ち く ま ホーム Ⅲ (いわみ学)

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画家としての橋浦泰雄

2008-08-09 20:18:43 | Weblog
 
 幼い頃から絵が好きで、独学で描いていましたが、大正十一年(1922)34才の時 初めて個展を開催する。それを知った有島は、その個展の中で一番高価な絵と好きな絵を買い求めるよう春月?に託します。 その後個展は、北海道・新潟・長野・和歌山・長崎等で続けられました。 
残念なことに橋浦泰雄の絵は、関東大震災、鳥取震災・鳥取大火で大半の絵は残っていません。

 晩年?の作品のひとつを所持している方は、『この絵には「花は美しいが より清く 美しい人生を召しませ」 という賛が書いてあります。橋浦さんの人となりがまったく純粋であり、ごまかしやハッタリがなく、私の家では毎年正月にこの絵を掛けて「より清く 美しい人生」とは何であろうかと考えています』。と語っておられます。そう語らせたその作品をいちど観てみたいです。



参考
北海道 木田金次郎美術館 展覧会 (イベント) 案内より 抜粋

 今回は大正末期から木田と交流を重ねた日本画家の橋浦泰雄(1888-1979)との交流を紹介いたします。
 鳥取出身の橋浦は、若き日には作家を目指していましたが、自ら「画工」と称して日本画を描き、兄が住んでいた札幌をたびたび訪れ、日本画の個展も開催するなど、北海道との関わりも深い人物です。また、有島武郎とも交流があり、有島の『惜しみなく愛は奪う』に重要な示唆を与えた人物として同書に名前が記されています。

 様々な顔を持つ橋浦ですが、特筆されるのは民俗学者としての姿でしょう。そのきっかけは、大正末期に橋浦が岩内を訪れた時、木田の漁師時代の見聞から、下北半島の尻屋村に「原始共産制」が残っているという話に、橋浦が関心を持ったことによります。
 この話をきっかけに橋浦は柳田国男の門を叩き、民俗学者として全国各地の調査を重ねます。今回の展覧会では、橋浦が旅先から兄弟などに宛てた「絵たより」を中心に、有島武郎関連資料を交えながら、岩内をはじめとする大正末期の北海道内外の風景をご覧いただくとともに、橋浦の旅の軌跡と、貴重な大正期の「絵たより」を軸に、画家・木田金次郎、民俗学者・橋浦泰雄の旅立ちを、そして今日の私たちが出会いと人生に思いを馳せる機会となれば幸いです。

画像フォトアルバム


◎ 民俗学者としての橋浦泰雄 ◎

 橋浦泰雄、明治21年、岩本に生まれ、昭和54年、91歳で死去 その半年前、鳥取民俗学会主催の講演会で「民俗学の原点」と題して次のように語った。

 ○ 民俗学の意味するものに二通りある、民俗学とは、一般庶民の以前からのしきたり、ならわしを研究することをいう。一方の「民族学」はあたかも血で結び合ったような集団の生活内容の研究をいい、中に入っていけば双方混交し合う点も少なくない

 ○ 民俗学も過去を遡行することになるが、歴史学との本質的な違いは、歴史が天皇・大名という上から下への流れや影響を追うのに対して、民俗学は人民の全生活を尊重していること。研究方法として過去の事実へ遡行し、その再現を重視している

 ○ 自分の身辺、庶民の雑事の研究に何の価値があるのか‥‥。 それは例えば、一人のおばあさんが仏様や氏神様をどう思い祈っているか、それをまず引き出すことに通じる。民俗学とは単にもの知りになることではない。お互いの意思が心をこめて引き出しあうこと、それは互いを知り合うことであり、それによって平和な社会の輪を大きくすることができる

 ○ イネをなぜコメというのか。誰も同じような疑問を持つものだ。私も昔、そのことに疑問を持って、旅行するときは必ずポケットに一握りの米を持ち東北から九州まで歩いた。そして古老にコメを見せては「この村ではこれを何と言いますか」「コメ」と答えると「そのほかの呼名はないか、昔の人もコメと言いましたか」 同じ質問を繰り返し繰り返し尋ね、一人の古老が「コメです。しかし昔の人はイネノコとも呼んだ記憶がある」と答えた

「昔はムギ・アワと同じような呼び方でイネだったでしょうが、イネの実は食料として最も美味なことから愛されてコメになったのでしょう。コは実の意味で、メが愛称ではないかと思います。飼いこが、カイコになるのも、衣類の最高がキヌとなるのと同じ過程を経た語だと思います。」 さらに「この考えが最近でも認められて定説となってきました。」


 民俗学との出会いは 「大正年間に僕はクロポトキンの「相互扶助論」を読んで感銘を受けたのだが、この中に世界の相互扶助、原始共産社会の事例があった。僕は大正十三年、原始共産村があることを聞いて、現地調査をしました。民俗学者の柳田国男氏に話したところ、それは面白いということで克明に調査しました」

 柳田国男さんとの巡り合いは 「僕は北大を出た弟の季雄の関係で作家の有島武郎さんと親しくなり、有島さんの紹介で柳田さんと相知るようになったのです」

「一生を学問のために歩み続けても、学問進歩のために自分の足跡が民俗学の向上に役立っていることは幸せです」


                                  「民俗学者としての橋浦氏」より抜粋

ちくまホームⅡ 橋浦泰雄
                   写真は大岩交流センター所蔵の絵です