに屋台を飾り
          子供達と共に「屋台囃し」「浦富小唄」を披露 総勢35名。
 12年12月  熊野神社で新年を祝おうを開始。~現在に至る。
 14年10月  鳥取市国文祭 子供達と共に屋台を曳き出す 総勢44名。

          現在に至る。